私はとある田舎で、建築業系の会社で事務員をしています。小さな会社ですので、私が任される業務は事務だけに留まらず、お客様の家へ打ち合わせに伺ったり、現場まで工程写真を撮りに行ったりと、多岐に渡っています。おかげさまで、数多の他人の「家」を拝見する機会がありました。
いまから、これまで私が見てきた中で最も恐ろしく気味が悪かった家のお話を、させて頂きます。
昨年の夏、作業員さんたちが現場へ出払った事務所で、ひとり事務作業をしていた時のことです。事務所の電話が鳴り、私が受けました。
「はい、■■■■工業です」
「――――――――はい。」
長い沈黙……ではなく、ゆっくりなのに何故か荒くて変な息を長時間繰り返してから、電話のお相手はそう返事をしました。変に高い、60代くらいの女性の声です。すぐに用件を言わないのも不思議ですが、とにかく荒い鼻息を必死に抑えようとしているみたいな呼吸音が気持ち悪く、はやく用件を聞いて電話を済ませてしまおうと思いました。
「本日はどのようなご用件でしょうか?」
「――――――――あの、そちらの、会社は素晴らしいようですから」
頭にたくさんの疑問符が浮かびます。素晴らしい?一体何が?私が返答に困っていると、今度は女性がまくし立てるように独りで喋り始めました。
「あの、あのワタクシ、□□市に住んでて。県の左官組合のホームページを拝見しましたの。っそ、そしたら、そちらの会社ではたくさんの職人さんが国家検定の資格をお持ちのようですので。素晴らしいしょ、職人さんがたくさんいるようですので。そんな会社さんにお任せしたいので。家じゅう、壊れているから!」
息は相変わらず荒く、声が時折裏返ったりしながら、理解の追いつかないようなテンションとペースでそう仰りました。
私の会社の業種は「左官業(家内外の壁や土間などを塗る仕事)」であり、女性の仰る県の左官組合にも登録しています。確かに左官の国家検定の資格を持つ作業員数なども県組合HP上に載っているのですが、こちらは小さな会社ですので、もっと資格持ちが多数在籍する大手も他にあるのです。それに、女性の住む県庁所在地□□市は、私たちの会社がある市の隣の市であり車で1時間ほどかかります。すぐ近所でたくさんの大手左官屋が載っているはずなのに、遠方の小さな我が社に電話をしてきたことは、とても可笑しなことでした。
「……お褒めいただき恐縮です。家じゅう壊れているとは、一体どのような工事をご希望でいらっしゃいますか?」
「――――――――台風が、この間きたでしょ?壊れてしまったのよ、割れたし、ひび割れているし、ぜんぶめちゃくちゃなの。かあさんも、濡れていて、いやがっているから、直していただけますかしら」
相変わらずめちゃくちゃな文法でまくし立てるので、私は必死にメモを取ったり聞き返したりしながら用件を探りました。
纏めると、『台風のせいで、家の外壁にひびが入り、瓦が飛んで雨漏りしている。雨漏りのせいで家の中の壁も床も傷んだ。住宅保険を請求して家を直すつもりでいるので、保険会社へ提出する為の作業費用見積書を作ってほしい』ということのようです。しかも、とにかく急ぎで。
会社は小さいながら有難くもたくさんの仕事を頂けていたので、手が足りないほど忙しい時期でした。それに、後々トラブルが起きかねない気がすると、これまでの経験から感じます。変なお客さんは上手く仕事の依頼を躱してほしいと社長からは言われていたので、私はやんわりお断りさせて頂こうと思いました。
「そうですか、お住まいが被害を受けて大変でしたね。一刻も早く直されたいはずです。しかし大変申し訳ないのですが、当社はいまお受けしている仕事が2か月先まで詰まっていて、すぐに工事させていただくことが出来ないんです。お困りだと思いますし、□□市にある、とても腕のいい職人さんがいる大きい会社をご紹介できるので、そちらにお繋ぎしましょうか?」
