住宅地の耐震化率の調査なんです――と、説明会の席であのグレースーツの男性は言っていた。四十代半ばくらいだろうか、穏やかな物腰の感じの良い人だったが、悪ふざけで何か塗っているのかと思うほどに顔色が真っ白いのに最初はぎょっとした。
国土地理院の委託事業だという説明は、確か求人ページにも書いてあった気がする。大震災の記憶も新しい時期だったし、大手サイトに掲載されていたバイトだったので疑いもしなかった。
数枚の写真スライドを見せられた。一軒の古い家が、前後左右あらゆる方向から撮影されていた。
「こんな風に、住宅の規模にもよりますが六枚から十枚、おうちの全容が分かるように撮影していただきます」
登録した住所の近辺で依頼があると、メールでマップアプリの位置情報URLが届く。それに基づいて三日以内に、対象の住宅の写真を自前のスマホで撮影する。画像データを指定のアドレスに送信すると、翌日付で謝礼――なんと一軒につき三万円だ――が振り込まれる。依頼は不定期で、月に一、二件ほどという説明だった。当時の俺のような実家住まいの大学生の小遣い稼ぎとしては、十二分に美味しい仕事だった。
駅前のボロい雑居ビルの貸会議室に集められた応募者は、俺を含めて十人。子育ても一段落したので……といった雰囲気のおばさんがふたりいたほかは、みんな同世代の学生に見えた。うち何人が採用されたのかは知らない。
顔の白い男は業務内容の説明の最後に、
「採用にあたって、リスニングの試験があります」
と言って、全員にCDを一枚ずつ配った。量販店で十枚入り五百円とかで売っているたぐいの、プラスティックのケースに入った何の変哲もないCD-Rだ。
「皆さん、ご帰宅されたらこちらを聴いていただいて、再生される質問への回答をこちらの電話番号まで口頭でお知らせください」
それで説明会はお開きだった。
変な試験だとは思った。家屋調査のバイトでリスニングテストというのがそもそもよく分からないし、口頭でパッと答えられるくらいの内容ならこの場で一斉にやれば良いものをわざわざCDを焼いて渡して、自宅で聴けというのも謎だ。
引っかかりはしながらも、「お役所が絡むと色々非効率なこともあるんだろう」と勝手に納得して帰った俺は、さっそくノートパソコンでCDを読み込んでみた。MP3ファイルが再生される。――しかし、音量を最大にして、イヤホンで耳を澄ませても何の音も入っていなかった。
ファイルが壊れているのだと思い、教えられた電話番号に問い合わせることにした。
電話口は若そうな女性の声だった。社名を言われたので、名乗って事情を説明する。
『では、何の声も聞こえなかったということですね。承知しました。試験は終了としますので、お手元のCDは破棄してください』
録音のように淀みない口調でそれだけ言われ、電話は切れた。なんだそりゃ。つまりそっちのミスなのに不採用ってことか? と腹が立ったが……翌日、『採用のお知らせ』というメールが届いたのはいよいよ意味が判らなかった。
そして一週間後、依頼のメールが来た。指定された住所は俺の家から自転車で十分ほど、真新しい建売住宅が並ぶエリアの一角だった。ポーチにチャイルドシートを載せた電動自転車とピンクの三輪車が並ぶ、ごくありきたりな狭い二階建ての家。玄関先のポストには「藤本」とあった。
塀のない角地に立っていたので撮影は楽だった。ぐるりと回りこみながら家の外観を写真に収めていく。十分もかからずメールを送信し、家の住人や近所の誰かに見咎められることもなく仕事を終えた。翌日にはちゃんと、説明会の日に紙に書いて提出した銀行口座に入金があった。
しかし結局、「依頼」が来たのはその一度だけだった。
二か月ほど経って、そういえば仕事が来ないなと思い出してメールを送ってみた。エラーで返ってきてしまう。例のテストの時の電話番号にかけてみたが、そちらも『現在使われておりません』になっていた。
求人サイトの募集ページも削除されていた。社名で検索しても、いくつかのサイトに掲載されていた、既に消えている求人ページのキャッシュが引っかかるだけだった。
――架空の会社だった、ということなのか。
ならば国土地理院がどうのとの話もデタラメだろうが、しかし、実際に「依頼」があり、報酬が支払われたことが不気味だった。目的を偽り、他人にある家の外観を写真に撮って送らせる。興信所か何かだったのか、あるいは空き巣や強盗の下見? 接近禁止命令を受けているストーカー? 思いつくことはあっても、かなり手間と金がかかっているだろうやり方に対してチグハグに感じられた。
気にかかって、藤本家を見に行ってみることにした。自分でも何だか判らないながら、住人にこのことを伝えた方が良いように思ったのだ。
自転車を走らせ、くだんの住宅地までやってきて俺は絶句した。
家がない。
藤本家が立っていた場所は、黒土が剝き出しの更地になっていた。
怖くなって、逃げるように自転車を漕いだ。
「写真のせい」という言葉が、ずっと頭の中をぐるぐるしていた。
十年近く経った今でも、あの白い顔の男を夢に見ることがある。
俺は実家の自分の部屋にいて、ふと窓の外を見ると、あの男が柔和な笑みを浮かべながら、スマホをこちらに構えて写真を撮っているのだ。
*
「……いや先輩、なんですかその話」
固まってしまった場の空気をほぐそうと、私は努めて明るく言葉を差し込んだ。
いつもふざけているお調子者の浅野先輩から、こんな気味の悪い話が飛び出すとは思わなかった。破顔し「嘘だよ」と言ってくれるのを待ったが、彼の表情は昏く沈んだままだった。
