人と人との奇妙な因果について、深く考えさせられるこの話を聞かせてくれた田所(仮名)さんは、三十代の初めから半ばまでの数年間、探偵だったことがある、と言って笑った。
駅近くにあった喫茶店の席で、わたしがその笑いの理由を訊ねると、いやあ、照れ笑いです、と前置きした後、こう答えた。
「実際には犬の散歩だったり、車椅子の依頼人の買い出しの補助やら、年寄りの世話やら、ま、たまに浮気調査なんかもありましたが、要は探偵なんて名ばかりの、何でも屋だったんですよ」
以前は都心の一流企業に勤め、妻子にも恵まれていたという田所さんが、本人曰く「すべてを失った」のは、彼が三十を過ぎた頃。職場での浮気に加え、ギャンブルからくる借金が原因だったそうだ。
「そこで心機一転、関西に?」
「まあ、無職でほぼ無一文の中年男が、実家へ逃げ帰ったというのが、正直なところです」
「で、いきなり探偵業、ですか?」
「いえいえ、事務所を構えたのはもっと後になってからで、最初はきちんとした仕事を探しつつ、親戚や近所からの頼まれごとなんかを引き受けていました」
「やがてそれが職業に?」
「なんとなくずるずると、はい。ただ、そんな便利屋稼業ながら、細々とそれなりに毎日楽しくはやれていたんですよ。あの依頼人に会うまでは」
「それが例の、ご夫婦ですね?」
田所さんは頷く。
「あれが探偵生活、最後の依頼になりました」
そうつぶやくと、記憶の糸を手繰るように、これまでとは打って変わって慎重な口調で話し始めた。
あの夫婦が訪ねてきたのは、わたしが何とか実家を出て、ようやく人並みに稼げるようになった頃でした。兵庫に戻ってから三年目の、ちょうどじめじめした梅雨の時期だったと思います。
あの日も朝からそうでした。終日、どこか薄暗い日だったのを覚えています。
予約の時間通り事務所に入ってきたふたりは、一見どこにでもいるような、普通のご夫婦に見えました。
席に着くとすぐに奥さんの方が話し始めました。これがなんとも変わった依頼でしてね。
少し前から、ポルターガイスト現象、というのか、不審な物音に悩まされている。家のなかの、誰もいないはずのところから妙な音がしたり、人の声が聞こえたりする、というんです。
他にも部屋の照明がひとりでに落ちたり、風呂場の水が突然勢いよく流れ出たり、と、まあ、そういう不可思議な現象が自宅で頻発するようになったといいます。
そしてふたりはこれら全部が、霊の仕業なんじゃないかと疑っているようでした。
「探偵さん、あなたは霊の存在を信じますか?」だなんて、わたしの目をまんじりと見据えたまま、大真面目に何度も質問するわけです。これには参りましたよ。
誰もいない部屋から音がする、「霊の存在を認めますか?」。人の声がしたらどうですか? 「霊を信じます?」。勝手に電気が消えるんですが、「これでも霊の存在を否定なさるおつもりですか?」と、奥さんの方は特にこんな具合でしてね。まるで宗教の勧誘かと思うほど、ちょっと異様な押し出し方なんです。
この人たちいったい何が目的でここに来たのだろうと、途中からはもう来訪の趣旨自体わからなくなるようで、埒があかない、と思いましてね。仕方なく口を挟んで、訊いてみたわけです。
「失礼ですが今回のご依頼内容というのは?」
するとそれまでは比較的おとなしかった旦那さんの方が、突然つくえの下にかがんだかと思うと、足下にあった鞄の中をまさぐり始めました。
出してきたのは一本のビデオテープでした。ラベルも何も付いていない、うっすらと埃をかぶったVHSのテープです。
自分たちを悩ませる霊の正体を見極めるべく、家中に監視カメラを設置した、なかにそのカメラが捉えた映像が収められている、と言うんです。
やっと話が前に進んだと、思わず身を乗り出しましたよ。
「何か映っていたんですか?」
しかし、答えは拍子抜けするほどあっけないものでした。
「はい、実は、私ら以外は何も映っていませんでした」
