「流転」

投稿者:あきら

 

 私は、ホトケサマを見たことがある。

 当時、私は小学5年生だった。その年の夏休みの出来事だ。
 私が住んでいたのは、山や森や田畑以外に何もない集落。父母は平日は会社、休日は田畑仕事があったため、私はいつも相手してもらえなかった。集落の中に小学生は私だけだったし、あまりに辺鄙な場所だったから友達が遊びに来てくれることもない。毎日がひどく長くて、あてもなく山や川をうろうろとするしかなかった。

 その日も例にもれず、畳の上でゴロゴロしながら、退屈を持て余していた。今日は何をしようかと考えていると、庭の草毟りをしていた祖父が家に入ってくる。真っ黒に日焼けた首筋や額をタオルで拭いながら、そのまま風呂場に消えていった。
(お風呂から上がったら昼寝するんだろうな)と私は予想したのだが、祖父はいつものランニングではなく、白いポロシャツに黒いズボンをはいて風呂場から出てきた。

「じいちゃん、どっか行くん?」

 いつもより少しだけかしこまった服装なのを見て、私は(祖父は街へ行くのかもしれない、連れて行ってくれないかな)と期待した。祖父は仏間に入っていくので追いかける。

「うん、ちょっと山のな」
(……なんだ。街じゃないのか)

 祖父は仏壇へ手を合わさずに、置かれていた仏花と紙袋をそうっと持ち上げた。振り返った祖父は、『退屈しています』と顔に書かれている私と目が合って、溜息をついた後しばらく黙り込んでから、

「……もう、そろそろ教えておかんとな。お前は無関係でいられると思うけど、先のことは分からんからな」

 と、訳の分からないことを言った。そして意味が汲み取れない私に、白い紙袋を持たせる。のぞき込むと、それはゼリーの詰め合わせか何かのようだった。誰かの家にお中元を渡しに行くのだろうか?

「……ついてっていいの?」
「うん。でも、じいちゃんとしか話したらあかんぞ。山の中へ行くけど、離れるなよ」

 よく分からないが、誰か親しい人の家へ行くわけではないようだ。促されるまま、長ズボンに履き替えて、長靴をはいた。

 家を出て、山裾を道なりに歩く。真夏の日差しは厳しいが、木漏れ日と木陰の合間を縫いながら歩くのはとても気持ちがいい。右側にある山の奥から涼しい風が吹き下ろしてきて、ざわざわと木々の鳴る音がする。祖父は額に流れていく汗を首に巻いたタオルで拭いながら、足の遅い私に合わせて歩いてくれる。
 祖父は歳の割に背が高く、筋肉質で、真っ白な短髪で黒く日焼けていて、子供ながらに格好よく、私の自慢だった。村の中でも『カツちゃん』と呼ばれて、剛健で優しく男前な祖父は、みんなから一目置かれている。そんな祖父の隣を歩くのが大好きだった。

 そうして家から10分ほど歩くと、”お宮さん”が見えてきた。

「アキ、お前、お宮さんにいらっしゃるのがどんな仏さんたちか知ってるか」

 ”お宮さん”というのは、集落の中にある小規模な神社のことだ。中央におおきなお社があって、敷地内に4つのお堂がある。元旦の初詣で行く以外にはあまり近づいたことがなく、私は祖父の質問に首を振った。お宮さんの境内へ続く、大きな灯篭に挟まれた入り口の前で、祖父は足を止めた。

「真ん中のお社がな、白山大権現さん。こっからも見えるあの大きな白山を、崇めてるお社や」
「山がカミサマなん?」
「うん。山を神様みたいに祀って、そこに仏教も合わさってる。もう少ししたら学校で習うやろう、シンブツシュウゴウってやつや」
「ふーん?」

 次に、中央のお社の右手にあるお堂を祖父は指し示した。

「あっちはな、子安観音さんのお堂や」
「あ!覚えてるよ。人形ばっかりのところやろ」
「そうや。子が生まれたら、その子の分の人形を一体お供えすると、子供を守ってくださる。遠いところからわざわざ、ここへ人形を供えにくる人もいるんや」

 子安観音のお堂の中は、人形がびっしりと壁面を埋め尽くしているのだ。幼いころお堂の清掃へついて来た際に見たその光景があまりにも恐ろしくて、私はそれ以降立ち入っていない。そういえばお宮さんの前に、たまに県外ナンバーの車が停まっているのを見たことがあるが、子安観音が目当てだったのか。

