「無垢な願い」

投稿者:あきら

 

 仕事を終えて、いつものように私は急いで保育園に向かった。
 まぶしい笑顔でクラスから玄関へ飛び出してきた愛娘のミナ。私がミナを抱きとめたとき、ミナはさらに笑顔を深めてこう言った。

「きょう、すごく楽しかった!エンちゃんと遊んだんだよ!」

 聞きなれない名前だった。ミナの通う年少クラスは13人で、クラスメイトは全員覚えているがそんな子はいない。先生や、何か教えに来てくれた講師の方だろうか?

「聞いたことない名前だねえ。エンちゃんって、先生?大人の人かな?」
「んーん。ミナとおなじくらいの大きさ」
「年少クラスさんの中には、エンちゃんって子はいなかったよね?」
「いないけど、今はいるよー」

 私の質問に、3歳のミナが一生懸命答えてくれたけど、よく分からないままだった。歳の近いクラスに、新しく転園してきた子なのかもしれない。仲良しのママ友と会う機会があったら何か知らないか聞いてみようと思って、その日はそのまま『エンちゃん』のことを忘れてしまった。

 翌日の、夕食の時。ミナはオムライスを口に運びながら、今日保育園であったことをたくさん話してくれて、私と夫は微笑ましくそれを聴いていた。おやつの時間に出たビスケットがおいしかったこと。仲良しのお友達とお姫様ごっこをしたこと。お散歩の時に転んで泣いてしまった子がいたこと。そして、

「おうちごっこのときはね、ミナがお母さんで、エンちゃんが赤ちゃんやったのー」

 『エンちゃん』。その聞きなれない単語に夫は首をかしげて、昨日の私と同じような質問をミナにして、そしてミナも昨日と同じようなことを返した。楽しそうに話しているから水を差すのはやめようと、それ以上追求せずに、私たちは何か腑に落ちないような心地で夕食を終えた。

「昨日から突然、エンちゃんって名前が出てきたのよ。転園してきた子かしら」
「ふうん。仲良くしてるみたいだし、友だちが増えて良かったなあ」

 夫も私も、この時は気楽にそう考えていた。
 それから毎日、ミナは『エンちゃん』のことを話した。エンちゃんは足が速くて、追いかけっこですぐミナを捕まえてしまうこと。不思議な歌を歌うみたいに話すこと。お昼寝の時間も眠らないこと。
 楽しそうに話すミナを見ながら、保育園生活が楽しそうで本当に良かったと、そう思っていた。

 2週間ほど経って、ある日保育園へミナを送っていくと、玄関で子供の受け入れをしてくれたのはミナの担任の先生だった。ちょうどいい機会だと思って、私はミナの新しいお友達について聞いてみることにした。

「先生おはようございます。あの、少し前からミナが新しいお友達の話を、楽しそうに話すようになって。仲良くしてくれてるみたいで嬉しいんです。『エンちゃん』って、新しくクラスに入ってきたお子さんなんですか?」

 でも、先生はしばらく固まった後、すこし考えるそぶりをしてから、申し訳なさそうにこう答えた。

「年少クラスさんに新しく入った子はいないです……ごめんなさい、他のクラスの子にも『エンちゃん』って呼ばれているお子さんはいないと思うんですが……もし『エンちゃん』のことをミナちゃんが話すことがあったら、私からも詳しく聞いてみますね」

 廊下を歩いていくミナと先生の背中を見つめながら、この時、漠然とした不安な気持ちがわいてきた。ミナが毎日楽しそうに話してくれたおかげで、私の中にははっきりと『エンちゃん』の存在が出来上がっていた。なのにこの瞬間、一気にそれが掻き消えてしまったのだ。私の内側にぽっかりと空いた『エンちゃん』という真っ黒な穴が、しんと静かにこちらを見つめているような――そんな、不穏で気味の悪い感覚だった。

 ……愛娘は一体誰と遊んでいるのだろう。なぜ先生の知らない子供と遊んでいるんだろう。そんな考えがぐるぐると頭を占めて、その日は仕事が手につかなかった。(……きっと、ミナはまだ3歳なのだからうまく言葉にできないのを、私が勘違いしているだけ。大丈夫、大丈夫だ)そう自分に言い聞かせて、なんとか仕事を片付けた。
 そして夕方、重たい足取りで保育園へ向かう。ミナに不安を感じ取られてはいけないと、とにかく笑顔を作って、走り寄ってきたミナを抱きとめる。でも、

