当時、田舎の中学三年生だった俺は、仲間とつるんで夜遅くまで遊び歩く悪ガキだった。不良や暴走族に憧れて、テレビやマンガの真似をするのがカッコイイと無条件に信じてる子供だったんだ。
中坊の俺たちは皆大体金がないので、遊ぶといえば仲間の部屋でたむろしてマンガ読んだりゲームしたりするくらいなんだが、カッコつけたいヤツがタバコを吸いたがるもんだから仲間の親から出禁をくらってしまい、俺たちは行く当てもなくその辺の公園でダベって腹減ったら帰る、みたいな毎日を過ごしていた。
そんなある日の昼休み、教室のすみっこで適当に集まっていると、ふと仲間のひとりがこんなことを言ってきた。
「オレさ、遊び場になりそうなとこに心当たりあるんだけど」
そいつ――リュウは俺らの仲間内に時々混ざってくる、別のクラスの奴だ。仲間内ではいちばん背が小さくて、サシで遊んだことはないけど、気付くと遊びの輪の中にいるから、他に仲がいい奴がいるんだろう。
その場にはリュウと俺、リーダー格のハヤト、調子のいいタカオの四人がいて、退屈していた俺らは皆リュウの話に飛びついて続きを迫った。
「オレんちの近所にある古いボロアパート、大家が死んでから誰も住んでなくてさ。細い路地の奥だから人目にもつかないし、ちょっと行ってみないか?」
俺たちは顔を見合わせた。
「てことは、廃墟か。誰も住んでないったって、鍵かかってて入れないんじゃ意味ないじゃん」
ハヤトが腕組みをしながらぼやくと、リュウは意味深な笑みを浮かべた。
「大丈夫」
リュウの話によると、以前そのボロアパートの探検をしたことがあり、その時に一階奥の部屋のドアの鍵が壊れていたというのだ。ドアノブをひねったらちゃんと開いた、とも付け加えた。
「電気が通ってないからゲームは無理だけど、隠れ家みたいで面白いと思わねえ?」
好奇心をくすぐるリュウの言葉に、タカオが身を乗り出して目を輝かせた。
「めちゃくちゃ面白そう! 行きたい行きたい、なっ!」
振り返って同意を求めてくるタカオに俺は、うーん、と唸りながら小さくうなずいた。
「大人に見つからねえんだったら、行ってみてもいいかも」
俺はちらりとハヤトの方を見た。リーダーのハヤトがどう反応するのかと見守っていると、ハヤトは意外にも、にやりと楽しそうな笑みを浮かべた。
「俺たちだけの隠れ家なんて最高じゃん。ガッコ終わったら案内しろよ」
リュウはもちろん、と言ってすぐ、小さな声でつぶやいた。
「絶対、誰にも言うなよ」
チャイムが鳴り、手を振りながらいち早く教室を出て行くリュウ。その後ろ姿を、俺たちも自分の教室へ向かいながら見送った。
そうして放課後。
リュウを先頭に、俺を含めた四人でさっさと学校を飛び出した。自転車をこぎながら、リュウの家の近所だというボロアパートを目指して爆走する。学校から駅前通りを走り抜け、山際の住宅街の外れへ向かっていくリュウを、三人で追いかけていった。
「こっちだよ」
リュウが入っていったのは、車一台やっと通れるほどの細い路地。学区内ではあるが、この地域に来るのは初めてだ。雑木林の中を走っているような緑色の細い路地に沿って、小さな古い家がぽつぽつと離れて並んでいる。どれも大体敷地や庭の奥に家があるせいか、周囲には人気がほとんどなくて、とても静かだった。
するとタカオが周囲を見渡し、どこか落ち着かない様子でつぶやいた。
「……こっちの方、前にばあちゃんから行くなって言われた場所、かも」
「何で?」
反射的にたずねてみると、タカオは俺の方を見ずに答えた。
「確か……『ジンタン』が出る、とか何とか」
「ジンタン?」
俺とハヤトが同時に声を上げた。
「ジンタンってあれだろ、コマーシャルでやってる小さい粒。親父が持ってるやつ盗んで食ったら、めっちゃくちゃ不味かった」
