小女が走っている。
夜の浜辺だ。
足取りは弾んでいるが、息遣いは聞こえない。
息が上がる程でもないのか、潮騒にかき消されているのか。
いずれにせよ聞こえてはこない。
表情は夜の闇に紛れて、よく見て取れない。
ただ、闇に浮かび上がる程真っ白な肌、真っ赤な口元は不愉快なほど吊り上がっている。
小女のすぐ目の前、カタカタと動く人形があった。
もう直ぐ手が届く。
『遊んでくれない悪い人形は、バラバラにしなきゃダメなんだよね』
ほら。
捕まえた。
厳太はベッドに寝っ転がって、スマホの画面を見るともなく見つめていた。
なんとも蒸し暑い、真夏の夜だ。
特に今日は格段に暑い。
趣味と合わせて、多少の涼をとるためにYouTubeの怪談系動画を見ながら、自然にまぶたが落ちるにまかせている。
スマホの時計は午前2時過ぎを表示していた。
やっと寝苦しい暑さにも勝る眠気が来たようだ。
スマホを持つ手が、うつらうつらとするまぶたに合わせて、ぱたり、ぱたりと倒れる。
このボロアパートの一階、103号室に、ひと月程前に引っ越して来て以来、週に何度か、ちょうどこの時間帯におかしな事が起こる。
今夜もやはりそうだった。
窓の外、微かにズル、ズル、と衣服の擦れる音が、厳太の鼓膜をくすぐった。
(来た)
寝返りを打ち、ほぼ閉じかけているまぶたの間から、カーテン越しに窓を見た。
うっすらと照らす街灯の光を背に受けて、黒い塊が、カーテンにぼんやりとその輪郭を浮かび上がらせている。
と、次の瞬間、黒い輪郭の中央に微かな光が灯った。
これまでであれば、その薄明かりを伴った黒い影は、窓から勝手に入ってくるのだった。
だが今夜は違った。
意を決して、自分から迎え撃つ事にしたのだ。
黒い塊が部屋に入ってこようとする瞬間、勢いよくカーテンを開けた。
そこには目を見開いた男の顔が小さな光を受けて浮かび上がっていた。
「うわっ!」
声を上げたのは厳太では無かった。
黒い塊が、小さなベランダのフェンスに寄りかかって、腰を抜かしていた。
「あのよぉ、玄関ってもんがあるの、知らないの?」
厳太はまだ寝ぼけてはいるものの、口の片隅を上げながら、闇に浮かびだされた男の顔に向かって言った。
「いきなりカーテン開けんなよ、ビビるだろうが」
浮かび上がった顔の男、がライトの灯ったままのスマホで厳太の肩を叩いた。
「玄関に回るの遠いからメンドくさいんだって」と、悪びれる風も無く、靴を脱ぎながら、手慣れた様子で窓をまたいで部屋に入ってきた。
誰かが見れば、不審者として通報されかねないこの男【望月裕(もちづきひろし)】は、この部屋の主である【上野厳太(うえのげんた)】と同じ大学に通う3年の同期である。
裕は浪人していたから1つ年上だが、この二人は入学当初から非常にウマがあって、時間が合えば常につるんでいる。
趣味も合った。
お互いに【バカ】がつく程のオカルト好きで、オカルトサークルを立ち上げる程であった。
厳太が引越して来た部屋が、裕のバイト先の通勤経路にあることから、バイト終わりにはいつもこうして立ち寄っているのだ。
「厳太、海行こうぜ」
「・・・バカなの?今何時だと思ってんだよ」
「ちげーよ、来週ヒマだ、つってたろ?穴場のキャンプ場見つけたからさ、バーベキューしに行こうぜ、部長も来るってさ」
裕の言う部長とはオカルトサークルの部長で、4年生の【角田(すみだ)ゆき】の事である。
二人と同じゼミにいる、先輩である。
ゆきは、この二人が入学して早々に知り合った。
オカルトは嫌いじゃないと言ってしまった事で、二人の口車に乗せられ、オカルトサークルの部長に仕立て上げられてしまった。
当の本人はといえば、二人から色々とオカルトにまつわるディープな話を聞ける事もあり、案外まんざらでもないようである。
ゆきの卒業祝いを兼ねて、泊まりで遊ぼうという事であった。
「てか、この部屋暑くね?」
「うん、エアコン壊れた」
「じゃあ、なおさら海行こうぜ?」
「う〜ん、そうすっか」
そういう事になったのである。
