霧の濃い夜。
それ以上の印象が浮かばないような、そんな夜。
視線を下げると、辛うじて自分の赤いヒールが見える程度。
まあ確かに、思えばおかしな一日だった。
風があったのかどうかもよく覚えてはいなかったが、少なくとも空気はユルユルと、そして静かに、僅かにだけ波打っていたように感じる。
まるで形を伴っているかのような、それでいて触れることの出来ない霧の中を歩いていた。
だいぶ歩いたはずだが、あまり疲れてはいない。低めのヒールにしていたからだろうか。高いヒールにしなくて良かった。とは言っても、そんなヒールはほとんど履くことがない。三〇年近い人生の中でも数回だけ。私にとっては歩きにくいだけ。高いヒールで綺麗に歩く女性を見るたびに、自分との距離を感じてきた。
いつからだろうか、すでに時間の感覚は無い。
同時に、そこがどこなのかも分からない。
舗装された狭い道路。
左右に並ぶ戸建ての家々。
点々と等間隔で並ぶ街灯。
よくある住宅街の景色。
たぶん、初めての場所。
月灯りはどこだろう。街灯の周囲がぼんやり、霧に滲んで見えるだけ。いや、月灯りなどあるはずがない。月そのものが見えない。空は真っ暗に見えた。
落とした視線に戻る街頭の淡い光でさえ明るく見える。
立ち止まるつもりがないとか、そんなつもりはなかったが、それでも私は歩き続けた。特別目的も、その理由すらも分からない。
それとも夢の中だろうか。靴底から感じるアスファルトの感触、顔の肌に纏わりつく湿度の高い夜の空気。それらは現実のものとしか思えない。今が夢だとしたら、夢とはなんだろう。それは現実と何が違うのだろう。
今は、なんだ?
☆
その森というより、山の中の林と言ったほうがいいのだろう。大きな大陸の広い平坦な土地にポツンと存在する森ではなく、この国では山中の林と言ったほうが正しい気がする。
そもそもが境界線などは無いのではないだろうか。山の中の林は、結局どこかの林や森に繋がるのだろう。ネットで地図を見たところで大まかな区切りしか判明せず、実際にその場に立てば、それすらも分からないであろうことは容易に想像できる。
それに、あの世の人間には、そんなものは意味が無いことにも思えた。
だからこそ、私はその友達の言う「森の中の廃墟」に興味は持てなかった。
その友達、美津子とは不思議な縁でこんな年齢まで友達でいられた。出会いは小学生。正確に何年生だったかまでは覚えていない。二年生か三年生、そのくらいだった。それでも続いたのは高校卒業まで。社会人を何年か経由してから偶然に再会したのが三ヶ月近く前。
私自身、よく覚えていたものだと思ったほどに記憶の奥底に押し込まれていた記憶。
美津子は小学生の頃から、いわゆる「霊感体質」と言われる存在だったと記憶している。もちろん私だけでなく周囲の同級生の間でも周知されていたこと。とはいえ、決して本人がことさらにそれをアピールしていたわけではない。おそらくは私が知るより以前から、何かしらの人間関係の中でそれは隠し通せるものではなくなっていったのだろう。学年の変化に合わせてクラス替えというものが存在しても、人間関係までも大きく変化させるほどの畝りは生まれない。
結局、美津子は中学を卒業するまでイジメの対象であり続けた。
私も何度かその場に居合わせたことがある。
いや、何度も。
しかし、私にできたことは何もなかった。
いつも遠くから見守るだけ。
いや、「見守って」は、いない。
後でどう声を掛けようか、そう考えていただけだ。
私が助けることができなかった「言い訳」という理由を探していただけ。
嫌な記憶。
そしてその記憶は幾度も「言い訳」を実体化することで美化され続けてきた。
嫌な記憶を掻き消して、空想とも呼べる嘘の記憶で塗り替える。そんなことをしている自覚はあるのに、それでも嘘の記憶は私の中で「実体」を持っていった。