残業や出先からの戻りで、何となく帰りが遅れた同士での特に目的もない飲みの席。一番後輩の田部君が切り出したちょっとした昔の失敗談から「今までにやったことがある変なバイト」の話題になり、それまでは楽しく盛り上がっていたのだが。
「なんかヤな話っスね……」
田部君も、ぬるまった飲みさしのハイボールを置いたまま、困惑した様子だ。
それきり全員が押し黙った。
――重苦しい沈黙の後、声を上げたのは派遣の小泉さんだった。
「それ私、聞いたことあります」
「えっ?」
私たち三人とも、小さく手を挙げている彼女を向く。
「闇バイトっていうんですかね。不動産詐欺が関わってるって、ちょっと前にニュースになってましたよ」
「不動産、詐欺?」
浅野先輩がオウム返しする。思わぬ単語だった。はい、と小泉さんは頷いて、
「売りに出てる家とか土地を探せる、不動産屋さんの検索サイトってあるじゃないですか。そこに載ってる情報をコピペして、偽のサイトを作るんです。で、物件の値段は本物よりちょっと安くしておくわけです」
「なるほどね。物件名で比較検索して『こっちのサイトの方が安いじゃん』って飛びついてきた客がターゲットなんだ」
田部君も膝を乗り出す。
「うわなんかそれ、俺も家電の通販とかで似たような話、聞いたことありますよ」
「ですです。それで、客から前払いの手付金だけ振り込ませてドロン、って手口です。別の会社のサイトなのに物件の写真まで同じだと不審がられるから、それだけはコピペせずに人を雇って撮影させるわけですよ」
それが、浅野先輩のバイトだったということか。
「その藤本さんって家が更地になってたのは、だからたぶん、二か月の間に元の本物のサイトの方で土地が売れたからってだけだと思いますよ」
みんな、小泉さんの講釈に聞き入っていた。まるで、サスペンスドラマの解決篇みたいだった。
浅野先輩など、憑き物が落ちたような顔をしている。
「そっか……そういうこと、だったんだ」
呆然と言って何度もひとり頷く浅野先輩に、小泉さんは、
「もしかしたら悪い人に協力しちゃったのかもしれないですけど、それでも少なくとも藤本さんちに関して、浅野さんが気に病むことは何もないと思いますよ」
全員分の会計を出して晴れ晴れした顔で帰っていった浅野先輩と、家が近所だという田部君を見送り、ふたりきりになってから私は小泉さんに水を向けた。
「そんな詐欺のニュース、聞いたことないけど」
ややあってから、小泉さんがふっ、と笑う。
「咄嗟の作り話にしては、よくできてたと思いません?」
後ろ手を組んで、夜の闇の中に大股で歩き出して小泉さんは言う。
「だって可哀想じゃないですか。十年経っても、あんなに鮮明に喋れるくらい浅野さんは傷ついてて、怯えてたんですよ。私、あの人嫌いじゃないんで」
やはり、先輩を慰めるためにあんな話をしたのか。
「ま、先輩がご機嫌になったおかげで俺らも飲み代が浮いたし、小泉さんの作り話のおかげで良いこと尽くめだな」
「じゃあ、」
小泉さんがこちらに向き直って、言った。
「せっかくだからついでにもう一つ、私の作り話を聞いていきません?」
私の大学時代の友達も、変なバイトをやってたんです。
それがね、「家の模型を破壊する」ってバイトだったんですよ。彼もネットで見つけたって言ってたかな。
月に一回、日は固定じゃなかったけど呼ばれるのは決まって夜で、拘束時間は一時間足らず。それで一回五万円ももらえたんだそうです。
駅前から迎えの車に乗ったら、三十分くらいかけて山の中の、プレハブの倉庫に連れてかれるんです。運転手は毎回、同じ人で……詳しくは聞かなかったけど、「なんだか人形みたいな人」だったって言ってました。
で、八畳くらいのガランとした室内に入ると、そこにずらっと十軒くらい「家の模型」が置いてあるんですね。
何分の一なのかな? それが床に置かれて膝丈くらいの、けっこうな大きさの模型なんですって。薄い木の板を組んで作られているそうで、それをどんどん壊していくのが仕事なんだと言ってました。
住宅の構造強度を確かめるための実験の一環なんだと、説明を受けていたそうです。数年前の大きな震災を受けて、ある大学が始めたんだとか。
でも、友達は疑ってました。模型は確かに精巧な作りでしたが、それは見た目だけで、中はがらんどうの木箱のようなものでしたから、一体これで何を測れるんだと思ったと言いますし、決まりがあって道具の類は使わずに必ず「自分の身体だけで」破壊するよう指示されていたのも意味が判らなかったと。
模型はどれも真新しそうだったのに、あたりの空気が悪いのかいつも細かな灰か土埃のようなものが薄く積もっていて、動かすと煙が舞うのにも閉口したそうです。
ただ、金払いは良かったから何も言わず、その山のプレハブに来ては黙々と、模型を踏み壊していたと言ってました。何か犯罪が絡んでいるようにも思えない内容ですしね。
種類は様々で、お寺みたいな立派な日本家屋もあれば、街中で普通に見かけるような現代的なデザインの住宅もあり、時にはアパートや、学校のように見える大きな建物も混ざっていたと言います。まるでどこかの町を、少しずつ切り出して持ってきているみたいだったと。
壊し終わったら、プレハブに設置されている固定電話から車の運転手を呼び出す手順だったんですって。どこかで待機していたその人がバラバラになった家だったものを確認して、問題なければ手渡しで給料をもらい、そのまま、駅まで送ってもらって終了。
どうです、変なバイトでしょ?
