「マネキンの街」

投稿者:平中なごん

 

 非日常というものは、なにも特別な時間、場所でしか遭遇できないというようなものでもない。

 それは何気ない日常と背中合わせに存在し、ふとした瞬間、なんの前触れもなくその不気味な口を大きく開いて、僕らを丸飲みにしまうのである……。

 これは、そんな日常の中にあったとある平凡な日に、僕が突如として体験した非日常的な出来事である──。

 ざっくりいうと、僕はそこそこ都会でそこそこ田舎な某地方都市で、いわゆるIT関連の会社に勤めているのだが、その日は仕事でちょっとしたトラブルがあり、少し残業してから八時ぐらいに退勤となった。

 まあ、トラブルといっても些細なものだったし、これくらいの残業は日常茶飯事だ。

 電車通勤をしているため、会社を出た僕はいつものように最寄駅へと向かい、またいつものようにちょうど来た鈍行列車へと乗り込む。

 少しいつもと違っていたことといえば、車両内はそれなりに混んでいたものの、幸運にも席が一つ空いていて座れたことだろうか?

 普段は立ちっぱなしのところ、いつになく座ってしまったものだから、心地良い電車の揺れるリズムとも相まって急に眠気が込み上げてくる……きっと今日一日の仕事の疲れも溜まっていたのであろう。

 恍惚にも似た至極の微睡みの中、いつしか僕は居眠りをしてしまっていた。

「……っ!」

 ふと目を醒まし、自分が寝落ちしていたことを認識した僕は、すでに降りる駅を通過してしまったんじゃないかと慌てて周囲を見回す。

 すると、ちょうど電車は駅で停車し、プシュー…とあの独特な音を立ててドアが左右へ開くところだった。

 腰を浮かせて外のホームを覗うと、まだそこは乗った駅の次にある駅だ。

 スマホを取り出して時刻を確認してみれば、乗車してからさほど時間も経ってはいない……長いこと眠っていたように思えたが、どうやらほんの一瞬のことだったみたいである。

「ハァ…………ん?」

 寝過ごしたわけではなく、ホッと胸を撫で下ろす僕だったが、見渡した車両内の状況の変化に今度は不思議な違和感を覚える。

 最初は別に疑問も抱かなかったのだが、僕の席からすぐにホームが確認できたのも、じつはその異変のせいだったりする……。

 ついさっきまでは普通に混み合っていたというのに、今は僕以外、誰一人として乗ってはいないのである。

 みんなこの駅で降りたのだろうか? 

 いや、目覚めたのとほぼ同時にドアが開いたのだし、そんな降りる時間なんてなかったはずだ。

 ならば違う車両へ移った? ……いや、そんなことする意味がわからないし、まずそれもないだろう……では、混んでいたように思える記憶は寝惚けた僕の脳が見せたただの錯覚であり、じつは最初から僕以外乗っていなかったりだとか……。

 なんだか狐にでも抓まれたような心持ちで不思議がっていると、僕しかいないその車両に一人の若い女性が乗り込んできた。

 タイトな赤いワンピースを着た長身のモデル体型で、ミニスカートから覗く長い両脚を颯爽と振り出し、ハイヒールをカツーン、カツーン…と響かせながら車両内を闊歩してくる。

 長い黒髪に欧米人のように彫りの深い顔立ち……カラコンでも入れているのか? 眼も碧いように見える。

 ほんとにモデルさんじゃいかと思えるくらいの、まさに典型的な美人さんである。

 その美女は車両内を数歩進んだ後に、僕とは反対側の席のど真ん中へどかりと腰を下ろす……他に乗客はいないので席は選びたい放題なのだが、僕とはやや斜めに通路を挟み、お互い向き合うような形となった。

 乗ってきたのが超絶美女であったのもさることながら、それよりも何よりも、僕以外に乗客がいたことの方がむしろこの時はうれしかった。

 気づけば自分以外、誰一人としていない電車の車両内……もしや、かの〝きさらぎ駅〟みたいに異界の路線へ迷い込んでしまったのではないか? と、思わず変な妄想をしてしまっていたのである。

 だが、他にも普通に乗客がいて、停車した駅で乗り込んできたということになれば、そんな非常識な心配も無用というものだろう。

 それに、モデル系の超絶美女と夜の電車で二人っきり……やはり男としてはまんざらでもない状況だ。

 このレアなシチュエーションになんだか恋のフラグでも立ったんじゃないかと、我ながら阿呆にも運命的な出会いというのも考えてしまったりする。

 やがて、昇降口のドアがプシュー…と言って閉まり、また電車はガタゴト…とゆっくり走り出す。

 揺れる音しか聞こえない、静かな車両内にいるのは彼女と僕の二人だけ…… 少なくとも今はまだただの赤の他人だし、そんな見てはいけないと思いながらも、やはり気になってチラチラと彼女の方へ視線を向けてしまう。

