「私の話」

投稿者:イソノ コウヤ

 

キッカケは2歳半で行なわれた検診です。「発達が遅れていますね」とさも当たり前のように言われ、私自身もまるで最初から分かっていたかのように普通に振舞ったのをよく憶えています。でも心の中では、絶望の淵に立たされたような気持ちでした。
周りの子供はたどたどしくも歩き始め、言葉を喋り出す時期。だけど我が子はまだハイハイの状態でした。‘‘差‘‘を認識してしまうと、あちこちから聞こえる「ママ」という声も憎らしく思えるんですよ。子どもを産んで家族が増えれば普通の幸せの中暮らせると思ったんですけどね。まさかこんな焦りや苦しさにしょっちゅう襲われるなんて思ってもみませんでした。
私はよく泣いていました。夜、子供が寝息を立て始めると頭をなで、寝顔を見ながら涙を流していたのです。「ごめんね」って。そう泣き明かした翌朝のことです。
初めは鼻血だと思いました。泣き腫らしたまま眠った枕に黒いものがついていたんです。泣いて鼻をかみ過ぎた事で鼻血が出たんだと気にも留めませんでした。でもそれからというもの、しょっちゅう黒いものが枕や寝巻につくようになったんです。幸いなことに水洗いすればすぐに流れ落ちてくれます。だからまあ、別にいいかとそのままにしておきました。
匂いや質感、ですか。無臭だった気がします。染みになったものは特に質感というものはありません。墨汁がついた跡のような感じでした。
その後、少しだけ不思議に思う事が起きたんです。順を追って説明しますね。
最初に話した子供の事なんですけど。家族は特に気にしないという風でした。保健所からは発達検査なんかも勧められて私は結構大げさに捉えてたんですよ。「私の育て方が悪かったんじゃないか」って何度も振り返ったりしましたもん。でもね、夫や私の母は「ヒロちゃんを見てる限りそんな風には思えないし、とても良い子だよ」って言うんです。あなたはこの言葉を聞いてどう思いますか?ああ、優しい家族だなって思えるんですね。それはありがとうございます。
私の兄ね、子供の頃ちょっと遅れてる子だったんですよ。小学校入学間際になってもスタイが必要なぐらいよだれダラダラで。幼稚園ではすぐに教室を抜け出してひとりで外で遊んでいたんです。先生はそれを止める事もしないんですよ。それぐらい日常茶飯事の様子だったらしく、母は参観日が恥ずかしくてたまらなかったって言っていました。でも大人になった今は周りと全く遜色なく暮らしてるんです。普通に仕事をして普通に結婚して普通に幸せで。「そんな人が近くにいるんだからヒロちゃんも大丈夫だよ、普通だよ」って母は私たちに言ってくれました。
そんな話を聞いた夜、突然息苦しくなって目が覚めたんです。鼻に違和感を覚えて洗面所に駆け込んだら、鼻の穴から黒い塊が覗いていました。鼻血の塊かと思ったんですが、引っこ抜いてみるとサラっとしていてすぐに洗面台に流れ落ちていったんです。私の身体から出た途端に原型を留められなくなったような、なんだか変なものでした。だけど鏡に写る私の顔はどこかスッキリしていて、たくさん泣いた後のような爽快感さえあったんです。
「ああ、この黒いものは私の心の膿なんだ」とストンと腑に落ち、すぐにもう一度眠りました。それからというもの、黒いものが寝具周辺に付いていても‘‘心のデトックス‘‘をしたんだと思うようになったんです。きっと、この黒いものが出ていく度に私の心は白くなっているんだと。そう思うとどれだけ辛くて苦しくてしんどい日があっても泣けばリセットできると信じられました。
でも、現実はそう簡単にいかないんですよね。私はヒロちゃんに優しくできない日が多くなりました。みんなは出来るのになんでこの子はできないんだ、って思っちゃうんです。そして何でもっと心が広い母親になれないんだって。私もこれだけ毎日頑張っているのにどうして、って。はは、親失格ですよね。分かってます。世間では「叱らない育児が大切」って言われているの知ってます?良い風潮だな、って私も思います。だけどそういった正しい育児を知る度に自分の出来の悪さを思い知らされます。
え、話は脱線していませんよ。私の生活全てが黒いものに繋がってるんですからよく聞いてください。
気付けば、泣いても泣かなくても毎朝黒いものが身の回りについているようになりました。心のデトックスなんて言っていましたが、本当に身体から何かが抜け落ちていたのか私は日に日に痩せていきました。毎日何かにイライラしてヒロちゃんにも怒って。そんな私に夫はとうとう嫌気が差したようです。最初は心配して話を聞いてくれました。だけど納得がいかなかったみたいです。最近の変化も思っていることも全部言ったんですけどね。
価値観って人それぞれだし、仲が良い人でも何かのチームでも、全く同じ考えを持つなんて不可能だと思っています。それに様々な考えがあるからこそ良いものが生まれるって思っていました。でも育児って違うんだなって痛感します。一人の人間を育てるって、親として夫婦が同じ考えを持っていないとこんなに難しいんだなってこの時初めて分かりました。
