今から二十年近く前のある冬のこと。
高橋さんは近所の商店街のアーケードで、『新規開店につき急募 パート販売員』という貼り紙を目にした。
業務内容は『マッサージ機のインストラクターと健康サプリメントの販売』とあり、時給も申し分ないものだった。
『まもなく新規オープン』と印刷されたチラシが一面に貼られた空き店舗のガラス扉を覗くと、まるで宇宙船のコックピットの様な黒いマッサージ機がズラリと置かれていた。健康食品会社の横文字の入った段ボールが開店を待つように、レジの前に積み上がっている。
元は潰れたコンビニの跡地だが、何か新しい変化が始まる予感が店内には満ちていた。
離婚と失業を機にこの街に引っ越してきたばかりだった高橋さんの心に、何か小さな希望のようなものが滑り込んできた。
大手百貨店の販売員の経験もある高橋さんは、この仕事に思い切って応募してみることにした。
すると、面接時に自分の何が気にいられたのか、まさかの高倍率をくぐり抜け、すぐに採用が決まった。
客が無料体験をするマッサージ機とサプリメントの研修を店内で何とか済ませると、開店日には明るい色のスーツで顧客カルテを片手に接客に立つこととなった。
オープン初日、会社の男性営業部員が『新規開店 無料 健康体験会』というチラシを配って客を誘導するのだが、平日の日中限定で開催される体験会へやって来る客は、近所に住む高齢者ばかりだった。
「これは、某温泉旅館の特別室へも納入している、百万円近いマッサージ機なんですよ。高級旅館に泊まらなくても、無料でのんびりお使い頂けます。ごゆっくりお寛ぎ下さい」
高橋さんは、試食用のサプリメントと温かい健康茶を来場した老人たちへ手渡し、身体の痛みや要望に合わせて全身マッサージ機のコースを決めていく。
高級な革張りのマッサージ機に頭から足先までもみほぐされ、内蔵された温熱ヒーターで体がポカポカと温まる頃には、みな心地よさの虜になっていった。
「明日もぜひ通ってくださいね。何度でも無料ですから」
優しい笑顔で丁寧に声かけをして、一人ひとりの健康状態や体の痛みへ親身になって耳を傾ける。実際に全て完全無料で提供し、三桁近くもするマッサージ機を買わせるように仕向けることもない。
だが、連日、顔を合わせているうちに、高橋さんと客との間に段々と濃い人間関係が出来ていく。
新規開店日から通っている客の来場回数が二桁になる頃には、
「本当に無料でこんなに親切にしてもらって申し訳ないね」
「長年の身体の痛みに親身になってくれた貴女にお返しがしたいわ」
「せっかくだから、何か高橋さんのイチオシはないの?」
という声が上がった。それを聞いて、自分だけ図々しく知らん顔もできないと、他の客も同調する雰囲気になっていく。
そういう時には、試食に出しているサプリメントではなく、一瓶数万円のハイグレードな商品を客の購買意欲に応えて紹介するよう、会社には言われていた。
「少量しか製造できない貴重なお品なので、特別なお客様だけに……」
遠慮がちに説明すると、常連の老人達は我先にと、気持ち良く財布を開いてくた。
そして、特別な客として、他の客よりも一層丁重に扱われる事に気を良くし、
「無料で凄いマッサージ機にのって、お茶飲みながらお喋りできる場所があるんだけど」
そう熱心に口コミをしては、次々と知り合いを連れてきてくれた。
優しげな風貌と丁寧な接客で、以前働いていたデパートでも年配者からのウケが良かった高橋さんは水を得た魚のようだった。
若い頃は『デパート売り場の三美人の一人』」として誉めそやされてきた美貌だが、四十代になった今では、見る影も無いと内心落ち込んでいた。
だが、七、八十代の老人達には十分、若手として認識され、アイドルのように崇められるのも、悪い気はしなかった。