「ハヤト、さすがにそれは違うんじゃね」
笑い合う俺たちに、いつもなら調子よく合わせてくるタカオだが、その時は暗い表情のまま少しもノッてこなかった。
「俺もよく知らない。忌み地がどうとかって言ってた気がするけど、ばあちゃんそれ以上教えてくれなかった。その後ボケて話せなくなって、すぐに病気で死んじゃったし」
先を行くリュウは、黙って自転車をこぎ進めている。俺とハヤトは顔を見合わせ、何ともないって、と適当に励まして話を逸らした。しかし内心、ジンタンって何だろう、と少しだけ頭の中にその言葉が引っかかった。
「あそこ」
リュウが自転車を減速させた。ゆるい坂道を少し下った先の脇道に、するりと入っていくリュウを追って、ハヤトとタカオ、俺の順に続いていくと、その先に古くて小さなアパートが見えてきた。脇道いっぱいに覆いかぶさる樹々のせいで、緑色に染まって見えるボロアパートの正面に、俺たちは自転車を停めた。
「うひゃ、すげえボロッちいな。面白そう」
さっきの暗い顔が一瞬で吹っ飛び、いつものハイテンションに戻ったタカオが声を弾ませる。ハヤトも周囲を確認しながら、満足げに腕を組んで言った。
「その辺の家からも離れてるし、ここなら人目を気にせずに出入りできるな。ガッコからちょっと遠いけど、なかなかいいじゃん」
ボロアパートは上下二部屋ずつ、計四部屋しかない小さな建物で、サビだらけのトタン屋根とひび割れた外壁がことさらにみすぼらしさを際立たせていた。二階に上がる鉄骨の階段はかなり急で、雨の日などに滑り落ちたら大惨事になりそうだ。
ボロアパートの外観に見入っている俺たちを、リュウが手招きする。俺たちはきょろきょろしながらリュウの後をついていき、一階の奥の部屋の前で全員が足を止めた。
「ここだよ。開けてみて」
薄汚れたドアをリュウが指差すと、好奇心旺盛なタカオが躊躇なくドアノブをひねった。
がちゃ。
「わ、ホントに開いた!」
「言った通りだろ。入ってみなよ」
リュウの言葉が終わる前に、タカオはドアを開けて部屋の中へ一歩踏み出した。俺とハヤトもその後ろから部屋の中を覗き込む。
「おおっ」
がらんとした六畳一間の部屋の中は、外観のボロさが嘘のように、拍子抜けするほど普通だった。蜘蛛の巣まみれでホコリだらけの部屋を想像していた俺たちは、我先に靴を脱ぎ散らかして部屋の中へ上がり込んだ。
「すげえ、ホントに秘密の隠れ家だ! 俺明日マンガ持ってこようっと」
タカオが畳に足を延ばして笑うと、ハヤトもあぐらをかいて伸びをしながらつぶやいた。
「電気がつかねえから、懐中電灯ひとつくらいはあった方がいいかもな」
「そうだな。俺も家ん中漁って一個かっぱらってくるわ」
ハヤトに相槌を打ちながら、俺も畳の上に足を投げ出した。そうしてわいわいしゃべっていると、リュウがまだ玄関先に立ったままなのに気付いた。
「入んねえの?」
声をかけると、リュウは俺の問いには答えず、俺たちに向けてこう言った。
「いつでもここで遊んで構わないけど、ひとつだけ約束して」
薄笑いを浮かべたリュウは、静かに続けた。
「夜中だけは絶対に、火を使うなよ」
俺たち三人はきょとんとした。ひと呼吸の後、おかんみたいなこと言うんだなとタカオが笑うと、リュウは薄い笑顔を崩さずに、こう返した。
「さっき話してただろ。『ジンタン』が出るからだよ」
タカオの顔が、一気にこわばった。
俺とハヤトも思わずリュウを見る。
「おま……知ってんの? ジンタンって何だ?」
「俺が知ってるのは、見ると寿命が縮み、聞くと死ぬ、ってことだけだ。じゃあな」
リュウはそれだけ言うと、手を振って部屋から出て行ってしまった。