早朝、三人はゆきの車にテントと、バーベキューセットを積み込んで、千葉県の太平洋側にある海岸へ来ていた。
ここはビーチを兼ねたキャンプ場になっており、小綺麗なトイレも完備され、トイレの外壁には簡易的なシャワーもついている。
海水浴客は彼ら以外にも数組はいたが、シーズン真っ只中にもかかわらず、この静けさは、裕の言う通り、穴場中の穴場であった。
だが、穴場である事にはそれなりの理由があった。
地元では、いわく付きのスポットなのだという。
以前、裕が怪奇現象のリサーチをしている時に偶然見つけた場所で、密かに目を付けていたのだった。
日中、男二人はさんざん肉を食い、泳ぎまくった。
日が暮れる頃には、既にアルコールも入り、怪談や都市伝説の話題に華が咲いた。
気づけば、夜もとっぷりと更け、三人以外には誰もいなくなっている。
「じゃあ、心スポ突すっか」
裕はバーベキューの火を消すと、明かりの消えた漆黒の海を背に、満を辞してこのキャンプの本題を切り出した。
この浜辺から歩いて数分の場所、とある廃屋の一軒家が例のいわく付きなのだと言う。
いわく、とはこの様な事らしい。
昭和の中期、その一軒家に住んでいた少女が、殺害された後、バラバラの状態でこの海に捨てられていた事件があった。
犯人は見つかっておらず、数十年経った今も未解決になっている。
後年、その少女の霊の目撃者が多数あり、しかもその霊を見ると死んでしまうと言うのだ。
だが、このような話はオヒレが付きやすいもので、【見たら死ぬ】などとは三人とも信じてはいなかった。
そんなウワサが現地の住民に広まったせいで、このビーチは地域のホームページや観光サイトなどに載せられる事もなく、結果、穴場になっているのだ。
それでも元来、そういった類のモノが好きで集まった三人である。
ゆきも怖がりではあるものの、多少酔いが回っている事もあり、気が大きくなっている。
腰が上がるまで、さほどの時間は掛からなかった。
くだんの廃屋から帰ってきた三人は、酔いと疲れも相まって、それぞれのテントに入って休む事にした。
ゆきは一人で、裕と厳太は一緒のテントである。
裕と厳太は、このいわくの元になったバラバラ殺人事件の考察やら、取り止めのない話で盛り上がっている。
と、裕がポケットをまさぐり出した。
「やべ、スマホ落としたかも・・・」
「やべーじゃん、カバンの中とかは?」
「うーん・・・、あっ、多分あの家だ」
「そっか、じゃ、オレ寝るね」
「ちょちょちょ、厳太さん厳太さん、マジ、一緒に行こうぜ、一人は流石に怖いって」
「ちっ、しょうがねぇなぁ」
二人がテントから出ると、すぐ隣にある、ゆきのテントに声をかけた。
「部長、スマホ落としちゃったみたいなんで、厳太と探しに行ってきますね」
「えー、マジで?私も行こうか?」
「あ、大丈夫っスよ、多分あの家の中だと思うんで、でももし俺たちが呪われて帰って来なかったら、これが最期の言葉です、今までありがとうございました」
「はいはい、気をつけてね」
簡単に言葉を交わした。
例の家に着くと、幸い、スマホはすぐに見つかった。
入ってすぐの居間に落ちていたのである。
「おぉ、良かったー、ラッキー」
裕は心霊スポットに似つかわしくない、歓喜の声を上げた。
「じゃあさっさと帰るべ」どちらともなく、こんなセリフが出てくる。
二人がテントに戻ると、ゆきのテントは開け放たれていた。
二人が覗き込んでみると、ゆきの姿はなかった。
あらかたトイレにでも行っているのだろう。
幸い、ゆきは貴重品などは車内にしまって、鍵を掛けていた事を思い出した。
しかし他に宿泊者は居ないにしろ、随分不用心ではある。
トイレの時間だけ、あえて開けっぱなしにしているのかもしれない。
二人はこのままテントに戻るのも忍びないので、見張りがてら、目の前のバーベキューコンロにまた火を灯して、ゆきの帰りを待つ事にした。
他愛のない話をしながら残っていた酒を飲んでいる。
