「やさしさ」

投稿者:イソノ ナツカ

 

「お母さんの手料理で何が好きですか?」

この質問ってよくありますよね。子供の頃、授業参観で聞かれてみんな発表していた憶えがあります。私は「グラタン」って言って母親から怒られました。
「あれは市販のソースをかけて焼いただけ!」だって。

家庭料理、おふくろの味。
こういった言葉を使うとどれも温かい思い出を連想させるように感じます。だけど私はこれらに‘‘恐怖‘‘を感じるんです。


この話は、筆者が「あなたの恐いものは何ですか?」と色々な方にアンケートを取っていた際に聞いたものとなります。
複数の方に「恐いもの」を聞いてみると‘‘おばけ‘‘、‘‘幽霊‘‘、‘‘虫‘‘。これらの回答が一番多く出ました。でもたまに、こちらが予想していない答えを返してくれる人がいます。
「恐怖を感じる」というのは、想像からなることもあれば何かしらの体験によるものもあるんだと実感した話でした。


母は専業主婦で、自分が大人になってから思い返すとよく出来た母であり妻の姿だったと思います。家事に手を抜くことはなく、掃除に洗濯、料理と何でもそつなくこなしていたんです。

だからでしょうか。
自分がそれだけ努力しているのだから、与えたものには同じ力で返してほしい。

そういったプレッシャーを私は感じていたんです。その中のひとつに‘‘手料理‘‘があります。一汁三菜を崩したことがありませんでした。主食のご飯にお肉やお魚のメイン。サラダや和え物の副菜が二つはついていて、お吸い物などの汁物。これらが必ず食卓に並ぶんです。
そう、この話をするとあなたのように皆「羨ましい」って言います。
本当にそうですか?私はカップラーメンだけで済ますお昼ご飯やシーチキンを乗せただけのご飯なんてものにずっと憧れていました。

高校生の頃は学食でお昼を食べるのがカッコいい、みたいな風潮があって友達とよく学食に行きました。でも私は母が作るお弁当も持たされていたんです。でも母には学食でご飯を食べたいなんて言えなくて、お弁当の中身を捨てて帰っていたんですよね。ありがたみが何にも分かっていないバカでした。作ってくれることが当たり前になっていたし、単純に私は甘えていたんだと思います。
そんな日々が続いたある日、お弁当の中身を捨て忘れて家に帰ってしまい焦った私は一つのタッパーに中身を全部入れて机の引き出し奥にしまいました。若い頃は本当に浅はかだったんで、そのまま何日も過ごしてしまったんです。何というか、もうその引き出しを開けるのが恐くなって忘れる事にしました。
でも存在が無くなるわけもなく、ある日学校から帰ると母が物凄い形相で私を迎え怒られました。この時、幽体離脱みたいになったんですよ。母から怒られてる私を上の方から見ている感覚になって。腐ったお弁当の中身のヤバイ臭いが充満する部屋の天井まで私の実体が浮かんだような感覚。
この体験も怪談みたいな感じかなーって思ったんですが、多分これは悪い事をしたという現実から逃避していただけなんでしょうね。

だから‘‘母の手料理が恐い‘‘って言うのも、自分が悪い事をした思い出があるから何となく嫌な記憶になっているだけだと思います。


初めて彼女と話した時、‘‘クスっと笑える思い出話‘‘のようにここまでを教えてもらいました。思春期ならではの思い出。少し共感できるような、私自身も懐かしさを感じるような。そんな話に感じていたんです。
しかしそれから日が経ち「料理の話、思い出したんです」と彼女から連絡がきます。


何がそんなに怖かったんだろうって自分でも考えた時に思い出したんです。父のこと。

父がね、とても感情豊かな人で。母が並べた料理を見ては「うわ~~!今日もすごいね!」って絶対に目を丸くして驚くし、一口食べては「やっぱり美味しいな〜」って本当に幸せそうに言うんです。食事をする時はそんな風に言葉を返すのが当たり前だと思って生活していました。だから私、大人になってから人と食事に行くと「女子アナの食レポみたいなことするね」なんて笑われます。