「何だあいつ、案内しただけで帰っちまった」
「気にすんなタカオ、おまえのことからかってるだけだって」
俺とハヤトはタカオの肩を叩いてフォローする。だがタカオは、不安げな顔でうつむいていた。
「思い出した……俺もそれ、ばあちゃんに言われたんだ。見ると寿命が縮み、聞くと死ぬ、って」
俺たちは少しの間、言葉を失った。
でもすぐにハヤトがパン、と手を叩いて沈んだ空気を跳ねのける。
「ビビってんじゃねえよ。俺らを怖がらせるための大人の作り話に決まってんだろ」
「う、うん」
タカオは腑に落ちない様子だったが、ハヤトの手前、それ以上何も言うことはなかった。
とにかく、こうして俺たちの秘密の隠れ家が誕生した。
通報されるとまずいので「大声を出さない」ことだけは徹底していたせいか、誰にも咎められなかったし通報されることもなかった。そもそも人通りがほとんどない路地裏なので、そんな心配はいらなかったのかもしれないが。
放課後に仲間たちと自転車を飛ばしてボロアパートに向かい、お菓子食ってマンガ読んで、時々仕方なく宿題やったりして適当に過ごすのは楽しかった。
でもやはりそこは悪ガキの集まりで、誰ともなく缶ビールや酒を持ち込んできたり、タバコを吸ったりと、徐々に隠れ家での遊びは悪い方へとエスカレートしつつあった。
ボロアパートでたむろするようになって、十日ほど経ったある日。
昼休みにハヤトがズカズカと俺の教室へやってきた。いかにも不機嫌そうなツラで、かなり虫の居所が悪いようだ。その後ろからビクついた表情のタカオも続いてくる。
ハヤトは俺にまっすぐ向かってくると、突然声を荒げた。
「ああクソ、どいつもこいつムカつくんだよ!」
俺にムカついてるのかと思って一瞬身構えたが、口ぶりからするとどうも違うようだ。タカオが俺にこそっと耳打ちしてきた。
「ハヤトの奴、昨日また親父さんとケンカしたんだって」
ハヤトの親父さんは教師で、ハヤトの素行や成績に関してかなりうるさいらしい。親父さんへの反発からグレ始めたんだとハヤト本人から聞いたことがあった。
俺とタカオの腕を鋭くつかみ、ハヤトは低い声でつぶやいた。
「俺、今日は絶対家に帰らねえ。おまえらも付き合えよ、いいな」
気が立った野良犬状態のハヤトに、意見するだけ無駄だ。タカオと俺は目を見合わせ、仕方なくうなずくしかなかった。
ふと教室の外を見ると、ドアの近くにリュウが立っていた。
リュウは何も言わずに俺たちを一瞥すると、薄笑いを浮かべて立ち去った。仲間内の連中は機嫌の悪い時のハヤトには近寄ろうとしないので、リュウもさっさと逃げやがったんだろう。俺もトイレに逃げとけばよかったと、少し後悔した。
そんなわけでハヤトとタカオ、俺の三人は、学校帰りになけなしの小遣いで食料やジュースを買い込み、ボロアパートへ直行した。家出慣れしているハヤトは、その頃にはだいぶ機嫌が直っていたので助かった。
ちなみに俺とタカオはハヤトに内緒で、学校の公衆電話から「友達んちに泊まる」と家に連絡してある。一晩だけとはいえ無断外泊はさすがにまずい、万一警察に連絡されたら大変だ。
「さてと、時間はたっぷりあるしゆっくりしようぜ。とりあえず聞いてくれよ、昨日さぁ」
いつもの部屋に入るなり勢いよくしゃべり出すハヤト。よほど鬱憤がたまっていたのか、愚痴や恨み言が尽きることなく流れ出てくる。タカオと俺はうんうんと相槌を打って、ハヤトが満足するまで聞き役に徹した。こういう時のハヤトはしっかりガス抜きしてやらないと、機嫌が直るまでに時間がかかって後々面倒だからだ。ハヤトといちばん仲のいい俺とタカオはそれを分かっているので、ハヤトも遠慮なく俺らを巻き込むんだろう。