二人ともおしゃべりは好きな方だから、話題はころころ変わりながら、キャンプファイヤーさながら時間は過ぎていった。
だがおかしい、自分たちが帰ってきてから、もう小一時間ほど経過している。
さすがに心配になり、裕はトイレに様子を見に行った。
火の番をしている厳太の元へ小走りで帰ってくる。
裕一人で。
「ゆきさん腹でも痛いって?」
厳太が声をかけると、「いや、いなかった」
コンロの小さな炎の明かりでも、焦りの色が浮かんでいるのは容易に見てとれた。
二人は近くに停めてあるゆきの車も覗いてみたが、やはり居ない。
隠れている様子もなかった。
電話をかけてみると、着信音が聞こえた。
音をたどってみれば、ゆきのテントの中、置き去りにされたスマホが、行方の分からぬ主人を呼び出していた。
散歩に出掛けて、怪我でもして動けなくなっているのだろうか。
二人は手分けして付近を捜索したが、見つからなかった。
まさかと思い、念の為、例の家も見回ったものの、やはりここにもゆきの姿はなかった。
テントに戻ってきた頃には、既に水平線の向こうは微かに白らみ始め、周囲を青黒く染め上げていた。
もう待っていても仕方がないので、警察に通報することになった。
到着した警官に事情を説明する。
事情聴取を終えた頃にはもう正午を回っていた。
ゆきの車は証拠品として警察が預かると言う。
二人はじくじたる思いで、帰宅の途につく事になってしまったのである。
夏の太陽は、二人にだけ、くっきりと冷たい陰を落としていた。
【角田ゆき】
卒論作成に勤しんでいる時、裕からキャンプをしようと誘われた。
卒業すれば、この三人で出かける事もほぼないであろう、二人とは違い、元々ゆきは真面目な性格であったので、卒論も順調に進んでいる。
二つ返事で、キャンプの計画に付き合う事になった。
車を持っているのはゆきだけで、二人は免許は持っているがペーパードライバーだったから、ハンドルは握らせなかった。
両親から内定と卒業祝いにと、軽自動車を買ってもらったばかりであったから、事故はないにしろ、擦られるのも嫌だった事もあった。
部長として一肌脱いでやるか、といったところだ。
目的地へ近づくにつれ、海の香りが増していくと同時に、大学最後のサマーバケーションの期待は膨らんでいく。
車の窓を開けると、潮の香りと夏の匂いとが混ざり合う風が、ゆきのショートボブの毛先を爽やかに揺らした。
裕から聞いていた通り、穴場のキャンプ場だった。
男どもは肉を食うか泳ぐかで、はしゃいでいる。
将来子供ができたら女の子がいいな、と思うばかりであった。
そんな折の夕刻、心霊スポットに行こうとなったのである。
歩いて数分程の距離にある廃屋が目的地である。
廃屋に着いてみれば、おそらく先客達のせいで、玄関や窓も壊され、荒れ放題になっている。
落書きなどもかなりの数だ。
散乱するガラス片に気をつけつつ入っていく。
入ってすぐ、ゆきは居間のテーブルに無造作に置いてあった、ある物に目を奪われた。
「ちょっと、これ見てよ、もしかして裕君仕込んだ?」
居間に置かれていた新聞を何気なく見ると、いわくの元になったバラバラ殺人事件の記事が書かれてあったのだ。
気味が悪くなり新聞を閉じると、そこには少女の顔があった。
が、首から下が無かった。
頭部のみが、ゆきを見上げていたのである。
目があるべきの場所には、漆黒の穴が空いている。
何も無い目と、ゆきの目が合った。
「きゃっ」
声を上げ、尻もちをつく。
悲鳴を聞いた裕と厳太は咄嗟にゆきの方へライトを向けた。
そこには少女の姿をした、薄汚れた小さな人形が転がっているばかりだった。
その人形は、首と両腕両足が引きちぎられた状態でうち捨てられていたのである。
テントへ戻ると、ゆきは先ほどの事を思い出しては、やはり見間違いであろうと思う事にしたのである。
見間違いにしても、やけにリアルだった。
頭の中から追い払おうと、無理やり別の事を考える。
頭を軽く振って忘れようとした矢先、声が掛かった。
裕がスマホを落としたと言うのだ。