「ママ!今日もね、エンちゃんいたよー、いっしょにブロックしたよ」

 そう嬉しそうに教えてくれるミナを抱きしめながら、私は泣きたい気持ちだった。帰って確認した連絡ノートには、先生の優しい文字で、『やはりエンちゃんというお子さんは園内には居ないようです。今日もミナちゃんはたくさんのお友達と遊んでいましたが、ときどきひとりで楽しそうに話している場面もありました。また何かあればご報告します』と、書かれていた。

 その夜ミナが眠った後に、夫に今日のことを話した。夫は真剣な顔で聞いてくれて、そして「もしかして『エンちゃん』とは娘のイマジナリーフレンドなんじゃないか」と、そう言った。
 聞いたことがない言葉だったので調べてみると、『空想上の遊び友達』という意味らしい。『発達の過程で起きる正常な現象』ではあるが、『不安や孤独を抱える子どもが、自己を救うためにそういった存在を頭の中で作り出す』場合もある、とも書かれていた。私はショックだった。目いっぱい愛情を注いで大切にしてきたつもりだったけれど、もしやミナにとっては何か不足していたのだろうか。

「ミナは想像力豊かだし、それに子ども時代には珍しいことではないんだって。君は本当にミナを大切にしているよ、大丈夫。あの子が楽しそうならそれでいい、見守ってあげよう」

 泣いてしまった私の背を撫でてなだめながら、夫はそう言ってくれた。そうだ、他の人には見えなくても、ミナにとってはちゃんと存在しているお友達なのだ。気味悪がったりせず見守ってあげなければ――この時、気持ち悪い、気味悪いと思う心に、気付かない振りをした。

 悶々としたままひと月ほどが経って、ある日、保育園終わりにミナにせがまれて近くの公園へ立ち寄った。公園内では小学生の子たちが追いかけっこをしていたり、私たちと同じように保育園終わりであろう親子が遊んでいる。その中に、ミナと同じクラスのお友達の、ハルカちゃんとそのママを見つけて、私たちは声をかける。ハルカちゃんとミナは嬉しそうに砂場で遊び始めて、私とハルカちゃんのママも久しぶりの世間話に花を咲かせた。
 だが少しして、ハルカちゃんのママは、すこし声色を変えてこう言った。

「……ねえ、ずっと聞きたかったんだけどね、『エンちゃん』って子、知ってる?」

 ミナ以外の口からその名前が出てきたことに、衝撃が走って言葉が出ない。

「どうして……」
「……あのね。気味が悪い話で申し訳ないんだけど…ハルカ、一ヶ月ほど前から、突然その子の話をするようになったの…でも先生に聞いてみたら、そんな子はいませんって…」

 ――ミナとおなじだ。思いつめたような表情のハルカちゃんのママを見て、私の悩みが自分ひとりの物ではなかったことに安堵しながら、得体の知れない気味悪さで産毛が逆立った。

「……それでね。昨日お迎えの時に年少クラスのお母さんたちに会ったから、話してみたの。もしハルカにだけ視えているんだったらどうしようって…不安でいてもたってもいられなくって聞いてみたの…そしたら、
 ――みんな1ヶ月ほど前から、それぞれのお子さんが『エンちゃん』の話をするようになったって、言うの…」

 夏だというのに、背筋と指先が冷たい。はしゃぐ我が子たちの声と、蝉の鳴き声が遠のいていくような感覚。
 ミナだけじゃなかった。ミナだけのイマジナリーフレンドじゃなかった。ミナ以外の、ハルカちゃんも――クラスのみんなが、『エンちゃん』と遊んでいる。大人には視えない、子供たちだけが知っている、透明な子供と。

 それから私たちは、連絡の取れるママ友に繋げてもらいながら、”年少クラスグループLINE”を作成した。
「『エンちゃん』のことについて、よければ話を聞きたい」と声をかけると、みんなすぐにグループへ参加してくれた。クラスメイト13人のうち、12人の保護者。残りの1人は『ダイちゃん』のお宅だったが、どういった事情か不明だがダイちゃんのご両親は居なくて、おばあちゃんとおじいちゃんと暮らしていた。おばあちゃんたちはスマホを持っていなかったし、複雑な事情を抱えているだろうおばあちゃんたちに負担を増やしたくなくて、声を掛けなかったのだ。
 12組目がグループへ参加してくれた日の夜、子供が寝静まった時間に、夫と一緒にスマホを覗き込んだ。

