とある秋口の休日。
社会人三年目の俺は、同じ部署の後輩Bと共にドライブに出かけた。Bとは一緒に昼飯を食いに行くうちに仲良くなり、彼女もおらず暇を持て余す同士ということで意気投合。適当に連絡を取り合って遊んだり飲んだりと、気楽な付き合いができる奴だった。
その日はBの希望で、SNSで話題の海鮮丼を食べに、海が近い隣県の市街地に足を運んだ。長い行列に並んだ後、二人で美味い海鮮丼を堪能し、Bに連れ回されるまま市街地を巡り歩く。グルメや観光スポットなどで、その都度スマホを構え撮影しているところを見ると、SNSか何かに投稿しているのだろう。マメだなあと思いながら眺めていると、Bは撮影した画像をチェックしながらつぶやいた。
「こういうのって段々とネタかぶりしてくるんですよね。何かもっとインパクトのあるものを撮影してバズってみたいんすけどねえ」
「グルメや名所はみんなが投稿するからな」
「そうなんですよ。それ以外でバズるネタって衝撃動画とか心霊系くらいですよね。先輩、今度心霊スポット一緒に行きましょうよ」
「絶ッ対行かない」
そんなやり取りをしながら歩き回っていたら、いつの間にか空はすっかり暗くなってしまった。明日は仕事だし、そろそろ帰らないとまずい。俺とBは車へ戻り、海岸線の細い市道へ向かってハンドルを切った。信号が少なくスムーズに高速のインターまで出られるショートカットコースだ。
そうして市道に入ると、助手席のBが急に無口になった。先程まで流行りの動画について延々しゃべり倒していたのに、もしや寝やがったのかと助手席を見る。するとBは、暗がりに浮くほど白い顔をして、ゆっくりと俺を見た。
「先輩……あの、は……腹が、急に」
「えっ」
調子に乗ってあれこれ食いまくったせいで腹を壊したらしい。だからあれほど海鮮丼の後のアイスはやめとけって言ったのに。しかしあいにく寂れた市道なのでコンビニはない。どれくらい我慢できそうか聞こうとした矢先、盛大にBの腹がぎゅるるる、と唸るように鳴った。我慢どころか一刻の猶予もなさそうだ!
このままでは車内が大惨事だと俺まで青くなってきたその時、ヘッドライトが照らす錆びだらけの看板が目に入った。
「うみの公園? もしかしたら公衆トイレがあるかも!」
「な、何でもいいから、早く助けて先輩……」
公衆トイレがありますようにと祈りながら、看板通りに細い道へとハンドルを切る。砂防林の中を進んでいくと、やがて真正面に黒々とした海が現れ、薄暗い街灯がひとつポツンとたたずむ小さな駐車場に出た。街灯の近くには運よく公衆トイレもあるではないか。
車を停めるやいなや、Bはポケットティッシュを握りしめ猛ダッシュで公衆トイレへ走っていった。とりあえずこれで一安心だ……人騒がせな奴。
Bを待ちながら、改めて周囲を見回してみる。看板には公園と書いてあったが、子供向けの遊具などがあるわけではなく、海へ訪れる人のための駐車スペースのようだ。俺たち以外に車は停まっておらず、車のフロントから臨む海岸と防波堤にも人の姿はない。防波堤なら釣り客のひとりくらいいそうなものなのに、と思いながらウインドウを開ける。
外は、全くと言っていいほどの無風――俗に言うベタ凪というやつだ。風がないせいか潮の匂いが異様に濃く、やけに生臭い。
『ひどい匂いだ。釣り客が捨ててった魚が腐ったのか?』
いくら海が近いとはいえ、この生臭さはちょっと異常なんじゃないか……
「先輩!」
慌ただしい足音と共にBが駆け戻ってきて、俺のいる運転席側に顔を突っ込んできた。
「先輩大変です! 俺今スッゲエもん見ましたよ!」
さっきまで青い顔をしていたのが嘘のように、興奮してまくしたてるB。不審げな目を向けると、Bは海岸を指差した。
「トイレから出た時、砂浜を白っぽい何かが這いずっていったのを見たんですよ! めっちゃキモチワルイ動き方で!」