そうですか、と、何だかがっかりして肩を落とすと、次は奥様の方が「映像を確認しないのか?」と驚いた顔をして、そのVHSをぐっとこちらに突き出してきました。
今から十年ほど前とはいえ、当時ですらビデオデッキはもう一般的ではなかったものですから、事務所にもありませんでした。パソコンを使ってDVDなら観ることができたので、DVD、もしくはデータのかたちでお持ちではないですかと尋ねたのですが、このなかにあるものがすべてだと、不機嫌そうにVHSを指先で叩くばかりです。
「わかりました。再生するデッキの方は、何とかこちらで用意させていただきます。ただし今すぐには無理なので、テープは数日お預かりするかたちになりますが、よろしいでしょうか?」
わたしがいうと、ふたりは不満げに顔を見合わせていました。
まあ、要するにこの依頼、テープにある映像を、第三者であるわたしに再度確認してほしいと、それだけの依頼のようでした。
妙な仕事だなとは思いつつ、この段階で、気持ちは軽くなっていた記憶があります。
何せ依頼者本人が「何も映っていなかった」といって映像を預けるんです、同じものをわたしが観て「何も映っていなかった」としても、むこうにそれで腹を立てる道理がありませんからね。逆に何か映っていれば、それを報告するだけ。要するにどっちに転んでも失敗のない、楽の仕事のようでした。
気づけば窓から入る陽の光が、煮詰めたような柿色に事務所の中を染め上げていました。
ここで田所さんはまだ残っていたコーヒーのカップを口元に寄せた。
「なるほど。ちょうど今頃の時間ですね」
今われわれの座る喫茶店のガラステーブルの上にも、いつの間にか淡いセロハン色の夕陽が射している。
「それでそのあと、依頼者のふたりは?」
「帰りましたよ」
「帰った後、結局ビデオの映像は観られたんですよね?」
「あ、はい。まあ……」
「で、どうでした? 何か映っていたとか?」
田所さんはそれに応える代わりに、シャツの胸ポケットから半分押し潰されたたばこのパックを取り出すと、いいですか? とわたしに声をかけ、一本に火をつけた。
最初の煙をため息みたいに吐いた後、何かで拭ったように表情の消えた顔を、窓の方に向ける。
しばらく返事を待ってみたが、細めた目を窓の外にやったまま、相手の口が開く気配はない。
「そのビデオの映像の件ですが」
おや、と思い、こちらから切り出してみる。
「何か映っていたとか?」
会話を先に進めようとしたのだが、田所さんは、相変わらず能面づらで窓の外を眺めているばかり。
「何を見たんですか?」
いつの間にかわたしの質問ばかりが虚しく響き始める、そんなもどかしい沈黙がひとしきり続いた。
内心困ったなと思うも、まずは一時待つ以外に手がなかった。そのうち気づくと自分も窓の外に目を向けていた。
買い物帰りの女性や、スーツ姿の行き交う人混みのなかを、子供らが自転車で通り抜けていく。
そこにはいかにも小さな私鉄駅前らしい、穏やかな夕方の日常風景があった。
中年男ふたりが、ただただ窓の外を静かに眺める、そんな状況がどれくらい続いただろう。
「玄関、……廊下、」
やがて田所さんが口を開いたとき、わたしはまるで突然夢から覚めたかのように、慌てて相手に向き直った。
「寝室」、
「リビング」、
窓の方に向けた顔は無表情のまま、田所さんはこのとき、
「子供部屋」、
「風呂場」、
「それと」、
これら一言一言を、まるで恐る恐る句切るように発していった。
「それと、あのふたり」
「あの、ふたり、というのは、あの」
「はい。夫婦のことです。あの家の映像は、確かに言われたとおりのものでした。『はい、実は、私ら以外は何も映っていませんでした』。まったくその通りだったんです」
まるで吐き出すようにそう言うなり、田所さんはわたしとは一切目を合わそうとはせず、またもや深く黙り込んでしまう様子。
「それは無音でしたか? 音や、声は?」
逃すまいととっさに投げかけたこの問いに対しても、かろうじて頷いてくれたのみだった。
「音声も、ちゃんと収められていたんですね」