 そこで図らずも目が合って、そこから二人の恋が始まる……なんて、バカな妄想をまた抱いてしまったりなんかもして……。

 電車が走り始めても、彼女はスマホを弄るでも音楽を聞くでもなく、席についたままの姿でただただじっと座っている……だが、何度かチラ見する内に、それがどうにもおかしなことに僕は気がつく。

 いくらただ座っているだけだからといって、彼女も生身の人間だ。こんな長時間、微動だにしないなんてことがありえるのだろうか?

 もしも居眠りしているのなら、そんなこともなくはないのかもしれないが……彼女は背筋をピンと伸ばしているし、碧い目もパッチリと見開いている……とても眠っているようには思えない。

 僕の中でその疑念は徐々に大きくなってゆき、今度はもっとじっくりと、より大胆に彼女のことを観察してみる……。

 やはり、彼女の眼はしっかりと見開かれ、身じろぎもせずにただじっと前を見つめている……いや、見開かれているどころか、瞬きすらしていないではないか!

 それに、その眼の色には生気がないといおうか、まるで作り物の人形の眼のような感じである。

 また、その顔は文字通りの無表情……硬く強張ったまま、生き生きとした表情がそこにはまったくないのだ。

 さらには生身の柔らかさがまるで感じられない、照明を反射してぼんやりと輝く、見るからに硬質感を漂わせるそのエナメルのような肌……。

「……!?」

 わずかの後、僕は彼女同様に眼を見開いて、唖然と石の如く固まってしまう。

 なぜならば、彼女は生きた人間ではなく、無機質なマネキンだったからだ。

 ついさっきまでは人間だと思っていたのだが、その肌も眼も表情も、明らかにそれはマネキン人形である。

 その赤いワンピースを着た美女のマネキンが、さも人間であるかのように電車の座席に腰掛けているのである。

 いったい何がどうなっている……先程は自分で歩いて乗ってきたし、確かに人間の女性だったはずだ。

 それがいったい、いつの間にマネキンに変身した? ……いや、それとも入れ替わったのか?

 いずれにしても、僕はずっと彼女の前にいたわけだし、こんなこと、常識的に考えてまずありえない話である。

 あまりのことに頭が混乱し、今、自分の置かれているこの状況にまったくついていくことができない。

 だが、どんなについていけなくとも、確かに今、目の前にいる…いや、あるのは一体のマネキンであり、僕はそのマネキンと二人きりでこの車両に乗っているのである。

 激しい驚愕とともに、この異常極まりないシチュエーションに対して言いようのない恐怖を感じ、僕は全身に鳥肌を立てると背中にも冷たいものを感じる。

 マネキンは相変わらず動きはしないが、ただそこに無表情で座っているだけで威圧感があり、なんとも不気味で、そして、なんとも恐ろしい……。

 そ、そうだ! 他の車両になら誰か他に乗客が……。

 今さらながらにそのことへ思い至り、この居た堪れない環境から逃げるようにして、僕はすぐさま立ち上がると後の車両へと早足で向かう……だが、連結部のドアの窓から覗いたそこには、ひとっこひとり乗客のいない、がらんどうの空間が広がっているだけだった。

 遠目に見えるそのまた次の車両にも、やはり人が乗っているような気配は確認できない。

 マネキンのインパクトが強すぎて薄れがちだが、この時間帯にまったく乗客がいないというのも明らかにおかしな状況である。

 空の車両に絶望しながらも、踵を返して今度は前方の車両へとまた早足で向かう……その際にマネキンの前を通り過ぎなければならないのがまた怖い。

「そんなぁ……」

 しかし、案の定ではあったのものの、やはり前の車両にも乗客の姿は一人として見られなかった……そのさらに向こうの車両も同じような有り様である。

 実際に確かめてはいないが、おそらくはすべての車両において、同様に誰も乗ってはいないのだろう……。

 つまり、この一車両どころか全車両を通して、現在、この電車に乗っているのは僕とあのマネキンの一人と一体だけということになる。

 その事実を認識するとよりいっそうの恐怖に苛まれ、僕はガタガタと脚にも震えがき始めてしまう……。

 最後の手段として、一番先頭の車両まで行けば運転手がいるはずなのだが、もし、覗いた運転席の中までがまた空だったとしたら…などと、悪い想像を思い浮かべてしまうとそれも怖くてできない。