一緒に探そうとしたのを制されると、裕と厳太の足音が遠ざかっていった。
まぁ、男二人だし、スマホを落とした場所も目星が付いているらしいから、大丈夫なんだろう。
酔いも回っているし、帰りの運転の事もあるから、先に寝かせてもらおうと思い、眼を閉じる事にした。
眼を閉じながら、卒業の事、就職の事、あの二人の将来はどうなるんだろうか、など、そんな事で頭の中を埋め尽くす。
少女の顔を思い出さない様に。
と、足音がかすかに聞こえてきた。
あぁ、帰ってきたんだな、と思うと同時に、違和感をも覚えたのである。
足音は一人分、いや、それよりも足音自体が妙だ。
成人男性のそれではない。
もっと体重の軽い、小さな存在。
直感的に、女の子が走ってくるイメージが浮ぶ。
その足音は、テントの前で止まった。
世界を静寂が包む。
静寂に反して、心臓の鼓動は痛いほど速まっていく。
これは付近の子供だ、きっとそうに決まってる。
そう思えば思うほど、うらはらに鼓動はさらに強くなる。
静寂は。
破られた。
最悪の形で。
「おねーちゃん、あーそーぼー・・・」
心臓が凍りつく。
次の瞬間、四方からテントを無数の手で叩かれた。
心臓と共に身体までも恐怖で硬直する。
テントを叩く音は鳴り止まない。
ゆきはついに、恐怖に負けた。
外へ飛び出し、そのまま駆け出した。
否定しがたい現象が起こった。
とにかく、この場から逃げなければ―――
波打ち際を走った。
あの少女の足音が後ろに付いてくる。
何処へ向かうのかわからない。
とにかく力の続く限り走って逃げなければ。
それでもあの足音は、すぐ後ろに迫ってくる。
突然、もんどりを打って倒れ込んだ。
逃げねば。
右脚を立て、起き上がる―――
起き上がろうとした右脚が、空を切った。
さらに倒れ込む。
倒れた拍子、後ろが見える。
少女が、いる。
あの家で見た少女だった。
尻もちをつきながら後退りをする。
身体がうまく動かないのは、恐怖からくるものばかりではなかった。
左脚の隣にあるべきものがなかった。
少女の足下、脚が転がっていた。
女の脚だ。
反射的に自分の脚を見た。
右脚があるべき場所には何も無かった。
鼠径部から先が―――
無い。
思考が、止まる。
『遊んでくれない悪い人形は、バラバラニシテ、ステナキャダメナンダヨネ』
ゆきの意識は、この言葉を聞き終えるまで持たなかった。
【望月裕】
あれから1ヶ月程経った。
厳太に伝えなければ。
アルバイト先のファミリーレストランのレジ前で、会計と時計を気にしている。
バイトは休むはずだった。
店長から電話が来るまでは。
今日のシフトの子が来ない。
裕はアルバイトではあるが、店長補佐を任されている。
数時間前の事。
裕は大学のサークルの部屋で、ノートPCを食い入るように見つめていた。
画面には、あの浜辺で起こった事件の記事と、それに関する様々な投稿が映し出されている。
千葉県で発生したバラバラ殺人事件。
被害者、生崎亜倭子(きざきあわこ)9歳。
昭和38年8月15日21時、両親が外出から帰ると亜倭子の姿がなく、警察の捜索の結果、自宅付近の海岸線で首と両手脚を切断された状態で発見された。
容疑者は亜倭子の自宅付近に住む【村元研司(むらもとけんじ)】(28歳)とされたが、事件発生日以降、行方不明。
現在においても未解決となっている。
数ある胡散臭い投稿の中、核心に迫っているかもしれない投稿を一つだけ見つけた。
亜倭子の呪いは連鎖する。
連鎖を断ち切ることが出来た、と書かれていた。
確証は得ていない。
真偽を確かめなければ。
そんな矢先の電話だった。
このバイトは、身体で反応出来るほどこなしてきた。
冷静に今回の件を分析するには丁度良かったのかもしれない。
会計を済ませた客に挨拶をして頭を上げると、先ほどまで聞こえていた店内のBGMや客の話し声が聞こえない。
ふと周りを見渡せば、先程までまばらにいた客が消えている。
客だけではない。
自分以外、誰もいないのである。
理由を考えるよりさきに、店の窓に眼を奪われた。