「――――――――――――――」
返事はなく、女性の変な呼吸音がずっと聞こえます。私は電話が始まってからずっと痛む頭を押さえながら、冷や汗をかいていました。
呼吸音の奥に小さな独り言のようなものが聞こえてくることに気が付いて、私は今すぐ電話を切ってしまいたい気持ちを一生懸命抑えました。
「――――いえ、この会社がいいの。あなたにおっお願いしたいの。工事なら!待てる!見積書を、もってきて!!!」
最後は言葉というより絶叫のようでした。雨漏りもしているのに2か月以上工事を待てるはずないだろう、この女性は絶対変だと、危機感が募るのに圧倒されて強く断ることが出来ません。結局、押し問答を繰り返し電話を切ることが出来た30分後には、見積書を作るために現場の状況を見せて頂くことになってしまいました。
ぐったりと疲弊しながら、その後戻ってきた社長にお伝えして、次の日に私が一人で現場確認へ行くことになりました。私は職人ではないので見積を作成することは出来ませんが、細かく写真撮影し現場の状況を確認して職人さんたちにお伝えして、見積のお手伝いをすることがこれまでにもたまにありました。社長は「そんな可笑しな奴の家に行くのは危ないかもしれない」と心配してくれたのですが、相手は女性であることと、これまで何度も一人で現場訪問をしてきたことと、全員忙しいのに変な客を躱しきれなかった申し訳なさから、一人で行くことに決めたのです。
次の日の朝10時ごろ。事務所を出発して、車で1時間かけて、女性から聞いた住所へ向かいました。「ワタクシは仕事に行っていますから。家の中は誰もいないから正面玄関は施錠しておくので、鍵を開けてある勝手口から入って、中の雨漏りも確認してください」と言われています。家主がいないのに他人の私が家に入るだなんて、トラブルを避ける意味でも絶対にお断りしたかったのですが、「仕事は休めないし早く見積書が欲しいから」の一点張りで、そうすることに押し切られてしまったのです。
そこは県庁所在地ではありますが、市のいちばん端っこで、山の縁を走って進んでいきます。古くて陰気な家が立ち並ぶ集落の中を、信号もない細い道路が入り組んで、普通車で来てしまったことを後悔しながら慎重に進みました。真夏の日差しが建物や木々の下に真っ黒の影を作って、照らされたアスファルトの道に蜃気楼が立って、すぐ横の山からわんわんと耳鳴りするほどの蝉の声が落ちてきて。また酷くなってきた頭痛がする頭の中で、厭な白昼夢のようだなとぼんやり思いました。
そんな現実感のない集落の中を10分ほど進み、一番奥にその家はありました。
前日に「車を止めるスペースはないから道に停めて」と言われていた通りに、邪魔にならない場所へ停めて、その家を囲う高さ2メートル程の塀に近づいたとき、私は言葉を失いました。
車が3台は停めれるであろう広い庭は荒れ放題で、私の腰くらいまでの高さの雑草が生い茂って、地面はひとつも見えません。大きな灯篭や地蔵のような石像が、草むらの中に横倒しになって崩れています。私が立っている門のすぐ右手にある車庫のような建物は、シャッターがひしゃげて捲れ、窓ガラスは割れています。
そしてここから少しだけ見える日本家屋の家は、もっとひどい有様です。すべての窓は内側から何かで覆われていて、聞いていた通り外壁はひび割れ、雨どいは落ち、瓦も捲れています。そしてひと際目を引いたのが、広い正面玄関の扉を丸ごと覆い隠すように、植木鉢がたくさん乗った大きな棚が置かれていることです。そこに、からからに干からびて茶色くなったアジサイが20鉢近く並んでいました。そして、時折風が吹くと、ばたんばたんと大きな音をたてながら、勝手口のドアが開いたり閉じたりしているのが、車庫の奥に見えます。
