まだ携帯なんて便利なものがなかった頃。
友人二人と共に、廃墟集落へ行った時の話だ。
俺と、友人の佐島と安達の三人は、オカルト好きの廃墟マニアだった。
あちこちの廃墟に出かけては撮影するのが趣味で、日帰りできる範囲の有名どころな廃墟は大方行きつくしていた。まだ行ったことのない廃墟はないものかと考えていた矢先、佐島が変わった話を持ち出してきた。
「ちょっと遠いけど、朝早くに出れば何とか行けるかなと思って……M沢集落」
佐島の話はこうだ。
隣県の山奥、M沢の限界集落。
数世帯しかない狭小集落が、ダムの建設工事によってダムの底に沈むことになった。
数少ない住民は誰一人反対することなく、ダムの建設は速やかに決定した。だが住民が全員退去した後も、予算の都合など色々事情があったのか、なかなか着工するに至らず、十年経った今になってようやく工事が行われることになったのだという。
「工事が始まったら立ち入りが規制されるから、今のうちに行ってみないか?」
「え、面白そう! 行く行く!」
初めて聞く話にマニア心をくすぐられ、俺と安達は二つ返事で食いついた。
そうして次の休日に、三人で久しぶりの廃墟探索に出かける約束をした。
そして当日。
天気は快晴、絶好のドライブ日和だ。
俺の車に佐島と安達を乗せ、地図を頼りに運転すること数時間。迷いに迷ってようやく、山間を縫う細い林道の奥の奥、鬱蒼とした山間の沢、M沢集落の入り口にたどりつく。集落への道は車の立ち入りができないよう閉鎖されていたので、沢の手前の空き地に車を停め、そこから徒歩で移動することになった。
「ここが全部ダムの底になるのかぁ……集落の人たち、何で反対しなかったのかな」
新緑がまぶしい林道を歩きながら、安達がぽつりと言った。集落の住人全員がダム建設に異議を唱えることなく、速やかに退去していった、というのは確かに不思議な気もする。
「山奥すぎて不便だから、いい機会だと思ったんじゃないの? ここから町までシャレにならないくらい遠いし」
佐島の言う通り、M沢集落が暮らしにくい土地なのは間違いない。
しかし、だ。
「そこなんだよ。そもそも、何でこんな遠くて不便なとこに住んでたのかって話。ここに住まなきゃいけない理由でもあったのかな」
自分でそう言っておきながら、どこかおかしいなと気付く。
住まなきゃいけなくて住んでいたのに、あっけなく住居を捨てて出て行ったのは、なぜか。
「お、やっと見えてきた!」
安達の声で我に返った。
生い茂る樹々で陽射しが遮られ、深く暗い緑に覆われたM沢集落が、俺たちの前に現れる。まるで門のように二本並んだ大木の向こう、傾いたり苔むしたりしている家屋が五、六軒ほど見えた。
「なあ、これ何だろ」
安達が指差す方を見ると、門のようにそびえる大木の幹に、錆びた釘が何本も打ち付けられていた。釘の根本に板と思しき残骸が見えるので、小さな看板か表札のようなものを打って留めていたんじゃないか、と俺は言った。
「こっちの木にも打ってある」
佐島が別の木を指差す。俺と安達が振り向くと、門の木以外にも同じように釘が打たれていた。
「まあ、わら人形とかじゃないから別にいいけど」
のんきに笑いながら、佐島は二本の木の間を通ってM沢集落の中へと進んでいった。
「分かった、これ結界だよ。住民がいなくなったから朽ち果てて結界が解けちゃったんだよきっと」
いかにもオカルト脳な発言だ。自信満々に言い放つ安達に、ハイハイとうなずいておくことにした。
樹々が厚く覆いかぶさって緑色に染まるM沢集落は、今まで見てきた廃墟とは違う、独特の雰囲気があった。かろうじて残っている五、六軒の廃屋以外にも建物らしきものは数軒あったようだが、みな朽ち果てて倒壊し、草に覆われて森の苗床になっている。
久しぶりの廃墟らしい廃墟にテンションが上がっている佐島と安達は、カメラを手に夢中であちこち撮影し始めた。俺も最初は二人と同様に撮影していたが、ふとカメラを下ろして周囲を見渡した。