ところで今回、話をうかがうにあたり田所さんには、どんな小さなことであっても、思い出したことを漏らさず、すべて語ってくれるように、と事前にお願いしてあった。
人の体験談というものの中には、時に本人すら気づかない希少な種のような細部が潜んでいることがある。粗筋で語る口からは蔑ろにされてしまうそれらが、実は後のち話に思いもしない大輪の花を咲かせる事例は珍しいことではない。
聞き手が下手な干渉をして、その柔らかな土の上を踏み荒らしてしまうようでは目も当てられない。
その話題に入った途端、目に見えて押し黙りがちになった田所さんにとって、おそらくはこのビデオテープの映像そのものが、彼の体験談中の「柔らかな土」なのだろう。
これ以上わたしが口を挟んで、その上を踏みにじるわけにもいかなかった。
こうなったら根比べだ、と自分に言い聞かせ、黙って待つと心に決めた。
どれくらいたった頃か、ああ、と田所さんが声を上げた。それから、
「すみません。ちょっとだけ話を戻していいでしょうか? ふたりが事務所を出るところまで」
と言ったその目には、すっかりと元の生気が戻っているように見えた。
「もちろんです。お願いします」
改めて頭を下げつつ、わたしは深く胸をなで下ろしていた。
ふたりを送り出してからドアを閉めると、事務所内の蛍光灯を付けました。このスイッチを押したときにふと思ったんです。自分は以前にも、どこかであのふたりに会ったことがあると。
それは確かな記憶に思えました。しかしいくら頭をひねっても、いつどこで会ったのかについては、まるで思い出せないんです。
その日は簡単な書類の整理なんかを済ませて、わたしも早々に事務所をあとにしました。
ビデオデッキについては、高校時代の友人に、町の商店街でレンタルビデオ店を経営する男がいまして、そいつに頼んで工面しました。
午前中の開店前なら好きに使っていいと言われ、店の奥にあった休憩室であの映像を観ることができたんです。
ここからは、あの、ビデオの中身について話します。
(*ここで再び短い沈黙)
冒頭は、家の玄関をただ真っ正面から撮っただけの映像でした。昼間に撮られたもののようで、粗大ゴミがいくつか投棄されているような、ひどく荒れた庭もしっかり映っています。周囲からの風の音と、住宅街の騒音がたまに聞こえてきました。
携帯やデジカメで撮ったものではなく、はじめからビデオ撮りしたものだということは、画像の粗さから一目で分かります。それも、かなり年季の入った古いものに見えました。監視カメラの映像的な白黒のものではなく、ちゃんとカラーでした。
よくよく観ると、玄関脇にあるガラス窓にヒビが入っているようだったり、小さく映っている郵便受けの辺りが陥没したようにへこんでいたり、どこか廃墟めいた印象がある家でした。玄関ドアには何かベタベタと紙が貼られてありました。
次の場面へ映像が切り替わります。
それまで見ていた玄関を、今度は屋内側から撮った映像です。これは三脚を立てて撮影したんだと思います。ちょうど腰くらいの高さから廊下と、突き当たりの玄関ドアを映しています。三和土には靴が一足もない代わりに、郵便物なのかゴミなのか、何かが貯まって小さな山になっていました。
さっきの映像では貼り紙が邪魔して分からなかったんですが、内側から見ると、玄関ドアの表面がでこぼこになっているのがはっきりと見て取れました。あれは外から、野球のバットみたいなもので何度も打ちつけられたような跡です。隣の窓も割れていました。
霊現象を訴えるあのふたりの切羽詰まった姿を見ていましたから、ぼこぼこにされたこのドアには鳥肌が立ちましたよ。心霊現象でここまで激しい跡が残るものかと。
この先、やっぱり何か映っているんじゃないかって思えてきて、まあ、とにかくもう、ここの時点で、この家そのものが怖くなっていました。
これも五分くらいの場面でした。音も、まだ気になるものは聞こえません。
そして次に映ったのが風呂場です。