「見間違いだろ。こんな真っ暗なのにそんなもん見えるわけ」
「いやいや、絶対に見たんですって! 防波堤の方へ這って行ったんですよ、正体を突き止めて撮影しなきゃ!」
俺の言葉を遮って、Bはスマホを握りしめた。投稿ネタがほしいと言っていたくらいだし、こういう謎な事態に食いつくのも無理はない。一緒に防波堤へ見に行こうと誘ってくるが、俺はオカルト的な話に興味はないし、正直面倒くさい。
「俺は行かない。そんなに探したきゃ独りで行ってこい。ただし15分で戻ってこいよ」
「ちぇっ、先輩のケチっ。分かりましたよ、行ってきま~す」
Bはしぶしぶ独りで防波堤へと走っていった。好奇心旺盛なのは結構だが、後先考えないってのは困りものだ。
それから5分ほど経っただろうか、俺のスマホが鳴った。Bからの着信だ。
『先輩、防波堤までの砂浜にあいつの這った跡があったんですけど、姿は見当たりません。で、何か消波ブロックのところが……めちゃ磯臭いって……か、生臭……て』
俺が感じた異臭が、Bのいる防波堤でもするようだ。しかしそれよりも――
『波……も静か……し、暗……ど見通しは……何かい……すけど』
何だろう、Bの声が聞き取りにくい。波音のような雑音が響いて、Bの声がかき消される。
今この辺りは無風で、そよ風ひとつ吹いていない。当然、波が高い訳がない。疑問が浮かんだ次の瞬間、Bが大声を上げた。
『先輩、消波ブロックの間に誰か挟まってる!』
雑音を押し退ける勢いのBの大声に、驚いて飛び上がってしまった。笑えない冗談はやめろと言おうとしたが、Bは明らかに動揺している様子だ。
『ど、どうしよう、先輩どうしよう、警察に連絡しなきゃ』
「ちょ、B、早まるな。今そっち行くから待ってろ」
俺は仕方なく車を降りた。やはり外は無風で、そのせいか例の生臭さもなおさら酷く感じられた。顔をしかめながら車に鍵をかけ、Bのいる防波堤へと急ぐ。真っ暗な海から打ち寄せる波は静かで、泥沼のように重く見えた。防波堤の上に、Bのスマホの灯りが揺れている。
「先輩、こっちこっち!」
防波堤に上がった俺に口を開く間を与えず、必死に消波ブロックの先を指差すB。静かな波が消波ブロックの下に潜り込んで、だぷん、だぷん、とくぐもった音を立てていた。
「落ち着けよ、どうせ見間違いだって……っ?」
言い終わる前に、俺は鼻と口を押さえてしまった。
何だこれは――先程車の辺りで嗅いだ匂いの、何倍も生臭い異臭が漂っている。だぷん、と波が足元から音を立てるたび、匂いも一緒に上がってくる気がした。
俺は鼻をこすりながら、Bが指差す消波ブロックの隙間を覗き込み、スマホのライトで奥を照らした。
そこには。
「あ」
海水に半分浸った状態の、髪の毛らしき黒いものが、暗い波にたぷたぷと揺れていた。
即座にライトを消し、素早くBに振り返る。
「いや、ま、マネキンの頭だって……絶対」
「で、でも」
顔を見合わせ、俺たちはそれきり言葉を失う。自分で言っておきながら、この異常な臭気の中ではまるで説得力がない――だぷん、と消波ブロックの隙間から気だるい波音が響いた、その時だった。
俺たちが見守る消波ブロックの奥。
波に漂う髪の毛らしきものに、小さな青白い手が伸びた。
唐突な出来事に、声も出ない俺とB。二人同時に見ているのだから、絶対に見間違いではない。
青白い小さな手は、濡れ髪のようなものを無造作につかみ、ゆっくりと引きむしっていく。だぷん、という例の波音のせいで音は聞こえないが、髪の毛がちぎれる時の嫌な音と感触が勝手に脳内再生されて、吐き気がこみ上げた。むしられた濡れ髪の根本に、頭皮と思しき真っ白な切れ端が、だらんと垂れさがる。
マネキンに頭皮なんて、ない――と、いうことは。
「ほ、本物……!」
Bはかすれた声でつぶやき、おもむろにスマホのライトで隙間を照らした。青白い手は髪の毛をつかんだまま、素早く奥へ引っ込んで消えてしまう。茫然としていた俺は、ハッとして隣に立つBを見た。
