グラスの氷が音を立てた。
その振動のせいなのか、透明な側面の水滴が二つほど、周りの水滴を巻き込みながらテーブルの上に広がっていく。
そんな、暑い夏。
窓の網戸は風を通し、それでも同時に遮る。
その為か、まるで形を持ち、もはや重さまでも感じさせるような湿度が室内に居座っていた。
それをさらに温める夕方の西陽。
あれは、昭和六三年。
どこの家にでもエアコンがあった時代ではなかった。夏は当たり前に窓を開け、それだけに、室内にいても多くの音が聞こえていた。
鳥の鳴き声。車の音。自転車の走り抜ける音。足音。近所の人たちの話し声。時折り強まる風の音と、それらに紛れる風鈴の音。
それに加え、部屋の中では絶えず扇風機の音。
それは夏ならではの音の連なりと言えるだろう。
そして、私にとってはもう一つ。
どうしても忘れられない、夏だけの「音」があった。
その年は、中学に上がったばかりだったと記憶している。
夏休みの少し前。思えばあの頃は週休二日などという言葉もまだ聞こえてこなかった時代。それでも土曜日は午前中だけ。当然のように空腹だった私は、とりあえずどこにも寄り道することなく家へ。元々体が弱く、喘息気味だった私がまっすぐ家に帰るのはいつものこと。
私は一人娘だった。
おそらく、その当時としては珍しかった方だろう。同級生の話を羨ましく聞きながら、やはり兄や姉が欲しかったと思うことは何度もあった。もしくは、これからなら弟や妹でもいい。しかしその気持ちを親に向けることはなかった。
今思い返しても広い家だった。御屋敷と言ってもいい。地主という言葉を後に大人になってから知ったが、確かに生活をする上で苦労したことはなかったと記憶している。
前橋家と言えば、その地域では名の知れた歴史のある家。
ただ、やはり寂しかったのは母親の不在だ。
母の名は前橋ヨリ。
私が聞いているのは名前だけ。
私を産んだ直後に亡くなったと聞かされていた。
父は何度か再婚をしようとしたそうだが、なぜか誰かに邪魔されるかのように上手くいかなかったと、大人になってから聞くことになる。
祖母もいない。いつも身の回りの世話をしてくれるのは使用人の女性たち。実質的には母親代わりでもあったのだろう。しかし幼かったその頃の私には、まだ感謝という気持ちは少なかった。
その「音」が聞こえ始めたのがいつの頃からだったのか、正直覚えてはいない。
物心がついた頃には聞こえていたような気もするが、最近は家の人間に訴えることもなくなった。
誰にも聞こえなかったからだ。
私にしか聞こえない「音」。
キリキリと、何かを引っ掻くような小さな「音」。
聞こえるのは夏。音で溢れる季節。春の終わりから聞こえ、秋の始まりと共に終わる。
そして、どこから聞こえるのか、分からないまま。
☆
昭和五十年。
前橋家に婿養子を入れて二年。
十八歳になったヨリが第一子を出産する。娘だった。
しかし、その娘の命は一ヶ月も持てばいい方だろうと聞かされる。
新生児感染症だった。とは言え、医者の判断は大雑把なものにしか聞こえず、ヨリにとっては到底認められるものではない。しかもヨリには初めての我が子。愛おしくないわけがない。
名前は、真美子と名付けた。
日本ではまだ小児集中治療という言葉も聞かれなかった時代。新生児の死亡率が低くなった時代とはいえ、決してゼロにはなっていない。
様々な治療のためなのか真美子の退院には二週間ほどかかったが、やがて医者が匙を投げ、ヨリと共に家に帰ることが許された。
そして、一人の巫女が前橋家を訪れたのは、その直後。
その巫女は、前橋家にとっても繋がりの深い神社からの使者だった。古くから前橋家は、その神社を氏子として金銭的にも支えてきた歴史がある。そのためか前橋家は仏教に傾倒することなく、葬儀までも神式で執り行ってきた。
若い巫女に見えるが、その目は鋭い。決して緩むことのない口元に芯の強さを感じるほど。後ろで束ねた長く真っ直ぐな黒髪を軽く揺らしながら、その巫女はヨリの前で深々と頭を下げていた。
「御子様が御産まれになったそうで……御加減の方がよろしくないと伺い……先代の宮司からの言葉を伝えに参りました」
巫女は軽く頭を上げるが、その目は畳に落ちたまま。決してヨリに目を見せようとはしなかった。どうやら娘の命が危ないということは伝え聞いているらしい。
「ヨリ様の……御母上様から託されていたことがあると……」
「母の?」
反射的に返していたヨリは、母の顔を知らない。それどころか母の面影すらも記憶にない。ヨリが産まれた直後に亡くなったと聞かされていただけ。