子供の発達が育て方のせいじゃないのか、この子がこれから強く生きていけるのか不安だと伝えたんです。そしてここ1ヶ月身体の中から黒い膿が出ているとも。
夫の返答は「何それ」でした。分かり合えないってこんなに悲しいんですね。そして夫は言ったんです。「お前の家系のせいじゃないのか」って。兄の話を聞いたからでしょう。私の血が流れる事で子供の発達に遅れがあると考えたみたいです。この人の身体の中にはきっとどす黒い膿が溜まっていると確信しました。デトックスできていないからこんな事が言えるんだって。
もしかして私が病んでおかしくなったって思ってます?確かに多少は気に病んでいたと思います。でもこの事でひとつ気付けたんです。私の身体の中に膿が出来るのは心が傷ついているからだって。その傷が出来るのは分かり合えない家族が原因だって。でも他人と分かり合うなんて簡単な事じゃありません。気持ちを分かってもらうって本当に難しいです。そう理解して冷静になれたんですよ。
そこで思いついたのが、黒いものを共有するということでした。目に見えるものを感じてもらえたら何か同じ気持ちを味わってもらえるんじゃないかなって思ったんです。
でも黒いものは私の身体から出るとすぐに流れ落ちます。先ほど言ったように鼻の穴で留まっている事はあれ以来ありませんでした。だから、新しいハンカチを購入したんです。真っ白のものを。それを寝る時近くに敷いて私から流れ落ちる黒いもので染める事にしました。この白いハンカチが真っ黒に染まり、それを夫に見せれば変わる気がしたんです。
何か目標が出来ると人って変わるものですね。毎朝毎朝ハンカチが少しずつ黒くなっていく様子に嬉しさが込み上げ一日の始まりが前向きになります。そうしていると生活も穏やかになってきたんです。イライラしないように努力して、怒らないように上手くやり過ごしていました。はい、そうですね。あくまでもやり過ごしていたんです。結局私の願いになっていた「分かり合いたい」というゴールには程遠い状況だからか、黒いものは日に日に多く出るようになりました。その頃、胃腸を悪くしてあまりご飯もたべられなかったんですよ。それでもどんどん出てくるあの黒いものって何だったんでしょうね。
ハンカチを購入して10日程でそれはほとんど真っ黒に染まっていました。ゴールに近づいたな、と感慨深くなっていた時です。早朝に目を覚まして周辺の黒いものを確認しました。そしたら、そしたらヒロちゃんの顔に黒いものが付いていたんです……。私のものが流れたのかとも思いました。だけど寝ていた場所と距離を考えると、それはヒロちゃんから出たものだと感じたのです。私は心のどこかで、夫や母など周りの家族からも黒いものが出ないかと願っていました。心の膿に気付けば何か分かり合えるのではと期待していたんです。でもまさか、子供から出てしまうなんて。私が黒いものが出てしまった経緯を考えると、それが出た理由は「分かり合いたい」という願いからなんでしょうか。それとも「誰も分かってくれない」という悔しさやもどかしさなんでしょうか。だとするなら、ヒロちゃんがそういった思いを心の中に抱えて傷ついたという事だと考えられます。
私は子供を傷つけてしまった。目に見える黒い何かがそれを示していました。
見えない心の傷が見えてしまうとこんなに堪えるんですね。いや、見えないからといって誰かを傷つけた事を軽々しく扱っていいわけではありませんが。
私はここまで家族に分かってもらおうと努力してきたつもりでした。何を分かってもらいたいか、ですか?やっぱり伝わらないものですね。何でしょう。結局はただ認めてもらいたかったんだと思います。「頑張ったね、不安だったね」って。無理に子供を普通の枠に当てはめなくていいんです。‘‘普通です‘‘という肩書きは何の安心材料にもなりません。そうじゃなくて、そのままの姿を見て認めてこれからどうするかを一緒に考えてほしかったんです。今だったらそう言えるんですけどね。あの時は言えなかったな。ここまで来たから上手く言葉にできるのかもしれません。
私、頑張ってきたと思うんですよ。でもそれも間違いかもしれないと、なんだかもう全部分からなくなったんです。そんな風に思い悩んでいると、夫が真っ黒に染まったハンカチに気付きました。「何これ、洗っておいてよ」と一言だけ。そして親切心なのか洗面所のバケツに水を張ってその中に放ったんです。タイミング悪い親切心ですよね。今そんなところに気を遣わなくていいのに。元々私はズボラだからか、夫もそれが何なのかなんて気にならなかったんでしょうね。ただ、目に見える範囲をちゃんとしてほしいって考えなんだと思います。私はそのままハンカチを洗いました。
はい、お察しの通り黒いものは水にすぐ流れ落ちます。真っ黒だったハンカチはどんどん色がなくなっていきました。それを見ながら、諦めたんです。ああもう無理だって。
その翌朝から黒いものは出なくなりました。ヒロちゃんからも出ていないはずです。今考えると、得体の知れないものにあそこまで執着していた私はおかしかったと思います。でも、何かを変えるきっかけにしたいと縋るものがあれしかなかったんですよね。

