「福沢君の家の思い出」

投稿者:かわしマン

 

河村さんという四十代の男性が小学六年生の時に体験した話し。

 七月の下旬、明日から夏休みという一学期最後の日。授業は半日だけ。ホームルームが終わり、通知票や夏休みの宿題として手渡された計算ドリル、上履き、給食着を詰め込んでパンパンに膨れ上がった、いつもよりずっしりと重たいランドセルを背負って教室を出ようとした河村さんのもとに、担任である女性教諭が白い紙袋を手に持ってやって来た。すると「河村君にお願いがあるんだけど」そう言った。

 そのお願いとは、不登校で学校に来ていない福沢君の家に行って通知票を届けてくれないかというものだった。
「先生この後沢山やらなけゃいけないお仕事が残ってて夜遅くまでかかりそうなのよ。河村君の通学路の途中に福沢君のおうちがあるでしょ?だからお願いできる?」
 担任は申し訳なさそうな表情でそう言った。
河村さんは気が進まなかった。できれば断りたかった。
 福沢君は学校にまだ登校していた時に、数々の奇行で騒動を巻き起こしていた男の子だった。河村さんは福沢君の事が少し怖かったのだ。

 福沢君は給食の時間、パンは食べずに、パンを包装していたビニールの方をむしゃむしゃと食べ始めたり、授業中顔を真っ赤にして意味不明な事を突然叫び出したり、トイレの個室に何時間も立て籠ったりした。そういった奇行はいつも前ぶれなく突然に始まった。それまでおとなしく普通に過ごしていたのに、何かに取り憑かれたように発作的に始まるのだ。そんな様子を見たクラスメイトの誰もが戸惑い凍りつくしかなかった。
 次第に福沢君はクラスの中で浮いた存在になっていった。誰もが福沢君と関わるのを避けた。そうしているうちに福沢君は学校に来なくなった。福沢君が不登校になったのは五年生の十月からだ。だからそれ以来、半年以上福沢君の姿を見ていなかった。

 河村さんも福沢君との関わりを避けた。でも、それと同時に福沢君に対して同情的な気持ちも多分に持っていた。福沢君の奇行は恵まれない、可哀想な家庭環境が原因なのだろうと子供心に気づいていたからだ。

 福沢君の両親は福沢君が三年生の時に離婚した。母親は実家に戻り家を出ていった。父親のもとで福沢君は二歳下の妹とお祖母さんと共に暮らしていた。しかしその父親が突然亡くなってしまう。福沢君が四年生の時だ。
 父親は大型トラックのドライバーをしていたそうで、その仕事中深夜に立ち寄った高速道路のパーキングエリアから高速道路の本線へと飛び出し、走行していたトラックにひかれて亡くなったのだそうだ。
 父親のトラック内にはビールや酎ハイの空き缶が残されていた。酩酊状態ゆえの事故だと断定されたという。しかし、いくら酩酊状態だったとしても本線に飛び出すだろうか。自殺だったのではないか。そう噂もされていたそうだ。

 父親が亡くなって母親が福沢君と妹を引き取るかと思いきや、母親は引き取りを拒否したという。理由は分からない。ともかく福沢君は妹とお祖母さんと三人で暮らすことになった。食事の用意や家事など、福沢君と妹の身の回りの世話は父親の姉である伯母さんが家に毎日来てやってくれているという事だった。生活費はどこから出ていたのか。それは不明だった。

 河村さんはまだ福沢君の奇行が始まる前に福沢君の家に一度遊びに行ったことがある。
 その時お祖母さんは穏やかに出迎えてくれた。妹も元気いっぱいだった。家の中も片付いていて、綺麗だった。テレビゲームで遊んだ。
 福沢君は河村さんが家に来たことを凄く喜んでくれて、学校でも先生にその事を話していた。もしかしたら先生が自分に通知票を届ける役目を託そうとしたのも、その事が頭にあったからじゃないか。河村さんはそう思った。