「お社の左手にあるのは、それぞれ耳、目、歯を守ってくださる神さんたちや。珍しいから、こっちもよく研究とか、お参りに来る人らがいる」
「へえ!すごい」

 私はこの超ド田舎の集落には何もないのだと思っていたけれど、他の場所からわざわざお参りに来るようなお堂やお社があることに、少し誇らしい気持ちになった。――そうだ。今年の夏休みの自由研究のテーマを『お宮さんの神様や仏様』たちについて書くと面白いかもしれない。後で、”写ルンですカメラ”を持って撮影に来よう。

「――え?あれ、じいちゃん、お参りしていかんの?」

 一通り私へ説明してくれた祖父は、また山裾沿いの道をすたすたと歩き始めてしまった。私は今の流れで、てっきりお参りしていくのかと、そして仏花やお菓子はお宮さんへのお供え物なんだと思っていたので、慌てて声をかける。

「……今日は寄り道したらあかん。他の神さんたちにお参りするのもダメや」
「なんで?自由研究に書きたいから、後からお宮さん見に行くのもダメ?」
「ダメや。今日だけは絶対あかんよ。家の神棚に参るのもあかん」

 有無を言わさない、厳しい表情だった。目論見の外れた私は少し面白くなかったけれど、でも、どうして祖父はここまで頑なにお宮さんへ行くなというのだろうか?それに、家の神棚に参るのもダメなんて。そもそも私たちは今、どこへ向かおうとしているのだろう。
 祖父の雰囲気も、いつもと違う。不安になってきて、何度も何度も、まっすぐ前を見て歩く祖父の横顔を仰ぎ見た。

「ここを登るんや」

 お宮さんからまた10分ほど歩いた場所で、祖父はそう言って足を止めた。祖父が見つめる先にあるのは、小学校や親から『入ってはいけない』と指導されている山道。たしか私が生まれるより前に、この先にあるという『廃墟』に不法滞在の外国人かホームレスが住み着いたとか、そんな噂が出たために立ち入り禁止になったのだ。
 ぎょっとする私へ「ヘビ踏まんように気を付けろよ」と言って、祖父はずんずんと先へ進んだ。

「入って怒られんの!?」
「怒られんよ。これは大事なお勤めやから」

 振り向きもせずに祖父はそう言った。半泣きになりながら、紙袋を抱きしめて祖父の後を追う。

 ――山裾のさわやかで気持ちのいい景色とは違い、山の中は、薄暗くて気味の悪い雰囲気だった。

 ざくざくと音を立てながら、枯れ枝や小石が積もった道を登っていく。古く、舗装されてはいないが、割と大きな道が続いているのが意外だった。ざわざわと山の鳴る音が私たちを取り囲む。山や森には慣れっこだったはずなのに、ここは何か違うと、幼心に私は気づいた。

 ――木々の隙間の奥、はるか遠くに、何か言いようのない気配があるような気がする。
 まだまだ遠いが、遠くに居るナニカも私たちのことに気が付いているような、じっと見つめられているような感覚があって、足が竦む。

 左腕にしがみついて足が止まってしまった私を祖父はちらりと見て、右手で私の頭を一度撫でた。ごつごつと硬い掌の感触に、早鐘を打つ心臓が少し落ち着く。

「――アキ。怖くても戻られんのや。ごめんな。じいちゃん今から昔話をするから、じいちゃんの声にだけ集中して足動かせよ。心配いらんからな」

 泣き出しそうだったが、前を見据える祖父は、いつもより更に頼もしく大きく見える。私は腕にしがみついたまま、強く頷いた。

「この道の先に、廃墟があるのは知ってるな。昔、外のモンが住み着いたとかって問題になったアレや。あれは昔、『K鉱泉』って名前の旅館やった。万病に効く水が湧くって有名でな。それを沸かして、温泉宿みたいなことをしてたんや。じいちゃんが子どもの時にはまだやってたけど、遠くからもよく療養で人が来てて人気があった。でも、60年くらい前に廃業して、今は廃墟になってる。霊水が湧いてたっていう鉱泉も、枯れたらしい」

 廃墟のことは知っていたが、かつて温泉宿だったということも、霊水なんてものが湧いていたということも、知らなかった。
 森の不穏なざわめきや正体の分からない気配を忘れさせるほど、祖父の低くかすれた声は心地よくて、私は話に聞き入る。祖父が話してくれた昔話のあらすじは、こうだ。

