海原が闇黒に染まる、月すら見えない深夜。その音は、突然、静まり返るフェリーのトイレ奥から、聞こえてきた。どんっ…どんっ…どんっ…どんっ…フェリーの揺れに合わせるように、一定の間隔で刻まれるその音。ある程度の重量があるものが、壁に当たっているかのような音。その音が聞こえてきた瞬間、洗面台で手を洗っていた俺の背筋には、氷柱(つらら)でも突っ込まれたような、氷点下程も冷たい悪寒が走り抜けた。恐る恐る目を上げ、トイレの奥を見ると、そこには、ドアが閉まったままの用具入れがあった。ごくり…と、俺は、生唾を飲んだ。恐怖で体は強張るのに、何故か俺は、その音の正体を確かめたくなって、用具入れの方へと足を進めた…
*「どこの営業所?宵星(よいぼし)運輸(仮名)のドライバーでしょ?」
そう声をかけられたのは、去年の冬、まだ日も昇らない早朝、北海道行きのフェリーに乗った直後のことだった。甲板からラウンジへ向かう階段を上り切った時、突然、背後から聞こえた男性の声。驚いて背後を振り返ると、そこに立っていたのは、俺より10歳ほど年上かと思われる、恰幅のいい中年男性だった。着ている作業服は、俺と同じ会社の作業服。俺が勤務する運送会社は、そこそこの規模がある会社だ。営業所の数もそこそこある。おそらく彼は、他の営業所のドライバーなのだろう。俺の所属してる営業所に、彼のようなドライバーはいないからだ。
「あぁ…お疲れ様です!北海道便ですか?自分、M営業所の神奈木(かんなぎ)です」
俺は、とりあえず、愛想よく笑ってそう答えた。するとその男性は、人の良さそうな笑顔を浮かべて言葉を続けた。
「M営業所か!最近できたばっかり所だね?俺はT営業所の島村。札幌ターミナルに行くの?」
「いえ、自分、今回は旭川なんすよ」
「旭川か!※低床(ていしょう) じゃ段差が嫌なとこだよな」(※大型低床四軸車のこと、車高が低くフロントやリアを擦り易い形状をしている)
「そうらしいですよね?俺のトラック新車なのに、フロントスカートやっつけたら嫌だなって思ってたんですよ。フェリー乗るのだって怖いんですから!」冗談めかしてそう言った俺に、T営業所の所属だという島村は、みるからに人が良さそうに笑った。
「できたばっかりの営業所だから、トラックも全部新車だもんな?よかったら、上のレストランで飯でも一緒にどうだ?」
「ああ、いいっすよ!じゃあ、ドライバーズルームに荷物置いたら、風呂行く準備してレストラン行きますよ」
同じ会社の所属であり、しかも、随分と人の良さそうな島村の物腰に安心した俺は、そう答えて、ドライバーズルームのドアを開けた。
「待ってるよ!」
ニコニコしながらそんなことを言った島村は、何故か、ドライバーズルームには入らずに、レストランに向かう螺旋階段を上って行った。
ドライバーズルーム内で割り当てられたベッドスペースに、着替えやら、スマホの充電器やら、日用品やらを入れたリュックを放り込んで、俺はいそいそと風呂へ行く準備をした。財布とスマホを作業ズボンのポケットに押し込んで、島村が待っているだろう上階のレストランへと向かう。
『島村さん、飯を食ってから荷物置きに来る派なんかな?』そんなことをぼんやりと考えながら、俺は、螺旋階段を上りレストランの中へと入る。
早朝出航のフェリーには、思いの外人が多い。故にレストランには、一人で飯を食うドライバーと思われる人もいれば、大学生と思しき数人のグループや、北海道に旅行に行くのか、のんびりとビールを飲む老齢のご夫婦など、様々な人の姿があった。キョロキョロとレストランの中を見まわすと、フロアの端のほう、窓際の席に島村が座っている。明るいレストランの店内とは対照的に、窓の向こう側には、漆黒に揺れる海原が広がっていた。