解体業者さんであれば見慣れた光景なのかもしれませんが、私は左官屋です。新築か、リフォームや軽い修繕の現場しか見たことが無かった私にとって、これまでのどの物件よりひどい状態の場所でした。腰丈の草むらには人が掻き分けて草が倒れた形跡もなく、ここ数年は誰も立ち入っていないようにさえ見える様子です。こんなところで本当にあの女性が住んでいる?取り壊すのではなく、この家を直したい?この薮の中を進んで、あのお化け屋敷のような家へ入らなくてはいけないの?想像を絶する物件を前にして、私は半ばパニックでした。
しばらく立ち尽くしていると、ある考えがひらめきました。
そうだ。あの女性はきっと、『この家に住んでるわけでも直したいわけでもなく、住宅保険金を受け取りたいから私たちに見積書を作らせたい』んだ。
住宅保険に加入していると、住宅が破損などした際に、修繕にかかる費用が保険会社から保険加入者(家主)に支払われます。この時保険請求に必要なのが、「工事の見積書」なのです。保険会社が見積金額が相当額であるとすれば、その金額が口座に振り込まれます。しかし保険金を受け取った後、工事をするかしないかは家主の自由なのです。つまり、こんな廃屋であっても保険が掛けられていれば、工事をするつもりは毛頭ないけど工事見積書を作って保険会社へ提出し、保険金を受け取り一儲けすることが出来るのです。(他の保険会社がどうかは分かりませんが、女性や自分自身が加入している某協同組合の住宅保険はそうでした)
きっとあの女性も、当社へ工事を依頼するつもりもないのに、保険金で儲けたいから見積だけ作らせるということが後ろめたくて、「ここに住んでいる、直したい」などと言ったのでしょう。そして住んでおらず貴重品も何も無いから、私1人で勝手に家へはいれと言ったのだと。
そう思いついたら、急に心強くなってきました。お化け屋敷に住んでいる可笑しな女性、と思っていたからとても不安でしたが、何度か経験したことのある保険金目当ての見積依頼と同じだと思ったら、女性が急に人間らしく思えたのです。
すこしだけ勇気が出て、私は汗だくになりながらゆっくり藪の中へ入りました。草の中でコン、と靴に当たる衝撃があって、掻き分けて足元を見ると、どろどろに汚れた幼児用の小さな靴。それが何度かあり、私はやっぱり帰りたいと泣きたい気持ちになりながら、音を立てて開閉している勝手口へと進みました。風でざわざわと鳴る草の音が、ひどく不安を煽りました。
ようやく家屋の壁際までたどり着いて外壁を見上げると、明らかに先日の台風で出来たものではないヒビがあちこちに走っています。折れて垂れさがっている雨どいのうえにも泥や葉っぱが積もり、どう見ても数年前からこの状況であったようにしか見えません。これは見積を出しても大きな金額になるでしょうし、保険会社の鑑定士が入れば保険金が払われるかは怪しいでしょう。望み薄ではあると分かっていながら、依頼を受けた私は『直すという建前で』現場を確認しなければ帰れません。会社の現場撮影用のスマホでいろんな角度から外壁の状態や全体の外観を撮影してから、素手で触れることも躊躇われるようなサビだらけの勝手口のドアノブに、触れました。
ぎぃいいい、と不快な音を立てて開いた勝手口のドアから家の中を覗き込むと、勝手口からまっすぐに5mほど伸びた廊下と、その右手に並んだ引戸がかろうじて見えます。真夏の日差しの中にいる自分からは、窓が完全に目張りされている室内はほとんど闇のようにも感じました。
痛い程にはやまる胸に手を当てながら家の中に入り、小さな土間で靴を脱いで、持参したスリッパに履き替えます。暗さに目が慣れても家の中はどんよりと暗く、換気されていないせいで湿気と黴臭さと蒸し暑さが不快でたまりません。天井付近には蜘蛛の巣が幾つもあり、死んでいるのか生きているのかわからない蜘蛛たちがこちらを見ているような気がして、背筋が寒くなります。なるだけ急いで雨漏り箇所と壁の傷みを確認しようと決めました。