【この間からエンちゃんの話をしだして、恐ろしく思ってました。自分の子だけでなくて少し安心しましたが、何がおきてるんでしょうか】
【うちの子もです。他の子と同じように遊んでいるみたいで…男の子なんだと言っていました】
【まさか、幽霊なんてことはないですよね…?】
【先生はそんな子はいません、と言うだけですが、やはりここまでみんな同じことを言うのは何かあるとしか思えません!園長先生にも相談してみましょうか?】

 不安を抱えていたであろう保護者たちが、次々とメッセージを送り合っている。子供たちに起こっている何かからみんなで我が子を護ろうと、こころ強い気持ちになりながら、次々流れていくメッセージを見つめる。
 すると――ある一人のお母さんが送ったメッセージで、一瞬トーク画面の流れは静止した。

【実は、うちの子がつい昨日、保育園帰りに、「エンちゃんが今日うちに来るんだって!」って、言ったんです。当然私には何も見えなくて、誰もいないのに…うちの子、楽しそうに、なにかと会話しながら遊んでたんです。朝になったら、「エンちゃんかえった」とだけ言って、その後は普通だったんです。私、怖くて…】

 夫と顔を見合わせる。保育園の中だけの異変なのだと思っていた。保育園の中だけで視えるお友達なんだと思っていた。
 自宅にまで、それはやって来る?
 ぞっとした。動揺する私の代わりに、夫が【明日仕事を早退して、園長先生に面談していただけるように頼んでみます】と書き込んでくれ、いったんLINE上の会議はお開きとなったが―― 一睡もできなかった。目を閉じると、真っ黒の穴のような姿の『エンちゃん』がベッドの傍に立っているという妄想が、頭から離れなかったのだ。

 次の日、会社を早退してきた夫と合流して、午後2時ごろに保育園に向かう。すぐにアポイントが取れて良かった。はやく、この言い知れぬ不安を取り除いてほしくて、藁にもすがるような思いだった。
 お昼寝の時間のため、保育園は静まり返っている。案内された先生たちの休憩室へ入った。私たちの後から、年配男性の園長先生と、担任の若い女性先生が入ってくる。ふたりとも緊張した面持ちだ。

「お忙しいところ、お時間を下さってありがとうございます。先生たちに、相談があって面談をお願いしました」
「はい…担任からある程度は聞いております、その…”私どもには見えないお友達”のことだと」

 夫の言葉に、にわかには信じがたいと困惑した表情で、園長先生は仰った。

「その通りです。我が子のミナだけでなく、みんな…『エンちゃん』が視えていて、遊んでいるんです。保育園に相談する前にいろいろ動いて申し訳無いんですが、クラスのほとんどの親御さんたちにLINEで確認しました。」

 そこまで事態は進んでいるのかと、先生たちは驚いている様子だった。

「ここまで全員に同じものが視えているとなると、集団幻覚とか――専門的なことはよく分からないけど、なにか、危険なことが起きているんじゃないかと不安なんです。先生たちは、どのように思われますか」

 責めるでも高圧的でもない夫の言葉に、担任の先生が、おずおずと答えた。

「……私がすぐに気づいて対処できず、本当に申し訳ありません。子供が大人に見えないものの話をするのはよくあることだったので、一人一人が時折そういったそぶりを見せても、漫然と受け入れてしまっていたんです」

 目を潤ませながら頭を下げる先生に、「いえ、先生は優しく、本当によく見てくださっています」と私が声をかけてなだめると、先生は一度目を拭ってから顔を上げた。

「……でも、ここ最近、クラスの親御さんから『エンちゃん』のことを聞かれることが本当に増えて…わたし、子供たちに聞いてみたんです。『エンちゃん』って子知ってるかな?って。そしたらみんなキョトンとして…「先生の前にいるよ」って、みんな、そう言ったんです。当然、目の前には私のクラスの子しかいません…幽霊みたいなものがいるとは思えないけど、本当に…どうしたらいいか分からなくて……」

