「最近、タンブラー使っているんですね」
そう話しかけたことがきっかけだった、とAさんは言いました。
話しかけた相手は仕事仲間のBさん。
高齢者が多い職場で、Aさんと同年代なのはBさんだけでした。
そのせいもあってか、2人きりで話をする機会は多かったといいます。
Bさんは仕事の合間に大きなマグカップにインスタントコーヒーを適当に入れ、なみなみとお湯を注いでは、ふうふうと冷ましながら時間をかけて飲んでいました。
やたらとでかいマグカップは旅行に行った先でお土産として買ったものだと、Bさんは言っていたそうです。
それがいつの頃か、Bさんがマグカップではなく、タンブラーを使っていることにAさんは気づいたのです。
確かにタンブラーは保温性があります。
一度に大量にコーヒーを入れるBさんが、マグカップから鞍替えしても何の不思議もありません。
Aさんが、
「最近タンブラー使っているんですね。マグカップはもう使ってないんですか?」
と声をかけたのも、単に目についたタンブラーを会話のきっかけにしたかっただけでした。
しかし、Aさんの言葉を聞いたとたん、Bさんはびくっと肩を震わせると、思いつめたように黙り込んでしまったといいます。
しばらく重苦しい沈黙が続いた後、Bさんはタンブラーを両手で握りしめたまま、
「Aさんっておばけ信じる人?」
と聞いてきました。
正直この時は、何だか面白そうな話が聞けそうだ、くらいにしか思わず、
「信じるよ。何かあった?」
と軽い調子で尋ねました。Bさんはほっとした表情を見せると、
「こんなこと言うと変な人って思われるかもしれないけど…実はこのところ、マグカップのコーヒーに変な影が映るようになっちゃって…」
と声をひそめて話してくれました。
「Aさんも知ってると思うけど、私、コーヒーはいつもブラックだから、コーヒー飲む時、カップを口に近づけると、自分の顔が映るのよ。でも最近、自分の顔の後ろに人影があるのに気づいて…誰かいるのかと振り返ってみても誰もいないの」
Bさんも最初は単なる気のせいだと思っていたそうですが、その後もたびたび真っ黒なコーヒーの表面に、影を目撃するようになったといいます。
「いつも映るの?」
とAさんが訊くと、
「必ず映るわけじゃないんだけど、だんだん回数が増えてきてて」
「どんな影?後ろに立っている感じ?」
「それが、私の顔に重なるようにすぐ後ろに顔が見えるの」
確かにカップを口元に持っていけば、映る範囲は限られます。そのため、本人によほど接近していないと映るはずがありません。
つまり、その顔はBさんの頭の真後ろにいることになるのです。
そのことに気づいたBさんは、すっかり怖くなってしまい、ついに耐えきれなくなって表面が見えないタンブラーに変えたとのことでした。
何気ない雑談のつもりが、思いもよらない怪談話へと発展し、この時のAさんはまだ、恐怖よりも興奮の方が勝っていたといいます。
「顔に見覚えはないの?」
とAさんは訊いてみました。
Bさんの顔と重なるように映っているため、はっきりとは見えないものの、目元や口元を見る限り、心当たりはないとのことでした。
Bさんいわく、髪は短く、目はほそく、どうやら口元は薄い印象で、Bさんと目が合いそうになると、Bさんの後ろに隠れるように移動していくそうです。
「生霊なんじゃないの?ひそかにBさんのこと思っている人がいるとか」
Aさんは冗談半分にそんなことも言ってみましたが、
「それも怖い」
とBさんには真顔で返され、Aさんなりの気遣いは不発に終わってしまったようでした。
とはいえ、タンブラーに変えてからは、コーヒーに浮かぶ顔を見ることはなくなり、Bさんが怯えることもなくなりました。
もしかしたらマグカップを使えば、やっぱり顔は映るのかもしれませんが、見なければいないのと同じです。
少なくともBさんにとっては、文字通り問題にフタをすることで、以前と変わらない平穏な日々が戻ってきたということでしょう。