商店街に貼られていた広告から面接に臨んだ時には、あまりの応募人数の多さに諦めかけたが、あの何人もの女性の中から自分が抜擢されたのは素直に嬉しかった。
その舞い上がった気持ちのまま、研修時に会社から一推しだと言われたハイグレードな商品もパート割引ですぐに購入し、自分でも試していた。
すると、ほのかに肌や目の艶が明るくなった気がして、これは値段なりの効果があるサプリメントだ、と高橋さん自身もその商品を信頼するようになっていた。
ただ、一つ不思議だったのは、業務の終了後に『今日の営業報告』を公衆電話から決まった時間に営業本部へしなくてはいけない事だった。
個人の携帯や固定電話ではなく、会場から一定の範囲内の公衆電話から掛けなくはいけない決まりだった。
一店舗に一人しか販売員がいないため、
(本当に決まった時間まで真面目に勤務しているのか、どこからか見張られているのかもしれない)
とも思い、高橋さんは業務を終えると、駅前の公衆電話から几帳面に連絡をしていた。
本部では、柔和な口調のベテラン営業課長が待機していて、来店人数を聞いては、
「貴女を採用して本当に良かった。高橋さんは期待の星ですよ。頑張ってくださいね」
疲れた気持ちをほぐすように丁寧に労ってくれる。そこでますます高橋さんは、顧客サービスに張り切っていた。
ある日、業務報告を終えて公衆電話の受話器を下ろすと、すぐ隣にもう一台ある電話の前で小学校低学年くらいの男の子が、
「あれ?……あれ?……なんでだろ?」
小さく呟きながらモジモジと困っていた。
公衆電話に何度、十円玉を入れても、返却口に戻ってきてしまう事に戸惑っているようだ。公衆電話は最初に受話器を取ってから硬貨を入れないと、投入口から入れた硬貨は返却口にそのまま転がり落ちるようになっている。
高橋さんは老人達に見せる優しい笑顔で、男の子へ話しかけてみた。
「最初に受話器を取って、手に持ってみて。それから十円を入れると、ツーって音がするから、それから番号を押すの」
男の子は素直に従って、大事そうに受話器を左手に持ち、十円玉を入れた。すぐに発信可能のツーっという音が聞こえてくる。
「あ、できた!」
笑顔になり、プッシュ式の丸い番号ボタンを真剣に一つずつ押している。
すぐに繋がったようで、コトリと内部に十円玉が取り込まれた音がした。
「うん。ぼく。帰る。うん、じゃあね」
それだけ言うと重そうに受話器を戻した。
「良かったね。気をつけて帰ってね」
隣で見守っていた高橋さんへ、男の子は黄色い帽子の頭をペコリと下げると大きなランドセルの後ろ姿を見せて去って行った。
それから、その男の子と公衆電話でよく顔を合わせるようになった。「お稽古の帰り? 気をつけて帰ってね」
男の子は笑顔で頷いて、バイバイと手を振ってくれる。
ある日、珍しく、男の子の方から高橋さんへ話しかけてきた。
「……この電話って、天使の電話だって知ってる?」
いきなりで何の話かわからなかったが、
「……そうなの? 知らなかったなぁ。どうして天使なの? 学校の流行《はや》り?」
きっと小学生のおまじない的な何かだろうと見当をつけて訊いてみた。
男の子は真面目な顔で答える。
「この電話はね、市の中で一番悪い番号をつけられてるんだよ。九九九九とか四九四九とか。みんなが嫌な目に遭わないように、悲しい番号を引き受けてくれてるの。だから、天使なの」
思ったよりも、根拠のある話だった。
確かに公衆電話にも電話番号があるのだろう。
おめでたいゴロ合わせや七や八の繰り返しの数字は好まれても、死や苦しみに繋がるものは何かにつけ避けられる。ならば、公衆電話には人が忌み嫌う番号を振り当てているのかもしれない。