 休憩室に沈黙がおちる。
 恐らく誰も悪くなくて、誰のことも責める気持ちはない。でも、この不安を一体どこにぶつけたらいいのだろう。「カウンセラーの方に来て貰い子どもたちと話していただくのはどうか」と、夫と園長先生が話しているのをぼんやりと聞きながら、そんなことで解決できないんじゃないかという嫌な予感が、胸の中に充満していた。すると、

「そういえば…一番最初に『エンちゃん』という名前を言ったのは、ダイちゃんだったような気がします」

 担任の先生が、私へ顔を向けてそう言った。私は驚いた。ダイちゃんは先述の通りご両親がいなくて、優しいおばあちゃんおじいちゃんに育てられて、引っ込み思案であまり主張しない、大人しい子だった。だからダイちゃんがこの不気味な出来事の始まりの瞬間に居たというのは、意外だったのだ。

「ダイちゃんが初めて『エンちゃん』と呼んだときは、一体どんな場面だったんですか…?」
「ええと…たしか私の近くに他の子がいて…その子に、ダイちゃんが珍しく自分から話しかけたんです。『この子、エンちゃんだよ』って。話しかけられた子は始めキョトンとしていたけど、何かを受け入れたみたいに、楽しそうにその場で遊び始めて…その時は何とも思わなかったんですけど、ダイちゃんが自分からコミュニケーションを取るのは珍しかったから、覚えていました」

 ――ダイちゃん。間違いない、彼が発端なのだと、そう感じた。

 園長先生は「市にも相談をして必要だと判断されればカウンセラーなど専門の方を手配する。クラス全体にお便りを出して連絡する」と約束してくれ、解散となった。一応常識的な方法では手を打ったが、不安な気持ちは消えてくれない。
 ミナが保育園から帰ってきて、私は力いっぱいミナを抱きしめた。ミナがくすぐったがって笑う。なにが相手でもこの子を護る。でも相手が何なのか、どうしたら護れるのか、全く見当がつかなくて、暗闇の中で彷徨うような気持ちだった。

 その日の夜。私がグループLINEで今日の報告を行うと、間髪入れずに、とあるお母さんからメッセージがきた。

【今日保育園に迎えに行ったら、私の子が、エンちゃんが家に来ると言っていました。怖いです。何もないところに向かって話しかけて笑ってる…どうしたらいいの】

 昨日のお母さんとは別の人だった。メッセージの最後に動画が添付されている。ミナのクラスメイトの男の子がこちらに背中を向けて遊んでいるが、その視線は常に何かを追っていて、何度も『エンちゃん』と呼んでいる。そして動画の最後で、『ここじゃないの?そっかあ』と話したのが、かすかに聞こえた。
 スマホを持つ手の震えが止まらない。もしや、全員の家にやって来るというのだろうか。
 まだ正体が分からないというのに、一刻の猶予もないような気がした。

 次の日、私は会社を休ませてもらって、とある店に来ていた。ダイちゃんのおじいちゃんとおばあちゃんが経営している、昔ながらの自転車屋だ。汚れたガラス戸を開けると、薄暗い店の奥から、おばあちゃんが出てきた。

「こんにちは、あの、娘の自転車のタイヤに空気を入れてほしくて」
「はいはい、ありがとうございます、お預かりしますね」

 話を聞こうにも突然押しかけるのは申し訳ないし、こんな訳の分からない事態の話をどう切り出していいかもわからなかったから、ミナの補助輪付きの自転車を持ってきていた。奥から出てきたおじいちゃんは愛想よく挨拶すると、テキパキと作業を始める。おばあちゃんは、わたしに冷たいお茶をいれてくれた。

「あの、私の娘と、ダイちゃん、同じクラスなんです」
「あらあらそうだったの。あの子ったら、静かで引っ込み思案で、私たちにも何にも喋ってくれないから。クラスの子のことも何にも知らないの、ごめんなさいねえ」

 おばあちゃんは申し訳なさそうにそう言った。「いえいえ!ダイちゃん、恥ずかしがり屋さんですもんね」と返すと、おばあちゃんは寂しそうな顔をした。

「ダイは私たちの娘の子なんだけどね。ダイが2歳になる前に、あの子を捨てるみたいにして娘は出て行っちゃったのよ。父親も誰か分からない。私たちの育て方が悪かったせいで、何も悪くないダイが、寂しい思いをしてるのを見るのが、私たち辛くてねえ。本当は若くて優しいお母さんと一緒に居られたらどんなにいいか。こんな、年寄りだけの家に暮らしてちゃねえ、」