長いこと使われてなさそうな、壁や床のタイルが至るところ黒カビで覆われている昼間の風呂場が、再び手持ちカメラの映像に収まっていました。
一分くらいですぐに次の場面に切り替わる短いものでしたが、ここにはじめて人の声が入っていたんです。
「人の声?」
「はい」
「何と言っていたんですか?」
「かすれたような女の声で、『地獄』、と」
遠くから聞こえるような小さな声でしたし、最初ははっきりとは聞き取れませんでした。
それで一旦画面を巻き戻して、音量を最大まで上げたんですが、不思議なことにいくら上げても、この声の大きさが変わらないんです。逆にミュートにしても、やっぱりちゃんと聞こえました。
あれには震えましてね、一瞬逃げ出したいとも思いましたが、ただ、この依頼内容自体が心霊現象の確認だったでしょう? 仕事だと思うと、不思議なもので恐怖心って和らぐものなんですね。自分の中で、何ていうか、「心霊現象」から「ようやく来た報告箇所その①」に変わった感じがしましたよ。
用意してあったノイズキャンセル機能付きのヘッドフォンを耳に押し当てると、それが辛うじて、ジ、ゴ、クゥ、と呻く女性の声だと分かる。震える指で、報告書のフォームに何とかそう打ち込みました。
風呂場のあとに映ったのは、あれは一階の、多分応接間だと思います。
ちょっと違和感のある映像でした。というのも、おそらくカメラを持ったまま、部屋の中央にあるテーブルか何かの上に乗って撮ったのか、それまでよりもかなり高い位置から、部屋を見下ろすように撮した映像でした。
窓も何もない壁の方を向いて、上から撮っているものですから、その壁以外には、画面右手の棚の一部と、床の絨毯の一部が見えるだけのものでした。部屋の全体像までは、正直この映像からだと分からなかったですね。
次にリビングの様子が映って、これでこの家の一階部分は全部です。
応接間とリビングが、それぞれ二分から三分くらいの長さでした。ちなみにこのどちらにも、さっき風呂場でしたような声は入っていませんでした。
リビングを撮っていたカメラがゆっくりと移動して、二階へ上がる階段の前に来て止まります。
しばらくはそのまま階段の画が続くんですが、このときパン、パン、と二回、ラップ音のような大きな音がしたんです。
音もそうですが、とっさに奇妙に感じたのは、カメラは手持ちのはずなのに、音のした瞬間、画面がまったく揺れなかったことです。
ふつう急にあんな音がしたらビクッとしそうなものですよね。ゾワッとした矢先、別の音が聞こえました。
今度もまた遠くから聞こえてくる感じの小さな音です。最初は電話が鳴っているのかと思ったんですが、どうも違う。何回か巻き戻して聞くうちに、それが駅でよく聞く電車の発車ベルの音に似ている気がしてきたんです。
音のボリュームを上げると、これはちゃんと音量表示に従って大きくなりました。
駅の音で間違いなかったんです。発車ベルのあとに続いて、かすかですが駅名を聞き取れましたから。
「大蔵川ー、オオクラガワ~、と」
それを聞いて、反射的にわたしは窓の外に視線を投げる。
「大蔵川、って」
「そうです。あの駅ですよ」と、田所さんが外を指差した。
H電鉄大蔵川駅。わたしたちのいるこの喫茶店は駅前にあり、窓越しにその小さな駅舎のほぼ全体を見渡すことができた。
「家はこの辺りにあったということですか?」
田所さんはたばこの煙を吐き出しながら首を振ると、
「あとで依頼契約書にあった住所を確認したら、家の位置はここから約三キロも離れたところでした。構内アナウンスどころか、夜でも電車の通る音すら聞こえないでしょうね」と言う。
二階に上がってすぐのところに、物置のようになっている部屋があって、その中の様子がだいたい五分くらい映ってから、寝室の映像が約三分続いて、ビデオは終わりです。
最後の部屋は、ただベッドがあるだけの殺風景な寝室に見えましたが、その三分間の映像中ずっと、地獄、地獄、地獄と、最初の風呂場と同じ女の声が入っていました。
やっぱりこれにも、テレビの音量調節は効きません。ミュートにしても聞こえてくるあの声でした。