そうして三人でお菓子を食いながら話し込むうちに、外はあっという間に暗くなっいった。懐中電灯をつけて、無駄話をしたりトランプをしたりしながら時間がすぎていき、俺はふと腕時計を見た。
「もう十一時過ぎか」
こんな時間までボロアパートで過ごすのは初めてだ。外は虫の声もなく、本当に静かだ。
「んだよ、まだ寝る時間じゃねえだろ。勝負ついてねえぞ」
見ると、眠たそうなタカオの隣で、ハヤトが目を輝かせてトランプを切っていた。ここに来てからずっとタバコを吸いっ放しのハヤトは、頭ン中が覚醒しているようだ。タカオに火のついたタバコを渡し、目が覚めるから吸えと迫った。
「分かった分かった、吸う吸う」
タカオはタバコを受け取ってくわえ、ゆっくりと煙を吐いた。
俺はというと、タバコを吸おうとすると毎度ひどくむせてしまうので、いい加減イヤになってタバコには手を出さないと誓っていた。ハヤトにいつもヘタクソ呼ばわりされるけど、合わないもんは合わないんだから仕方ない。
そうして遊びながらタバコを吸うハヤトとタカオを見ていた俺はその時、ふと、リュウの言葉を思い出した。
『夜中だけは絶対に、火を使うなよ』
俺はもう一度時計を見た。
すでに日付が変わっている。つまり、夜中。
ハヤトとタカオは相変わらずハイペースでタバコを吸っていて、そのたびにライターの炎が懐中電灯と一緒に部屋の中を照らした。
でもここでそれを指摘したら、タカオを怖がらせるだろうか。忘れてたのに余計なこと言うなって、ハヤトがまた不機嫌になるだろうか。
そう思うと、わざわざ言うまでもないか……と喉まで出かかった言葉を飲み込んでしまった。
ジンタンなんてふざけた名前、ハヤトが言ったように大人の作り話だ。
そうに違いない。
……
「ん……」
俺は、目を覚ました。どうやら遊んでいる途中で寝てしまったらしい。
懐中電灯が消えて真っ暗だが、ハヤトとタカオがドアの方へ頭を向け、並んで寝ているのは分かった。俺はドアの真正面の壁に背中を向けて、二人の足元に横になっている状態だ。ハヤトとタカオの寝息が聞こえ、俺ももう一度寝ようと目を閉じかけてふと、気が付いた。
煙臭い。
まさかと思って軽く体をよじり、ハヤトとタカオが灰皿代わりにしていた空き缶を見たが、もちろん火なんか出ていない。二人でタバコを吸いまくったというだけでは説明できないほど、部屋の中が煙たくて息苦しい。
じゃあこの煙臭さは何だ――俺が起き上がろうとすると、外から、何かを引きずる音が聞こえてきた。
ずり。
ずり。ずり。
しんとした部屋に、そのゆっくりした奇妙な音がやけに響いた。よく分からない恐怖で心臓がばくばくする。俺はハヤトとタカオを起こそうと、横になったまま二人の足に手を伸ばした、その時。
ドアが、きぃ、と軋んで開いた。
『うっ!?』
ドアの隙間から、ありえないほどの熱気とともに、煙臭さと異様な匂いが一気に流れ込んできた。
髪の毛が焼けたような匂いが鼻の奥に突き刺さってきて吐きそうになるのを、口を両手で押さえて必死にこらえた。その間にもドアはゆっくりと開いていき、暗闇に慣れた俺の目は、否応なしにそれを見てしまった。
「ッ……!」
ずり、ずり、ずり……
真っ黒で大きな、蜘蛛のようなものが、ゆっくりと、這ってきていた。
仰天して頭の中が真っ白になった俺は、口を押さえて震えながら、その奇妙な動きを目で追うしかなかった。なぜか、ソレから目が離せなかった。
そして気付いてしまった。
よく見ると、ソレは蜘蛛なんかじゃなく――
複数の黒焦げの人間が、折り重なって「同化」しているんだ、と。
関節が曲がって固まった状態で同化したそれらが、焼け落ちて短くなった手足をぎしぎしと不規則に動かしながら、ゆっくりと這い進んでいるのだ。
まさかこれが、ジンタン、なのか?