 『K鉱泉』の昔話。
 先ほどお宮さんの前で話してくれた、霊験あらたかな山、白山。その白山を開山した、大変高名なお坊さんが居た。そのお坊さんは、いま私たちが登っているこの山も開山したそうだ。その際に、万病に効く霊水が湧く、鉱泉を発見する。鉱泉が発見されてからは湯治場として大切に護られ、後に、温泉宿のような形となり大変繁盛したそうだ。
 温泉宿を取り仕切っていたのは、現在私たちが住んでいる集落の先祖たちだった。先祖たちは宿の繁盛ついでに、更なる観光資源を思いつく。湯治場のアイコンとして、『薬師堂』を建てたのだ。本来薬師堂は、病気の平癒や長寿をお願いする『薬師如来様』の像がおさめられているのだが、先祖たちはただお飾りの名物を作るだけのつもりで、『空っぽの薬師堂』だけを建てた。
 湯治客たちには、薬師堂の中身が空っぽだなんて知る由もない。だから、やって来たばかりの頃には「どうぞご利益をお与えください」とお堂の前で手をこすり合わせて祈るし、体が少しでも楽になったり病気や怪我が治ったりすれば「ありがとうございます、仏様のおかげで治りました」と涙ながらに感謝する。でも、祈りに応えたり感謝を受け取る仏様はここにはいない。そうして空っぽのお堂の中に、皆の想いがたくさんたくさん吹き溜まっていったのだそうだ。
 時代が過ぎ、祖父が幼いころに、温泉宿が廃業した。宿もお堂も、全て放置され廃墟になり、今に至るということだった。

「じいちゃんは、その廃墟に、用事があるん?」
「うん。取り残されてるもんに、会いに行くんや」
「誰も住んでないんやろ?誰がいるん?」

 廃墟の中に佇む誰かを想像して、背筋が寒くなる。祖父は不安そうな顔の私の頭を再び撫でて、こう続けた。

「さっき、空っぽのお堂の話したな。目には見えんけど、人間の祈りとか思いっていうのは、すごい力があるんや。同じ場所に永い間溜まり続けたら、それは形になる、らしい。人間たちの思いをこね合せて人形を作るみたいにして、お堂の中でソレは産まれた。それで、お堂の中から、毎日自分に向かって手を合わせてくる人間たちを、二百年程見つめていた。
 するとな。自分が何者か知らんソレは、自然と『自分は病気を治す力を持つ、ホトケサマというものだ』と思い込むようになる。人間たちがそう呼ぶんやから、当然やな」

 息もできずに、歩みを止めないまま祖父を見上げている。もう随分山の上へ分け入ってきた。これから私たちが会いに行こうとしているのは、一体何者なのだろう。

「『自分はホトケサマだ』と思い込んだまま時代が過ぎて、温泉宿は無くなる。勤めてたモンたちも、客も、誰も自分の元に来なくなる。でも山を下ったすぐ近くに、さっき話した”お宮さん”があるやろう。今でも大切に敬われてる仏さんや神さんたちもすぐそこにいるのに、『なんで自分のところには誰も来ないだ、敬わないんだ』と、ソレは怒ってる。本当は仏様じゃないし、人間の心から生まれたから、嫉妬をするんやな」
「……じいちゃんは、何でソレの気持ちが分かるん?」
「……ソレと話したことがあるからや。60年前、子供の時には、ソレが視えてたから。『大事にされている仏たちが妬ましい』って、ソレは言ってた」

 息をのんだ。
 祖父が言うには、じいちゃんが幼い頃に廃業した宿とお堂を、集落の者たちで責任をもって取り壊してしまおうということになったらしい。だが事故が幾重にも起こり怪我人が出たうえ、解体現場へ遊びに来ていた集落の子供たちは「お堂の中に何かがいる、怒っている」と言って集団パニックのようになったそうだ。その子供たちの中に、じいちゃんもいた。
 私の曽祖父を含めた当時の大人たちで話し合った結果、宿とお堂は、取り壊せない以上風化に任せて放置することになったらしい。だが、子供たちの話によれば『自分はホトケサマだ』と話すナニカがいる……事故を起こすほどの力があるのならばこちらを放置することは危険だと考え、定期的に、村の顔役であった私たちの家の者が、”お参り”しに行くことになった。
 お堂の中にはそもそも、依り代となるような仏像などは何も無くて伽藍洞なのだ。だからお堂が朽ちて崩れてしまえば、もうあのナニカも消えてなくなるだろうと――だからお堂が朽ち果ててなくなるまでは”お参り”によって静かにしていてもらおうと――そういう、素人考えで問題の先送りをしたらしい。薬師如来様の後利益がさもあるように湯治客たちを騙していたのだから、村の者以外に相談することができなかったせいもあるのだろう。