スマホを掲げて隙間を凝視するB――動画を撮っているのだ。
「B、おまえ何して……!」
俺の声など聞こえないのか、青白い手が消えた消波ブロックの隙間に近寄り、屈みこんで奥を撮影するB。消波ブロックの下から響く、だぷん、というあの重たい波音に重なって、いつの間にかゴポゴポという泡音がし始める。水の中で誰かがしゃべっているような音に聞こえて、ざわざわと鳥肌が立ってくる。
「も、戻ろうB! これ以上ここにいたらダメだ!」
だがBは、撮影に夢中で返事もしない。その間もずっとゴポゴポと音が続いている。
もしやこれは、あの青白い手の持ち主の、声なのでは……恐怖に駆られた俺は、消波ブロックから防波堤へ戻ろうと後ずさった。
「うわっ!?」
足を動かそうとした途端、俺は大きくバランスを崩した。
尻もちをつきそうになり、慌てて消波ブロックに寄りかかる。何につまずいたのかと反射的に下を見た俺は、ひゅっと息を飲んだ。
俺の靴先をつかむ、青白い小さな手――細く骨ばった指が、靴に食い込んでいた。
【ごぽ、ごぽごぽ、ごぽぽご】
消波ブロックの下ではなく、俺の靴先の向こうから、あの耳障りな泡音が聞こえた。
心臓がギュッと縮む。つかまれた足はビクともせず、全身にどっと冷汗が噴き出す。
「先輩!」
そんな俺に、Bがすかさずスマホを向けた。突然ライトで照らされてが一瞬何も見えなくなるが、靴先をつかんでいた手が瞬時に消え去ったのが分かった。Bが機転をきかせて助けてくれたのかと思ったがしかし、奴が開口一番放ったのは予想外の言葉だった。
「先輩、今俺そいつの顔撮りましたよ! すっげえ、本物撮っちゃった!」
あろうことか、先輩の俺より撮れ高を優先してやがった。何て奴だ。
「バカヤロウ、ふざけんなB! 早く車へ戻るぞ、このままじゃヤバいって!」
「何言ってんすか、激レア動画ですよ! めっちゃバズりますよコレ!」
ライトに照らされて逆光になっている俺には、Bの顔はまったく見えない。しかし、Bの暗い足元に近づくものを、視界の端にとらえてしまった。
海を背にしたBが興奮して騒ぎたてる間、消波ブロックを滑り這う、青白いもの――がりがりに痩せて骨ばった、小さな幼児の姿をした何かが、ぬらぬらとBに這い寄るのを。
【ごぽ、ごぽごぽ、ぽご】
びちびちと跳ねる魚と、草むらを這う蛇の動きを足したような、普通の人間には到底できない奇妙な動きのそれは、骨と皮の細い腕をにゅるんと伸ばす。
「Bっ……」
Bの両足に絡みついたそれは、複雑に入り組んだ消波ブロックの隙間に、一瞬でBを引きずり込んだ。消波ブロックに叩きつけられたBのスマホが後を追うように隙間にすべり落ち、周囲は再び真っ暗になる。
俺は消波ブロックにしがみついたまま動けずにいた。目の前で起きた何もかもが、信じられなかった。
と、あのゴポゴポという泡音が急に激しくなって我に返る。消波ブロックの隙間に反響する泡音が、周囲に響き渡った。
「ゴポッげぼ、ぜんば……ごぼッ、たっ、だずげっ……ゴボがぼ」
泡音まみれのBの悲鳴。だぷん、と隙間から低い波音が響く。
「ごぶぁっ、だずげでっ、引っ張られッ……痛い痛い痛いぃごぼごばっぼっ」
だぷん。
「げばぁっ、はがぁ、ぐるじぃぜんばいっ、だ、ずげでっ……ごぶぶごべぼ」
凪の静かな波が消波ブロックに打ち寄せるたび、顔が波に浸かってごぼごぼともがくBの姿が脳裏に浮かんだ。
「は、はあ、はあっ」
這いつくばって防波堤へ移った俺は、一目散に公園へと走った。足がもつれて何度も転ぶが、必死に公園の街灯を目指す。一刻も早く明るい場所へ行かないと、俺も、Bと同じ目に……! 砂まみれの震える両手でスマホを握りしめ、俺は警察を呼んだ。