そんな日常の中で、美津子と会う時は二人だけ。
様々な話をしたことは覚えている。年齢的にも美津子の体質的にもオカルト的な話題が多かったが、私もその手の話に子供ながら興味はあった。美津子はいつも色々な話を聞かせてくれた。どんなふうに見えるか。どんなふうに感じるか。母親から教わった祓い方。降霊術。藁人形の儀式。呪いと呪い返しの怖さ。美津子からそんな話を聞くほどにさらに興味を深めていったのかもしれない。怖い話を聞いた夜はなかなか寝付けなかったことも覚えている。
高校卒業後に自然消滅する形で疎遠になったが、気が付けばお互い社会人になって長い。
にも関わらず、いい歳をして「心霊スポット」に行こうと言う。
確かに二人とも独身。フリーの身。仕事に影響が出ない範囲であれば自由は利く。
美津子はやけにその廃墟に興味を持っていた。ネット上に転がっている謂れに信憑性が無いことはこの年齢になれば大体想像がつく。私に言わせればただの廃墟。むしろ霊感体質の美津子もそのくらいのことは理解できているはず。
美津子に言わせると、霊感体質の人間には二種類いるとのことだった。
積極的に関わろうとする人と、出来るだけ関わらないようにする人。
「でもさ、積極的に関わるにしてもなんで心霊スポットなの? 子供の頃は、どこにでもいるって美津子ちゃん言ってたじゃん」
いつも安い居酒屋ばかり。
程よくアルコールが回ってきた頃の美津子からの話題に、私も幼少期の苦い記憶に蓋をするように言葉を返していた。
「霊感ある人で心霊スポットなんて言葉使ってる人は私は信用できないな……そういう人って幽霊が見えるフリをしてるだけのような気がする」
僅かに口元に笑みを浮かべながらそう話す美津子は、私よりもまだ若く見える気がした。男性受けしそうな濃い目の口紅を見ながら、私もそんな対抗心を隠しながら返していく。
「そんなものなんだ」
「見えるって言うだけなら誰でも言えるよ。他の霊感体質の人と意見が違っても、人によって見え方が違うって言えばなんとでも言えるしね。それに霊能力者とかがよく言ってない? 言葉で説明するのが難しいって」
「テレビでよく聞くね」
「誤魔化してるだけだよ。突っ込まれたくなから。あやふやにしてるだけ。そのほうが、その後なんとでも話を広げられるし」
「なるほどね……そんなに否定的なのに、今回はどうしてその心霊スポットに行きたいの?」
「ああ、あの廃墟ね……」
そう応える美津子の目付きが変わった。どことなく、それまでよりも大人びて見えるのはなぜだろうか。
その艶のある唇が美津子の言葉を繋げる。
「若い時に一度だけ行ったことがあってさ……家って言っても小さな家だよ。ボロボロだったからまだあるかどうか分からないけど……どうしても行かなきゃならない……お願い……一緒に行って。一人じゃ怖いんだよね……」
「心霊スポットじゃなくても怖い所なの?」
「うん……私は怖かった……」
「でも」
どうして? と聞きかけて、私は言葉を止めた。
答えられるならもう言葉にしているだろう。何か説明できない理由があるのか、謎の衝動にかられているだけなのか。学生の頃は決して心霊スポットに行きたがるようなことがなかっただけに、どうにも今回の申し入れには違和感を感じる。何より私の気が進まなかった。
「さっき、前に一度行ったって言ってたけど……」
まるで私のその言葉を遮るように、というのは大袈裟だろうか。
美津子が立ち上がって口を開いた。
「次の休みに行こ。また連絡するから」
そしてその夜は別れた。
何かがモヤモヤとしたまま。
私の記憶では、美津子は心霊スポットになど興味はなかったはず。私以外の誰かとオカルト系の話をしているのを見たこともない。そもそも、私以外に友達がいたという記憶は、少なくとも私にはない。
いつ、誰と心霊スポットに?
しかもどうしてもう一度?