「島村さん、お疲れ様です」
俺はそう声をかけながら、島村の向かいに腰をおろす。島村は、相変わらず人の良い笑顔を見せると、軽く手を上げて俺を出迎えてくれた。
「到着までには時間があるし、どうだい?一杯やるか?」
島村はそう言って、手でグラスを傾ける仕草をする。到着までには12時間近くあるから、1~2杯ビールを飲んだところで、北海道に着く頃には、アルコールは抜けているだろう。だが俺はポリシーとして、仕事をしてる時には酒を飲まないことにしている。
「ああ、自分は大丈夫っす!とりあえず、何か食いますか。島村さんは飲みますか?枝豆とか頼みます?」
「じゃあ、ビールと枝豆、頼んでもらうかな」
島村がそう答えたタイミングで、レストランスタッフが、端末を片手に注文を取りに来る。俺は、瓶ビール1本と、枝豆、フライドポテト、そして刺身の盛り合わせを頼んだ。水はセルフサービスだと告げ、レストランスタッフは、オーダーを通しにキッチンの方へ向かっていく。
それを見送ると、何故だか、ひどく気だるい疲労感を感じて、俺はふと、窓の向こうに視線をやった。夜明けが近いというのに、冬のせいか、まだ空の色は黒い。東の果ては、薄墨色に明けてきている。だが、漆黒に覆われた海原には、フェリーが巻き起こす白波だけが、不鮮明に消えていくのみだった。その光景は神秘的でもあるが、それ以上に、まるで自分が、果てしない闇の中に飲み込まれていくような感覚がして、俺は、奇妙な恐怖に襲われた。フェリーの中は、暖房が効いていて暖かいのはずなのに、背筋にゾクゾクと冷たいものが走る。
「神奈木君」
そう声をかけられて、窓の外をぼーっと見ていた俺はハッとする。俺は慌てて、声をかけてきただろう、島村を振り返った。
「あっすいません…関東から、寝ないで港まで走ってきたんで、ちょっと眠たくて」
俺がそう答えると、島村は相変わらず人のいい笑顔で答えた。
「わかるわかる。関東から、フェリーが出る港までは、8時間ぐらいかかるのに、とんでもない時間に積込が終わって、そのまま寝ないで、ノンストップで走らなきゃいけないからな」
島村がそう言った時、俺たちが座るテーブルに、ビールが運ばれてきた。「こちら、瓶ビールとグラスですね」と言葉を添えて、レストランスタッフは、俺の前に、ビール瓶とグラスを一つだけ置く。俺はそれを、島村の前に置き直した。怪訝そうな顔をしたレストランスタッフが、ちらりと俺の顔を見てから、迎いの席を見て、「失礼します」と会釈し、そそくさと去っていく。俺は、ビール瓶を片手で取り、グラスに黄金色の液体をそそぐ。グラスの中で白く泡立つそれを見ながら、俺は言った。
「フェリーに乗っちゃうと楽なんすけど、港までたどり着くまでが、眠たくて辛いっすね。でも、俺、結構フェリー使う仕事好きなんすよ」
俺がそう言うと、何故か…突然、島村の顔から、あの人が良さそうな笑顔が消た。唐突に、不気味なぐらい無表情になって、ビールに手をつけようともせず、島村は、うつむき加減になる。
「フェリーの仕事、好きかい?」
唸るような低い声で、そう聞き返してきた島村の視線が、俺の顔を舐めるように見た。気のせいなのか…あるいは、フェリーの揺れに合わせて左右に揺れる灯りのせいなのか、眼前に座る島村の瞳孔が、真っ黒に淀んだような気がした。俺の言葉を待つでもなく、島村は無表情のまま、低い声で言葉を続ける。
「以前、他の会社の運転手に聞いたんだ…調度、この船と同じ時間に出航したフェリーに乗った時に…便所に入ったら、奥のほうから…どんっ…どんっ…て、壁を叩くような音が聞こえてきたんだそうだ…」
「…え?え??」