 私は今まで一度も気づいたことが無かったが、祖父は毎年必ずこのお勤めをしてきたそうだ。若かったころは年に数回していたが、ここ10年程は年に一度のペースになっているらしい。

「腹を立ててるソレに、定期的に”お参り”をしに行く。宥めて『ホトケサマである』と思わせたままにしておく。そうすれば、少なくとも悪さはしないやろうと、先祖たちは考えたんや」
「い、いまもずっと、ソレが廃墟の中に居るってこと?」
「どうやろうな。じいちゃんが小さい頃は、確かにソレが視えてた。間違いなくいた。でも今は視えん。大人になってからは視えたことがないから、居るのか居ないのか分からん」
「どんな姿をしてるん……?」

 こわごわと聞いた私に、祖父はぼんやりと一瞬虚空を見つめる。幼いころ視たソレの記憶を辿っているようだった。そしてひとつ溜息をついて、「お前も子どもやから、もし今もソレが居るなら、視えるかもしれんな。視えなければそれでいいんや。恐ろしい姿をわざわざ知る必要もない」と、言った。

 祖父を凝視していた私は、祖父が初めて足を止めたことで、廃墟の前にたどり着いていたことにやっと気が付く。

 『廃墟』と初めて聞いたとき、私はちゃんと建物の形をしているお化け屋敷のようなものを想像していた。でも今目の前にあるのは、倒れて崩れてしまった後の、柱や礎石や瓦が散乱しているだけの光景だ。立っている柱は一本もないし、屋根も床も当然ない。全て地面に積みあがって朽ちて、それらが瑞々しい緑色のコケに覆われている。豪雪地帯でもあるここでは、人が手入れをしなくなったら建物は60年でこうなってしまうようだ。
 力強い自然に飲みこまれながら、人工物の面影がわずかに残るその光景は、とても美しかった。しばし見入った後、ふと何も言わない祖父を見上げる。額に汗を浮かべている祖父の精悍な横顔に、風で揺れる木漏れ日がおちている。まっすぐに、何か思い耽りながらじっと、廃墟を見つめている。うまく言えないけど、祖父のその姿は、どこか神聖なものに見えた。

「じいちゃん」
「……おお。用事済ませて、早く帰って、アイスクリーム食べような」

 なんとなく不安に思って声をかけた私へ、祖父はハッとして視線をよこすと、安心させるようににっかり皴を深めて笑う。
 そして、そっとその場に祖父はしゃがみ込んで、手ごろな木の枝を一本手に取ると、自らの左腕にサッと尖った枝先を滑らせた。突然のことに私は驚いて声も出なかった。祖父の日焼けた左腕に20㎝ほどの切り傷が出来上がって、見る見るうちに血がにじんで、筋を作って流れ出す。

「じいちゃん何してるん!?」
「――ああ、 ”うっかり怪我してもうた”」

 どうみても故意に自分を傷つけた祖父は、それを「うっかり」だと言う。訳が分からなくて泣きそうになる私を宥めて、真剣な顔で祖父は言った。

「大丈夫やからな。大丈夫やから、アキ、お前この先、何も喋ったらあかんぞ」

 祖父の気迫に負けて、私はただ頷く。祖父は立ち上がって廃墟を迂回し歩を進めて、私は後を追った。

 宿の廃墟から50mほど離れた場所に、僅かばかり木々が開けた場所があって、その中央には小さな建物があった。建物と言っても、こちらもほとんど崩れた廃墟だ。柱や床はもうないが、屋根だけが形を残したまま斜めになって地面に落ちている。これがじいちゃんの話に出てきた、『空っぽの薬師堂』か。
 「ここで待ってろ」と言われ、私はお堂の10mほど手前で、歩いていく祖父を見守った。

 祖父は白い紙袋と仏花をお堂の崩れた屋根の手前に置いて、静かに手を合わせた。風や葉の音がやんで、鳥や虫の鳴き声もしない。急にミュート状態のようになった空間に、私は足が竦んで動けない。