 そう言って、しわしわの手で目を拭った。おじいちゃんは何も言わないけれど、自転車を触る手が止まっている。思い悩む老夫婦の姿に、私まで胸が痛くなる。

「こんなにも優しいおじいちゃんばあちゃんが居てくれて、ダイちゃんはきっと幸せですよ」
「ありがとうね。私たちの娘が、あなたみたいに立派な人だったらね……ダイもきっと、あんな、”変なふう”になってしまわなかったのにね」
「……え?」
「……娘が出て行って1年たって…突然、ダイは何にも居ないところで、一人で喋るようになっちゃったのよ。私たちとはほとんど会話しないのに。そうなってしまってから、半年ほど経つの」

 クラスの子供たちが『エンちゃん』と遊び出したのは1か月半ほど前だ。ダイちゃんは、半年前から。やはりダイちゃんから始まっている。

「……ダイちゃん、視えない誰かと、どんなことを話してるんですか?」
「そうねえ…『エンちゃん、ここはいやだ』とか、『やさしいおかあさんがいるおうちがいい』とか『ぼくにはできないからエンちゃんがやってよ』とか…繰り返し話してるのはこんな事かねえ。意味はよく分からないけど……わたしはダイが不憫で可愛くてならないよ」
「あの…『エンちゃん』という名前は、ダイちゃんが付けたんですか?」
「いや、ダイが何も居ないとこに向かって、子供がいる子供がいるって言うから、私たちが『そんな子、エンよ』って言ったの。そしたら、その日からエンちゃんって呼ぶようになって…ちょっと、不気味だよねえ」

「えん」と言うのは、この地域でお年寄りが使う、「居ない」という意味の方言だ。なるほど、『エンちゃん』の語源は、『居ない子』という意味だったのか。それ以上言葉が出てこず、胸がざわざわする。
 おじいちゃんは作業を終えたようで、自転車をこちらに渡しながら、「ダイを、よろしくおねがいしますね」と頭を下げた。
 空気を入れただけでなく綺麗に磨いてくれた自転車を受け取って、お代を払って、丁寧に頭を下げてくれる二人に会釈を返して、家に戻る。

 おじいちゃんとおばあちゃんは、本当に優しくて善い方たちだった。でも、ダイちゃんが言っていたという言葉を思い出す。『ここはいやだ、やさしいおかあさんがいるおうちがいい』。きっと、ダイちゃんは今のおうちの環境に、孤独を感じているのだ。当然だ、まだ3歳なのだから。どんなに祖父母が優しく見守ってくれようとも、母親からしか得られなかったものをダイちゃんは受け取っていないのだから。そのことに折り合いをつけていくために、ダイちゃんは今もがいているのかもしれない。
 ――『エンちゃん』は、ダイちゃんがもがいている中で生んだイマジナリーフレンドなんじゃないだろうか。ネットで調べたときの、それが発現しやすい環境に、ダイちゃんは当てはまる。

 その考えがしっくりくる。でも、イマジナリーフレンドとは作り出した本人にしか認識できない。『本人の理解者となり孤独を埋める』ために、『本人の脳内だけ』に存在しているからだ。どうしてクラスのみんなは、『エンちゃん』の姿を視て、歌が聞こえて、触れあって遊べるのだろう?
 (ここはいやだ。やさしいおかさんがいるおうちがいい。ぼくにはできないからエンちゃんがやってよ)――ダイちゃんの悲痛な訴えが頭の中で繰り返される。ダイちゃんは『エンちゃん』に、一体何をさせようとしているのだろう。
 母親以外の誰もダイちゃんの孤独を救ってやれない以上、きっとエンちゃんは消えない。みんなに『エンちゃん』が視えてしまっていることは異常事態だが、専門家であるカウンセラーの方が問題ないと仰れば、このまま放っておくしかないのかもしれない……

 担任の先生やおばあちゃんたちが話したダイちゃんの話は、皆には言わないでおこうと決めた。大人たちがダイちゃんに嫌な先入観を持ってしまうことは避けたい。でも一人で抱えてはおけなくて、一番最初に話し合った、ハルカちゃんのママにだけは相談することにした。個人宛にLINEする。