静かすぎる。
歩いている時は賑やかだった野鳥の声が、M沢集落に入った途端にぴたりと聞こえなくなった。樹々の葉擦れの音に紛れる、俺たちの足音とカメラのシャッター音以外、物音はない。
廃墟は大好きなのだが、ここは少し毛色が違うというか……とにかく、静かすぎて正直、気持ち悪いところだなと思った。佐島から聞いた話の限りでは、別に心霊スポットというわけでもないのに。
オカルト好きのくせに雰囲気だけでビビッてるのかよ、と佐島と安達に笑われそうで、そこは言わないでおくことにした。
そうして俺たちは撮影しながら、ぼろぼろの廃屋を順繰りに見て回った。
不要なものはすべて置いていったのか、結構な量のがらくたが残されている。床が抜けて草に覆われていたり、崩れた屋根や壁の隙間からツタが入り込んだりして、無常な時の流れを感じさせる。
撮影しながら、俺たちは次第に無口になっていった。最初は笑いながら興奮気味に撮影していた佐島と安達も、M沢集落の雰囲気に圧倒されているようだった。
無言のまま歩き進め、俺たちは集落のいちばん奥にある廃屋へやってきた。草木に覆われ酷く荒れ果てているが、他の建物より幾分広い造りになっている。外観を撮影した後、外れた戸を脇によせて廃屋の中へ入ってみる。
抜け落ちた床、横倒しの棚、割れて散乱する茶碗――朽ちた畳の残骸に生えた得体のしれないキノコを踏まないようにしながら周囲を見回すと、キシキシ、とかすかな音が聞こえる。俺たちが歩く振動で床板か何かが軋んでいるのだろう。
そこで、佐島が声を上げた。
「あそこ」
廃屋のいちばん奥を指差す佐島。ガラクタを踏み越えて奥へ進むと、傾いた柱と分厚いツタに隠れた、細い引き戸を発見した。
「何だろう、物置……ではなさそうだけど」
俺は首をかしげた。ざっと見た感じの間取り的にも物置のスペースとは思えなかった。
見ると、引き戸の周囲を覆っていたツタに、鋭利な刃物で切った跡があった。切られた周囲のツタの一部が枯れている。
「誰か先にここへ来たんだ。わざわざまた隠しとかなくてもいいのに」
安達が手をかけると、戸は音を立てて外れてしまった。というより、すでに外れていて、ただ立てかけてあっただけのようだ。先に来た奴が外してしまったんだろうか。
外れた引き戸を脇に寄せ、三人で奥を覗き込む。暗く狭い板張りの通路の向こうに、鬱蒼とした緑が見えた。
M沢集落には、まだ『その先』があるようだ。
「めっちゃ狭いな……大人一人やっと通れるくらいか」
若干引きつった顔の安達をよそに、佐島はよいしょと言いながら通路へ入った。肝が据わっているというか何というか……俺と安達は目を見合わせ、佐島を追ってもそもそと通路へ進んでいった。
板張りの通路は、板がひび割れてあちこちからわずかに光が漏れているが、朽ちる前は日中でも真っ暗だっただろう。廃屋の裏手へ抜けるためだけにしては、妙な造りだ。
キシキシ、キシ。
先程と同じ音がする。廃屋だけあってあちこち軋むのは仕方ない。
数メートルほどの暗い通路の先は、壊れた引き戸が斜めに倒れていて、沢の緩やかな斜面に繋がっていた。先を行く佐島の後ろに安達が張り付き、道なき道を慎重に歩いていく。
俺は二人の後に続きながら、ふと壊れた引き戸に目をやった。
戸板に靴跡がいくつも残されている――強引に蹴り開けたんだろう。特徴的な太陽のマークが、埃だらけの朽ちた戸板にはやけに不似合いだ。そしてもうひとつ、俺は気付いた。
引き戸には、錆びだらけの錠前が、ふたつもついていた。
通路を作っていながら、なぜ封じる必要があったのか。
「おーい、早く来いよー」
佐島に呼ばれてハッとする。俺は急いで二人を追い、沢を降りていった。見ると、二人は少し先の方で立ち尽くしていた。追いついて二人の視線の先を見ると、岩だらけの沢の一角に建物らしきものが見えた。