幼い頃から、寂しくても求めることの出来なかった母。
その母が神社に託したもの。
気にならないわけがない。
若い巫女は、畳に向けて言葉を続けた。
「もしも産まれた子供が短命と言われたならば……儀式を執り行うようにと……」
「儀式とは」
「……魂を入れ替えます」
返ってきた言葉を、ヨリが想像などしているはずはない。やはり思考も簡単には追い付かない。
それを感じてか、ヨリの目の前に座る巫女が、ゆっくりと頭を上げた。
その鋭い目を、呆然と見開かれるヨリの目に向けながら言葉を紡ぐ。
「ヨリ様の魂を……娘様に……」
「バカな!」
思わず声を荒げ、無意識にヨリは立ち上がっていた。そうしてでも、なぜか巫女の目線を外したい衝動に駆られた。
そして巫女を軽く見下ろしたまま口を開く。
「……そんなことが出来るわけがない!」
「先代が一度……ヨリ様の御母上様の時に……短命と言われたヨリ様のために儀式を行っています。儀式が無ければ、ヨリ様は今、ここにはいらっしゃいません」
巫女はヨリを見上げることなく言葉を紡ぎ、座敷の空気を静けさで包んでいく。
当然とはいえ、ヨリ自身には何の記憶もなかったこと。そして、未だに頭の中はグルグルと回り続けていた。
その中で一点だけ、ヨリの気持ちの奥底をつつく感情があった。
──母は……私のために命を捧げたのか……
その想いは、やがてヨリを動かす。
神社で儀式が執り行われた。
結果としてヨリは亡くなり、真美子の命は繋がれた。
真美子の体を蝕んでいた細菌は消えたが、それはなぜか、結核菌に似ていたという。
☆
やはりその日も、私はいつもの「音」が気になっていた。
決して四六時中聞こえているわけではない。聞こえたかと思うといつの間にか止まり、やがてまた聞こえ出す。それでも聞こえない日はなかった。
その夜は、昨日までより少しだけ涼しかった。
それでも窓を開けていなければ寝苦しい夜になったことだろう。相変わらず虫の鳴き声が暗闇に溶け込んではいたが、今年もすでに聴き慣れたもの。特別嫌な印象はない。
そして気が付くと、そこにあの「音」が紛れていた。
夜の涼しさか、もしくは静けさのせいか、いつもよりその「音」ははっきりと聞こえる。そんな気がした。
畳の上の敷布団の上で、私は寝返りがてら壁の大きな振り子時計に視線を送っていた。
すでに深夜。
足元に絡まるタオルケットを雑に避けながら、私は上半身を起こしていた。
相変わらず「音」は耳の中にまで絡みつく。
自室の障子を開けると、そこは縁側に沿った廊下。とは言っても庭とは窓ガラスで仕切られている。当然のようにそのガラスは所々が開け放たれたまま。その隙間からゆっくりと体を外に滑り出させる。使用人の夜の見回りの目を盗むようにして、私は昼間に脱ぎ捨てたままのサンダルに足の指を通していた。
どこから聞こえるのか。
それがいつも不思議だった。
何の音なのかも分からない。
それでも、なぜか怖いと感じたことはなかった。
そして、その夜はその「音」に導かれるように自然と足が向き、やがて辿り着いたのは屋敷の裏。私にとっては慣れ親しんだとは言えない場所。だいぶ以前に少しだけ見たことはあったが、そのことを父親に咎められてから足を運ぶことはなかった場所。
そこには、小さな別邸があった。まるで小屋とでも呼んだ方が適しているかのような小さな平家。周囲には雑草が広がり、中から灯りなどは漏れていない。僅かな月明かりが薄らとその建物を浮かび上がらせているだけ。
その正面にあるのは、玄関というには重厚な、板の扉。南京錠がはめられ、まるで蔵のようだと私は思った。
そして、いつの間にか大きくなっていた「音」は、鳴り止まない。
☆
昭和二十八年。
前橋ユキが労咳──現在でいう結核を発症したのは一六の歳。
しかもそれは、婿養子との御見合いから一ヶ月後のことだった。
時代のためか、当時は不治と言われた病を患ったことで、当然婚約は破棄となる。
ユキはそのまま、隣の県の療養所へ。
そこは労咳の患者ばかりを受け入れていたが、出てくる者は稀とされた。
そのまま、二年後の昭和三十年。
十六歳になっていたユキの二つ下の妹──フミに御見合いの話がやってくる。
当然婿養子だったが、すぐに婚礼の準備が進められる中、家に不安要素となる話が流れ込む。
療養所にいるユキが帰ってくるという。しかし決して病状が改善したからではなく、療養所内での度重なる暴力行為が原因だった。何度かは警察沙汰にまでなっていたことが両親に伝わっていたが、場所が場所だけに警察も介入を嫌がったことが多々あるという。