「――転んで怪我をしたのですが、ホトケサマのおかげで、痛みが消えました。傷もすぐに治るでしょう。毎々、ご利益を賜りありがとうございます」

 何の音も聞こえない空間で、祖父の低い声がお堂の中へ染み込んでいく。この自作自演のような茶番はきっと、祖父が言っていた「ソレに『ホトケサマである』と思わせておく」ための儀式なのだろう。
 祖父に言われたとおりに、私は一切言葉を発さずそれを見ていた。いや、息さえ止まってしまって、何も言えなかったのだ。

 屋根の下、1m四方にも満たない隙間の暗がりから、灰色の腕が、伸びてきたのを視てしまったから。

 明らかに人ではない質感だった。例えるなら、ツルツルの、陶器やプラスチックでできたマネキンのような、異様に長い腕。ゆらゆらと波の中で揺れるみたいな動きで、ゆっくりと祖父のほうへのびていく。祖父はそのことに全く気が付いていない。じいちゃん逃げて!と叫びたいのに、呼吸さえうまくできない。

 腕に次いで、隙間から頭部がずるりと現れる。
 腕と同じツルツルしていてくすんだ灰色の皮膚で――顔は、仏像を連想するものだった。楕円型の面長な輪郭に、刃物で切れ込みを入れただけのような細い目、小さな鼻、そしてアルカイックスマイルを浮かべている小さな口。その口はわずかに開かれていて、米粒みたいな歯がびっしりと並んでいる。長い上半身だけ屋根の下から這い出て、腰から下は相変わらず屋根の下なので、カタツムリやヤドカリのようだ。ソレは胸の前で長い長い腕を折りたたみ合掌を作ると、奇妙にゆらゆらとしながら、手を合わせて頭を垂れる祖父の目の前へ、近づいていく。

 私は膝が震えるあまりに、すぐ足元にあった小枝を踏み抜いてしまった。パキッっと乾いた音が響いて、(こちらにアイツがくるかも……!)と、心臓が止まってしまいそうになる。

 でも、その異形は私の立てた音も、私自身のことも全く気にしていない様子だ。ただ祖父だけを、見つめていた。

 幾つも関節がある腕を、ヘビのように祖父の体へ巻き付ける。
 音もなく祖父の顔の至近距離へ自分の顔を近づけて、細い目を孤にして、小さな歯がびっしり詰まった口でソレは何かつぶやいている。祖父は手を下ろして顔を上げたが、目の前数㎝の距離にあるソレの顔も全く見えておらず、声も聞こえていないようだった。

「……オオ……ヨキ……ナガ……」
「私も歳を取りまして、お参りに伺うのが、毎年一度きりで申し訳ありません。」
「オオ……モ……クナ……」
「ですが村の者一同、皆ホトケサマに感謝しております」
「……アア……カエ……コニ……」
「私の足が健康なうちは、必ず毎年お礼に参ります」
「……カエ……カエ……ナ……」
「また1年後まで、穏やかにお過ごしになることを願います」
「アア……コニ……コニ……」

 目の前で起こっている、全く嚙み合わない、異形と祖父の会話。理解の及ばない凄まじい光景を、私はただ震えながら見つめるしかなった。

 しばらくして、祖父は何事もなかったように深く一礼した後、紙袋だけを持ってこちらへ振り返る。ソレはしっかりと祖父に腕を巻き付けていたが、触れることは出来ないようで、するりと抜けて祖父は私の元へ戻ってきた。
 お堂の方向から目を逸らせない私の手を握って、祖父は元来た道へと歩みを進める。お堂が遠ざかって、宿の廃墟を越えて、山道を下り始め、祖父はやっと喋り始めた。

「……ごめんな。怖かったな。お前の父ちゃんにもお前にも、こんなことをさせるつもりはない。あの朽ち果て具合からして、もう5.6年すれば、お堂も完全に崩れてしまうやろう。きっとじいちゃんの代でこんなお勤めもお終いにできると思う。
 でもな、もし万が一お前もこのお勤めに巻き込まれてしまうようなことがあった時、何も知らなければ困ったことになるやろうから、今回はお前を連れてきたんや。もう二度とここには来ないでいい。怖い思いさせて、悪かったな」