それからしばらくたったある日、Aさんが出社するとBさんが血相を変えて、
「ちょっと相談に乗ってくれる?」
と怯えたように話しかけてきました。
Bさんの様子を見て、Aさんはすぐにあのことかと思ったといいます。
昼休みに話を聞いてみると、
「夕べ寝る前にスマホしてたの。それで電源を切ったらスマホの真っ暗な画面に、あのコーヒーの男が映ったのよ」
とBさんは泣きそうになりながら訴えてきました。
「自宅でも背後にあの顔が立っていたってこと?」
Aさんが訊くと、Bさんは首を振り、
「私、ベッドに寝転がってたのよ」
と言いました。
Bさんが言うには、ベッドにあおむけに横たわり、スマホは天井に向けて持っていたそうです。当然、Bさんの背後にあるのは枕だけ。
Bさんの顔の後ろに映る影は、Bさんと枕との間にいたことになりますが、当然そんなことはあり得ません。
「どうしよう、すごく怖いんだけど」
Bさんが怯えるのも無理はありませんでした。
コーヒーの件は百歩譲って、光の屈折などで社内の誰かが映った可能性も考えられます。
しかし、今回は物理的に何かが映り込むのは不可能な状況です。
しかも、Bさんは1人暮らし。そもそも映り込む他人がいません。
これまでは好奇心が先立ってワクワクしていたAさんでしたが、ようやく不気味なことが起きているのだと実感しました。
とはいえ、残念ながらAさんに霊感はありません。
これまで一度も幽霊やお化けは見たことがなく、どれだけ頭をひねっても、Bさんの身の上に起きている問題を解決する方法など思い浮かびませんでした。
そんなAさんにできることといえば、
「近くのお寺や神社にお祓いに行ってみたら?」
と勧めることくらいしかありません。
「そうだよね…ごめんね、変な話を聞かせて」
Bさんは困り顔で謝ると、そのまま話は終わってしまいました。
その日の夜、Aさんは夢を見たのです。
Aさんの目の前には、マグカップでコーヒーを飲むBさんがいました。
この時、これはお化け視点の夢なのだと、Aさんは気づきました。
この状況なら真相がわかるかもしれないと思い、Aさんは辺りを見回しましたが、Bさんの背後には何もいません。
もしかしたらお化けは肉眼では見えないのかもしれない。
何かに反射した形でしか確認できないのではないか。
鏡や水面にだけ映るお化けの話もあるし、と思い立ったAさんは、夢の中のコーヒーに影が映っていないかと、Bさんに近づき、マグカップを覗き込んでみることにしました。
すると、Aさんの予想通り、そこには髪は短く、目は細く、薄い唇をした顔が映り込んでいたのです。
それは、Bさんの話を聞きながら、Aさんが脳内で想像した通りの顔でした。
それだけではありません。
背後から見ると、Bさんの話以上に影の姿が確認できます。
それはひどく痩せており、生気のない虚ろな目をしていました。
スーツを着ているところを見ると、社員の誰かかもしれません。
しかし、Aさんはこの時、奇妙な感覚に襲われたといいます。
何だか、この顔、見たことがある。
そう思ったのです。
もしこれが生霊であれば、自分が思い出すことで、その人物を特定できるのではないか。
Aさんはそう考えて必死に記憶をたどってみました。
しかし、夢の中だからでしょうか、何だか頭の中がぼんやりとしていて、これという人物を思い出すことができません。
そのうち、すぐ目の前に座っていたBさんの頭がゆっくりと動きます。
椅子を回転させ、振り返ろうとしているようです。
もし夢の中でBさんと話ができるなら、自分が今見たことを伝えて、2人で人物を特定できるのではないか。
そう考える一方で、しょせんこれは夢、という気持ちもAさんの中にないわけではありませんでした。
Bさんが振り返り、Aさんと目が合った途端、
「ぎゃああああ!」
激しく怯えた表情でBさんが叫び声をあげました。
え?