しばらくしてやってきた警官たちと一緒に防波堤へ上がり、消波ブロックの隙間を確認したが、漂っていた髪の毛も、Bの悲鳴も、Bが落として割れたスマホのかけらすら、何も見つからなかった。あの時ずっと漂っていた鼻が曲がりそうな異臭まで、すべて消えてしまっていた。俺は何度も先程の状況を説明したが、警官たちは当然のごとく一切信じてくれず、挙句、
「寝ぼけてたんじゃないですか?」
の一言で片付けられてしまった。
こうなってはもうどうしようもない。さっさと走り去るパトカーを見送り、俺は肩を落として自分の車に戻った。ずっとこの場に居座るわけにもいかず、俺は後ろ髪を引かれる思いで自宅へと帰ることにした。
絶対に夢じゃない。寝ぼけてなんかいない。
あの時Bの足に絡みついた青白い幼児の姿と、いきなり引っ張られて表情を変える間もなかったBの嬉々とした顔が、頭から離れない。職場やBの家族にどう説明したらいいのかと考えを巡らせるうち、俺はあることに気付く。
潮の匂いがする。海から離れていっているはずなのに。
「な、なんで……!?」
車内に充満する潮の匂いが、あの異様な生臭さに変わっていく。視線の端……助手席に、何かがいる。本能的に見てはいけないものだと察した俺は、正面だけを睨んで強くハンドルを握った。
嫌でも視界に入る、ずぶ濡れのデニム。俺は奥歯を噛みしめ、震えと悲鳴を必死に殺す。
助手席に……俺の隣に、座っている。青白いあいつに引っ張られたBが、そこに――
【ごぼごぽ、ごぼ、げぼぉ】
「ひっ」
咄嗟にカーオーディオの音量を上げた。隣から響く、ごぽごぽと泡立つ声を聞かぬよう、大音量で音楽を鳴らしてアクセルを踏んだ。
【ごぼげぶ、げぼ、ぜんば、い、ごぽげ、だずげ、でえぇーーー】
ラジオの音に紛れて聞こえてくるBの声――もはや、耐えられなかった。
夜も遅い時刻を承知で、俺は目先の神社に飛び込んでいた。灯りがついている社務所の呼び鈴を鳴らし、必死に扉を叩く。
「すいません、お願いです! 助けて、助けて下さい、お願いし��す!」
私服姿の40代くらいの宮司さんが扉を開けてくれたが、脂汗にまみれた俺を見るなり、驚いたように目を見開いた。
「……大変申し訳ないのですが、うちではそれらを祓うことはできません」
まだ何も言っていないのに! 俺を見ただけでもうこの状況が分かるのか?
「な、何で? どうしてですか!?」
思いがけない言葉にうろたえる俺に、宮司さんは神妙な面持ちでつぶやいた。
「あなたが魅入られているのは、昔から海沿いの地域で【引児】と呼ばれている存在です」
「ひ、ひきじ?」
あの青白い幼児のようなものは、引児というのか。衝撃の場面を思い出し、吐き気がこみ上げる。
「海が近いうちの神社では、引児の力を削ぐことが難しいのです。一時的に遠ざけることはできても、引児と【縁】を持ってしまったあなたをすぐに見つけてしまうでしょう。海の近くにいる限り、引児からは逃げられません」
「そんな……!」
ただただ恐怖と絶望で震えるしかない俺。しかし、宮司さんは続けた。
「大丈夫、知り合いの宮司が県境付近の神社におります。かなり山奥の神社ですが、そこに行けば何とかなるはずです。連絡を入れておきますので、一刻も早く県境の山を目指して下さい。詳しい話は彼が教えてくれるでしょう」
宮司さんは速足で社務所の奥へ下がると、すぐに戻ってきて俺に白い紙を手渡した。筆で難しい文字が書いてある。
「こちらの護符をお持ちください。引児に対しては気休めにしかなりませんが、護符が無事な間は何者もあなたに危害を加えることはできないはずです。いいですか。この先何が現れても、絶対にそれの目を見てはいけませんよ」
身震いするが、それが決して誇張ではないことを、俺は身をもって知っている。宮司さんに何度も礼を言い、俺は車に戻って県境へとハンドルを切った。ここから県境の山奥までは、どう急いでも二時間以上かかる。しかし、俺に選択の余地はない。護符を膝の上に乗せて、俺はひたすら車を走らせるしかなかった。