俺は、島村が唐突に何を話し出したかわからずに、ただただ戸惑った。戸惑う俺などお構い無しに、島村は、焦点の合わない目つきで話を続ける。
「そいつ、その音が気になって…便所の奥のほうに行ったんだそうだ。そこには用具入れがあって、音はその中から鳴ってたらしい…船が揺れるから、そのせいで、中に入ってるほうきか何かが、壁にぶつかってるんだろう…って、そいつは思った。で、そいつ、用具入のドアを開けたそうだ…」
「………。」
「何があったと思う?」
「い、いや…わからない、です…」
「黒い…黒い影みたいな人型の何かが…自分の頭を…用具入の壁に、どんっ、どんっ、って…ぶつけながら、そこに立ってたんだそうだ…」
「え…えぇ……っ?!」
何故、島村がそんな話を始めたのか、俺にはまったく意図がわからなかった。ただ、彼は、黒く淀んだ焦点の合わない目つきのまま、無表情でまっすぐに俺を見ている。おそらく、今、島村が話してくれたのは、所謂、怪談話の類だろう。別に怪談話は嫌いではないが、あまりにも唐突だったため、『人が良さそうで愛想の良い人』と言う最初の印象は、俺の中で覆り、この人は何か精神疾患でも患っているのだろうか?と本気で思った。目つきも顔つきも、一瞬で変わったことにも、そこはかとない恐怖を覚える。その場から逃げたい衝動にかられ、思わず目線を向けたレストランの窓には、引き攣った表情の自分自身が映っていた。島村に視線を戻すと、その顔は、青ざめて血色が無くなっている。心なしか、やつれても見える。ひたすら困惑している俺のことは気にも止めず、先程よりも低い声になって、島村は更に話を続けた。
「その話を、そいつから聞いた後に…実は…俺も、聞いたんだ…フェリーの便所で、壁に何かがぶつかる、どんっ、どんっ、って音…」
「え?」
「あの日も、フェリーに乗ってすぐ、レストランでビールを一杯飲んだんだ。そしたら、なんか小便したくなって、便所に行ったんだよ。用足してたらさ、便所の奥の方から…どんっ、どんっ、て何かが壁にぶつかるような音がしてきて…その音が気になって、用足しの後にな、便所の奥に行ったんだよ。そこ、用具入れになっててな…俺も、開けてみたんだよ…用具入れ…そしたら、ほんとに…黒い人型が…黒い人型が…頭を壁にぶつけながら、立ってたんだ」
「ま…まじ…す、か?」
俺は、背中にうすら寒いものを感じながらそう聞き返した。すると、無表情だった島村な顔が、今度は、急に歓喜の表情に変わる。何がそんなに嬉しかったのか、口角だけがくいっと上がって、気持ち悪いほどニコニコしだしたのだ。だがその笑顔は、最初に出会った時の人の良さそうな笑顔ではなくて…何と言って表現したらいいのかわからないが、何かを企んでいるような、何か裏があるような、そんな作った笑顔に見えた。相変わらず、目の焦点は合っておらず、瞳孔は開いたように真っ黒なまま。そんな島村の様子を見ていたら、船酔いした訳でもないのに、俺は、胃の底が持ち上がるような吐き気に襲われてきた。危ういところで、吐くのをこらえる。俺の顔色も、島村同樣、かなり青白くなってたんじゃないかと思う。だがやはり、そんな俺の様子は全く気にかけることもなく、島村は嬉しそうに話の続きを始めた。
島村の話はこうだ。
用具入を開けた島村は、頭を壁にぶつけながら立っている黒い人型を、しばらく呆然と眺めていた。関東で荷物を積んで出発し、そこから、仮眠すら取らないまま港まで走ってきて、その疲労と眠気で幻覚を見てるのかもしれない…と、島村は思った。だから島村は、確かめたくなったそうだ。その黒い影の正体を…そして、何故、壁に頭をぶつけているのかを…
「おい…っ、おまえ…っ!一体、おまえはなんだっ?何で頭なんかぶつけてやがるんだっ?!」