しかし当時の世相の中で、不治の病、しかも感染性のある患者を屋敷の母家に入れるわけにはいかないと、両親だけでなく家人の総てが考えていた。
フミの婚約者である佐一郎も、それに同意する。
そして誰もが、ユキの命はそう長くないだろうとも感じていた。
ユキ自身もある程度は覚悟していたのか、帰ってくるなり屋敷の裏に案内されるも、黙ってそれに従った。使用人が数名、離れた後ろから、服の袖で口元を隠しながら着いていく。決して正しい知識が流布されていた時代ではない。
広い庭を歩きながら、ユキの心中にどんな感情が渦巻いていたのかなど誰も考えてはいなかった。二年前とは別人のように痩せ細り、かつては白かったと思われる汚れた浴衣のまま、震える草履でゆっくりと進むその気持ちになど、誰も歩み寄ろうとはしない。
その別邸は、古くから屋敷の裏に佇んでいた。
しかし、その本来の役割は別邸ではない。
座敷牢だった。
表に出すことの出来ない家人を住まわせておくための場所。もしくは監禁するための部屋。一族の秘密を仕舞い込む所。
そしてその座敷牢は、今、ユキの行くべき所。
使用人が扉の南京錠に鍵を差し込む音が、やけに大きく周囲に広がった。
その前で、その扉を見るために顔を上げることも出来ずに項垂れていたユキの耳に、小さな音が届いた。
障子を開ける、擦るような小さな音。
しかし、ユキは敏感にもそれを感じ取り、首を回す。
母家の廊下伝いの障子が一枚だけ小さく開かれ、そこに人影が浮かぶ。
そして、ユキは叫んでいた。
「──佐一郎様!」
襖の奥にいる佐一郎は、見開かれたユキの目に、まるで硬直したように体が動かない。
「どうして……どうして……」
やがて、そう呟くユキの両目から零れ落ちる大粒の涙に、佐一郎は襖を閉じた。
佐一郎は、かつての、ユキの見合いの相手。
前橋家に嫁や婿養子が入るとすれば、いつも同じ家から。
前橋家から婿養子や嫁を嫁がせるとすれば、いつも同じ家へ。
昔から続いてきたこと。
そうやって二つの家は血筋を繋いできた。それが初めて破談になったのが二年前。年齢的にも、ユキの妹のフミの婿養子となれば、他に候補者はいなかった。
同時にそれは、ユキに見付かるはずのない事柄と誰もが思っていた。
両親だけが知っていればいいことだった。
ユキはいるはずのないと思っていた佐一郎の姿とその目に、多くのことを理解する。
それは、春の終わり。
ユキが座敷牢に入ったまま、フミと佐一郎の婚礼が執り行われた。
やがて、フミがある「音」に悩まされ始める。
しかも、家人の誰に聞いても聞こえないと返されるばかり。耳がおかしくなったのかと病院へも足を運ぶが、何の異常も見つからないまま。
そしてある夜、フミは座敷牢の扉の前にいた。
間違いなく、そこから、その「音」は聞こえていた。
何かを引っ掻くような、何かを削るような、そんな「音」を聞きながら、フミは覚悟を決める。
「……姉様……姉様……」
すると、微かに、音に混ざるように、小さな声が聞こえた。
「……どうして……どうして……」
それはユキの声に違いない。聞き間違うはずなどない。
フミは声を荒げた。
「家同士が決めたことなんです! 佐一郎さんのことは私は何も知らなかった!」
まるで自分の中の何かを誤魔化すように、フミは捲し立てていた。
しかしそんな自分本位な感情は、扉の向こうからのユキの言葉に打ち返される。
「どうして!」
フミは一歩、後ずさった。
そして、ユキの声が続く。
「……どうして……あなただけが幸せなの?」
フミは何も返せないまま。
「……こんなに見窄らしく痩せて……歯も抜け落ちて……」
そして、聞こえ続けていたあの「音」が、やがて声に変わったように感じた。
「……呪ってやる……呪ってやる……お前の子供は産まれてすぐに死ぬ……全員……そうすれば……この家は終わる……」
春の終わりから、秋の始まりまで。
ユキが座敷牢の中で亡くなるまで、その「音」はフミにだけ聞こえ続けていた。
二年後の昭和三十二年。
フミが第一子を出産する。娘だった
名前は、ヨリ。
しかしその命は一ヶ月ほどだろうと聞かされる。
新生児感染症だった。しかもそのヨリの体を蝕んでいる細菌は、なぜか結核菌に似たものだという。
医者は不思議がったが、フミの頭には、呪い──という言葉が浮かんでいた。
同時に、ユキの顔が瞼の裏から離れない。
退院すると、フミは子供を佐一郎に預け、すぐに神社を訪れた。そこは古くから前橋家が懇意にしていた由緒正しい神社。
現在、その神社を護る頂点にいる宮司がいた。すでに七十近く、神事の多くは数人の息子に任せてはいたが、未だその力は衰えてはいない。
