細野先輩が「郊外の古民家を買いたい」と言い出した。
元々、日曜大工やバイクのカスタムが趣味だった先輩は、それが昂じてYouTubeにDIYの動画チャンネルを開設していた。今では五千人弱の登録者がいて、安定して数万の再生数を稼ぐまでになっている。素人の余技としては大した数字だ。
僕は高校の部活の後輩で、互いに卒業してからもよく先輩に連れられ飲みや遊びに行っていた。大学で映像研究会に入っているのを知って声をかけてくれ、今は彼の動画の編集を担当している。
先輩によれば、付き合いのある投稿者さんが、離島に移住して古い空き家を買い、リノベーションするシリーズを始めたのを見て羨ましくなったのだという。
「毎回、壁ぶっ壊したり床を剝いだりって絵面が派手で面白いのはもちろんだし、再生もめっちゃ回っててさ。ここらで俺らのチャンネルももう一段上に行くためのコンテンツを考えなきゃって前から思ってたんだよな」
二か月ほど前のサシ飲みの席で、先輩はそう勢い込んで長広舌を振るっていた。
「俺はあのチャンネルをバズらせて、坂本にももっといっぱい金を払いたいわけよ。みんなで金持ちになろうよ。●●さんとか××さんみたいにさ」
動画収益だけで食えていると公言している何人かの投稿者の名前を上げ、先輩は言った。酔いに任せたあの場限りの言葉だろうと思っていたが、先輩は本気であちこちの不動産屋に問い合わせて物件を探していたらしい。
急にLINEで「ここが第一候補で次の土曜に見に行くんだけど、坂本も来てくれない?」と物件情報サイトのURLが送られてきたのにはびっくりした。
築五十年の平屋建て、価格は二百万。住所は北関東の某県、名前も知らない市だった。それでも都内から急行で一時間半ほどで行ける場所らしい。面白そうだったので、行きますと返した。
土曜日。細野先輩とその恋人のユキさんとK駅で落ち合い、九時発の特急に乗った。
「ごめんね坂本くん。いつもハルに付き合ってもらっちゃって」
ユキさんから謝られる。動画には関わっていないユキさんを下見に帯同させるということは、単にチャンネルのネタとしてだけでなく「ふたりの新居」を想定しているのだろうと僕は理解した。
先輩が結婚を意識しているのは、最近の雑談での言葉の端々から伝わっていた。東京から九十分ならギリギリ通勤可能な範囲だし、車内での話の流れで、物件があるのはユキさんの実家がある市の隣町だと知った。
無人駅を出ると、タクシーもバスも停まっていないこじんまりしたロータリーの向こうにはささやかな住宅街が続いていて、背景にはこんもりと緑の茂った丘陵が見えた。
「じゃあ、***うか」
先輩は歩き出した。――何と言ったのか、なぜか聞き取れなかった。だが、「じゃあ、行こうか」と言ったのだろうと、特に気にも留めなかった。
先頭に立っている先輩は、こちらを振り返ることもなく黙々と進んでいく。お喋り好きな先輩にしては珍しかった。ユキさんが人気漫画のキャラのぬいぐるみを鞄につけているのを見つけたのから始まった、他愛もない雑談をだらだらとしつつ駅前の大きな県道を進んでいくと、十分ほどで家が立ち並ぶ小集落を抜けて、田んぼが左右に続くようになる。
やがて「●●温泉」という、潰れたホテルの錆びついた看板が斜めに立っているのを超えたあたりで歩道がなくなり、背の高い落葉樹が左右から被さって薄暗い山道へと姿を変えた。
「すごいとこっすね。ここから東京まで通えます?」
「ねえ」
ユキさんと顔を見合わせる。車は先ほどから一台も行き交っていないので、怖さはなかった。
さらに十五分ほど、くねくねと曲がる林道を歩いた。
「ああ、ここだ」
先輩が声をかけ、脇道に入る。そして僕たちはやっとその家に着いた。
想像していた以上に傷みが激しい。
モルタル塗りの外壁には細かなヒビが無数に走っていて、カビなのか黒く煤けたようになっている。玄関まで石畳が敷かれた横の小さな庭は、砂利や木の枝が山のように積まれていて立ち入れないし、それに面した掃き出し窓は、割れているのを変色した新聞紙で内側から塞がれていた。
「なんか、お化け屋敷って感じね」
ユキさんはそう言って笑ったが、顔が引きつっている。
同行すると聞いていた管理会社の人間の姿はなかった。
「鍵は開いてるから」
先輩はそう言うと玄関ドアを開け、土足のまま中に入っていってしまう。
空き家だから当然、電気は止まっている。薄暗い室内を覗き込むと、廊下のフローリングには埃が積もっているだけでなく、泥をなすったような黒い跡が何本もこびりついていた。靴を脱いで上がりたくないのは確かだった。
ユキさんを振り返って苦笑いしながら、僕たちも靴のまま家に入った。