私が体験したお話はこんな感じです。もう何年も前の話になりますが、全て聞いてもらえて何だかスッキリしました。今ですか?みんな元気に過ごしていますよ。
期待をね、しないようになりました。何にも。結局あの黒いものがなんだったのかは分かりません。黒って何にも染まらない色じゃないですか。なんだか、周りの人みんなが私と同じ黒になってもう他には染まらない同じ人間になればいいな、なんて思ってたんです。でもそれは周囲の人間に変わってほしいと期待した私の勝手な願いでした。変わらない事前提で生きていけば、期待せずに生きていけば、傷つくこともなく心の膿なんて出来ずに生きていけるんです。だから今は元気ですよ。
ただ、たまに思います。黒に染まれなかった私は、あっち側の色に染まってしまったのかなって。ん?あっち側はあっち側ですよ。あなたはどっちなんでしょうね。でも私はもう大丈夫です。ありがとうございました。

この話を教えてくれたAさんはほとんど一気に、捲し立てるように聞かせてくれた。確かに今の彼女はやせ細った様子もなく、話をする前にはピラフとプリンを平らげミルクがたっぷり入ったカフェオレも美味しそうにおかわりしていた。一見元気そうに感じる。
ただ気になったのは、彼女の装いだ。黒いロングスカートに黒いニットトップス。黒いパンプスに黒いハンドバッグと、全身真っ黒で現れたのだ。子供の様子を思い出す場面では目に涙を溜めていた。それを拭うために取り出したハンカチも真っ黒だった。一瞬、今分泌される鼻汁は何色なのだろうと興味が沸く。だけどハンカチが真っ黒だから何色なのか分からない。
本当はまだ出てくる黒い何かを隠しているのだろうか。それとも、黒くなりたいという願望を体現しているのだろうか。いや、本当は体内に留まり続ける黒いものをどうやって出そうかと模索してるんじゃないのかとさえ思える。当初はデトックスして白くなりたかったはずなのに、いつの間にか黒に染まりたいという気持ちに変わってしまったのだから。
彼女の話は不自然な程に枠にはめたような起承転結があり、物語がそこで閉じたように最初は感じた。しかしこれは、どうにか自分の中で終わりをつけようとしている彼女なりの足掻きなのかもしれない。私は、何にも期待しなくなったという彼女の感情が子供に対してどう働いているのか気になった。だけどそれは不思議な体験を超える域であり、せっかく出てきた「大丈夫」の言葉を揺るがすかもしれないと思い聞くことは出来ないままとなる。終わりをつけようとした彼女からは、これ以上踏み込ませないという結界のような境界線を感じたのだ。それが、彼女の言うあっち側という事なのだろうか。
そうして考える。私自身は、あっちかこっちか。何色なのか。

 

得点

評価者

怖さ鋭さ新しさユーモアさ意外さ合計点
毛利嵩志15151051560
大赤見ノヴ151717151882
吉田猛々151818151783
合計4550453550225

 

書評:毛利嵩志
女の人内側からしか出てこない文章のように感じます。子育ての孤独感のなか、怪異自体を希望として受け入れ、それを諦めるさまがリアルで、その切迫感には圧倒されました。

書評:大赤見ノヴ
赤ちゃんがかわいそうと一瞬思ってしまうんですが子育てって一歩間違えるとこうなってしまうんですよね。それぐらいギリギリの精神状況なんだと思います。私は母親側ではないので説得力が無いですが、そう思います。ただ、人間は全員あの黒い何か、体から出ていると思いますよ。妬み、嫉み、僻み、様々な負の感情を毎日吐き出しながら生きているんです。この作品は怪談ではなく哲学です。

書評:吉田猛々
ゆっくりと進んでいく人の狂気、それがまさに立て板に水のように、捲し立てるような女性の喋りが文からもその質感と温度が伝わり、思わず自分も「あっち側」にいるような気分になりました。わかりやすい怖さや心霊という訳ではないのに、奇妙な読後感を与える稀有なお話ですね。違う作品も読んでみたいなと思いました。