「通知票をおうちの人に渡すだけでいいのよ」
 担任の困ったような表情を見て、断りきれずに河村さんは渋々了承した。
 河村さんは通知票と数枚のプリントが入った白い紙袋を担任から受け取った。明日から夏休みだというワクワクとした高揚感溢れる気持ちから一転して憂鬱な気持ちになった。

 学校を後にすると、白い紙袋を手に持ち、ひとりで福沢君の家に向かってとぼとぼと歩いた。足取りは重かった。真っ青な空と入道雲の色鮮やかさがかえって憂鬱な気持ちを増幅させた。
 このまま福沢君の家に寄らず帰って、お母さんに渡してきてもらおうか。一瞬そんな考えも浮かんだが、お母さんならきっと、自分が頼まれた用事なら自分で責任持って渡してきなさい。そう言うに違いないと河村さんは思った。その頃、もうすぐ中学生なんだからしっかりしなさいと怒られる事が多かったのだ。頑張って自分で渡しに行こうと河村さんは決めた。
 一度遊びに行ったときは何も変な事は起こらなかったじゃないか。きっと大丈夫。福沢君も少しの時間なら変な事をしないだろう。そう河村さんは自分に言い聞かせた。

 学校から歩いて十分ほど行った住宅街。人通りも車の往来も少ない狭い道をはさんで両側に、二階建ての一軒家が建ち並ぶ静かな一角。そこに福沢君の家はあった。

 福沢君の家も周りの住宅と同じような、なんの変哲もない二階建ての一軒家だ。インターホンは玄関扉の横にある。門を開けて階段をひとつ登り、インターホンを押した。反応がないのでもう一回押すと、家の中から「はーい。今行きますね」という女性の声が聞こえた。そして玄関扉が開いた。中年の女性が姿を現した。その女性は河村さんの顔を見るなり目を見開いて「もしかしてヤスオのお友達?」そう聞いてきた。
 ヤスオとは福沢君の名前だ。河村さんは通知票を届けに来ましたと言って女性に紙袋を差し出した。しかし女性はそれには目もくれずに「どうぞ中に入って入って」そう言って外にいる河村さんの腕を掴んで家の中へと引っ張り込もうとした。

 河村さんは面食らった。手渡したらすぐに帰るつもりだったのだ。女性の勢いに負けて河村さんは家の中に入った。女性はさっと玄関扉を閉めた。外の光が遮断されて家の中が薄暗くなった。 この女性が福沢君と妹のお世話をしている伯母さんなのだろうか。何か自分の言葉がこの女性にはまったく通じていない気がして、河村さんの胸は不安でいっぱいになった。
 もう一度河村さんは通知票を届けにきましたと、女性に紙袋を差し出した。しかし女性はそれを無視して「さぁ遠慮しないで上がってくださいね。ヤスオも喜ぶわ」と言った。この女性には取り付く島がない、これは直接福沢君に渡さないと駄目かもしれない。そう思った河村さんは家に上がらせてもらうことにした。
 靴を脱ぎ、お邪魔しますと小声で言って河村さんは福沢君の家に久々に足を踏み入れた。

「今こっちの部屋にヤスオはいるのよ」そう言って女性は家に上がってすぐ左手にある襖を開けた。
 広い和室。立派な仏壇が目に飛び込んできた。仏間だ。仏壇に向かい、座布団の上で正座している福沢君の後ろ姿があった。顔は見えない。
 福沢君は手を合わせてお祈りをするような格好をしているようだった。そしてなにやらブツブツと呟いている。いったい何をしているのだろう。
 河村さんは福沢君に、「先生から頼まれて通知票を届けにきたよ」と声をかけた。
 福沢君は河村さんの声が聞こえていないのか、それとも無視しているのか、河村さんに答えずに手を合わせてブツブツと何かを呟き続けていた。
 福沢君のそんな姿を見て怖くなった河村さんは、紙袋を床に置いて、そそくさと退散しようとした。