ぎっ、ぎっ、と軋む廊下を進みながら、まずは右手の引き戸を開けてみます。構造的におトイレであると分かってはいましたが、開けたときに息をのみました。古い洋式の便器の横に、真新しいトイレットペーパーが、きちんとホルダーにおさまっていたのです。思わず振り返って自分が入ってきた勝手口の方を見て、さらに気が付きます。廊下にほとんど埃が積もっていないのです。長年放置されているのなら、私のスリッパの足跡が付かないとおかしいのです。誰かが、毎日ここを使っているのだとしか思えませんでした。私は廃墟なのだと疑っていなかったので、頭痛がさらにひどくなりました。
(……あの女性が、ここに本当に住んでいるんだ。きっと本当に家を直したいんだ。大丈夫、こんな家に住んでても相手は生きている人間なんだから、いつも通りの仕事をすれば大丈夫……)
そう自分に言い聞かせながら、雨漏りの形跡のないトイレの扉を閉めて、廊下の突き当りを左へと進みました。
吐き出し窓も小さな窓も全てダンボールや包装紙などで塞がれていますが、どれも年季が入り湿気でふやけたようになっていて、先日の台風に備えて張り付けたとは思えません。そこには子供が描いたような棒人間の絵があちこち描かれています。女性の子や孫も住んでいるのでしょうか。
左右に茶色く汚れたダンボール箱が幾つも置かれているのを避けながら進むと、右手に階段がありました。2階建ての日本家屋なので、雨漏りは2階かもしれません。ですが恐ろしくて、まずは1階をすべて見て回ることにしました。
階段の真横に和室があり、汚れた畳があちこち反り返って捲れています。見るからに畳はぶよぶよとしカビていてひどい物ですが、天井を見ると変色している箇所はなく、この室内の湿気が長年かけてこうしたのかもしれません。畳が腐った匂いなのか、とにかく吐き気を催す匂いと湿気が充満しています。和室の中央にはちゃぶ台と、その脇には座布団が2枚あって、片方だけ赤茶色に変色しています。ちゃぶ台の上には湯呑や菓子の空箱がありました。なぜか部屋の角に置かれたテレビは壁の方を向いていて、コンセントも刺さっていません。よく見ると、背の低い和箪笥の上に置かれた写真立ても、壁の方に向けられています。ここで、ご飯を食べたり寛いだりしているのだろうかと思うと、吐き気がこみ上げました。
ここまで見てきて、この家は直せないと思いました。私たちは大工ではないからもともと屋根も床も直せませんが、この状態は大工さんから見てもきっと、すべて壊してから立て直さないと無理なのではないかと感じました。だとすれば、私たちが壁だけを修繕したって何の意味もないのです。
(とにかく写真だけたくさん撮って帰って、見積だけで済まず工事依頼が入ったとしても、受けない方がいいと社長に伝えよう)
畳を踏む勇気はなく、和室を迂回するように続く廊下へと進みます。そこは、外から見たときに大きな棚と植木鉢でふさがれていた玄関でした。汚れたすりガラスの向こうに、枯れた大きなアジサイたちのシルエットが映っており、それは項垂れるたくさんの子供たちの頭のように見えてぞっとしました。棚があるのだから誰も入ってこれないはずなのに、玄関の扉はわざわざ釘で互いを打ち付けられて固定されています。そしてコンクリートの土間に直接、花瓶に入った新鮮な仏花が置かれています。家のあちこちに違和感と不快感のあるものが点在していて、何もかもおかしい。家主は頭が可笑しい人に違いないと、私はもう確信を持っていました。仕事に行っていてここに居ないのが有難いとも思いました。
変色したりひび割れたり崩れている土壁を写真におさめながら、玄関を抜けて居間と台所へ入りました。正面の台所は散らかってゴミがあちこち置いてあり不潔極まりないですが、やはり誰かが使っているのだと分かります。台所の壁は大丈夫そうに見えたので、目を逸らして居間の方を見ると――そこには『祭壇』としか言いようのない物がありました。