宮司さんが言った通り、しばらくは何事もなかった。海から離れていっていることも関係しているのかもしれない。少しだけ気が落ち着き、疲労感を感じながらふと、先程の宮司さんとのやり取りを思い返していた。
『うちではそれらを祓うことはできません』
……それ、ら……
違和感に寒気が走る。どういうことだ? 無意識に膝の上の護符を撫でる。
ざら。
「え」
濡れた砂の、感触。
ぎょっとして膝に視線をやると、護符が砂だらけになっていた。ふやけて歪んだ護符の文字がひどく滲んで、消えかかっている。
血の気が引いた――気休めと言った宮司さんの言葉は、本当だった。
まずい、まずい、まずい。護符がダメになったら、またあの声を聞いてしまう。
再びかすかに漂い始めた潮の匂いに、俺は叫び出しそうになっていた。
が。
すぐに俺は、声すら出せなくなった。濡れた護符の文字が瞬く間に、ただの黒いシミになっていくのが見えた。
それと同時に、消波ブロックで尻もちをつきそうになった時、引児に靴先をつかまれたあの感触――左の足先を、何かが、同じようにつかむのが分かった。
何かが、左足のあたりに、いる。
【ごぽごぽ、ごぶ、ごぽぽ】
引児、が、いる。
『下を見るな! 見るな、見るな!』
俺は必死に心の中で叫び続けた。視界の端に奴が入り込まないよう、身を乗り出して正面を見据えた。狭い足元の空間で俺の左足の先をつかんだまま、ぬるぬるとうごめくものを感じるたびに鳥肌が立つ。恐怖で過呼吸になりながら、どのくらいの時間が過ぎただろうか。
『も、もう少しで、県境のトンネル……早く、早く!』
対向車もほとんどいない深夜のトンネルに、アクセルを踏み込んで突っ込んだ、その途端。
すべてが一瞬で消えた。
「はあッ、はあ、あ、あぁ……!」
足先をつかまれている感触も、足元にいた引児と思しきものも、潮の匂いも、すべて嘘のように消えていた。トンネル内のオレンジ色の灯りに照らされながら、俺は安堵のあまりボロボロに泣きながら、山奥の神社を目指して走り続けた。
県境の長いトンネルを抜けると、件の神社へは意外に早く着くことができた。神社手前の駐車場に車を突っ込み、転がるように外へ飛び出す。ドアの音に気付いたらしい宮司さんがすぐに社務所から出てきてくれた。俺より背が高い40代くらいの男性だ。夜中の遅い時間だというのに、宮司さんは嫌な顔一つせず、俺を見て一言。
「お待ちしてました。お祓いの前にこちらへ」
手水舎の前に案内されて手と口を清めた後、形代を数枚渡された。形代の枚数分、体中へ丁寧になでつけるよう指示される。
「足先は特に念入りに」
ぎくりとした。靴先をつかまれた感触を思い出し、鳥肌が立つ。
念入りに体中を形代でなで終えると、形代それぞれに息を吹きかけるようにと言われ、その通りに済ませる。宮司さんは何か色々と難しい漢字が書かれた白木の札を二枚取り出し、数枚の形代を挟んで敷石の上に置くと、おもむろにマッチで火をつけた。着火剤も何もないのにそれは勢いよく炎を上げ、ぱちんと弾けた火の粉が俺に降り注ぐ。びっくりしたが、一瞬のことなので熱くはなかった。
「これで海の化との縁は切れました。では中へどうぞ。お祓いをいたしましょう」
「海の化、の縁?」
「お祓いが終わったらご説明しますよ。どうぞ中へ」
そうして社殿に招かれた俺は、粛々とお祓いを受けることができた。特別なものは何もなく、ごく普通のお祓いだったように思う。
すべてが終わってようやく肩から力が抜けた俺を、宮司さんは社務所の小さな部屋に通し、暖かいお茶を入れてくれた。
「友人から連絡を受けた時は驚きましたが、間に合ってよかった。あなたがこちらに来られた時にとても強い潮の匂いがしたので、手遅れかと思ってひやひやしましたよ」
友人の宮司は厄介な海の化の類は全部自分に回してくるのだ、と苦笑いを浮かべる。
