豊かな自然に囲まれた九州のとある地方では昔から妖怪伝説が民話や伝承として細々と語り継がれている。
特に灘(なだ)のある地域(灘とは昔から海流・潮流(ちょうりゅう)が速い場所あるいは風浪(ふうろう)が激しい場所で航海が困難な海域のこと)は河童を水神様(みずがみさま)として祀る水神信仰が風習として残っており水難から子供達を守る子供の守り神として「オコセ様」又は「オコセさん」として小さな祠がいくつか祀ってあるのだ。そして旧10月31日には13歳以下の子供達が集まって藁で祠を作る習わしが今でも残っており、また家で赤ん坊が生まれると海岸で黒い石を探して板と一緒にオコセ様へ奉納したりもする。
さて、何故河童が海に?と疑問に感じる方もいるかも知れないが海や灘のある地元の人達からすると海に河童がいることは当たり前であり河童=海の妖怪という認識なのだ。これはある意味、自然に対する畏怖や恐れを具現化したモノが妖怪(河童)として定着し崇める事で神として信仰することが根付いた、いわば「オコセ様」は地元民の心の拠り所だったのではと私は推測する。
特に昔は非常に貧しく子供達が大人に混じって働くのが当たり前だった時代、どんなに危険と分かっていても海で働くことは仕方のない事だった。
生きるために、あるいは幼い兄弟姉妹に少しでもご飯を食べさせようと船に乗り漁をして魚等を捕ってこないと生活が成り立たなかった時代に灘で生きる子供達にとって「オコセ様」は海へ行くためのお守りであり救いだったのかも知れない。
砂浜よりも岸壁や岩や大きな石がゴロゴロと何処までも続きその岩や岸壁にザッパーン。ザザーッと白い波を打ち付けては渦を巻く様に引きまた寄せる・・・そんな荒々しい自然に子供達は生きるために向かっていかなければならなかった。
そんな子供達を見守る様に「オコセ様」の祠は小高い丘の上にあり、ぐるりと海を見渡せる所にひっそりと祀ってある。
そして、そこで波にさらわれた子供はいないか海に落ちた子供はいないかと見守り、いれば駆けて灘に飛び込み激しい海流も潮の流もものともせず泳いで助けに来てくれるのだと地元の人達に言い伝えられていた。
そんな伝承を私は小さい頃にひい祖父さんから聞かされ「オコセ様」を知ったのだが、なんせ九州の片田舎に実家があったため帰省したのはほんの数回程度しかない。それでもポツリ、ポツリとひい祖父さんが語ってくれた民話や伝承、あるいは昔話は今も私の耳に残っているのだ。特にひい祖父さんの幼い頃の話は印象深く少し低くてしゃがれた声が静かに語る様は私の小さな胸を震えさせたものだった・・・。
ひい祖父さんは子供の頃、体が弱く小さかったため両親からはよく厄介者扱いされていたらしい。そんな辛い幼少期を耐えられたのは兄である一郎兄ちゃんのお陰なんだと遠い所を見詰める様な顔をしてよく私に語ってくれていた。
一郎兄ちゃんは子供の頃から体がでかく力も強かったから12才になる前から大人と同じ仕事をこなし朝から晩まで働いていた。そしてワシはというとよく体調を崩して寝込むことが多々あったもんだからその度に親から「働かざる者食うべからず!」「この穀潰しが!!」と罵られ飯もろくに食べさせてもらえなかった。だが、そんな時は決まって兄ちゃんがこっそりと飯を持ってきてくれてな~。
それでなんとか凌ぐことが出来たんだ。
しかし親はそれを嫌がってな~見付かるとよく怒鳴られてワシは震えていたんだが、その度に兄ちゃんが飛んできて庇ってくれた。「自分が坊の分も働きますから、どうか許して下さい。許して下さい。」って頭を下げてな。
ワシのせいで兄ちゃんは朝から晩まで働く羽目になったが決してワシを疎ましく思ったり邪険に扱ったりはしなかった。
いつもニコニコ笑っては「坊、腹は減ってないか?体は大丈夫か?」とよく面倒を見てくれていたよ。
そしてワシを背負っては「オコセ様」の祠まで連れて行き小高い丘から兄ちゃんと2人で海を見下ろすのが好きだった。