 不可解な状況を前にどうすることもできず、僕がただただマネキンを眺めながら立ち尽くしていると、不意にアナウンスが聞こえて電車は次の駅に到着する。

 本来降りる駅はまだ先だったが、こんな所には一秒たりとも長居はしたくない。僕はドアが開くなり、すぐさまホームへと転がるようにして飛び出した。

 そして、その勢いのまま、露天の簡素なホームを走りきると、無人の改札口も素早く突破する。

「…ハァ……ハァ……ハァ……ハァ……」

 駅を出て、肩で息をしながら足を止めた僕は、ようやくにして恐怖から解放されることができた。

 駅構内も含め、相変わらず周囲に人影は見当たらないが、あの電車内のような異様さは特に感じられない……いたって普通の、利用客が少ない小さな無人駅の駅前である。

 この駅で下車するのは初めてであるものの、家の方向はわかっているし、まあ、距離的にも30分くらい歩けばたどり着けるだろう。

僕は息を整えると、家のある方角へ向かって夜の道をとぼとぼと歩き始めた──。

 それからしばらく歩くと、物思いに耽る余裕も出てきたのだろう……歩きながら、先程見たものについて僕はつらつらと考えを巡らせてみる。

 あのマネキンは、ほんとにいったいなんだったんだ?

 心霊現象? だとしても、捨てた人形が戻ってくるとかいう怪談なら聞いたことあるが、こんな人間がマネキンに変わるなんていう話はまるで聞いたことがない。

 ならば壮大なる誰かの悪戯か? いや、そんなことをする意図がわからないし、それにはベガスのイリュージョン並みにマジックのタネも仕掛けも必要になるだろう。

 やはり、どんなに考えてみたところで推理は堂々巡りであり、けっきょく出た結論は〝わけがわからない〟ということだけであった。

「……いや、やっぱおかしくないか?」

 そうしてあれこれと散々無駄に頭を捻ってみた後のこと。ふと、僕はまたしても奇妙な違和感に気づく。

 先刻、あの駅を出てからというもの、ずっと誰一人として人と出くわしていないのである。

 最初は快速も止まらない小さな無人駅だし、周りは商業地区ではなく閑静な住宅街なので、それでこんなにも人通りが少ないのだろうと疑問にも思っていなかったのであるが、それにしたってあまりにも人がいなさすぎる。

 これだけ歩いているというのに、誰にも会わないというのはやっぱり異常だ……これは、さっきの電車と同じ状況ではないのか?

 そんな考えに取り憑かれると、再びじわじわと恐怖が蘇ってくる。

 まさか、本当に〝きさらぎ駅〟よろしく異界へ迷い込んでしまったとでもいうのか?

 と、またもや背筋にゾクゾクしたものを感じ始めていた矢先、暗い夜道の前方から、なにやら人の近づいてくる気配を感じた。

 暗いのでよくは見えないが、点々と電信柱に燈る街灯に映し出されたそれは、どうやらベビーカーを押す若いお母さんのようである。

 よく耳を澄ませば、子守唄のようなものも口ずさんでいるのがかすかに聞こえる。

 となりへ目をやれば、そこは生垣で囲まれた公園になっており、おおかた、ぐずった赤ん坊をあやしに散歩へ出てきたといったところだろうか?

 夜道にベビーカー押して…というのはあまり見ないような気もするが、まあ、子供をあやすためなら別におかしなことでもないのだろう。

 ともかくも、ようやく人と出会えたことに〝異世界へ迷い込んだ〟などというふざけた妄想も一瞬にして消え去り、僕は今度こそ、ホッと安堵の溜息を密かに吐く。

 それでも、もしやまた人と思わせておいてじつはマネキンなんじゃないか…という悪い予感が頭の片隅を過ぎったりもしたが、お互い数歩の距離にまで接近し、街灯の明かりの真下へその人物が入り込むと、その懸念も無用であったことを僕は悟る。