俺は宮司さんに、今日起きた出来事をすべて話した。洗いざらい話しながら、恐ろしさと悔しさで涙があふれて止まらなかった。俺が話し終わると、宮司さんは静かにうなずいた。
「あなた方が遭遇した【引児】は、海で亡くなった死者の怨念、無念、悔恨などの、負の念の集合体です。凪の日の海によく現れ、老若男女問わず引っ張って溺れさせると言われています。幼児の溺死体のごとき風貌で、目玉はなく、異様に大きな空洞の眼窩から、絶えず泡を吐くような音がするのだと聞きました。それと目を合わせたら最期だ、とも」
引児は古くから漁師の間で語り継がれる怪異で、引っ張られるのを恐れ凪の日は海に近寄らないのだという。
「引児は大変強い怪異ですが、陸地においては影響力が弱まります。なので、あなたに付いていた目印の潮気を形代に移し、清めの札とともに燃やして奴との【縁】を断ちました。もう大丈夫ですよ」
「あ、あの、Bは」
「大変残念ですが、引児に引っ張られて助かった者はいません。もし万一目の前にBさんが現れたとしたら、それはもうBさんではない別の何かですから、騙されませんように」
ぞっとして顔が強張る俺に、宮司さんは続けた。
「その件ですが……最初、車中にBさんが現れたと仰いましたよね」
「はい」
「でも引児は、姿を変えることはないんです」
「え?」
一瞬、何を言われているのか分からなかった。俺の脳が理解するのを拒否していたのかもしれない。
「引児がBさんを引っ張ったのは、最初に狙ったあなたを引っ張るのをBさんが邪魔したからでしょう。そして当のBさんは、なぜ自分が引っ張られてあなたは生きているのかと、強い不満を抱きながら亡くなった可能性が高い。無念と怨念が引児によって増長され、あなたの元に現れたのかもしれません」
向こうの宮司さんが言った「それら」の意味……暖かいお茶を持っているのに、鳥肌が止まらない。
「あなたは引児と、Bさんの両方から狙われていたんです」
俺は言葉を失った。Bは俺の身代わりのような形で命を落とし、生き残った俺を恨んでいるだなんて……顔を覆い、嗚咽を堪えながら、俺は泣いた。
宮司さんは俺の背中をそっと撫で、自分を責めることはないといたわってくれた。
「今夜はこちらに泊まっていらっしゃい。だいぶ消耗されたでしょうから、今日はゆっくり休んで下さい」
子供のように泣きじゃくりながら、俺は何度もうなずいた。正直な話、気力が限界でもう一歩も動けなかった。
明けて、翌日。
わざわざ朝食まで準備してもらい、ありがたくいただいた後、俺は身支度を整えて社務所を出た。世話になった宮司さんに頭を下げると、宮司さんは真剣な目で俺を見た。
「今後、海には近寄らない方がいいでしょう。心霊スポットなども論外です。一度でも怪異と縁ができてしまった者は、他のひとよりずっとそれらと縁が繋がりやすくなります。次にその場に行ったら命はないと思って下さい」
青くなった俺は口を半開きにしたまま、馬鹿みたいにかくかくと何度もうなずいた。
宮司さんは、一年経つまでは肌身離さず持つようにと、火のように真っ赤なお守りを俺に手渡す。護摩焚きの灰と香木が入っており、海の化の匂いがつかないようにするまじないなんだそうだ。色々と手を尽くしてくれて、感謝してもし切れない。俺は宮司さんに深く頭を下げて礼を述べ、神社を後にした。
それから、数年。
Bは今も行方不明のままだ。あの日以降、俺のところにも現れたことはない。
俺は年に一度は必ず、お世話になった県境の神社へ出向いてお祓いを受けている。もちろん海には近づいていないし、潮の匂いがする場所へも行かないようにしている。
ただ、未だに風呂や洗面所の排水溝が怖い。ごぽごぽという泡音が完全にトラウマで、その音を聞くたび怖気が走るので、以前より頻繁に排水溝を掃除するようになった。
そう。
泡音の合間に、Bの悲鳴が紛れ込まないよう、念入りに――
【ゴポッげぼ、ぜんば……ごぼッ、たっ、だずげっ……ゴボっがぼぼ】