「坊、兄ちゃんが船で漁に出たとしても何も心配するなよ。ここから「オコセ様」が見守ってくれているからな。ホラ、よく見えるだろ?兄ちゃんに何かあれば「オコセ様」が直ぐに駆けて助けに来てくれるから。だから坊は良い子で帰りを待っているんだよ。」と。温かい背にしがみつきながら優しく揺らされるとワシは安心して「うん。」と返事をすることが出来たんだ。その後は決まって2人で海岸へ行き「オコセ様」へ奉納する黒い石を探しては遊んだものだ・・・。
ひい祖父さんにとってそれは辛い幼少期の中で唯一感じる事の出来た楽しい思い出であり幸せだったのだろう。この話をする度にしわくちゃの口元にふっと笑みがこぼれるのを私はいつも黙って見詰めたものだった。しかしその笑みも直ぐに消えまたポツリ、ポツリと語り始める。
それから数年後・・・暫くすると兄ちゃんは船で漁に出たっきり帰ってこなくなった。一緒に漁に出た大人が言うには急に海が荒れて船が大きく傾きあっという間に投げ出されてしまったと。あそこは潮の流れが速いからもうダメだ。諦めろと・・・。ワシは毎日「オコセ様」に手を合わせに行った。「どうか兄ちゃんを助けて下さい。兄ちゃんを助けてくれたらワシの命をあげますから」と。しかし兄ちゃんが生きて帰って来る事はなかった。それから十日ぐらい経った頃か。
ある日、島の裏側の岩場に兄ちゃんが打ち上げられているのが見付かったんだ。
体は不思議なほど綺麗なままで大きな傷なんかもほとんど見当たらなかった。
ワシはそん時に初めて涙がこぼれてワンワン泣いた。泣いて縋って・・・そしてふっと気付いたんだ。兄ちゃんの右手が固く握り込まれていることに。ワシはそっと兄ちゃんの右手に触れた。そして優しく両手で包み込むと手の中で指がスルスルと開きコロッと固い物が落ちてきたんだ。見ると黒い石がワシの手の平に転がっている。きっとあの日2人で探したあの石だ。そう思うとギュツと握り締め、うずくまり更に涙が溢れた。
兄ちゃんはどんな思いで死んでしまったのか・・・苦しかったろう、怖かったろう・・・なんど心の中で助けてと叫んだことか・・・そう思うと胸が抉られる様に辛くどんなに大声を出して泣き叫ぼうともビュー、ビューと海から吹き込む冷たい海風(かいふう)の音が全てを掻き消すもんだから、いつまでも悲しみがあふれて癒える事はなかったんだよ・・・とひい祖父さんは目尻に溜まった涙を指で拭っては震えた声で息を吐く。「普通、あの海域で海に落ちたら死体は絶対に見付からんのだが・・・不思議な事に兄ちゃんは帰って来た。島のもんも驚いておったがワシは兄ちゃんにまた会えた事で何とか気持ちに折り合いを付ける事が出来たんだ・・・。きっと「オコセ様」が兄ちゃんを見付けて下さったんだろう・・・。」
そして今度は兄ちゃんの代わりにワシが一生懸命働いたんだ。船に乗ることは出来なかったが潮の引いた磯で貝を採ったり潮溜まりにいる魚やアオサ(海藻)なんかも採った。もちろん家の仕事もした。
しかし、そんなワシにも一度だけ命の危険を感じる瞬間があった。その日は貝が余り採れず仕方なしに人の来ない奥まった岩場へと足を運んだんだ。
そしてやっとゴツゴツとした岩と岩の隙間に亀の手(甲殻類エビやカニの仲間)を見付ける事が出来たんでノミを使って少しずつ剥がして採った。後は海、足元はヌルヌルしている箇所もある不安定な岩場。バランスを崩せば直ぐに波に足をとられ海に落ちるだろう。ワシは慎重になりながらも必死で亀の手を採った。
固い、手が痛い。どれだけの時間が過ぎただろう。ふと手を止め立ち上がった瞬間クラッと目眩を覚えた(まずい・・・)そう思って足に力を入れたがズルッと滑り後へのけ反る。そして驚いて口を開けたまま冷たい海へと落ちてしまった。ゴボゴボと海水が口の中に流れ込む。苦しくてジタバタと手足を動かすが激しい海流に飲まれ自分の体が上を向いているのか下を向いているのかも分からない。