人の出入りがなくなって空気の淀んだ建物特有の、下水とカビが混ざったような不快な臭いが鼻を突く。
短い廊下を抜けた奥は台所だった。調度のない六畳ほどの部屋の隅に、中身が詰まって口を結ばれた大きなゴミ袋が三つ、積まれて放置されている。
「内見に来るって分かってんだから、ゴミくらい片付けてくれたらいいのにね」
そう言って顔をしかめながら半透明のゴミ袋を覗き込んだユキさんが、ヒッと小さい悲鳴を上げた。
「何、これ?」
「どうしたんですか?……うわっ」
僕も、彼女の悲鳴の理由をすぐに理解した。ゴミ袋の中には、首が切り取られた着せ替え人形やぬいぐるみがパンパンに詰まっていた。見る限り、すべての袋に同じように、壊れた首なしのおもちゃが押し込まれているようだった。
「子だくさんなおうち、だったんですかね?」
大量の玩具の山に理由をつけようと、僕はそんな風にユキさんに言った。
彼女は青くなって固まっていた。
「……ねえ坂本くん、何か聞こえない?」
「え?」
言われて耳を澄ませてみるが、別に何の音もしなかった。
「なんか、呪文みたいなの唱えてる。ほら、神社でお祓いの時やるみたいな」
祝詞だろうか? 冗談を言ってからかっているようには見えなかった。
「子供の声だよ、これ」
台所を見回しながら、蒼白な顔でそう呟く。
「ちょっとユキさん、勘弁してくださいよ」
「おうい」
間延びしたような先輩の声が、隣室と隔てるガラス戸の向こうから聞こえた。
「何やってんだぁ、早くこっち来いよ」
僕は無理に笑顔を作って、ユキさんの肩を叩いた。
「先輩に言って、さっさと帰りましょう。ね?」
戸を開け、僕は絶句した。
どうやら居間らしい。そこは外から見えた、割れた掃き出し窓のある部屋だった。風雨でボロボロになった新聞紙を透かして入る日差しが、黒く腐った畳をわずかに照らしていた。
床には大量の「頭」が落ちていた。テディベアの。バー●ー人形の。シンバルを叩く猿の。ミルク飲み人形の。プー●んやド●えもんやア●パンマンの。ぬいぐるみや人形の頭部が部屋中にばらまかれているのだ。
あの、台所のゴミ袋の中身から切断したものなのだろう。
先輩は部屋の真ん中で、横を向いて正座していた。
「ハル……何、やってんの?」
僕の肩越しに、ユキさんが震える声で訊ねた。
先輩は両手を後ろで組んで頭を垂れ、こちらを向きもせず言った。
「お前らも座ってご挨拶しなきゃ。せっかくのお招きなんだから」
書かれたものを棒読みしているような、抑揚のない声だった。
「なんすか先輩、お招きって何ですか?」
これは先輩が仕込んだ、変なドッキリなんじゃないか? そう思いたかった。
「おまえらもすわってごあいさつしなきゃ。せっかくのおまねきなんだから」
僕の声など聞こえていないように、先輩はまったく同じ言葉を同じ口調でもう一度、繰り返した。
「ねえハル、やめてよ」
「そうですよ。笑えませんて」
僕たちの言葉を遮るように、先輩は顔を伏せたまま正面を――押入れの襖を指さした。
軋んだ音を立てて、襖が少しずつ開いていく。
その向こうに、僕は異様なものを見た。
それは押入れいっぱいに詰まった、巨大な子供の顔だった。
おかっぱ頭の、三歳くらいの幼児に見えた。
二メートルはあるそれは、確かに生きているようだった。眠そうな目を半分開いて、口をぱくぱく動かしている。
何か喋ってる? 先輩は、俯いたまま何度も首を振っていた。
「あれの声だったんだ……」
ユキさんが顔をしかめた。僕には今も、声は聞こえなかった。
先輩が、ふらふらと立ち上がった。
「さかもとぉ、おれむかえられちゃったよ」
こちらを振り返る。恍惚としか言えない表情を浮かべ、両目から涙を流している。
そのまま先輩はふらふらと、顔が詰まった押入れに入っていってしまった。制止する間もなく、襖が閉じられる。
「先輩!」
襖を開けると、そこには何もなかった。巨大な顔も、先輩の姿も。ただ、上下二段のガランとした押入れがあるだけだった。
「もうやだよ、逃げよう坂本くん」
ユキさんはボロボロと涙をこぼしていた。
「でも先輩が……」
「知らないよそんなのっ!」
叫んで、ユキさんは台所の方へ駆け出した。
僕も慌ててその背中を追う。
廊下に出ると、ユキさんは玄関を開け放って、こっちを向いて立っていた。
「早く行こう。ねえ坂本くん早く」
僕は立ちすくんで、そこから動けなかった。
ユキさんの背後に広がっている外の光景があまりに異様だったからだ。
空が一面、見たこともないような真っ赤な色に染まっている。夕焼け? そんな馬鹿な、ここに着いたのは昼前だぞ?