暗く汚い部屋の中で、浮き上がって見えるほどに白いダンボール(私が飼い猫を亡くした時ペット葬儀屋さんが持ってきてくれた白いダンボール製の棺をとっさに連想し、同じ材質のように見えました)を組み合わせて作られた高さ60㎝ほどの棚の上に、いくつかの器と、読めない筆文字が書かれた白い紙。
そして上段真ん中に、『全体を真っ赤に加工された老婆の顔写真』が飾られていました。
一見して遺影のようなアングルの真っ赤な顔写真は、怒りにも見えるような表情で口を引き結び、正面に立つ私としっかり目が合います。
腰が抜けかけて、膝を床につきました。ずっとし続けている頭痛は、今や頭の中で鳴り響く警告音のように、ガンガンと強くなっています。
(ここはとても危険だ、家主は危険な人だ、早くここから出なくては)そう思ってがくがくと膝を震わせながらなんとか立ち上がって、来た道を戻ろうと勢いよく振り返りました。
すると。開け放たれた障子の奥に、先ほどの和室が見えて。さらに奥にある階段と和室の天井の境目から、何かが覗いているのが見えました。
黒くてぼさぼさの髪を垂らしながら、女が顔を逆さにして、階段の上段から1階の私を覗き込んでいるのです。目を見開いているそれと目が合ったとたん、私は絶叫しました。息の続く限り叫びましたが、その間もそれはぴくりともせず私を見ていました。早く逃げなくちゃと思うのに、玄関は封鎖されていて、入ってきた勝手口へ戻るためにはあの女のいる階段の下を通らなくてはいけません。はあ、はあ、はあ、と肩で息をしながら灼けつきそうなほどちりちりと熱い頭でどうするか考えていると、
私のすぐ右、誰も居なかったはずの――祭壇しか、赤い写真しか、ないはずの場所から、
「 もとにもどしてくれ 」
と、囁くようなかすれた老婆の声が、聞こえました。
もう右の祭壇も左の階段も見ることなく、はじかれたようにわたしは走り出して、廊下を抜けて勝手口から、靴を引っ掴んで転がり出ました。背後の家の中からは何の音も聞こえません。暑く痛いほどの日差しの中倒れこんで、今度は完全に腰が抜けていたから泳ぐみたいに藪を進みました。(あれが、あれらが追いかけてくるかも、早く車に)と、とにかく地面を掻きむしって進んで――
草の種や泥だらけになりながらやっと車に乗り込み、私は帰ることが出来ました。でも、生きた心地はずっとしませんでした。
なんとか会社に戻った私は、その場にいたパートさんの顔を見て泣きたいほど安心しました。でもパートさんから声を掛けられた内容で、再び背筋が凍る思いをします。
「おかえり!ついさっき、(私)さんが行ってきてくれた見積の依頼主から電話あったよ。 ”急いで帰ってしまわれたけど、ありがとうございました” って」
わたしが幽霊か何かだと思った、あの階段の上からのぞき込んでいた女は、依頼主の女性だったのです。「自分は仕事で不在だ、家は無人だ」と言っておきながら、2階に隠れて私を監視していたのだと――そう合点がいって、血の気が引いて思わず座り込みました。
心配してくれたパートさんに訳を話して、社長にも詳しく伝えました。頭の可笑しな依頼主なので工事は受けないでおこう、と満場一致で決まりましたが、受けてしまった見積だけは作成しないと大きなトラブルになりかねません。私の見てきた状況と、撮ってきた写真を参考に、社長は見積書を作成しました。ですがそこには、《ご自宅の状況は壁の修繕だけで改善するものではないようにお見受けいたしました。他の業者さんに屋根や床などを直していただいてからでないと、当社では工事をお受けすることが出来ません》という一文も添えられていました。