【実は、昨日の先生の話し合いと、今日ダイちゃんのおうちを訪ねた時に、こういう話になって……】
【そうだったの。ダイちゃん、大変なんだね。】
【うん。だから、ダイちゃんが生み出した『エンちゃん』はきっと消えないだろうし、このまま放っておかなくちゃいけないのかもしれないね……】
【あの、実はね。たった今ハルカを連れて帰って来たんだけど。『エンちゃんがくるよ、きょうはうちにくるよ』って言うの。旦那もまだ帰ってこないから怖くて……ビデオ通話を繋いでいてもいい?】
【そうなの!?もちろんよ。ずっと繋いでおきましょう】

 ついに、ハルカちゃんの家に来た。
 ミナに気づかれないように、キッチンカウンターの影にスマホを置いてビデオ通話画面をのぞき込む。ハルカちゃんが1人で楽しそうにお人形で遊んでいるが、友だちと遊んでいるような動作だ。人形を渡そうとしたり、会話したりしている。

 画面には写っていないが、ハルカちゃんのママが泣いているような声が時折聞こえて、「おちついて、居なくなるまでずっと一緒に居るからね。大丈夫よ」と私は声をかけた。
 その瞬間、ハルカちゃんの声が大きくなった。

『え!みつけたの?』
『そうなんだあ、このおうちにはなかったんだねー』
『ママ!エンちゃんかえるって!』

 ハルカちゃんがママへそう言った。玄関の方向に向かって、バイバイと手を振るハルカちゃん。そして、画面の外に居たハルカちゃんのママがハルカちゃんへ駆け寄って抱き締めたのが映り、わたしはほっと息を吐いた。

 すると。

 ピンポ――――――――ン。

 インターホンが鳴った。

 体が跳ねあがった。声も出ないし動けない。嫌な予感が止まらない。確認しに行こうとしない私を不思議そうに見つめて、ミナが玄関へ走っていく。
(だめ、だめミナ、行かないで!!)
 リビングの扉を開けたところで、ミナは立ち止まった。玄関の扉は鍵がかかっていて、当然閉まったままだ。なのに、

「あっ!エンちゃんだあ!」
「ハルカちゃんちのあと、うちにきたの?」
「いいよ、いっしょにあそぼー」
「え?さがしてたものみつけたの?」
「よかったねえ!ねえママ、」
「エンちゃんさがしてたの、ミナのママだったんだって!みつけたんだって、ほら」

 そう、一人で楽しそうに話し続けていたミナが、こちらに振り向いた。
 深い深い洞窟みたいな、まっくらな目だった。いつも愛おしく思っていたミナの顔がぐにゃりと歪むほどに口角を釣り上げて、まっくらな目をまんまるにして嗤いながら、私を見ていた。

「やさしいィおかあさんとォ、ずゥっといっしょにィいたいんだってェ、」

 ミナのかわいい声が、気持ちの悪い声と混じり合う。ああまさか。ダイちゃんが『エンちゃん』に願ったことは。

「ダイちゃんンのかァわりに、しあァわせにィ、なるんンだってェェァェ!」

 『エンちゃん』じゃ孤独は埋まらなかったから、もうどうやっても自分の心は埋められないと気づいてしまったから、せめて『自分の代わりにエンちゃんが満たされてくれ』とダイちゃんは願ったのか。その『本人の外側に向けられた目的』の為に、子供たちみんなに視えてしまうようになったのか。
 そんな。
 そんな。
 そんな。

 繋いだままの通話から、ハルカちゃんの声が聞こえてくる。

『ママ、ダイちゃんとエンちゃんがずーっとさがしてたもの、みつかってよかったねえ!』
『ハルカたち、みんなでさがしてあげてたんだよー、よかったねえ』

「ずっッッとォ、いィしょォに、いようゥね、おガあァざんン!!」

 膝から崩れ落ちた私へ、ミナの皮をかぶった何かが満面の笑みで、手足を振り回しながら駆け寄ってくる。

 ああ。そんな。

 

得点

評価者

怖さ鋭さ新しさユーモアさ意外さ合計
毛利嵩志121515121266
大赤見ノヴ181818171889
吉田猛々171716161682
合計4750494546237