島村は叫ぶようにそう言って、その黒い影の肩に手を伸ばした。自分の手は虚空を掴むのかと思ったが、なんとその手は、その得体の知れない黒い人型の肩を、しっかりと掴んだそうだ。ぐいっと自分の方に引き寄せた瞬間、その黒い人影の顔あたりがぐにゃりと歪んだ。まるで渦を巻くようにぐるぐると回転した そいつの顔は、その次の瞬間で、よく見知った顔に変わった。
「っいぃっ!?」それは…そう、それは紛れもない、島村自身の顔だったそうだ。だがそいつは、瞳孔が開き、黒目は真っ黒に淀み、顔は無表情で精気がなく、まるで死人のように青白かった。ぼんやりと虚空を見上げながら、左右に体を揺らし、フェリーの揺れに合わせるように、どんっ、どんっ、と用具入れの壁に、なおも頭もぶつけている。それを見た瞬間、全身の毛が総毛立ち、冷気のような寒気が、島村の全身を凍りつかせた。言い知れない不気味さと恐怖が、心を支配し、体格の良いその体がガタガタと震え出す。島村は、声にならない叫びを上げ、慌てて踵を返した。額からは、大粒の汗が垂れ流れる。
何だあれ!?何なんだあれ!?俺!?俺なのか!?あれは俺なのか!!?触れてはいけないものに触れてしまった…
島村は、本能でそう悟ったそうだ。レストランに残した飲みかけのビールなど気にも止めず、トイレを飛び出した島村は、螺旋階段を駆け降り、下の階にあるラウンジへと全力疾走で向かう。だが、島村は、そこである違和感に気がついたのだ。フェリーに乗った直後は、通路にも、階段にも、階段の踊り場にも、ラウンジにも、沢山の乗船客がいた。だがどうだろう、必死で螺旋階段を駆け下りて、たどり着いたラウンジには、誰一人として乗客の姿がなかったのだ。それどころか、ラウンジのカウンターにいた、フェリースタッフ達の姿すらない。荒い息をしながら立ち止まり、ぐるりと 周りを見回すが、そこには、ただ、左右ゆっくりと揺れるフェリーの明かりだけが灯っているだけ。なんだこれ?!どうして誰もいないんだ!?これは一体どういうことなんだ!?
混乱する頭の中で、島村は、そう自問自答する。ほんの短い時間の中で、何度も何度も考えを巡らすが、全くそれにふさわしい答えが出てこない。そんなことをしていたら、急に何者かの足音が、階段の上の方から降りてきたのだ。島村は、頭を抱えたまま、ゆっくりと階段の上を見る。きゅっ、きゅっ…と安全靴の底が鳴る音が聞こえてくる。島村は、恐怖で全身を強張らせた。螺旋階段からゆっくりと姿を現したのは、間違いなく、自分自身だった。おそらく、さっきトイレの用具入れで見た、得体の知れないあいつに違いないのだろう。
「ひいっ…!」
気が強いはずの、歴戦のトラックドライバーが、変な悲鳴を上げて後ずさった。ゆらり、ゆらり、と、フェリーの揺れに合わせるように、体を左右に揺らしながら、無表情で精気のない自分自身が、ゆっくりと島村に近づいてくる。島村は、ラウンジから船外デッキに出るドアを叩くようにして押し開けて、冷たい海風が吹きすさぶデッキに逃げ込んだ。バタン!と大きな音を立てて、ドアが締まる。デッキの手すりの向こうに広がる、漆黒の海原。フェリーが波を切る音が響き渡り、風の鳴く音が、まるで死者の悲鳴のようにも聞こえてくる。手すりにすがりついた瞬間だった。島村の頭上から、不意に風を切るような音がした。
「っ!?」
ハッと目線を上げると、なんと、船の上階デッキから、黒い人影が降ってきたのだ。
「いぃっ!?」
変な悲鳴をあげる島村の目の前。頭を逆さまにした黒い人影が、暗黒の海原へと落ちていく。真っ黒な海の中に吸い込まれるように落ちたその人影は、波しぶきも立てぬまま、海の中に沈んでいった。
と、飛び降り自殺?!