ちなみに、ですが、このビデオを見ていた場所は知人のビデオ屋のバックヤードです。朝方に鍵を預かってひとりで観たのが不幸中の幸いでしたね。
明かり取りの窓があって部屋自体明るかったし、見終わってすぐに裏口から飛び出たら、そこは朝の路地で、集団登校する小学生らの列とすれ違いました。それを見てなんだか、はじめてほっとしましてね。
なかなかすぐには中に戻る気になれなかったので、近くの自動販売機で缶コーヒーを買って、立ったままそこで一服しました。
まだ終わりじゃない。これを吸い終えたらまた戻って、あのビデオを見返さなければならない、と思っていたんです。
「『私ら以外は何も映っていませんでした』」
「そう。それなんです」
夫婦の姿が映っていなかった。
たばこを吸いながらそのことに気づいたから、何とかもう一度あの映像を見る覚悟を決めました。
映像は家の外観から始まって、あとは順に、廊下、風呂場、応接間、リビング、二階への階段、それを上がって、物置部屋と寝室で終わりです。
ビデオを全部巻き戻して、二回目の再生ボタンを押すのには確かに勇気がいりましたが、いざ始めてみると、間違い探しのような感覚もちょっとあって、意外と楽に作業に集中できたんです。画面に触れるくらいまで顔を近づけて、隅から隅まで慎重に目を走らせることもできました。
「で、ふたりは?」
「はい。リビングから階段へ移動する映像の中に、確かに映っていました」
そのときの映像はこんな感じでした。
最初、固定された画面がソファやテレビのある一角を映している。
それから三分後に、カメラがリビングの出入り口の方へ横向きにパンするんです。つまり視点がゆっくりと右方向に四十五度くらい回転するわけです。
あとはまっすぐ進んで、一旦廊下に出て、すぐ左手にある階段の方へとさっと向きを変えます。そのときほんの一瞬ですが応接間の入り口が映ります。
「それ」が目に飛び込んできたのはこのときでした。該当部分をもう一度コマ送りで見ていくと、そこにふたりを見つけたんです。
わずかに覗く応接間の中に、カメラは天井からぶら下がる、夫婦の姿をちゃんと捉えていました。
「ちょ、ちょっと待ってください。天井からぶら下がるって」
「はい」
「あの依頼人の夫婦が?」
「首を吊っていたんだと思います」
「ふたりとも? はっきりと見えたんですか?」
「画像自体もともと不鮮明だったですし、動いているカメラだし、一時停止をしてやっとではありましたが、服装が事務所に来たときと同じだったんで、間違いありません」
そう言って田所さんは、それまで膝の上にあったトートバッグの中から一本のビデオテープを取り出して、わたしの目の前のテーブルの上に置いたのだった。
このビデオを全部観終わって、わたしが一番注目したのはここに収められた音声なんです。
最初に風呂場で聞こえた「地獄」の声。
次が階段の場面でラップ音に続いて聞こえた駅名のアナウンス。
最後に寝室の呻き声。
「地獄」「駅名」「地獄」の順です。
実はこの順番がそのまま、あのふたりがわざわざ事務所に足を運んでまでわたしに伝えたかったメッセージなんじゃないかと思ったんです。
夫婦が事務所から引き上げたとき、わたしはどこかで見たことがある気がしたといいましたよね。確かに自分は大昔に一度、彼らに会っているんです。
その場所が今窓の外に見える、あの大蔵川駅です。
あの日、まだ高校生だったわたしは塾に向かうため、いつも通りホームで電車を待っていました。
そのとき、少し離れたところに、ひとりの女性が立っていました。でも少し様子が変だった。うつむいて自分の足下を見ながら、上半身をゆらゆら揺らしていました。辛うじてバランスをとりながら何とか立っているというような感じでした。
ちょっと危ないなと思っていると、そのうち電車が近づいて来ました。するとその女性はまるで待ち構えていたかのように、ふらふらと黄色い線を越えてホームの端ギリギリのところにまで移動したんです。