「でも、そっちは悪魔の電話。悪い話やウソをいっぱい聞いているうちに、天使が悪魔になっちゃった。だから、必ず天使の電話が横にいて、本当の事を聞かせてくれるんだよ」
高橋さんは思わず、公衆電話を見た。
いつも使っている駅前の緑色の公衆電話は、二台が横にならんでいる。
天使の電話と言われた右側の電話は一段高い電話台にのっていて、左側にある悪魔の電話はそれより低い台だ。
そういえば、いつもこの子は右の公衆電話しか使わない。左の低い電話台なら身長にあっているのに、わざわざ高い電話台の電話を使い、重そうに受話器を戻している。
「でね、いつもおばさんが悪魔の電話をかけている時にね、天使の電話から悲しい声がいっぱいするから、気をつけてね」
男の子はニコニコと最後に教えてくれた。
「……えっ? ……そうなの? ……ありがとう」
高橋さんは、子供の話にしては、なんだか妙に不安な気持ちにさせられた。
だが、ふと時計を見ると、とうに業務報告の時間を過ぎている事に気づき、慌てて本部へ電話を掛ける。
今日に限って話し中でなかなか繋がらず、ハラハラしていると、
「……はい?」 愛想の悪い、知らない若い男がでた。
「〇〇東口店の高橋です。遅くなって申し訳ありません」
「あー。このまま待ってもらっていいっすか? 課長、別件対応中なんで」
そう言うなり、いきなり保留音のメロディに切り替わった。
すると、まだ隣に立っていた男の子が、右隣の電話の受話器を徐《おもむろ》に外した。
投入口に硬貨も入れずに、じっと受話器を耳にあてている。
そして、うっすらと笑いながら、今度は、その受話器を高橋さんの右の耳にあてようと爪先立ちをして高く持ち上げてきた。
「……ほら、これ、聞かせてあげる!」
男の子が両手で掲げる受話器に仕方なく右耳を傾けてみると、どういう訳か、途切れ途切れに人の声が聞こえてくる。
「……に騙され……」
「毎日……会いに来てくれって……」
低い老人の声のようだ。
「……タカハシ!」
タカハシという単語が、唐突に耳に飛び込んできた。
思わず、男の子から受話器を奪うようにして掴み、右耳にあてる。
深い地中の土管から何者かが這い上ってくるように、声が徐々にハッキリしてきた。
「保険まで解約して注ぎ込んだんだよ!」絡みつく様な老人の声。
「逃げやがって! 今度見つけたら、刺し殺してやる……!」恨みに唸る老人の声。
「孫に使うはずだったお金を……」老齢の女性の苦渋に満ちた涙声。
「会社に電話しても通じないんだよ」絶望したような、老人のしわがれた声。
「俺の金を返せ! タカハシ!」腹から搾り出すような老人の悲鳴に似た叫び。
沢山の老人達の怒りの声がぐるぐると渦巻いている。
どの声もいつも長々と喋っていく、常連の老人達、一人一人の声にそっくりだった。
高橋さんは固まったまま、一言も聞き漏らさぬように右耳を欹《そばだ》てていた。
ふいに反対の左の受話器から、いつもの如才ない課長の声が聞こえてきた。
「もしもーし。もしもーし。あれ? いなくなっちゃったかな?」
両耳に受話器を当てた不思議な姿勢のまま、
「は、はい、あの……すみません」
へどもどと返答すると、来週からあの高級マッサージ機の性能を手軽な家庭用に改良した、『小型健康器具』の販売を開始すると言われた。
「一台五十万円で五人限定です。頑張れますね? 高橋さんなら皆さんを幸せに出来ると信じてますよ」
そう言ってすぐに話は終わった。
まだ右耳にあてたままの受話器から聞こえてくる老人達の怨嗟の声は、啜り泣きと号泣と言葉にならない悲鳴に変わって、段々と小さく遠ざかっていく。
いつ消えたのか、あの男の子はどこにもいなくなっていた。
強くあて過ぎて痺れてしまった右耳からも受話器を外し、震える手で戻す。