寒い、苦しい・・・もう自分はこのまま死んでしまうかも知れないと諦めかけた時にピタピタピタ・・・と小さなモノが体に触れた。ゾッとして目を見開くと青白い無数の小さな手が体にしがみついている。恐怖で気が遠くなりながも必死でもがき何とか海面に顔を出した。「プハッ。はぁ、ゴホッ、ゴホッ。」大きく上下する波に僅かに顔を覗かせながら呼吸を整えていると波にまぎれてパシャパシャ、ピチャッピチャッと青白い小さな手が此方へ向かってくるのが見える。余りの恐ろしさに「うわぁぁーっ。止めろ!く、くるな。」と叫ぶがジワジワと回りを囲まれ逃げ場がない。ピト・・・ピトピトピト。ピタピタピタ。一斉にしがみつく小さな手を振りほどこうと身を捩りながも(この手は灘で死んでいった子供達に違いない。ワシを仲間にしようと海の底へ引きずり込む気だ。)と逃げようとしたが今度は横から大きな波に飲まれ沈んでしまう。「ブクブクブク・・・。」顔や首、肩にも小さな手が次々とくっつく。更にゴーッという潮の流れにグングンと押されてしまったが波が上がるのに合わせて運良く海面に浮上することが出来た。「カハッ。ゼ~ッ、ゼ~ッ。ハァ、ハァ・・・。」(もうダメだ。力が入らない・・・。)仰向けで波に漂いグッタリしていると急に襟首と胸元を力強い大きな手で掴まれた。ハッっして胸元にある太い腕を見詰めているとその腕と手が物凄い力でグイグイと引っ張っていく。
余りに強く引っ張られるのでボロボロの着物の襟元がはだけ脱げそうになり体が沈む。すると直ぐに太い腕が脇を抱え引っ張り続ける。ワシはこの逞しい腕の感触に覚えがあった。小さい頃によく背負われ、寂しい時にはギュツと抱きしめてくれたその逞しい腕を忘れるわけがないのだ。「・・・一郎兄ちゃん。」ポツリと呟き視線を体に向けると沢山の青白い小さな手も一緒になって引っ張ってくれている。
てっきり海の底へ引きずり込まれるんだと思っていたが、どうやら自分の勘違いだったようだと気付いた瞬間、意識が途切れてしまった。
・・・夢を見た。幼い頃の夢。
「坊、「オコセ様」の所へ行くか?。」笑顔でそう語りかける兄ちゃんにワシは「うん。」と返事をしながら飛び付く。
そして肩にギュツとしがみつくと太もも辺りを抱えてすくっと兄ちゃんは立ち上がりクルクルと回りながら笑う。ワシも「キャーッ。」と叫びながらクスクス笑うと兄ちゃんはそのままおどけて歩き出す。(このままずっと一緒にいたい。)そう心から願っていると「・・・坊!」「坊!坊!」と突然大きな声で呼ばれた。驚いてビクッと体が硬直したその時、耳元でまた「坊!!」と呼ばれハッとして目が覚める。気が付くと島の裏側にある岩場に流れ着いていた。
こうしてひい祖父さんは命からがら生きて帰ってくることが出来たのだという。
・・・そして最後には必ず「河童と言えば他所の土地では悪戯したり悪さばかりする妖怪として知られているんだろうが、ここじゃ神様として崇められとる。しかし、それもだいぶ廃れてしまったなぁ。辛うじて習わしが残っちゃいるが、それも仕方のない事だろう。昔の様に子供達が水難に合うことが無くなったのだから。
フフッ。しかし「オコセ様」とて河童だからの。時々悪戯をなさるんじゃ。溺れた子供の尻子玉を抜き取りなさることがあったから取られん様にと尻子玉の代わりとして黒い石を奉納するんだよ。だからお前のお父さんが生まれた時もお前が生まれた時もワシは黒い石と板を「オコセ様」の祠へ奉納したんだ。」ひい祖父さんは優しい目をして私を見詰めると背にそっと手を触れて話を閉め括った。
・・・この話をしてくれたひい祖父さんは数十年にすでにこの世を去っている。その時に九州の片田舎にあった父方の実家は住む人が居なくなったため跡形もなく取り壊されてしまった。なので私がこの地を訪れる事はもうないのかも知れない。口数の少ない父からは余り実家の事を聞いた事はなかったし民話や伝承を聞いた事もなかった。もしかしたら「オコセ様」という名前は知っていても詳しい事までは知らなかったかもしれない。
なので私はここに記録としても残そうと思う。自然豊かな九州のとある地方の伝承と厳しい自然の中を逞しく生き抜こうとした子供達のことを。そしてそんな子供達を見守る優しい妖怪がいると信じられていた時代があり今もなおその伝承は信仰として地元に根付いている・・・ということを。