島村の頭にそんな言葉がよぎった時だった。ぎぃっと背後で、ドアが開く音がした。島村は、全身をこわばらせ、ゆっくりと背後を振り返る。そこに立っていたのは、そう…もう一人の、あの、まるで死人が歩いているような姿をした、自分自身だったのだ。
「何なんだ!何なんだよてめぇ!!」
そう叫んだ島村の首元に、もう一人の自分の手が絡みつくように伸びてくる。
「っうぐっ!」
喉の奥で息が詰まった。ものすごい力で、もう一人の自分が、自分の首を締め上げてくる。息ができない。腹の中のものが逆流しそうで、だけど外に出ることができなくてさらに苦しくなる。ゴボゴボと溺れるような変な音が、自分の喉の奥から聞こえてくる。酷い頭痛と吐き気がする。痛い!苦しい!このままじゃ死ぬ!死んでしまう!殺される!俺に殺される!
そう思った時、島村は、とっさに両手を伸ばし、自分の首を絞めてくる自分の頭に、その両手を置いたのだった。そして、その髪の毛をわし掴みにすると、ものすごい勢いで、髪の毛をひきむしった。
ブチブチブチブチっ!髪の毛が勢いよく引きちぎれる音がした…
次の瞬間。島村は、ドライバーズルームの自分のベッドの上で、目を覚ましたそうだ。全身は汗だくになり、息も心拍数も上がっている。慌てて上半身を起こすと、そこは、何の変哲もない、いつもフ、ェリー乗船時に泊まっている、ドライバーズルームの1スペースだった。ベッドのカーテンを開けて、恐る恐る周りを見回してみると。あちらこちらから人の話し声がして、トラックドライバーたちが歩き回っていたそうだ。
「なんだ…夢か……っ!夢……かっ!」島村はそう思って、ホッと胸を撫でおろした。だがしかし、さりげなく自分の手を見ると、指の隙間に、無数の髪の毛が絡みついていたそうだ。背筋に冷たいものを感じた島村は、その髪の毛を、慌ててゴミ箱の中に捨てた。
一気にそこまで話した島村は、何故か、喜々とした表情で俺の顔を見つめる。
島村の話は、つまり、フェリーの中で見た えらく気持ちの悪い夢の話だったようだ。たが…俺の体には、絡みつくような悪寒が残ったまま、胃の底からは、吐き気が湧き上がってくる。夢の話…確かに、島村の身に起こった出来事は、現実とはかけ離れたものだったかもしれない。だが…それは本当に夢の話なのか?俺の心の中に そんな疑問が湧き上がる。何故なら、目の前にいる島村の目は、瞳孔が開き黒く淀んだまま。青白い顔をして全く精気がない。心なしかやつれていて、その容貌は、島村自身が夢の中で見たという、もう一人の 島村と、同じような容姿に変わっていたからだ。
「島村さん、すいません。俺、なんだか船酔いしたみたいで、風呂入ってもう寝ます。ここの代金、俺が全部払っておくんで、ゆっくり飲んでてください」俺はそう言うと、慌てて席を立った。悪寒と鳥肌が止まない。得体の知れない不気味さと恐怖が、俺の全身を支配していた。俺は、島村だけが残ったその席を振り返えることもせず、急いで支払いを済ませた。先ほど、注文対応してくれたスタッフが、レジ対応もしてくれていたが、ひどく怪訝そうな顔をして、レシートと釣を俺に渡してくる。そんな表情に構ってられる訳もなく、俺は、吐き気と格闘しながら風呂に入り、その日は、さっさと寝た。
その日の夜、フェリーは北海道に到着さた。下船時、島村の姿を甲板で見ることはなかった。
深夜、旭川に到着し荷物を下ろして、札幌ターミナルに向かう。朝一番に、札幌で積み込みをし、またフェリーに乗って関東に帰るのだ。
札幌ターミナルに着いた時、隣の※バース(※荷積、荷卸をする場所)に同じ会社の大型が停まっていた。ナンバーを見ると、T 営業所のトラックだった。島村のトラックかと思い、なんとなく気が引けたが、無視する訳にもいかず、俺は 荷台の中に声をかけた。「お疲れ様です」