翌日。見積書を持って、心配してついてきてくださったパートさんと一緒に、再びあの家へと向かいました。郵送して終わりにしてしまいたかったのですが、初日の電話で「郵送は時間がかかるから完成したら見積書はすぐに持ってきて、家のポストに入れておいてほしい」と言われていたのです。昨日と同じ場所に車を駐車して、パートさんと門の傍へそっと向かいました。
庭を覗き込むと昨日と全くおなじように背の高い草が風に揺れているだけですが、足が竦みます。ふと目についたすぐ右横の車庫に赤いポストのようなものがあり、郵便物やチラシが突っ込まれたままであることに気が付いて、一番上に見積書をねじ込みました。
門の外へ出てパートさんとふたりで大きく息を吐いて、さあ帰ろうと一安心したとき、私たちの車のすぐ横で不審そうにこちらを見ている、野良着姿のおばあさんがいることに気が付きました。車が農作業の邪魔になっているのかもしれない!と慌てて近づき、すいませんと謝って車に乗り込もうとしたところ、おばあさんに声を掛けられました。
「あんたら、この家のモンと関わりあるんか?」
「ああ、いえ、家の工事をお考えのようで、その見積書をお渡ししに来ただけです」
おばあさんは「こんなボロ屋を工事なんかするか?やっぱり可笑しい人やなあ」と鼻で笑いながら、続けました。
「ここんちの娘、もう70近くなるけど、10年以上前に母親死んで独りになってから、頭おかしくなってもうたんや。夜な夜な叫んだりしとる。生きてはいるけどいつも何してるんかわからん。近づかん方がええよ」
それだけ言っておばあさんは畑に降りていきました。取り残された私たちは言い知れぬ恐怖を感じ、慌てて車に乗りこんで帰り道を急ぎました。
女性の母親は死んでいたのです。でも、女性は電話で何度も、「かあさんが、かあさんがいるから、直したい」と繰り返し言っていました。それに「もとにもどしてくれ」と私に言った、あの老婆の声は一体…
常識的に考えれば、ただ変わっているだけの、保険金目当てのお客さんであったという可能性ももちろんあります。
けれど、なにか超常的なことが家の中で起こっていたという気がしてならないのです。
例えば――
女性は精神を病み、死んでしまった母親をもう一度取り戻そうとして、祭壇まで用意し儀式を行っていたのではないか。その儀式のために、訳の分からないものを配置し「家」自体を装置として使ったのではないか。母親は還って来たけど完全ではなくて、ボロボロな家を直せば母親も完全になるかもしれないと思ったのではないか。母親も早く復活したくて、「元に戻してくれ」と言ったか――
――あるいは、無理やりこの世に連れ戻された母親は苦しんでいて、「元(の場所)に戻してくれ」と救いを求めていたのではないか。
さらにもっと言えば、女性は、仕事をエサに家の中へ誘き寄せた私を、生贄のようにしようとしたのではないか。
そんな妄想が頭から離れないのです。
そして思い出す、女性の言葉。《――壊れてしまったのよ、割れたし、ひび割れているし、ぜんぶめちゃくちゃなの。かあさんも、濡れていて、いやがっているから、直していただけますかしら》
一体、女性の母親……私のすぐ横で話しかけてきた老婆は、どんな姿でそこにいたというのでしょう?
それに、今思えば、電話で女性の呼吸音の奥から聞こえてきた小さな独り言のようなものは、あの日家の中で聞こえてきた老婆の掠れた囁き声と、同じものだと思えてくるのです。
《 ―― もとにもどしてくれ もとにもどしてくれ もとにもどしてくれ もとにもどしてくれ もとにもどしてくれ もとに ―― 》
数日後には、会社のスマホからあの家の写真は全て消えていました。見積を終わらせた後、社長が消していたのです。訳を聞いても教えてくれませんでしたが、きっと、何か常識で説明できないものが写りこんでいたんじゃないかと、私は考えています。
あの日から8か月たちますが、あれ以降一度も女性から、連絡はありません。