考える間もなくわたしは女性の方へ駆け寄ると、無我夢中でその体をホームの地面に掴み倒していました。
もみくちゃになって倒れたわたしたちのすぐ目の前を、特急電車がものすごい音を立てて通り過ぎていきます。肝が縮むとはああいうときのことを言うんですね。力が抜けて、言葉も出せないでいると、何か大声で叫びながら男性がひとり駆け寄ってきました。
ありがとうございました、この人病気なんです、ありがとうございました、とその人は彼女を抱きかかえながらわたしに向かって何度も頭を下げていました。それから、よかったな、よかったな、と彼女の頭を抱いて、わんわん泣いて喜んでいたんです。
そうです。首を吊ったビデオの夫婦はこのときのふたりでした。
今でこそ、あのとき自分は彼女の自殺を防止したんだと理解できますが、当時はまだ高校生の子供でしたし、病気なんですと言われたのをそのまま真に受けていましてね。
長い間この記憶は、ホームで貧血を起こした女性を助けたことがある、それだけの体験、というに過ぎませんでしたから、ビデオを見るまでは正直忘れてしまっていたんです。
それで、これはあくまでも仮説でしかありませんが、「地獄」「大蔵川」「地獄」という声の聞こえるこの順番、それこそが、夫婦の辿った晩年の道のりそのものだったのではないかと、そう思えてならないんです。
あの日、奥さんの方が大蔵川駅で自殺を図ったのには、当然ですが理由があったでしょう。
自らをホームの淵にまで追い立てるほどの地獄を彼女は味わった。これがまずひとつ目の「地獄」。
しかし自殺は失敗し、文字通り命拾いしてしまった「大蔵川」の駅のホーム。
そしてこのあと何が起きたのか?
あの家の応接間で、ふたりともが首を吊ることになったわけです。
つまり一度目の自殺の場では、それが未遂に終わってあんなに喜んでいた夫も、結局はそのあと妻の隣で首を吊ることになった。
多分、「大蔵川」の駅のホームのあとも、以前と変わらない「地獄」が続いたか、ひょっとするともっと恐ろしい「地獄」が、あのふたりを襲ったんじゃないでしょうか?
何があったのか、詳しいことまでは分かりようがありません。でもあの玄関ドアの貼り紙や、バットか何かで打ち付けられた痕、割られた窓やなんかから、闇金絡みかな、とは思います。
そう考えると、残念ながらこのビデオを夫婦がわたしに見せたかったのは、やっぱり或る種の恨みからだったと思えてきます。
あの奥さんは、たまたま居合わせたわたしのせいであの駅で死ねなかった。それを恨んでいるんじゃないか。
もしあそこで邪魔されず死んでいれば、それまでの「地獄」ひとつで済んでいたかも知れない。その後、夫を巻き添えにしなくて済んでいたかも知れない。揃って首を吊る最後の瞬間に、あのとき死ねていればと、そんな断腸の思いに駆られたとしても不思議じゃない、と思いませんか?
「なのに、わたしはあの駅での件を、ちょっとした人助けをした、くらいに思い込んでいたんです」
「よかれと思ってしたことが、かえって恨みを買う結果になってしまった、と?」
田所さんは固く目をつむり下を向いたまま頷いた。
「こんなところで、すみません」
少しして顔を上げると、指先で目尻の涙を軽く拭い、
「ただ、今となっては、あのふたりは結局、わたしに釘を刺しにやってきてくれたんだと思うようにしてますがね」
鼻をすすって、明るい表情をつくった。
「釘を刺す?」
「これも勝手な解釈ですが。ちょうどあの頃は、便利屋探偵の仕事も軌道に乗ってきた時期で、稼ぎは人並みでも、人助けを仕事にできている自分は幸せ者だと、そんな風に感じ始めた頃でしたから。そんな浮かれた気分にどすんと釘を刺されたように思うんです」
「まるで本物の五寸釘を打たれたような」
「その通りです」と、田所さんは笑った。
そして、
「もう十年も経つのに、まだまだ心が痛みますから」と、独り言みたいにつぶやくと、まるで古傷を懐かしむかのように、テーブルの上のビデオテープを指先で何度もさすった。