見慣れた外の景色ではなかった。
店内が反射して写っているわけでも無い。
見たことのない、室内の景色が写っている。
それも白黒だ。
窓の全面に映り込む映像が少し動いている。直感的に、誰かの視点であると感じた。
この景色、和室の居間、この少女の人形、微かに見覚えがある。
ここは―――。
裕の記憶の中、どこであるかはっきりと浮かび出される前に、視点が振り返えった。
男が立っている。
自分を見下ろす様に立っている。
突然、視点がブレる。
ゆっくりと天井を見上げた。
すると、窓に映る映像は、だんだんと暗くなっていく。
映像が消える間際、先ほどの男が覗き込んできて、何かを呟いていたが、聞き取る間もなく、窓の映像は真っ黒になり、消えた。
裕が茫然としていると、不意に名前をよばれた。
声の方向を振り向いたが、誰もいない。
続けざま、また名前を呼ばれた。
声は裕の足元から聞こえた。
目線だけ徐々に下に向けた。
ゆきだ。
床にゆきが横たわっているのである。
いや。
ゆきだったモノがそこにあった。
首と両腕、両足がいびつな形で転がっている。
全て、胴体についていなかった。
ゆきの顔をした頭が、うつろな目で裕を見上げ、「ヒろしクん、あーソーボー」
次の瞬間、裕は叫び声をあげ、店から駆け出した。
厳太のところに急がなければ。
店のすぐ目の前にある踏切は、遮断機が降りていたが、止まっている余裕はない。
遮断機のポールを跳ね上げ、くぐり抜けた。
本来なら自転車で来ていたが、従業員用の駐輪場は店の裏手にあったせいで、そこまで行く余裕など毛頭なかった。
急いで厳太に伝えなければならない。
どこをどう走ったのかわからないほど焦り、恐れおののいていた。
無理もない、ゆきがバラバラの状態で裕の名を呼んでいたのだ。
力の限り走った、脚も腕もちぎれるかのように重い。
痛みと言っていい程だった。
やっと厳太の部屋の前に着いた。
普段なら窓の前の柵も一息で飛び越えられるが、手足が疲労のせいでうまく動かなかった。
なんとか柵をまたいだものの、脚が引っかかり、ベランダに転げ落ちた。
窓を開けようとしたが、こんな時に限って施錠されていた。
厳太開けてくレ
呼ぼうとしたが、喉もちぎれるような痛みで声が出ない。
窓を必死で叩く。
その拍子で鍵が外れたのか、カチリと小さな音がして、窓が少し開いた。
窓を開け、重くきしむ身体を引きずりながら、まさに転がり込んで中へ入った。
倒れ込んだまま顔を上げてみれば、厳太は布団を頭まで被って眠ているのか、布団がこんもりとした形で盛り上がっている。
なんとか這い寄ると、布団が勢いよく跳ね上げられた。
そこにいたのは厳太ではなかった。
人間程の大きさの、ボロボロな人形だった。
途端、人形はムクリと起き上がり、裕に覆い被さってくる。
裕は反射的に人形を突き飛ばすと、人形の頭と四肢が外れ、ばらばらと床に転がった。
ちクしョウ、厳たマでどこニいッたンダ
裕は薄れゆく意識の中、そんな事を考えていた。
【上野厳太】
大学のゼミの間、後ろで学生同士の噂話が耳に入った。
その内容はこうだ。
最近、近くの踏切で電車に轢かれて亡くなった人がいたらしい。
しかも、轢かれた衝撃で、頭と四肢がバラバラになってしまったそうだ。
裕の姿を見なくなってしばらく経った。
当然、夜中に窓を叩かれることも無くなった。
居ても立っても居られなくなり、裕が勤めていたバイト先に聞き込みに行った。
夕食どきであったから、店員は忙しそうだ。折を見て、ベテランそうなおばちゃんの店員に声をかけた。
「あの、すみません、僕、望月裕の友達なんですが、最近こちらに来てませんか?」
先ほどまでニコニコと愛想良く対応していたおばちゃんは、裕の名前が出ると、急に表情を曇らせた。
それと同時に、客席から離れ、奥まった場所へうながされたのだ。
おばちゃんの行動に一抹の不安を覚えると、その理由はすぐに、厳太の想像を超えた形で判明する事になった。