「通知票ここに置いておくからね。じゃあね」
 河村さんがそう言って紙袋を床に置こうとしたその瞬間、
「怪獣が来る!怪獣が来る!なんまいだ!なんまいだ!助けて!助けて!」
 そう福沢君が大声で叫んだ。思わず河村さんの体が驚きでびくっと一度だけ痙攣した。そして身が強ばった。その場から逃げ出したいのになぜか足が動かなかった。
 福沢君は両手をごしごしと強く擦り合わせていた。
(ごしごしごしごしごしごし───)
 両手を擦り合わる音が仏間にこだまして、不気味な雰囲気がより一層強まった。
 すると福沢君の頭がゆっくりと回転を始めた。 人間の身体的な動きとしてはあきらかに不自然な回転の仕方だった。すうっと滑らかに、まるでろくろが回るようだった。もうこれ以上は回転出来るはずもない首の可動域を超えると、百八十度回った所で福沢君の頭が止まった。福沢君の顔が河村さんの方を向いた。あり得ない状態だった。背中の側に顔がある。
 河村さんは福沢君と目が合った。福沢君はにこっと微笑むと「河村君いらっしゃい!ゲームで遊ぼう!」そう言った。
 河村さんは絶叫した。(よくわからないけど、とにかく逃げなくちゃ!)そう思った河村さんは紙袋を放り投げると、福沢君に背を向けて部屋から出ようとした。素早く後ろを振り向くと、そこには河村さんを家の中に引き入れた女性が立っていた。女性は、
「ヤスオ、ゲームのやりすぎでああなっちゃっのよ。ごめんなさいねぇ」
 そう言うとゲラゲラと笑った。
 河村さんはなんとか頑張って足を動かすと、女性の横をすり抜けて玄関に向かい、靴を急いで履いて家を出た。そこから全速力で走って自宅に帰った。

 その日は恐怖で生きた心地がしなかった。自分の見た物が信じられなかった。いったい福沢君はなんであんな事になってしまったのだろう。理解出来なかった。
 自分が見た物を両親や担任に報告した方がいいのか河村さんは悩んだ。悩んだ末、自分の胸にしまっておくことにした。信じてもらえないだろうという諦めもあった。だがそれ以上に、福沢君の家の、触れてはいけないプライベートすぎる領域の事を、口に出して周囲に言いふらすことは決してしてはいけないという気持ちになったのだそうだ。

 それから二、三日は憂鬱な夏休みを河村さんは過ごした。それでもしばらく時間がたってお盆を迎える頃になると、心の平穏を取り戻していた。
 心のどこかに引っ掛かりはあるものの、小学生最後の夏休みは結局楽しい物になった。

 そして夏休みが終わり、二学期最初の日。河村さんは登校し教室に入ると心臓が飛び出そうになるほどに驚いた。福沢君の姿があったからだ。
 福沢君はおとなしく一番前の一番ベランダ側にある自分の席に黙って座っていた。誰かが福沢君の席はそこだと教えてあげたのだろうか。他のクラスメイトたちは特に大騒ぎすることもなく、福沢君が登校している事を普通に受け入れている様子だった。
 福沢君に話しかけている生徒もいた。福沢君はごく普通に受け答えしていた。あの日、福沢君の家で見た福沢君と同じ人だとは信じられないくらいの落ちつきだった。

 始業式の日も授業は半日だけだった。
 ホームルームが終わりさぁ帰ろうかと教室を出て廊下を歩いていると、河村さんは誰かに後ろから肩を叩かれた。後ろを振り向くと福沢君が立っていた。河村さんはぎょっとしたような顔と体の反応を隠せなかった。福沢君は少し悲しそうな表情で「一緒に帰らない?」そう言った。
 河村さんはできれば福沢君の事は避けたかったが、途中まで同じ通学路を歩いて帰るのに、断るのも悪い気がして了承した。
 周りにまだ他の生徒もいてその目もある。冷たいやつだと思われたくないという気持ちもあった。