僕たちが歩いてきた山道はなくなっていた。背の高い草が一面に生えている中に、玉砂利が敷かれたまっすぐな道が一本、どこまでも続いていた。
「どうしたの? ほら一緒に行こうよ」
ユキさんは穏やかに微笑んでいた。
「駄目……駄目です……」
声が上ずってしまい、上手く喋れない。ユキさんは笑顔のまま、首をかしげてこっちを見ている。どうしてこの人、目の前の景色に何も思わないんだ?
「ねえ、早く」
僕はただ、必死で首を振った。
ユキさんの顔からサッと笑みが消えた。恨みがましい目で僕を睨む。
「じゃあずっとここに居たらいいよ」
冷たく吐き捨てて、彼女は出て行ってしまった。
ダンッ、とドアが乱暴に閉められる。
その音で我に返った。連れ戻さなきゃ。玄関まで駆けて、……少しためらった後でドアを開ける。
目の前には、青空と木々の生い茂る林道が広がっていた。
「ユキさん? ねえユキさん!」
家を出て、来た道を下っていく。ユキさんの姿はない。
そこで初めて思いついて、先輩の携帯に電話をかけた。だが、「電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため~」という圏外を示すアナウンスが流れるばかりだった。
脇道から本道にぶつかったところで、何かが落ちているのが目に入った。
ユキさんが鞄につけていたぬいぐるみが、首と胴体を引きちぎって捨ててあった。
僕はその場にへたり込んだ。
どのくらいそうしていただろうか。遠くから車の走ってくる音と――クラクションが聞こえた。顔を上げる。軽トラックが停まっていて、作業服姿のおじさんが窓から顔を出していた。
「どうしたんだいアンタ、足でもくじいたか?」
道を塞いでしまっていた。「すいません」と言って、立ち上がって脇によける。
「地元の人じゃないね。駅までで良かったら乗せてやろうか?」
おじさんの申し出に、考えるより先に「お願いします」と言っていた。
疲れて果てていた。もう先輩のことも、ユキさんのこともどうでも良いと思ってしまっていた。
ロータリーで降ろしてもらい、おじさんと別れる。白いワゴン車が停まっているのが目についた。車体に「●●不動産」という社名のステッカーが貼られている。LINEでの先輩とのやり取りを確認した。見覚えがあったそれは、やはりあの家の管理会社の名前だった。
車の窓を叩いた。運転席で地図を広げながらどこかに電話していた眼鏡の男性が、気づいて降りてきた。「もしかして、細野様ですか?」
「あっ、えっとあの、細野の連れなんですけど――」
「良かった! 何度かけてもお電話がつながらなくて。11時に、駅で待ち合わせというお約束でしたよね?」
「それが……さっきまで僕たち、先に家に行ってたんですけど」
僕が言うと、眼鏡の男性は目を丸くした。
「ええっ? ま、まあ歩いて行かれても七、八分で着く場所ではありますが。……でも、鍵がかかってたでしょう」
今度は僕が面食らう番だった。
「いや鍵は開いてましたし、七、八分って……三十分近く歩いた、山の中ですよね?」
「山の中?」
僕は指さした。「あそこですよ」
いよいよ男性は訝しそうに眉をひそめた。
「あの山は●●神社の敷地で、昔から禁足地として扱われていた場所です。家を建てる人なんていませんよ」
僕は絶句した。
考えてみれば変だった。確かに延々と一本道を歩いていくだけだったとはいえ、初めて行く場所なのに先輩は一度も地図を確認しなかった。何の目印もない細い脇道にも戸惑うことなく。
「――お客様、一体どちらに行かれてたんですか?」
それきり、細野先輩もユキさんも行方不明だ。
先輩のご家族には、山歩きに行ってはぐれてしまったとだけ伝えた。
捜索願が出された関係で僕は一度だけ、警察の人に連れられて山に入った。だが、あの管理会社の男性が言うとおり山の中に家などなかった。僕は脇道すら、見つけることができなかった。
でも、あれからひとつだけ思い出したことがある。
駅を出て、先輩が僕たちにかけた言葉。
「じゃあ、行こうか」
ではなかった。先輩は満面の笑顔で、
「じゃあ、帰ろうか」
と言っていた。