呼ばれるままにずるずる半年くらい続けてたそうなんですけど、ある晩。
いつものようにひとり入ったプレハブで、彼「あっ」って思ったんですって。
並んだ模型の中に、自分の家があったんです。
その子の実家って、お父さんの知り合いの設計士の人が図面を引いたとかで、けっこう変わった外観をしてたらしいんです。だから、間違いようがないと。
ということは今まで壊してきた模型にも、全部特定の、実在のモデルがあったんだろうか……と思ったら、改めて、気味が悪くなったそうです。
そうですよね。たぶん無許可で人の家の模型を作って、それをバラバラに壊すだなんて、誰が何の目的でそんなことしてるのか判らないし。なんだか不吉な感じもするし。
だからその日の帰り、さすがに運転手に聞いたんですって。
「模型にする家って、何か基準とかがあって選んでるんですか?」って。
そしたら運転手は、にっこり笑って聞き返してきたんです。
「どなたか、お知り合いのおうちがありましたか?」
いや知り合いって言うかあの……口ごもったその子の様子を見て察したのか、運転手は柔和な笑みを浮かべたまま、こう付け加えたそうです。
「それはお気の毒でしたが、諦めてもらうしかありませんね」
それだけ言って、後は無言のまま駅で車を下ろされたそうです。その日以来、彼が教えられていた電話番号もメールアドレスも、一切、つながらなくなってしまったとか。
ちょっと似てますよね、浅野さんの話と。
*
それで。私は後を促した。喉の渇きを覚えた。
「その人は、どうなったの?」
「私にこの話をしてくれた時には、『奴らの正体と目的を暴いてやるんだ』と意気込んでました」
小泉さんは淡々と言った。
「あのプレハブの近くでずっと見張っていれば、誰かには行き当たるはずだって。以前、自分のほかにも何人か、同じ『バイト』をしてる人間がいることを運転手から聞いていたようです。何度も行っていてなんとなくの場所は判るから、泊まり込みで待ち伏せてやると」
「それで?」
街灯のあかりが影を落とす下で、それでも小泉さんが顔を苦しげにゆがめたのが判った。
「いなくなっちゃいました」
「いなく?」
私はぎょっとした。小泉さんの首がこくん、と揺れる。
「それきり、誰も連絡が取れなくなっちゃったんです。彼と親しかった子に聞いたら、家までなくなって更地になってた……って」
先の震災から数年後という時期。ネットで募集がかけられたバイト。急に連絡が取れなくなる。人が消え、家が更地になっている。
浅野先輩の話と、確かにディティールが似ている。いや、似ているというより……。
「小泉さんがこれが、ひと続きの話だと思ったんじゃないか。誰かが、何かの目的である家を選び出し、バイトに写真を撮らせる。その写真をもとに家の精巧な模型を作り、それを別のバイトに破壊させる」
消えた彼が言う「人形みたいな人」。その運転手はたとえば――作り物みたいに、顔が真っ白だったんじゃないだろうか。
呪い代行。そんな言葉が浮かんだ。
模型には何か、壊されることで効果を発揮する呪詛のたぐいがかけられていたのではないか。模型が壊された家の住人に危害を加えるような。
「人を呪わば穴二つ、って言いますよね」
私の思考を読んだように、小泉さんが言う。
「だから、そういうやり方があるんですって。誰かに呪いをかける時、ひとりだと受け止めきれない跳ね返ってくる何かを分散させるために――」
そこで言葉を切って、彼女は私を見た。いや。まさか。
「こっちの話をしてたらたぶん、浅野さん、今からでもそいつらが何者だったのか調べようとしたんじゃないかと思うんです」
私もう、仲良い人に消えてほしくないんで――小泉さんがまたふっ、と、消えそうな笑みを浮かべる。
「勝手な想像です。ごめんなさい。聞いてもらっちゃって」
踵を返して足早に夜の闇に向かう小泉さんの白いブラウスの背中に、私は何も言えずただ、立ちすくんでいた。