岩盤に半分食い込むような造りの小さな建物には、両開きの古めかしい扉がついている。案の定扉は壊れされており、隙間が空いていた。
緑と岩に包まれた廃墟は独特の雰囲気があってマニア的には心躍るものだが、ここは、実に気味が悪かった。さっき集落の中で感じた気持ち悪さが、さらに増したような感じだ。まるで曰く付きの心霊スポットのような嫌な空気を感じて、俺は思わず身震いする。
とはいえ、せっかく見つけたのだからと外観を何枚か撮影しておいた。佐島と安達も何度かカメラのシャッターを切っていたが、すぐにその手は止まってしまっていた。
「現像したら何か色々写ってた、なんてことないよな」
冗談めかして安達が苦笑いする。俺は同じように苦笑いを返すしかなかった。まったく同じことを考えていたからだ。
「それにしても、なんだろうここ……せっかくだから中を撮りたいけど、ちょっと不気味」
「社っぽい造りに見えるけど、何か祀ってるのかな」
安達と二人で扉に近寄ろうとすると、また、聞こえた。
キシキシ、キシキシ。
今、俺たちは建物の外にいる。軋むようなものは、何も踏んでいない。
板の軋みじゃないなら、一体何の音……と思った矢先、佐島が顔を覆ってその場にしゃがみこんだ。
「佐島?」
俺と安達が駆け寄ると、佐島の顔が真っ白になっていた。血の気がないというか、とにかく普通の状態じゃない。大丈夫かと俺が言うより早く、佐島は震える声でつぶやいた。
「ごめん、急に気分が悪くなって……ここで休んでてもいいかな……」
「分かった、無理するな。俺と安達でちょっと中を見てくるよ」
「すぐ戻るから、待っててな」
俺と安達は立ち上がり、岩盤の社に向かった。佐島が苦しそうに息を吐いている――手っ取り早く中を確認して、さっさと切り上げよう。
先程の引き戸と同じく、力業で蹴り開けられた様子の扉をそっと開けてみる。
沢が近いせいか、中は湿度が高く薄暗い。予想通り入り口部分だけが木造で、奥は岩盤をくり抜いただけの洞穴状になっていた。広さは二畳分くらいだが、剥き出しの岩盤がじんわりと濡れていて、異様な圧迫感がある。
「なにこれ……」
岩壁の前に小さな祭壇めいた棚があり、ひどく腐食した金属製の箱が置いてあった。箱に取り付けてあった鍵は、案の定壊されていた。
安達がおそるおそる箱の蓋を取り、脇にそっと置く。蓋に何か書かれていたが、腐食が酷すぎて読めなかった。
箱の中には、和紙を何枚も張り合わせたような固い厚紙が三枚入っていた。紙の表面には黒い糸がびっしり貼り付けられ、その糸をより合わせて箱にきつく結ばれている。色褪せた紙は劣化がひどく全体がひび割れていて、少し力を入れればすぐ粉々になりそうだった。
「これ、もしかして……髪の毛……」
安達が嫌なことを言う――気付かないようにしていたのに。
確かに、それは髪の毛だった。何本か白髪が混じっているのを見て、思わず顔をしかめてしまう。そんな気持ち悪い代物を、安達は唇を嚙みしめながら手に取った。薄気味悪さよりも、好奇心の方が勝ったんだろう。
「こんな厳重に保管するなんて、何が書いてあるんだろ」
「いや、これは保管って言うより……」
『封印』、としか言いようがない。保管するだけなら、髪の毛を貼り付ける必要はないはずだ。
安達がいちばん上の紙を裏返す。そこには『壱』と書かれており、ひび割れがひどいが、かろうじて読むことができた。
できたのだが……
【己の肌を幅三分、長さ一尺半に削ぎ落す。半ばに切れしはやり直し
削ぎし肌を酒一合に浸し、丸一日浸しし後取りいだす。半ばに切れしはやり直し
酒一合は、定めて飲み干すこと
己の歯をひとつ抜き、酒に浸しし肌にねんごろに包みし後、赤い蝋に丸くこはめ、皮珠を作る
小皿に血を数滴落とし皮珠を乗せ、鏡の前に置く。丑の刻になるまでは鏡を見るべからず
丑の刻にならば鏡を見、己のうしろに■■が浮かばば、呪詛は成立す
■■の憑きし呪詛者は畏き力を得る】