すると荷台の中で作業をしいたドライバーが、こちらを振り返った。その顔は、決して島村ではなく、俺と同じぐらいの年齢だろう、別のドライバーだったのだ。
「ああ!お疲れ様です!」そのドライバーは俺の姿を見つけると、にこやかにそう答えた。「俺、M営業所の神奈木です。これ、T営業所のトラックですよね?昨日、フェリーの中で、別のドライバーに会いましたよ同じフェリーに、この車も乗ってたんですか?」
俺がそう言うと、、すでに全ての荷物をおろし終わっていたそのドライバーは、グローブを外しながら、ひどく怪訝そうに俺の顔を見返してきた。
「自分、T営業所の西浦です、よろしくです。ってか…今回、北海道便は俺だけだったんで、うちの営業所のやつは、他に来てないはず…」
「え…?」
西浦と名乗った、T 営業所のドライバーの言葉を聞いて、俺の頭の中は一瞬真っ白になった。それで俺は 聞き返した。
「西浦さん、昨日はどこの港から乗船しました?」
「俺、A港からだよ。他の営業所の車がいるのは、甲板で見てわかったけど、顔合わせなかったよね」
A港は、間違いなく、昨日、俺が乗船した港だった。この西浦というドライバーとは、顔を合わせてはないが、島村というドライバーには、絶対に出会っていたはじ。これは、一体、どういうことだ?島村は確かに、T営業所と言ってたはず。どうしても、記憶と辻褄が合わなくて、俺は、西浦に聞いた。
「西浦さん、T営業所に、島村さんっていうドライバーいますよね?」
その名前が出た瞬間、西浦の顔があからさまに曇った。
「ああ…島村さん…いたけど…1年ぐらい前、亡くなったんだよ」
「はっ!?」
思いがけないその言葉に、俺は驚愕した。西浦の話はこうだ。島村は1年ほど前、北海道便のため、今回と同じフェリーに乗船していた。そのフェリーの中で、彼は脳梗塞を起こし、発見された時、辛うじて息はあったが、結局、フェリーの中で亡くなったそうだ。
「島村さん、俺の教育係だったんで、ショック受けましたよ、俺…脳梗塞だったから、ちょっとおかしくなってたみたいで、トイレの用具入れの中で見つかったんだそうですよ痙攣しちゃってたみたいで、頭を用具入れの壁に何度もぶつけてて、出血と、吐いた物で、かなりヤバイ状況で発見されたらしいんすよ…まあ、俺が直接見た訳じゃなくて、聞いた話なんで、本当か嘘は分からないんですけど…」
西浦の話を聞いて、俺は、言葉を失った。荷物を降ろすのも忘れ、ひたすら、その場で立ち尽くしてしまった。T営業所の島村というドライバーは、1年前の冬、あのフェリーの中で病死していた。だとしたら…昨夜、俺が会った島村は…一体、何者だったのか…?そう思って、俺は全身に立つ鳥肌を抑えられなかった。
※そして、今夜。俺は数ヶ月ぶりに、北海道に向かうフェリーの中にいる。T営業所の島村に出会った、あのフェリーの中に…だ。あの日、島村は言っていた。他の会社のドライバーが、トイレの中で異音を聞いて、用具入れを開けてみたら、そこに黒い人型がいて、壁に頭をぶつけていた、と…そして、島村もまた、フェリーの中で、トイレの用具入れから聞こえる異音を聞き、開けてみたら、黒い人影が壁に頭をぶつけているのを見たのだ、と…結局、その黒い人型は、病死した島村本人だったのか、あるいは、別の何かだったのか、俺は知らない。もしかすると、フェリーの中の用具入れに出現する黒い人型は、『伝染する何か』なのかもしれない…何故なら、その話を聞いた俺の耳にも、はっきりと、その音が聞こえているからだ。
どんっ…どんっ…どんっ…どんっ…トイレの奥の用具入れから聞こえる、壁に何かをぶつけているような、その音。
背筋は悪寒が走っている。鳥肌も止まらない。全身の毛も総毛立っている。だけど…その音がどうしても気になって…どうしても気になりすぎて…俺は、用具入れのドアノブに、今、手をかけた…
【了】