ガタガタと震える俺は、声が漏れないよう、歯が鳴らないよう、必死で口を押さえた。
一刻も早くこの場から逃げ出したかったが、部屋の唯一の出入口をこの化け物に塞がれていて逃げ場がない。というより、少しでも動いたらソレが躍りかかってきそうで、動けなかった。
せめてこれ以上ソレを見ないよう、俺は必死に目を閉じた。
ずり、ずり、ずり……
床を這う音が、近づいてくる。
煙たい。熱い。火の気なんてどこにもないはずなのに、どうして。
ふと、熱気と匂いをそのままに、音が止まった。
『……?』
しんとした空気に全身が押さえつけられる。
しばらくそのまま我慢していたが、どうしても気になって、俺はつい、薄目を開けてしまった。
すると。
「ひッ」
俺に足を向けて寝ているハヤトとタカオの顔に、覆いかぶさる寸前のような体勢のソレがいた。
夜の暗闇よりももっと黒く焦げついて、目も鼻も分からない複数の頭が、暗がりに浮く赤黒く爛れた口を異常なほど大きく開けて、至近距離で二人に何かをささやいているように、俺には見えた。
瞬きも呼吸もできず、目が逸らせない――段々と気が遠くなってきたその時、真っ黒なソレの頭のひとつが、突然ぎしりと動いて俺を見た。
他のものより一回り小さいその顔を見た瞬間、俺はなぜか、リュウの顔を思い出した。
そしてそのまま俺の意識は、ぶつん、と切れた。
……
「はっ!」
目を覚ますと、周囲はすでに明るくなっていた。俺は慌ててはね起き、ハヤトとタカオの方を見た。
「は、ハヤト!? タカオ!」
二人は、いなかった。
急いで玄関の方へ這っていくと、ドアがわずかに開いている。俺は大急ぎで靴を履き、転がるように外へ飛び出した。すると。
「う、おげっ」
「ぐえ……げぇ」
ハヤトとタカオは、部屋を出てすぐの草むらの前にうずくまり、なぜかひどく吐き戻していた。慌てて二人に駆け寄り背中をさすろうとしたが、俺はすぐにギョッとして手を引っ込めてしまった。
二人の目が、左右別々に、ぐるぐると激しく動いている――ありえない目の動きを前に、生理的な気持ち悪さで俺の全身を鳥肌が駆け上がった。
背を丸めて胃液を吐きながら、二人は小さな声で、ずっと――
「ゆるしてください、ゆるし、おえっ、ゆるしてください、ゆるしてくださ、げほっごほっ」
「ゆるしてください、ゆるして、ゆる、ごほっ、ご、ごめんなさい、ゆるしてください、ゆるし」
俺は、この時。
自分には、もうどうにもできない、と悟ってしまった。
俺はゆっくりと後ずさりながらハヤトとタカオから離れ、ダッシュで自転車へ走った。うずくまって吐き続ける二人を見るのも怖くて、泣きながら自転車のペダルをこいでボロアパートから飛び出し、いちばん近い電話ボックスに駆け込んだ。
「はぁ、はぁ……ハヤト、タカオぉ……!」
公衆電話に小銭を手あたり次第突っ込んで家の番号を押すが、手が震えて思うようにボタンが押せない。何度目かにようやく繋がって、受話器の向こうから母さんの声が聞こえた瞬間、俺は恥も外聞もなく、大声を上げて泣き崩れた。
「母さん、父さんッ、ジンタンが、ジンタンが出てハヤトとタカオが! 俺どうしたら、どうしよう、どうしようぅぅ、うわああああ!」
パニック状態の俺の話を聞いた両親は、すぐさまハヤトとタカオの家に連絡をし、それぞれ車で俺たちを迎えにきた。ボロアパートにいたハヤトとタカオの、ただ事じゃない様子を目の当たりにした大人たちは真っ青になり、すぐさま俺たちをその地域でいちばん古い寺へ連れていった。
しかし、応対してくれた老齢の住職はハヤトとタカオを見るなり、
「残念ですが、こちらでできることは何もありません」
住職は静かに目を伏せ、そっと手を合わせただけだった。
ハヤトとタカオの両親は何度も住職に頭を下げたが、住職はそのたびに、同じ言葉を繰り返した。その場に膝から崩れ落ちた二人の両親は、肩をすくめて立っている俺に鋭く振り返った。
「何でうちの子が……どうしておまえは何ともないんだ!?」
「あんたがうちの子をそそのかしたんでしょ! どうしてくれるのよ!」
悲鳴じみた声で怒鳴られた俺は、頭の中が真っ白で何も言えなかった。住職は取り乱す大人たちに向けて、静かな口調で一声。
「ジンタンを呼んだのは彼ではなく、あなたがたのお子さんです」
全員が口を閉ざし、住職を見た。
「ジンタンの怨念に触れたものは皆こうなる。未熟な魂のまま穢れた行いを繰り返したことで、ジンタンが引き寄せられたんです」
ジンタン、とは。
火事などで複数の人間が焼け死んだ土地に憑く、怨霊のことだという。