私はキュウリのマヨネーズサラダが苦手でした。時間が経つと出てくる野菜の水分とマヨネーズの油が分離する感じが嫌いだったんです。そんな事を言うと母はキュウリの水切りをしっかりするようになって、マヨネーズまで手作りしちゃって。私が美味しく食べられるように工夫してくれたんですね。
「ありがとう!」ってすごい喜んだ反応をして、それからは毎回「美味しい!」って食べるようにしました。今だから言いますが、改善してくれた後もキュウリのマヨネーズサラダはずっと嫌いでした。

でもこういうのが‘‘やさしさ‘‘なんだって父と母の姿を見て学んだんです。

ある時、父は仕事が上手くいかず転職しました。
そんな父を励まそうと、母は紫陽花の花を庭に植えたんです。
父はブルーが好きだったので青い紫陽花を咲かせたかったみたいですが、我が家の庭で咲いたのはピンクの紫陽花でした。
父は「ありがとう、心が晴れるよ」と言っていたのをよく覚えています。その笑った顔が上手く笑えていなかったのも。

この頃からです。父の様子が少し変だったのは。私がちゃんと知ったのは‘‘それ‘‘が起こってからでした。

ある日晩ご飯をみんなで食べていると、父が突然立ち上がって玄関の方へ走って行きました。
何故か母はその場を動かなかったので、心配で私が父の様子を見に行きます。そこには、玄関の扉にかけたかのように嘔吐物がぶち撒かれていました。その瞬間を見なくても、父の口から勢いよく嘔吐物が噴射されるように吐かれた姿が浮かびます。
‘‘もらいゲロ‘‘って言葉の意味を初めて実感しました。が、私は絶対に吐けなかったし吐かなかった。食卓から感じる母の気配があったから。

どうやら父は無理して食事をしていたようです。
「お父さん、どうしたんかな?」って母にそっと声をかけてみると胃の調子が良くない事を教えてもらいました。十二指腸潰瘍だったそうです。玄関に嘔吐物をぶち撒けた‘‘それ‘‘が起こった時には一旦治っていたようですが、食欲はずっと無かったんですね。
それでも、家族のためにと頑張って作ってくれた料理を残さず毎日食べて父なりに気持ちを返していたんだと思います。
我が家では食事を残すなんて事は絶対にできませんでしたから。

それからまた父は仕事が変わって、夜勤にも入るようになりました。
生活時間がすれ違いになっても、母は父のために料理を作り家族が困らないように努めていました。

ある日学校から帰ってきたら、母がキッチンに立ってシンクをじっと見つめていたんです。
その時の母は何だか真っ白いモヤに包まれていて、背中辺りのモヤは天井まで伸びていて。火事でも起こったんじゃないかと思ってしまいました。
「おかあさん!」って声をかけたら、あの時の顔をしていました。私が弁当の中身を捨てていた事を知った時の顔。

だけど目は真っ赤で涙も流していたと思います。
あの時は上から見ていたから気付かなかったけど、泣いていたんですね。

その涙を知ってハッとした時にはもう、モヤは無くなっていました。母が見つめていた先には料理がぶち撒けられていました。父のために用意されていたけど、父が食べなかったものです。

父は仕事が忙しくなったのか他に行くところもあったのか、家にあまり帰ってこなくなりました。父のために用意されていた料理を捨てる事がないように、私はいつも「お腹空いた~」と家の中で言っていました。父が食べなかったものは私が食べてしまえば良いのだから。
まあ、十代のうちはたくさん食べられたので何とかなりました。何よりも母を悲しませたくなかったので私がやさしさを返さなくてはと思ったんです。

私がよく肥えていたこの頃、庭の紫陽花のブルーのものが混じるようになっていました。
それまでは全部ピンクだったのに。

「青い紫陽花きれいだね」と母に言うと、色を変えるために石灰を庭の土に混ぜたのだと教えてくれました。だけど目標は全てブルーにする事らしく、せっせと毎日庭の土に石灰を混ぜていました。風に舞いやすいのか、母はよく石灰塗れになり自分をはたいていました。

私が短大を卒業した日、久しぶりに家族そろって食事をしました。父は以前よりも健康そうに見えました。母はいつも以上に腕をふるって料理を用意してくれます。
その中にはグラタンも並んでいました。
少しでも場が和やかになるようにと私は思い出話を始めます。「昔さ、授業参観で私が‘‘お母さんの手料理で一番好きなのはグラタン‘‘って答えたら怒られたよね〜」と。