 黄ばんだ電灯の光にはっきりと照らし出されたその人物は、マネキンではなく明らかに人間の顔をしていた。

 やはり20代後半か30代前半くらいの、素朴で家庭的な感じのする若いお母さんである。

「こんばんはぁ」

 それに、値踏みするかのように見つめていた僕を近所の住人や知り合いとでも思ったのか? 向こうから穏やかな声で挨拶をしてくれたりもする。

「あ、こ、こんばんは!」

 僕も慌てて挨拶を返すとさらに緊張感と警戒心を薄れさせ、言い知れぬ不安からも完全に解き放たれることができた。

「お子さんとお散歩ですか?」

 安心して気が大きくなっていたのか? それに人恋しい気持ちも多少なりとあったのだろう……僕はベビーカーを覗き込むと、そんな軽口を思わず叩く。

「かわいいお子さんで……す……ね……」

 だが、しっかりと確認するよりも早く、リップサービスにもそんなお世辞を言おうとした僕は、乗っている赤ん坊の顔を見るなり途中でその口を開けたまま固めてしまう。

 そこに寝かされている赤ん坊は、円な瞳をパッチリと開けたまま、まったく瞬きをしようとはしていない……それにその肌には赤ん坊特有の柔らかさがなく、街灯の明かりを鈍く反射する、硬質なプラスチックの質感をその表面に帯びている……。

 そう……それはマネキンだ。

「こ、これは……」

 唖然とし、僕は無意識にも視線を上げると母親の顔を見返す。

「……!?」

 が、母親の顔を見た瞬間、僕はさらに表情を強張らせ、口ばかりか全身をも硬直させることになってしまう。

 開いたままの作り物の瞳……硬い質感の均一なベージュ色をした肌……一瞬にして、彼女も血の通っていないマネキンへと変貌していたのである。

 そんなバカな! ついさっき挨拶を交わしたばかりだというのに……これではさっきの電車と同じ…いや、それ以上の異常さだ!

 マネキンの赤ん坊をベビーカーに乗せて、夜の街を徘徊するやはりマネキンの母親……その異常な存在を前にして、僕はまたもや前身の血の気が引いていくのを感じる。

「し、失礼します!」

 もう、何がなんだかさっぱりわけがわからず、正常な判断もできなくなった僕は、傍から見れば滑稽なことにもマネキンの親子に頭を下げて、その場から脱兎の如く一目散に駆け出した──。

 それからは無我夢中で、誰もいない夜の街を僕は全速力で走り続ける……。

「──ハァ……ハァ……ハァ……ハァ……」

 そして、もう息が続かなくなるまで走った所で、僕は仕方なくその足を止める。

 激しく肩を揺らしながら傍らへ目を向けると、そこはどこかのアパートの前だった。

 耳をすませば、なにやらテレビの音声のようなものもアパート内かは聞こえてきている……その日常を思わす音がなんとも安心感を与えてくれる。

 その音につられるようにしてよくよく見れば、道路と敷地を隔てる仕切りのブロック塀越しに、アパートの一室から漏れ出した光を朧げに覗い知ることもできる。

 気がつくと僕はブロック塀に手をかけ、背伸びをしてその光源を確かめにいっていた。

 するとその部屋の窓は開け放たれており、中の様子がすっかり丸見えになっている。

 本当はよくないことだとわかっているが、より安心感を求めようとする抑え難い感情から、僕はその部屋の中の様子をこっそり覗き見てしまう。

 その蛍光灯に照らし出された部屋の中では、両親と小学生くらいになる兄妹二人が、テレビを見ながら遅い夕飯の食卓を仲良く囲んでいる。

 今の時刻は九時を回ったくらい。夕飯にしては少々遅いが、父親の帰りを待って、一家揃っての夕飯にしたのかもしれない……家族全員でというのは今時珍しい、ちょっと昭和な香りもする一家団欒の光景である。

 その家庭から溢れ出た光はなんとも暖かく、ノスタルジーすら感じさせる一家団欒の空気感が、恐怖に震えた僕の心を言いようもなく癒してくれる。

「…………?」

 ところが、そんな日常的な夕食風景の中にあっても、僕はまた不気味な違和感を捉えてしまった。

 テレビの音声はずっと聞こえているのに、彼ら家族の会話が一向に聞こえてこない……いや、会話だけでなく、食事をする時に立ててしまう音も何一つとしてしないのだ。

 それもそのはず……よく見れば彼らは微動だにしていない……テレビを点け、夕飯を前にしているのに、この家族は時が止まったかのように固まっているのである。

 ……いいや、固まっているんじゃない。こいつらも全員マネキンだ。

 マネキンの家族がテレビを見ながら食卓を囲み、一家団欒の真似事をしているのである!

 なんなんだ!? さっきからこのマネキン達はなんだというんだろう!?