「……呪詛?」
壮絶な内容に、背筋が震えた。
しかも『■■』の部分は、なぜか読めなかった。
特に画数が多い漢字ではないのだが、言葉として出てこない。読もうとすると脳内が、今でいうところの『文字化け』を起こす状態、と表現するのが近いかもしれない。
こんなめちゃくちゃな呪詛、何の目的で――生理的な気持ち悪さで困惑する俺をよそに、安達は青ざめながらもカメラを構えた。
一瞬のまばゆいフラッシュと、シャッター音。
「ちょ……安達、こんなの写してどうする気」
そう言いかけた途端、再び。
キシ、キシキシ、キシ。
あの音だ。
「……どこから聞こえてくるんだ……安達、おまえにも聞こえてるか?」
しかし安達は俺の問いに答えなかった。おい、と声をかける間もなく、安達は続いて『弐』の紙を取り出し、裏返していた。俺も思わず、安達の手元に視線が吸い寄せられる。
弐の紙は、壱の紙よりひび割れと破損がひどく、下半分はほとんど読めなかった。
【■■が次の皮珠を欲せば、三夜より内に与ふること
三夜より内に皮珠をしたためられざりしとき、呪詛者は喰はる
喰はるる前に、■■に帰り給ふるには】
読めるのはここまでだ。
安達は先程同様、弐の紙をカメラで撮影する。俺は、声をかけることもできずにいた。
壱の紙には、呼び出すための呪詛。
弐の紙には、帰すための方法。
その肝心な部分が失われているということは、一度『■■』を呼び出したら、帰す術はない、ということなのでは――それは、つまり。
じんわりと、鳥肌が立つ。
キシキシキシキシ。
先程から鳴りやむことなく続いているあの音が、急に強くなった気がした。
最初に聞いた時は音が小さかったので何とも思わなかったが、今鳴っている音は妙に神経に障る。軋みではない、虫の声でもない……今更だが、気になった。
『社の中じゃない……やっぱり外から聞こえる』
俺は振り返り、開けっ放しの両開きの扉から外に目をやった。草むらに座り込んだ佐島が見える。
キシキシキシキシ。
「……ッ!」
俺は口を押さえ、とっさに顔をそむけた。
草むらにだらしなく座り込んだ佐島が、無心に――
歯ぎしりを、していた。
ただの歯ぎしりじゃない。異様なほど高速で、歯がすり減りそうなほど強く、だ。
キシキシキシキシキシキシキシキシ。
真横に首を傾け、まん丸に見開いた目は黒目がやけに大きくて、焦点がどこにも合っていなかった。
今の佐島と、目を合わせてはいけない気がした。
今のは?
あれは何だ?
今のアレは、ホントに佐島なのか?
俺の動揺を遮るように、背後でフラッシュとともにカメラのシャッター音が聞こえた。
とっさに振り返ると、安達が紙を箱に戻すところだった。しまう瞬間、渦巻き状に文字が書かれているらしいのは見えたが、『参』の紙には何と書いてあったのだろう――と思った途端、安達は素早く俺に向き直った。
「早く帰ろ!」
突然大声で叫ぶ安達の顔を見た俺は、ぎょっとした。
「帰ろぉ! 帰ってコレやろぉ!」
安達は、まん丸に目を見開いて笑っていた。さっきの佐島と同様、黒目が妙に大きくて焦点が合っていない。
あまりの衝撃に言葉も出ない俺を素通りし、安達はてくてくと社を出ていってしまった。
「ちょ、安達……!」
俺は安達を追いかけようとしたが、ふと視線を箱に戻した。あいつ、紙は戻したが蓋は開けっ放しのままだ。
今なら俺も『参』の紙を確認できるが、あんな様子の安達を見てしまったら、怖くてそれどころじゃなかった。さっさと箱を閉じて安達を追わなければ……
「あ」
蓋を手にした俺は、蓋裏にも紙が貼り付けられているのに気付いた。箱の中の髪の毛まみれの厚紙とは違う、普通の紙だ。劣化と変色がひどいものの、何とか読むことができた。
果てまで見るべからず
持ちいだすべからず
■■は重ね呼ぶべからず
「……最後まで見てはならない、持ち出してはならない……繰り返し、呼んではならない……?」