 二人並んで歩く。しばらくは二人とも押し黙って何の会話も発生しなかった。
 学校を出て五分ほど歩くと、福沢君はきょろきょろと周囲を見渡した。他の生徒が周囲にいないことを確認している様子だった。
 確認が終わると福沢君が口を開いた。

「河村君、通知表を届けてくれてありがとう」
 福沢君の口調はとても落ちついていた。河村さんはただ戸惑うばかりで言葉が出てこなかった。福沢君は河村さんの言葉を待たずに続けた。
「怖い思いをさせちゃってごめんね。あの日僕は二階の自分の部屋にいたんだよ。自分の部屋は仏間の上にあるから、仏間の音や声はよく聞こえてくるんだ。河村君が見たのはもう一人の僕だよ」
 河村さんは福沢君が何を言っているのかさっぱり理解出来なかった。福沢君はさらに続ける。
「もう一人の僕がたまに家に出てくる。あれが何なのか僕も分からない。河村君を助けに行きたかったけど、あれが出てくるときは自分の部屋に閉じ籠ってないと駄目なんだ」
「そ、そうなんだ……」河村さんはそう相槌を打つのが精一杯だった。
「本当に河村君ごめんね。この事は誰にも言わないでね」
 河村さんは福沢君の顔を恐る恐る見た。真剣な眼差しで福沢君は河村さんを見ていた。
「あの時、家にいた女の人は誰なの?伯母さん?」
 河村さんは震える声で福沢君に質問した。怖かったがその事を確認しなければいけないと思った。
「あの人はもう一人の伯母さん。でも本当の伯母さんとはだいぶ顔の作りが違うみたい」
 福沢君は口調をまったく変えずにそう言った。
 河村さんにあの日の恐怖が蘇った。いったい自分はあの日、何と話して何を見たのだろう。とんでもない薄気味悪さに河村さんは気分が悪くなった。

 気がつくと福沢君の家の前まで来ていた。
「じゃあねバイバイ」
 そう言って手を振ると福沢君は家の中に入っていった。河村さんは福沢君の家を眺めた。外から見ればごく普通のどこにでもある何の変哲もない一軒家だ。それは変わらなかった。

 河村さんが福沢君の姿を見たのはその日が最後だった。
 福沢君は次の日からまた学校に来なくなった。
 小学校を卒業し、河村さんと同じ地元の公立中学に福沢君も進学したが、福沢君は引き続き不登校となり、一回も姿を見せることはなかった。
 高校は別になった。と言っても福沢君が高校に進学したか、またその後どうしてるかは分からないという。
 二十代後半の頃、実家に帰省した時に、河村さんは福沢君の家の前を通る機会があった。表札は別の苗字に変わっていたそうだ。

 

得点

評価者

怖さ鋭さ新しさユーモアさ意外さ合計点
毛利嵩志151510101565
大赤見ノヴ191717171787
吉田猛々161617161883
合計5048444350235

 

書評:毛利嵩志
福沢君の家での出来事、そこから「真相」を知らされたときの不可解さ、後が気になる幕切れなど、説明が簡潔かつ表現力も非常に巧みで、容易に絵が浮かびました。

書評:大赤見ノヴ
最高点付けさせて頂きました。主人公に自分を投影させてみた時に1番怖かったからです。ちょっと変な子の家に1人で行く、知らないおばさんの狂気じみた言動、福沢君の異様な行動、どれをとっても気持ち悪くて怖かったです。最後の「あの人はもう一人の伯母さん。でも本当の伯母さんとはだいぶ顔の作りが違うみたい」なんだよ、これ!w

書評:吉田猛々
気味の悪い読後感と共にたくさんの謎に興味をひかれましたね。前のめりになった所を放り出されるというか、とてもリアルな怖さがそこにありました。福沢君が祈っていた対象とは?伯母さんの存在?そして妹は?お祖母さんは?、そんな無数のクエスチョン。掴めない恐怖感、痛快なお話でした。