 僕以外に人間は一人もおらず、代わりにマネキン達が人間の真似をして暮らしている夜の街……意味不明な言いようのない不気味さに、またもゾクゾクと背中に冷たい怖気が這い上る……。

「う、うわあぁぁぁぁーっ…!」

 今度はもう声を大にして悲鳴をあげ、静かな夜の街に絶叫を響かせながら、僕は一目散にその場から逃げ出した──。

「──ハァ……ハァ……ハァ……ハァ……っ!」

 どれだけ走った後だろう? 前方に一際煌々と、暗闇に明かりを放つ建物が見えてきた。

 コンビニだ。コンビニから漏れる照明の光である。

 もしかしたら、また人ではなくマネキンがいるかもしれない……でも、今度こそ本当に生身の人間に会える可能性だって充分にありうる。

 僕はその明かりに一縷の望みを託し、走る勢いのままにコンビニへ飛び込んだ。

「…ハァ……ハァ……ハァ……ハァ……」

 自動ドアを潜ると、あがった息を落ち着かせながら忙しなく店内を見回す……。

 いた! 今度こそ普通に人がいる! しかもいっぱい!

 カウンターでレジを打つバイトの子に、その前で会計をしているOLっぽいお姉さん、雑誌コーナーで立ち読みをしているガテン系の兄ちゃんや、弁当を選んでいるらしきスーツ姿の中年サラリーマン……店内のあちらこちらでそれぞれがそれぞれに、人間らしい行いを各々が為しているのである。

「よかっ……た……」

 ようやく生きた人間に出会えて、今度こそ肩を撫で下ろそうとした僕だったが、安堵の言葉を言いかけた途中でそれが早合点であったことに気づく。

 一見、生き生きと日常の暮らしを送っているように思えた彼らであるが、まるでその何気ない日常の一コマをカメラで切り取ったかのように、全員がそのポーズのままピクリとも動かないのである。

 ……そうなのだ……彼らもやはりマネキンなのだ……そのマネキン達があたかも百貨店のショーウィンドウか何かのように、この照明に照らされたコンビニ内を展示ケース代わりにして、生活感溢れるスタイルで絶妙に配置されているのである。

 再三に渡る安堵から絶望への急転直下……恐怖と混乱に心が完全に打ち砕かれ、僕は脱力して呆然とその場にただただ立ち尽くす……。

 と、その時、動かないはずのマネキン達の首だけが、突然、ぐるんと回転して一斉に僕の方を振り返る。

「ひっ……!」

 瞬間、僕は恐怖のあまり意識を失った──。

 次に気づいた時は、自宅のベッドの上だった……。

 すでに夜は明けており、窓から差し込む柔らかな陽射しに壁掛け時計を見てみると、早くも出勤時間が迫ってきている。

 昨夜見たあれは、全部夢だったのだろうか?

 ……いや、そんなことはない。

 目醒めると出勤時のスーツ姿のままベッドに倒れ込んでいたし、どこをどう帰って来たものかわからないが、あの後、自力でなんとかここまで逃げ帰ってきたのだろう。

 もしかしたら、あまりの恐怖に脳が記憶を消したのかもしれない……人が極度の恐怖に晒された時、脳は心を守るためにそんな記憶喪失を引き起こすというような話を聞いたことがある。

 だとしたら、あれはいったいなんだったんだろう?

 昨夜はお酒も飲んではいないし、酔っ払って見た幻覚というわけでもなさそうだ。

 やはり、さっぱりわけがわからないということしか僕にはわからない。

 その後、身支度を整えてからとりあえず会社へ出勤し、帰りは昨夜同様、ビクビクしながらもいつもの電車へ乗り込んだのだが、車内は普通に混んでいたし、あのマネキンの女と出くわすようなことももちろんなかった……。

 それ以降も今日に至るまで、あのように奇妙な現象はもう二度と起きてはいない。あの夜の体験一度きりである……。

 あのマネキン達はいったいなんだったのか? なぜ僕はあの日、あの異常極まりない世界へ迷い込んでしまったのだろか?

 いくら考えてもいまだにその答えは見出せないが、あれが夢でも幻でもなく、実際に僕が体験した出来事であることだけは確かである。

 ああ、最後に一つ付け加えると、もちろんあれ以来、僕はけっこうなマネキン恐怖症である……。

 

得点

評価者

怖さ鋭さ新しさユーモアさ意外さ合計点
毛利嵩志101010101050
大赤見ノヴ161715151679
吉田猛々171816161683
合計4345414142212