フミから話を聞いた宮司の息子はそれでも二番手である権宮司の立場ではあったが、自らでは対処出来ないと判断し、すぐに父親である宮司に話を通した。
「呪いを退けるためにここへ?」
宮司はその表情に感情を乗せることはしなかった。フミの言葉にも冷静な目のまま。
「はい……出来ますか?」
フミの言葉は決して弱々しいものではなかったが、その奥底で恐怖に押し潰されそうになる自分を抑えていたにすぎない。
例え親同士が決めたこととはいえ、姉のユキに対して後ろめたい感情がなかったわけではない。しかし、やっと産まれた我が子には関係のないこと。
「あの子に罪はありません」
そう言うフミの目を見ながら、宮司はゆっくりと返した。
「しかしそれが呪いというもの。あなたの御子さんが亡くなることが、あなたを最も苦しめることになる。そして、それを退けることは出来ないこと」
その言葉に、無意識の内にフミの目から涙が一筋溢れ落ちる。
しかしその絶望感を、宮司は低い声で拾い上げた。
「退けることは出来ませんが……返すことは不可能ではありません……しかしながら、呪い返しは危険な行為故、代償が必要となる。その覚悟はありますか? あなたの魂を娘さんに入れ替えます。つまり、あなたの命を差し出すことになる」
──私のために……あの子を殺すことは出来ない……
フミの気持ちは固かった。
「はい……あの子のためなら、どんなことでもします」
「呪いは簡単には終わらない。娘さんが助かっても、まだ苦しむことになるかもしれません。それでも、行いますか?」
「娘がやがて子供を産む時、同じように呪いが続いていたら、その時には、このことを娘に伝えて頂けますか?」
そして、魂を入れ替えるための儀式が執り行われた。
☆
南京錠が、少しだけ揺れたように感じた。
そして、しだいに中からの「音」は大きくなっていく。
恐怖とは何かが違う、不思議な感情が私を支配していた。
別邸の大きな扉に片耳を当てると、やがてその「音」の中に、小さな声が絡まり始める。
「……フミ……フミ……そこにいるのね……あなたの匂いがする……」
聞き間違いではない。明らかに声だった。
しかも、その声は柔らかい。
「……終わらないよ……私の呪いは終わらない……」
直後、背後からの声に私は飛び上がっていた。
「真美子! そんな所で何をしてる!」
父だった。
私は懸命に訴えていた。
「中に人がいるの! 声がしたの!」
そしてなぜか、涙が止まらない。
翌日、私が話した「フミ」という名前に、祖父である佐一郎も覚悟を決めたのか、総てを話してくれた。
数日後、座敷牢の解体が始まる。
その座敷牢の中、床、壁、そして天井まで、大量の「フミ」という文字が彫られ、埋め尽くされていた。
やがて、祖父の佐一郎は見えない誰かに謝り続け、狂ったように叫び出す毎日が続き、やがて亡くなった。死因は不明なままだったが、年齢的にもすでに若くはなく、突然死として扱われたということだった。
ただ、検死解剖時、なぜか肺の中に少量の結核菌に似た細菌が見つかったという。しかしそれは死因に直結するようなものではなく、ただただ医者を困惑させた。
祖父とユキさんとの関係がどれほどだったのかは結局分からないまま。御見合いから破談までの間にどんな関係が作られていたのか、私には想像するしかない。
それでも、二年ぶりに、座敷牢に入れられる前のユキさんの最後の姿を見ておきたかっただけの、何らかの深い繋がりがあったのだと思いたい。
決して、私はそれを呪いのキッカケだったとは思いたくない。
やがて、それから程なくし、父が事業に失敗する。
屋敷は売却され、その数年後には更地となった。
あれから三十年以上。
苦しい生活の中で、父は苦労したまま数年前に亡くなった。私から見ても、何も報われない生き方をした父だった。
今では前橋家の血筋は私──前橋真美子のみとなった。
気が付くと五十歳も目前。
望んだわけではなかったが、何となく結婚に対して臆病なまま独身を貫く形となった。
これが母の望んだこととは思えないまま生きてきたのは事実だ。
それか、私が母や祖母ほどの気持ちの強さを持てていなかっただけか。
これまでの総てが呪いの結果と言うつもりはない。
ただ、呪いは人が作るものであることを知った。
祟りとは違う。
そして、それはあまりにも重い。
私の中に母や祖母がいるのかどうかは分からない。
それでも、一人になった孤独な私の心の拠り所と言えるのは、それだけ。
ただ、あの時聞いた「音」と「声」は、未だに忘れることが出来ずにいた。
「……終わらないよ……私の呪いは終わらない……」