悪寒が走った。
箱の中身、三枚の紙を最後まで見た安達は――
「あ、安達!」
箱に蓋をし急いで社を飛び出すと、座り込んでいた佐島を引きずるようにして緩い坂道をずんずん歩いていく安達の背中が見えた。さっき異様な状態で歯ぎしりをしていた佐島は、いつもの表情に戻っていた。
何もかも訳が分からなかったが、今はここから離れるのが先だ。
俺は二人の後を追って坂道を上がり、安達を先頭にして例の暗い通路を抜ける。廃屋から出る間際に安達がガラクタにつまずき、後に続いていた佐島もろともひっくり返ったりもしたが、俺たちは何とかM沢集落を後にして車へ戻ることができた。
「早く帰ろ、帰ろぉ。現像しよ、早くぅ」
帰りの車内、安達はずっとそればかり言い続けていた。カメラを抱きかかえて目を大きく見開いたまま、俺や佐島が話しかけても上の空だ。
重苦しい空気の中、ようやく地元まで戻ってきた頃には、辺りは真っ暗になっていた。待ち合わせ場所まで安達と乗り合わせてきた佐島は、安達を引っ張って自分の車の後部座席に乗せると、運転席に乗り込みながら俺にこう言った。
「おまえは多分大丈夫だから」
「え?」
佐島は俺が聞き返すより早く運転席のドアを閉め、駐車場から出て行ってしまった。
俺はその言葉の意味を、その時は、理解できなかった。
数日後、少々気が重かったが、M沢集落で撮影したフィルムを現像してみた。
深緑に染まるM沢集落の写真を順に見ていく。廃墟ならではの趣とともに、あの日の出来事が脳裏に浮かぶ。そういえば、あれから俺は仕事が忙しくて二人と連絡を取っていない。
安達は大丈夫なんだろうか。そう思いながら写真をめくっていくと突然、真っ黒な写真が数枚出てきた。レンズキャップをしたまま撮影したのかと思ったが、集落に入って以降常にカメラを構えていたので、キャップは外していたはずだ。
黒くなっているのは集落の奥、例の岩盤の社の外観を撮った写真だ。
「……安達」
俺は急に心配になり、安達に電話してみた。
が、いくらかけても、どれだけ待っても、繋がらなかった。
それ以来、安達は忽然と姿を消してしまった。
家族から捜索願が出され、俺のところにも警官が訪ねてきた。
警官は、安達の部屋に血のついたナイフとペンチがあったこと、本人以外の指紋が出なかったので自傷行為をしていたと思われることなどを告げた上で、安達に何か思いつめた様子や、心配事を抱えているようなことはなかったかと聞いてきた。
俺に思い当たる節はなかったが、唯一あるとすれば――俺は警官に、三人でM沢集落に行った時のことを包み隠さず話した。安達が撮ったあの日の写真が部屋に残っているはずだと。
しかし。
現像された写真は、すべて真っ黒だったそうだ。
M沢集落から戻った後、その場で別れた俺は特にそれ以上聞かれることはなかった。おそらく佐島にも話を聞いたんだろうが、それについては訊ねても教えてもらえなかった。
それからしばらくの間、仕事が忙しいのと色々都合がつかないこともあって、再び佐島と会ったのは一ヶ月近く経った頃だった。馴染みの喫茶店で待ち合わせ、お互いコーヒーを注文する。
「なあなあ聞いてくれよ、俺さ」
会わない間に、佐島には何と彼女ができていた。片思いだった会社の同僚だというから、何とも羨ましい限りだ。職場でも責任ある仕事を任されたとかで、俺が口をはさむ隙もないくらい、佐島は矢継ぎ早にしあわせそうな出来事を語り続け、失踪した安達の件について一切触れることはなかった。
俺はふと思った。
以前に比べ、佐島は明らかに変わっていた。変化が急すぎるというか……恋の力というには、あまりに変わりすぎな気がした。
「ごめんな、これからデートなんだ。また今度ゆっくり会おう」
佐島のしあわせを邪魔する理由はない。
ないのだが、俺は身を乗り出して佐島に訊ねた。
「なあ佐島……おまえ安達のこと、何か知ってるんじゃないのか?」