その瞬間、ぱっと目が覚め、気が付いたら朝でした。
起きるにはまだ早い時間帯でしたが、びっしょりと寝汗をかいていたため、Aさんはシャワーを浴び、早々に会社へと向かったのです。
変な夢だったけれど、何か問題解決のヒントになるかもしれない。
そうAさんは思っていました。
こんな夢を見るなんて、もしかしたら自分は霊感に目覚めたのではないか、とも考えていたそうです。
そもそも夢の中で夢だと気付く明晰夢自体、Aさんが見たのは初めてでした。
会社に到着するやいなや、Aさんは荷物も置かず、Bさんの席へと向かいます。
少しでも早く夢の話がしたかったのです。
Bさんの後ろ姿が見えてAさんは、
「Bさん!」
と声をかけました。Bさんの椅子がゆっくりと回転します。
この時、Aさんの脳裏には一瞬、夢の光景がよぎりました。
しかし、もちろんあれは夢。
当然、そんなことは起きませんでした。
BさんはAさんの方を見ると笑顔を見せて、
「おはようございます」
と軽く頭を下げました。
夢とわかっていたものの、笑顔を見るとやはりホッとします。
これでやっとBさんと夢の話ができる。
そうは思うものの、やはりしょせん夢という思いが消えず、Aさんはなかなか話を切り出すことができません。
Bさんの前でためらっているAさんに、
「何か御用ですか?」
とBさんは笑顔で尋ねます。
しかし、その言葉にAさんは違和感を覚えました。
妙によそよそしく聞こえたからです。
「え、あの、コーヒーの話なんだけど」
ためらいながらAさんが言うと、Bさんはいぶかしげに眉をひそめ、
「コーヒー?」
何のことかわからないと言いたげに、困ったような作り笑いを浮かべたのです。
Aさんは戸惑ってしまいました。
Bさんは記憶喪失になってしまったのだろうか。
思った以上に深刻な事態が起きているのでは、とうろたえるAさん。
すると、同僚2人が歩み寄ってきて、
「ちょっとこちらに来ていただけますか」
やたらと丁寧な言葉ながら、うむをいわさぬ強い口調で、両サイドからAさんの腕を掴み、そのまま別室へと連れていかれてしまったのです。
「何が起きたのか、今でもさっぱりわからないんですよ」
Aさんは当時のことを思い出しながら、そう話してくれました。
戸惑っているAさんを椅子に座らせると、同僚達は無表情のまま、
「これ以上、Bさんにつきまとうのはやめてください」
と言ったのだそうです。
「つきまとう?」
何のことかさっぱりわからずにいると、すぐに部長がやってきて事態を説明してくれました。
部長の話によれば、AさんがBさんにつきまとっていて、Bさんが困っているというのです。
しかもAさんは社員ではなく部外者なので、会社に入ってきてもらっては困ると。
社員ではない?
そんなはずはありません。
昨日まで自分の席について仕事をしていたし、部長のことも同僚のことも、Aさんは詳しく知っているのです。彼らの名前も役職も、担当している仕事内容だって言えと言われれば詳しく言うことができました。
Bさんにだって、つきまとうことなんてしてないし、むしろ相談に乗ってあげていただけなのに。
そうだ、とAさんは気づきました。
つきまとっていたというなら、コーヒーに映っていた、あの顔の人物のことではないだろうか。
髪が短く、目が細く、薄い唇のスーツ姿の男。
その人物に自分ははめられたのではないか。
そう思った時、目の端に人影が映りました。
Aさんが目をやると、すぐそこにあの顔の人物が立っています。
ほら、あの人!
あの人がBさんにつきまとっていた真犯人。
でも、もう一度よく見ると、それは鏡でした。
鏡に映った自分の姿でした。
「現実的に考えたら、私の頭がおかしいってことなんでしょうけど」
Aさんは未だに理解できないといった様子で、困ったように笑いながら言いました。
「でも、もしそうなら、部長や同僚のことを私が詳しく知っているのはおかしいなと思うんですよ。部外者が会社に侵入したからといって、そこまでわかるものなんでしょうか」
Aさんは自問自答するように呟きます。
「Bさんのデスクの上には、見覚えのあるタンブラーもあったし、給湯室にはBさんのマグカップも置いてあった。その時やっていた仕事の内容は、今でも覚えているんです。もし自分が部外者だったのなら、あの会社で働いていた社員としての記憶はどこから来たんでしょうか」
夢を見たあの日から変わってしまった自分という人間に、Aさんは今でも戸惑ったままだといいます。
たまたま入った居酒屋で隣り合わせになったAさんの話。
「Aさんがおかしくないとすると」
僕は、無い知恵を絞って考えたアイデアをAさんに伝えてみました。
「会社ぐるみでAさんを追い出さなければならない何かがあったということですかね」
Aさんは生気のない、うろんな目で遠くを眺めながら、
「そうなるとヒトコワになりますか」
とぽつりと呟きました。
たぶん彼はわかっているし、僕もわかっている。
ヒトコワだと夢の説明がつかないことに。
あの日、会社から追い出された後、彼は自分の家にどうやって帰ればいいか、思い出せなくなっていたといいます。
一夜にして仕事を失い、家を見失った彼は、そのまま全国を放浪しているのだそうです。
短期の仕事を繰り返しながら生活していると言っていました。
長期契約の仕事に就くと、いつまた部外者として追い出されるかわからない。
それが怖いからだそうです。
でもね。
おかしいんです。
彼は目が細くもないし、唇が薄くもなかった。
彼が鏡に映った自分だと思ったのは、本当に彼だったのでしょうか。