すると母が上機嫌で喋り出しました。
「そうね。だって、本当の手作り料理より市販のソースを使っただけのものを選ぶんだもの。しかもそれを聞いたあなたのお父さんが『お前が作る料理が下手だからだろ、俺はこんなに仕事頑張ってるのに。もっと向上心持てよ』なんて言うからね。もう、恥ずかしくなっちゃって。でもそのおかげで私は料理を頑張れるようになったのよ。今日のグラタンだって、もう市販のソースは使ってないんだから。手作りのホワイトソースなの」

私は話の中身をよく理解することなく、嬉しそうな母の様子だけで喜んでいました。でも父は無言で笑うこともなく、せっかく話題に出たグラタンを食べることもしません。
なんてやさしくないんだ、と不快にさえ感じます。私はこれまで父が食べなかった分の料理を食べここまで肥えたのに、と。

変な間がある中、母はグラタンにサラサラの粉チーズのようなものをかけ父の前に出します。
「もう最後だからね、全部食べるよね」
そう言うとスプーンを持った父はゆっくり口に運んでいきます。

その時、スプーンに乗ったグラタンからゆっくりとあの白いモヤのようなものが立ち込めていきました。そのモヤごと父は口の中にグラタンを入れ、咀嚼し、飲み込みます。私にはそのモヤが何なのか分かったような気もしたため、特に何も言わず自分の食事に集中しました。チラっと母を見ると、あの時の形相で父を見ていました。

サラダ、ご飯、グラタン、お肉、スープ。

それら全てを3人で平らげ、食卓の上はまっさらとなります。

家を去る父を母は見送ることもしません。最後のやさしさを振り絞り、私は父と玄関で別れる事にしました。
「申し訳ない」そう言う父の言葉には、本当の感情が乗せられていた気がします。そこにはやさしさというものは省かれていました。真の気持ちって、時に残酷ですよね。見たくなかった。見えなくてよかった。今振り返っても悲しい気持ちになりますもん。

そうして玄関の扉を閉めた瞬間、外から‘‘その‘‘声が聞こえました。
「ぐ、う‘‘ぉ、おええええええええ」

玄関の扉に残された‘‘その‘‘跡は翌朝母が高圧洗浄機で流していました。

それから数年後に父は他界しています。脳卒中で突然の事でした。
母と一緒に葬儀に参列すると知らない家族がそこにいました。その人たちが見守る中、棺桶の中に皆それぞれの思い出の品を入れていきます。
私は何も入れませんでしたが、母はバッグから取り出した小さな包みを広げ白い粉をそっとかけていました。青い紫陽花が好きだった父へのやさしさでしょうか。


それから15年程の月日が経ち、この話を今回私に教えてくれた。彼女の今一番の好物はカップラーメンだそう。
彼女が過去肥えていたという事は今の時点では分からない。聞くと、遺伝なのか彼女も胃を壊しやすいらしく先日胃カメラ検査を受けてきたばかりらしい。食事をあまり摂れない事が辛くないのかと尋ねるも「太りやすいからたまに食べられない期間があった方がいい」との答えだった。太るのとダイエットをよく繰り返しているらしく、食欲が湧かないように身の回りのファッションや小物の色などにも気を遣っているとの事だった。

‘‘母親の手料理‘‘というワードに恐怖を感じるという彼女は、現在実家を出ている。母親はご存命でありながらもあまり会っていないらしい。

もし可能ならば、と家族の写真を見せてもらった。母親の写真しか無かったが、そこにはピンクのワンピースを着た可憐そうな雰囲気の女性が写っている。
「母はこんなピンクが好きなんです」
そう微笑む彼女はそれ以上何も言わないので、私も何も言わず笑い返すだけにした。それが彼女の中の‘‘やさしさ‘‘だと思ったので。

 

得点

評価者

怖さ鋭さ新しさユーモアさ意外さ合計
毛利嵩志121515121266
大赤見ノヴ171716161581
吉田猛々161818171786
合計4550494544233