「あの日、一緒にお店にいたんだけどね、裕君、突然叫び声を上げたかと思ったら、そのまま走ってお店を出て行ってしまったの、どうしたのかと思って追いかけたのよ。そしたらね、電車が来てるのに踏切に入っちゃってね、ホントにいい子だったのに」
その後のことはあまり覚えていない。
いつの間にか部屋に戻っていた。
裕が、死んだ。
ふと大学で聞いた噂話を思い出していた。
あれが裕だったなど、考えたくもなかった。
裕の実家も親の電話番号も知らない。
なす術もなかった。
厳太は布団に潜り込んだものの、布団の隙間から、カーテンの閉まった窓をただ見つめる事しかできなかった。
いや、窓を見ている訳ではない。
視線の先に窓があっただけで、焦点は合っていなかった。
どれくらい時間が経ったのだろう。
眼は開いているが、思考は止まっている。
すると、窓の向こうでガサガサと音がした。
もう冬だ、窓は閉めて鍵もかけてある。
窓際に置いた時計は午前2時過ぎを示していた。
この時間。
以前であれば、裕が来ていた頃合いだ。
そう脳裏によぎった矢先、
バンバンバン。
窓を叩く音が響く。
厳太の焦点が、窓の一点に注がれる。
布団の隙間から見えるカーテンの向こう、うっすらと照らす街灯の光を受けて、黒い塊が見えた。
次の瞬間、ぼんやりと小さな光が浮かび上がると、確実に鍵を閉めていたはずの窓は、カラカラと小さな音を立てて開いた。
裕。
ではない。
厳太の全身といわず、えもいわれぬおぞけが走った。
思考より先に身体が感応した。
おぞましいモノがそこにいる。
声を出す事はできなかった。
それどころか、身体も動かない。
恐怖ゆえ、目を閉じることも、視線をそらすことすらも出来なかった。
目の前で起きる光景を、ただ見させられていた。
窓とカーテンの隙間からぼとり、ぼとりと音を立て、何かが落ちる。
その何かがぞりぞりと寄り集まり、歪な黒い塊となった。
その塊が這い寄ってくるのである。
グネグネとぎこちない。
バラバラになった人形のような動きだ。
なおも這い寄ってきたそれは、布団の隙間の小さな視界から消えた。
いる。
視界の外に確実にいる。
と、源太の視界が黒一色に染まる。
アレに覗き込まれた。
反射的に布団を跳ね退け、後ずさった。
厳太の目の前にいたのは、かつて裕だったモノだった。
【亜倭子】
昭和の中期、千葉県の海岸沿いに住んでいる少女がいた。
両親は夕方頃に出かけて行ってしまった。
町内の寄り合いがあると言う。
亜倭子は寄り合いから帰ってくる時のお土産のお寿司が好きだった。
居間で両親が帰ってくるまで、人形で遊んでいた
玄関で扉が開く音が聞こえた。
帰ってきたのかと思ったが、やけに早い。
振り返って見るとそこにいたのは、隣に住む青年だった。
手には大振りのナタが握られている。
亜倭子はこの青年と遊ぶのが好きだった。
青年は色々な人形を持っている。
その人形達で遊ぶのが好きだった。
だが最近、両親からこの青年と遊ぶ事を禁止されてしまっていた。
幼い亜倭子に理由はわからなかったが、言いつけは守った。
久しくこの青年とは、まともに顔を合わせる事もなくなった。
その青年が目の前に立っているのである。
亜倭子が声をかけようとした矢先、青年のナタがひらとひるがえり、半月の孤を描いた。
亜倭子は、何故自分が天井を見ているのかわからないまま、視界が暗くなっていった。
視界が完全に黒くなる間際、自分を見下ろしていた青年の顔がぐぐっと寄ってきた。
「亜倭子ちゃん、なんで最近遊んでくれないの?悪い人形はバラバラにして捨てないとダメなんだよ」
青年の言葉は最後まで聴き取る事は無かった。
―後日―
たまに、お兄ちゃんやお姉ちゃん達が家に遊びに来てくれるようになった。
決まって亜倭子が好きな、人形遊びをしてくれるのだ。
だが、遊んでいると、お兄ちゃん達はすぐ居なくなってしまう。
お人形もバラバラになって壊れてしまうから、ステナキャイケナイ。
今日は、短い髪のお姉ちゃんと、お兄ちゃん二人が遊びにきてくれた。
「オネーチャン、アーソーボー・・・」
ー完ー