最後にもう一度、受話器を取って耳にあててみたが、ただ暗闇のように無音だった。
次の日、重い足を引き摺って、高橋さんは会場に出勤した。
いつものように、既に開店前から商店街には老人の列ができている。
熱い健康茶を飲み、ビタミン入りの健康サプリを摘んで、無料マッサージ機に乗るという新しい生活習慣を老人達に刷り込んだのは自分だ。
「高橋さん、みてみて! 僕の出席簿! 真っ赤な満鑑飾《まんかんしょく》だよ!」
常連の中でも特に熱心に通ってくれる、上品な老紳士が来客カードを差し出す。
赤い旗印のスタンプを来店するたびにカードに押して、客同士で来店数を競わせるように仕向けたのも自分だ。
「金を返せ」と叫んだ凄まじい声は、この人だった。
「俺だって、ほら、ちょっと見てよぅ! 高橋さーん。ふふふっ」
毎朝必ず一番に並び、ヨダレを垂らさんばかりに擦り寄ってくるこの人の、「刺し殺してやる」という言葉は脳裏から離れない。
高橋さんを取り囲む、老人達の笑顔を前に、全身が勝手にガクガク震えてきた。
その日の午後、来週から販売する『小型健康器具』の搬入に社員が来ると、高橋さんは泣きながら訴えていた。
「……辞めさせてください。私はもう…たぶん……無理です」
呆気に取られている営業社員に店舗とレジの鍵を押し付け、逃げるように会場を出た。
三ヶ月固定の短期パートだったが、途中で自己都合の退職をした場合は違約金を支払う契約で、その後振り込まれた金額は、たったの数百円だった。
しばらくして会場の様子を恐る恐る見に行ったが、跡形もなく、全て消えていた。
元の閉店店舗のシャッターが固く降ろされ、吊るされた電力会社の通知が入ったビニール袋だけがフラフラと風に揺れていた。
会社はどうなったのかと確認のために、空で暗記をしてしまった本部の番号へも電話をしたが既に使われていない番号だとアナウンスが流れるのみだった。
高橋さんはこの商店街と駅前には、二度と近寄らないことを決め、隣市に引っ越してしまった。
それから、十年の年月が経ったある年末の深夜だった。
遠方の仕事先からの帰り道。疲労のあまりに寝過ごした最終電車の終点で駅員に揺り起こされた。驚いて降り立った場所は、なんとあの駅だった。
選りにも選って、と忌々しく思いながら改札を出て、駅前広場を見渡す。
もう最後のバスも出てしまった暗い駅前は、人気もなく閑散としていた。
客待ちタクシーも出払っていて、ロータリーで動くものは何もない。
だが、蛍光灯の明かりの下に佇む、あの公衆電話だけは、まるで時間が止まったかのように何も変わっていなかった。
高橋さんは、あの天使の公衆電話の前まで行ってみた。
すべすべとした緑色の電話機は昔のままだ。
冷たい受話器を外して、意を決して、恐々と耳に当ててみる。
何も聞こえない
当たり前の事だと、自分で自分がバカ馬鹿しくなり、苦笑が漏れる。
(もう、あの頃の老人達もほとんどが亡くなっている頃だ。それに何もかも気のせいだったのかもしれない。あの男の子も幻だったのではないか?)
そう自嘲しながら受話器を戻し、タクシー乗り場に歩き出そうとすると。
突然、作業着姿の若い男が、ひょこっとやって来ると、隣の公衆電話から電話をかけ始めた。髪の長い、痩せて子供っぽい二十歳くらいの若者だった。
なぜか高橋さんはその場から離れ難いような心持ちに変わっていた。
昔のあの男の子のことを思い出したせいかもしれない。
「もしもし。あ、はい、作業終わりました」
かつての自分と同じ、会社への報告だろうか。
だが、急に若者の声が狼狽したように変わった。
「はい? えっ? 何ですか? 」若者は怯えた声を出す。
「満艦飾《まんかんしょく》の血判状ですか? それが?」
嫌な言葉が聞こえてきた。マンカンショクのケッパンジョウ?