翌日には早速連絡が来た。
お互いの仕事のスケジュールを確認し、休みを合わせ、行く日が確定したのはさらにその次の日。学生の頃に比べると想像もつかないほどに積極的な美津子の動きに相変わらずの違和感を感じるも、もはや、とりあえず行けば納得するのだろうと考えるしかなかった。
仮にも美津子は霊感体質。私と違って何も分からずに怖がるだけの人間とも違うだろう。しかも私も興味がないわけではない。
いつもの日常とは違う非現実的な時間を楽しむ。こうなったらそう考えるほうが得とも思える。少し気持ちが高揚する自分がいるのも事実だった。
しかも車を出すのは私。美津子は車を持っていない。ガソリン代は出してくれると言っていたが、まあ折半で問題はないだろう。
大体の場所は聞いたが初めて行く場所。おおよその時間を考えても近い距離ではない。
季節は春の終わり。
北国ですら花見の季節が終わっている頃。
過ごしやすさが梅雨の訪れを予感させる季節。
当日は風も緩やかな日だった。
いくら季節外れの肝試しとは言っても、お互いに夜型の生活ではない。
集合時間は薄暗くなり始めた18時。
コンビニの駐車場。コンビニで食べ物や飲み物を買ってちょっとしたドライブ気分のまま、それでもすれ違う車のいなくなった山道を走るようになると、あまり気持ちのいいものではなかった。
そんな山の中。辛うじて舗装道路であることが救いだったが、何よりしばらく街灯を見ていない。少しずつ狭くなる道幅に合わせて不安は膨らんでいく。
そんな私の心中を察しているのか、いつの間にか美津子が口を開くこともなくなっていた。久しぶりの右折を支持するその声に、少し私は鼓動を早くする。
タイヤから伝わる振動がアスファルトから砂利道へ。車を揺らすその揺れが、やけに気持ちをザワつかせた。
ただの山道。
ただの夜道。
周囲に人里と言えるエリアがないだけ。
それでも一人ではない。
助手席には美津子がいる。
少し見たら帰るだけ。
美津子も納得するだろう。
そして、興味はあっても、怖くないわけではない。
想像とリアルは違う。
やがて、目の前の道が無くなった。
ライトに照らされるのは絡まるような草木だけ。
私は自然とブレーキペダルを踏み込んだままサイドブレーキをかけていた。そして隣の美津子に顔を向けると、美津子はシートベルトを外す。それを確認して私はエンジンを切った。
途端に静けさという形にならないものに意識を包まれる。
気持ちのいい感覚ではない。
美津子が助手席のドアを開けた。すぐに車内に入り込む空気は想像よりも冷たい。一応山の中を歩くということで、お互いジーンズにブーツ。汚れてもいい薄手の上着は用意していた。
外に出ると、果ての見えない夜の空間が広がる。
広くも狭く、深い。
二人でそれぞれ懐中電灯を持っていたが、どちらも弱々しく感じる光の大きさ。
美津子の先導で林の草木を掻き分けて歩いた。
「だいぶ歩くの?」
私は美津子の背中にそう声を投げてみるが、美津子がそれに反応することはないまま、ただただ足を進めていた。迷いがあるようには見えない。それが不思議なほどに不安を増大させる要因となった。
不思議と静けさが増す。
視線を僅かに上げると、木々の隙間から覗く星空。
その星々が、不意に、大きく広がる。
開けた場所。
目の前、その開けた場所、美津子が背中を向けたまま足を止めていた。
無意識だったか、私も足を止める。
膨れ上がった不安を少しでも和らげたかったのか、私は口を開いていた。
「美津子? どうしたの? ここじゃないよね」
「ここだよ」
すぐに返ってきた想定外の返答に、なぜか私の全身に鳥肌が立っていた。
ここに廃墟はない。
開けた空間があるだけ。
直後、私の靴底が何かを潰した。
カサカサとした軽い感触。
無意識に見下ろした足元には、いくつもの黒い塊。
炭。
「……廃墟って……」
私の口から溢れた言葉に、美津子の声が絡まる。
「あなたが火をつけたんでしょ? 私を殺したくて」
顔を上げると、そこには首だけを回した美津子がいた。口角を上げ、大きく浮かべた笑みのまま、その美津子の声が続く。
「高校卒業してすぐ……私があなたの彼氏を誘惑したわけじゃないのに……あの人が私を誘惑しただけなのに……私を殺して呪いを成就させたのに、結局別れちゃうなんて」
頭の中で、記憶が回り始めていた。
なに?
わからない。
何も返せないまま。
「人を呪うと自分に返ってくるって……教えたでしょ」
頭というより感情に蘇るもの。
人を呪った記憶。
しかしそれは、その時の感情に等しい。
嫉妬。
恨み。
殺意。
私は、美津子を殺したの……?
もはや、周囲の空気に溶け込むのは美津子の声だけ。
「あの後、ヒールで山降りるの大変だったでしょ? あの時は私の車だったし。怖かった? 人を殺しておいてそれを忘れちゃうなんて……それと、ついでだから最後に教えといてあげる。死ねば分かるけど、あの世なんて存在しなかったよ……でも……呪いは人が作るものだからね」
途端に私の視界を、真っ赤な炎が埋め尽くす。
☆
何台もの消防車が近くの道路を山に向かって走っていく。
山火事だろうか。
視線を送った夜空が僅かに赤く染まっていた。
私はどうして夜の道を歩いているのか分からなかった。
ただ、何か懐かしい感覚。
子供の頃の感覚。
美津子に関わる感覚。
また私は、何かを美化するために記憶を書き換えた。
忘れた?
でも、今、美津子の声が聞こえる。
「……小学生の頃から私はあなたを恨んでた……許さないよ……復讐はするから……」