佐島は、俺をじっと見た。
忘れもしない、あの時の――あのまん丸に見開いた黒い目で、まばたきもせずに俺を見つめる。
「……M沢集落から出ようとして、ガラクタにつまずいた安達とおまえがひっくり返った時、俺、見たんだよ。おまえの靴裏の、太陽のマーク」
蹴破られた引き戸についていた足跡は、佐島のものだったのだ。
「おまえ、鍵を壊して箱の中を見たんだろ。まさかあの呪詛……やったんじゃないだろうな」
佐島は、見開いた目のままで、へらりと笑った。
「やったさ。だから、安達は消えたんだ」
あまりにも軽い調子の声に、俺は息をのんだ。
「俺の狙い通りに禁を破ってくれたから、安達が呪詛を成功させようが何だろうが、ヤツは詰みだったんだよ」
「禁……」
ハッとした。蓋裏に貼り付けられていたあの紙――
果てまで見るべからず
持ちいだすべからず
■■は重ね呼ぶべからず
推測だが、『参』の紙には『暗示』が書かれていたのではないだろうか。
すすんで呪詛を行いたくなる暗示――でなければ、安達の豹変ぶりの説明がつかない。『弐』の紙までは俺も読んでいたからだ。
その暗示のせいで、図らずも俺たちより先に呪詛を成立させていた佐島は呪詛者として『畏き力』を得た。だから、その後に暗示によって呪詛を実行してしまったであろう安達は、禁をすべて破ったことになったのだ。
三枚の紙を最後まで読んでしまった。
カメラで撮影して紙の内容を外に持ち出してしまった。
呪詛者が存在している時に、呪詛を重ねて実行してしまった。
佐島の黒目が、急にぎゅるん、と大きくなった。真横に首をかしげ、大きな黒目を俺に向けている。
それは、俺の知っている佐島ではなかった。
「だって彼女さあ、俺より安達の方が好みとか言うんだよ。あいつのせいで俺、いっつも二番手なんだ。いい加減許せないよな」
佐島の黒目から、目が離せない。
「今聞かせただろ。安達がいないと俺、こんなに充実した毎日を送れるんだ。最高だよ、畏き力ってすげえんだ」
何を言ってるんだ、こいつは。
俺はぱくぱくと口を動かすが、声にならなかった。
「あの集落は、呪詛が外に流出しないよう見張るための場所だったんだ。ダムの底になっちゃえば見張る必要ないだろ? だから住民は喜んで出ていった。でもダム建設が遅れたせいで、俺がこうして手に入れることになったんだよ」
佐島はまた、へらりと笑う。
「おまえを巻き込んで悪かったけど、大丈夫だったからOKってことで、な」
あいつと一緒に全部読んでたらアウトだったけどな、と言いながら、佐島はニヤッと口角を上げ、歯をキシキシ、キシキシ、と軋ませた。
一本だけ、真新しい白い歯が入っているのを見て、俺は絶句する。
あの時見た呪詛の内容が、頭の中で鮮明に蘇った。
「じゃ、またな」
普通の顔に戻った佐島は踵を返し、颯爽と喫茶店を後にする。
ひとり残された俺はしばらく茫然としていた。冷めたコーヒーをひと口飲みこんだが、まるで味がしなかった。
「……そんな力に頼ってしあわせになって、どうするんだよ……」
その日以降、俺は佐島と会うことはなかった。
……
佐島はその後、会社をやめて事業を起こし、ものすごい勢いで成功していった。彼女との結婚も決まり、何を思ってか俺のところに結婚式の招待状を送ってきた。俺はどうしても佐島の顔を見る気になれず、欠席の項に丸をつけて返信した。
そして案の定。
結婚を間近に控えしあわせの絶頂という時に、佐島は――失踪した。
奴が築いたものは瞬く間に崩壊していき、何も残らなかったと聞く。
遅かれ早かれ、この日が来ると思っていた。
人の歯の本数は決まっているのだ、あんな呪詛を繰り返していれば必ず限界がくる。『畏き力』に惑わされて、そんなことも分からなくなっていたのだろうか。
あれから二十年。
M沢集落はダムの底に沈んでいる。
俺から友人を二人も奪った禍々しい呪詛もまた、深い深いダムの底で、静かに朽ち果てているだろう。