「満艦飾の、はい、絶対にやる。ぜったいにですね。深くサシコロスですか?」
真っ直ぐに前を向いたまま、若者は微動だにせず発音した。
冷たい機械音声のように繰り返す。
「ゼッタイニ逃さない、はい、逃さナイ。ゼッタイに。タカハシ」
高橋さんは、「ひいいいいいっ」と悲鳴を上げた。
逃げようともがいても、両足が公衆電話の前に、釘打ちされたようにビクとも動かせない。腰が抜けたようになり、地面に手をついて泣きながら震えた。金縛りのように体の自由が利かなくなっている。
若者は会話を続ける。
「コロスまで逃さない。ここで会ったが百年目だ、ヒャクネンメだ、ニガサない」
そう言って、空いている右手をヒュン、ヒュンとナイフを握ってでもいるかの如くに振り回した。空を切る手が、高橋さんのまつ毛の先を掠める。
〈プップーーーウ! プップーーウ!!〉
その時。突然、どこからか、激しい車のクラクションが鳴った。
途端に若者は、ハッと我に返った様子に変わった。
「ああ? あれ? なんだ? あれ?」
受話器を握ったままの自分の手を見て、怪訝そうにしている。
そのまま、高橋さんをチラっとみたが、酔っ払いの中年女が地面にだらしなく座り込んでいるのだとでも思ったのか、見て見ぬふりをすると、受話器を戻して行ってしまった。
ロータリーにいつの間にか停まっていた、白い軽自動車から
「おい! 早くしろよ!」
と声がする。
急ぎ足で戻ってきた若者を拾うと、軽自動車は急発進で走り去った。
エンジン音が遠ざかると、また無人のロータリーは静まりかえった。
腰が抜けた様になっていた高橋さんも、やっと夢から覚めた気分だった。
だが、起きあがろうとしても、足が萎えて立ち上がれない。
仕方なく、公衆電話の台に取り縋って立ち上ろうとすると、ヌルリと手が滑った。
思わず手をみると、ネバネバとした黄色い痰の様な。
ゲル状のものがベッタリとついている。
「なにこれ?」
ひどい生臭ささに思わず呟くと、『天使』の電話の受話器から、ベチョベチョとした液体が流れ出しているのがわかった。
嫌な予感がして、急いで立ち上がろうとすると、
〈ドバッ!!!!〉
受話器の下の送話口から、凄まじい量の液体が噴き出して、高橋さんの口に狙いを定めた様に飛び込んできた。
思わず、オエッと痰のような臭い液体を吐き出す。
「高橋さーん。ずうっと寂しかったんだよ」
電話機のハンドルに掛かったままの受話器から声がした。
黄色い液体を噴出させながら……声がする。
(これは刺し殺すと言った、あの老人の声だ)
「高橋さんは、急に居なくなるんだもん。ひどいよねえ」
高橋さんの顔に目がけて、またネバネバした液体が吹きかかる。
「だから、ずうっと待ってたんよ。いつも、あんた。この電話、使ってたでしょう?」
吐いても、吐いても液体が口を狙ってくる。
鼻にも目にもべちゃべちゃと纏わり付く。
体の自由は全く利かず、手で拭うこともできない。
「だからねえ。俺、この受話器をいつも舐めてたんだわ。大事に、大事にねえ」
もう、老人の声は受話器ではなく、自分の口の中からも聞こえる。
「俺、かわいそうに。俺、凍えて死ぬまでこの電話の前で待ってたんよ。高橋さん……」
声にならない絶叫が、痺れる様な痛みと共に高橋さんの喉から噴き出した。
はるか遠くで、
〈おい、あんた! なにやってる!〉
という別の声が聞こえた様な気がした。
だが、高橋さんの意識はそこでブツリと切れた。
気がつくと、高橋さんは病院にいた。
鼻から息もできず、顔の感覚もなく、口は麻痺していた。
医師によると、あの公衆電話の前に座って、受話器で自分で自分の顔面を何度も殴りつけているのを、タクシーの運転手に発見されたという。
上下の前歯は全て折れ、鼻も頬骨も複雑に骨折して陥没していた。
「……今思えば、催眠商法の片棒を担がされていたのよね。二、三ヶ月で高齢者を食い物にしては、名前も場所も変えて移動していく悪徳商法の。でも、騙されたって最後まで気がつかない人の方が多いって言うからね。あのまま働いていたら、私も会社と一緒に自然に逃げられたのかな?って思ったり」
高橋さんは、この話を聞かせてくれた後に、その公衆電話のある駅名を教えてくれた。
「……今もその公衆電話はあるのよ。逆に、刺し殺されてた方が楽だったかな」
そう言って笑った高橋さんは、最後まで絶対にサングラスとマスクは取らなかった。
今はリニューアルされた、その駅に降り立ってみた。
駅前広場にいる観光客達がスマートフォンを手に談笑している。
もう公衆電話の存在に目を止めるような人は、一人もいない。
だが、もし大きな災害が起こったら最後まで繋がる電話は公衆電話だけだと言われている。
時代の奔流から外れた公衆電話が使われるのは、そんな時ばかりなのかもしれない。
そんな厄災の日が来ないことを祈っているのか、それとも待っているのか?
『天使』と『悪魔』、二台の公衆電話は、今もひっそりと寄り添うように、この街角で生きている。