 祖父はそう言って、眉を下げて笑った。そして、”アレが視えていたのか”どうか、最後まで私に聞かなかった。

「……じいちゃんは、ソレ、子供の時に、見たことあるんやろ。……見て、どう思ったん?」
「……初めて見たときは怖いと思った。人と形がずいぶん違うしな。恨み言ばかり言っていたし。でも、お前の曾じいちゃんに連れられて何度もアレと会うたび、怖く無くなったよ。曽じいちゃんが手を合わせてお参りしてるのを見ながら、アレはにこにこして、何回も頷いたりしていた。お参りじゃない時にもじいちゃん1人で此処へ遊びに来て、アレが相手してくれてたくらいや」
「一緒に遊んでたん!?」
「アレは、にこにこ笑って傍にいただけやったがなあ。悪いことも、怖いこともせんかった。まあでも、お堂や宿に何かしようとしたら話は別や。あの廃墟に入り込んでたって言う浮浪者たちは、実際死んで見つかったしな」
「そんな……」
「アレは、確かに障りをもたらす力を持ってる。でも、悪い奴じゃ無いんや。温泉宿やったころには、本当に人間を健康にしてやろうと思ってたんやと思う。もしかしたら、今も」

 祖父の声は、どこか寂しそうだった。今はもう視えていないし、居るのか居ないのかも分からないが――幼いころ確かに自分の良き友人だった存在のことを、気掛かりに感じているようだった。
 私は何も言えずに、ただ先ほどの、お堂での光景を思い出す。

 アレは、灰色の長い長い腕を祖父の体に絡みつけながら――祖父の左腕の傷を、何度も何度もさすっていたのだ。そして何も見えていない、何も聞こえていない祖父の顔を覗き込みながら、おそらくこう言っていたのだと思う。

「……モウ、モウコンナ傷ヲ作ルナ、帰ラナイデクレ、ココニ居テクレ、ココニ居テクレ……」

 それは懇願のように聞こえた。背を向けた祖父へ手を伸ばしたまま、もう何も言わずに祖父を見つめていたあの異形の哀しい姿が、頭から離れない。
 人の思いから生まれたのだから、嫉妬も、孤独も、よく懐いていた祖父への愛情も、ことさら強く感じているはずだ。障りの力を持っていても無暗に暴れないのは、きっと、ただ祖父に会いたいから。もう祖父は大人になって、友人が見えなくなってしまった。それでも、アレはここで独り待っているのだ。祖父がやってくる、一年にたった一度のこの日を。

 恐怖は無くなって、今はただただ悲しかった。
 祖父はあと何年、この山を登ってお堂まで通うことができるだろう。あのお堂は、あと何年で朽ちて無くなるのだろう。祖父の足腰に先に限界が来て、お勤めが父に代替わりしたとしたら、あの独りぼっちのホトケサマはどう感じるだろう。
 でもどうすることも出来ないし、私よりももっとアレが気に掛かっているだろう祖父に、そんなことは聞けなかった。

「……じいちゃん。腕、大丈夫?家帰ったら、手当手伝うね」

 悲しんでいるのを悟られないように私が言うと、祖父は目を細めて笑って、すっかり出血の止まった左腕を上げて私に見せた。

「ありがとう。でもお参りの時につくった傷は、何故か痛くもかゆくもないんや。それに、割とすぐに治ってしまうから平気や、心配いらん。
 ……案外、アレはもう妬んだり祟るだけのバケモンじゃなくて、神仏の類になってるんかもしらんな」

 何度も何度も、一生懸命祖父の傷をさすっていたホトケサマの姿を思い出す。きっと私と同じで、アレも祖父のことが大好きだったから、「祟らない、人に寄り添える存在」に変化したのかもしれないと思った。
 山道の出口にたどり着き、私たちは山の奥に向かい、二人そろって深々と一礼をする。心の底からホトケサマを想って目を閉じた。

 ――その後祖父は80歳になるまでお勤めを続けて、お堂が朽ち果て自然に還るのを見届けた。祖父が健康に長生きしたのも、あのホトケサマのおかげだったのではないかと私は思う。
 数年前に祖父は天国へ旅立ったが、ホトケサマは一体どこへ行ったのだろう。祖父と一目でも再会できることは出来ただろうか。

 そんなことを、夏が来るたびに、思い馳せる。

 

得点

評価者

怖さ鋭さ新しさユーモアさ意外さ合計
毛利嵩志151515101570
大赤見ノヴ161615161780
吉田猛々191818171991
合計5049484351241