あのボロアパートが建っている土地は、大分昔に深夜の放火によって両親と子供の三人が焼死した。炎の中で必死に逃げ道を探した三人は、玄関前で折り重なるようにして発見された。凄まじい炎のせいで三人の体はひどく炭化し、癒着していたという。
「ひとの、炭――ゆえに、ジンタン、と言うのです」
火事の後、何度土地を清めて弔いをしても、壮絶な死による強い怨念が現世に焼き付いて、成仏できないのだそうだ。自分たちを死に追いやった夜の炎を恨み、見境のない呪いによって哀れな魂を取り込み、黒焦げの体に同化させて怨念を増し続ける、哀れで恐るべき怨霊――それが、ジンタンなのだと。
「あの辺り一帯は忌み地として、新たに家を建ててはならないとされています。それを破って建てられたあのアパートの住人はみな、怪現象に悩まされて精神を病んでしまい、何人かは亡くなられています。アパートの大家も同じ運命をたどりました」
住職は、地べたにうずくまったまま時折えずいているハヤトとタカオを見つめ、俺に昨日何があったかを聞いてきた。俺は声を詰まらせながら、夕べの出来事をすべて話した。
「……やはり、ジンタンの怨念を直に聞いてしまったんですね。二人とももう魂のほとんどを吐き出してしまっているので、残念ですが肉体も長くはもたないでしょう」
その言葉に、ハヤトとタカオの両親が顔を覆って泣き崩れる。もう俺に恨み言を言う気力もないようだった。
そして住職は俺を見て、静かに言った。
「見ると寿命が縮み、聞くと死ぬ……ジンタンは、それほどに強い怨霊です。君は聞きこそせずとも、見てしまった。この先どうなるか分かりません……せめて魂が成熟するまでは、穢れに触れず近寄らず、正しく過ごして下さい。そして決して、夜中に火を使わないように」
両親が俺を抱き締め、震えていた。
俺もまた、震えが止まらなかった。
……
その後、精神的に限界だった俺は、学校を数日休んだ。
体調がマシになった頃に仕方なく登校すると、予想通り速攻で生徒指導室に呼ばれて先生に散々叱り飛ばされた。そしてあの夜のことを根掘り葉掘り聞かれるはめになった。
俺は大人しく、あのボロアパートに出入りするようになった経緯を説明した。
「アパートへはリュウが案内してくれて、それで、夜に火を使うと『ジンタン』が出るって教えてくれて」
すると、先生が妙な顔をした。
「そのリュウって子……何組だ?」
「え?」
俺の学年は五クラスあって、仲間たちのクラスは当然すべて覚えている。
覚え、て……
「え……」
すうっと、自分が青ざめるのが分かった。
リュウ……何組、だっけ?
「で、でも、リュウは時々遊びの輪の中にいて、俺たち何度も一緒に……!」
うろたえる俺をまっすぐに見つめ、先生は各クラスの名簿を俺に手渡した。
「自分で見てみなさい」
俺は、弾かれたように名簿を開いた。一組から順に、目を見開いて名前を確認する。
何度も。
何度も……
「……そ、んな」
指が震えて名簿がめくれなくなった俺に、先生が静かに言った。
「リュウって名前の子は、この学校には、存在しない」
先生は指導室に俺の遊び仲間を全員呼び出し、リュウについてたずねた。
皆リュウのことを知っていたが、誰一人、リュウが何組なのか答えられなかった。仲間内に誰か仲のいい友達がいるんだろうと、俺が思っていたのと同じことを皆も考えていたという。
しかも、俺とハヤトとタカオ以外、直接リュウとしゃべったことがある奴は、誰もいなかった。
先生は難しい顔をした後、それ以上俺たちを追及するのをやめた。
俺たちに二週間の特別補習とトイレ掃除を言い渡し、二度とあのボロアパートに近寄らないようにと付け加えた。
言われなくても、もうあの場所へは二度と行きたくなかった。
そしてあのあと、病院に入院したハヤトとタカオは、体中がみるみる壊死し始め、全身が真っ黒になって亡くなった。二人の訃報の際、先生からは感染症と説明を受けたが、俺だけは、本当の理由を身に染みて理解していた――ジンタンの怨念の恐ろしさを、改めて思い知った。
……
その後、両親は俺を気遣って遠い土地へ引っ越した。
俺はそれから悪い遊びを一切やめ、マジメに生きている。もちろん夜中に火を使うことはない。
俺の寿命がどれくらい縮んだのかは分からないが、今日が最期の日かもしれないと思いながら日々を重ねて、そこそこおっさんになった。
今も時々考える。
リュウは、最初に放火で亡くなった家族の子供だったんじゃないだろうかと。
永遠の友達が、ほしかったのかもしれない、と――
今もあの土地で怨念を増し続けるジンタンが、いつか、成仏できる日は……来るのだろうか。