「……今でいう、毒親ってやつだったんだ。ほんとに、手が付けられないほどの」
お義母さんの葬式がやっと終わり、ほっと息をついた帰り道の車の中で。主人は今日一日固く引き結んでいた口をようやく緩めて、そう言った。
1週間ほど前、主人の母親の訃報が届いた。
県外で離れて暮らしていたお義母さんとは、結婚して10年間、疎遠というか絶縁状態だった。旦那さんに先立たれ独り暮らししていたお義母さんは、家の中で亡くなっていたらしい。普段から引きこもっているお義母さんを気にかけてくれていた民選委員の方が、ポストにたまった郵便物を見て心配し、警察とともに中に入って見つけてくれたのだ。『事件性の有無を確認するため』として数日要したが、『自殺』だったと判断され、こうして今日無事に葬儀を終えることができたのだが…現場に赴いて警察ともやり取りを交わしてきた主人は、今日までにひどく憔悴していた。
主人とお義母さんは、互いを除いて他に親族は居なかった。それなのに主人はこれまで、タブーだとでもいうように頑なにお義母さんや実家の話をしようとしなかったのだ。
そんな主人が母親の話を始めたことに、私は驚いていた。
「…毒親?」
「うん。子供に悪影響のある親のことをそう言うんだ。母さんは、まさにそれだった」
「だから一人息子だったのに、疎遠だったの?」
「そう。母さんから逃げて、他県に移り住んだんだ。そこでは君に出会えたし、逃げ出して本当に良かったと思ってる。母さんが死んでせいせいしたとも思ってるよ」
普段温厚な主人が、強い口調でそう言った。よほど長年溜め込んできたのだろう。眉間にしわを深く寄せて、ハンドルをぎゅうっと握って、主人は続ける。
「母さんは俺を自分のモノだと思ってる節があって、父さんが自殺してからは、余計にそれが悪化した。俺に彼女ができたときは彼女を口汚く罵って追い返したり、友人と出かけてる時でも後をつけてきてたり、家の中ではいつも俺にくっついていたり…自分の近くに置いておこうといつも俺を束縛してた。耐えきれなくて高校卒業と同時に家を出たんだ。それでもしばらくは事あるごとに後をつけられたり、一日に何百回も着信があったり、本当に辛かった。一生懸命働いて、お金をためて、やっと母さんから逃げ切ったんだ」
「そうだったの…」
私が主人と出会ったときには、もうすっかり彼は母親とは絶縁状態だった。触れてほしくなさそうだったから詳しく踏み込んだことは無かったが、こんなにも壮絶な親子関係だったとは……。
「こんなこと言うと不謹慎だけど、これからはもっとのびのび生きていけるね。楽しく過ごしていこうね」
「…そうだね、ありがとう」
主人は力なく笑った。その横顔を見ながら、主人はまだ心の底から解放された訳ではないのかもしれないと、私は感じた。
葬儀から1ヶ月ほど経った頃。わたしはてっきり主人が進めてくれているのだろうと思っていたのだが、お義母さんの貯金などの相続手続きが全く進んでいないことを、地方銀行からの電話で知った。几帳面な性格の人だったから意外だったが、たとえ毒親であったとしても母親の死というのは、きっと平常心ではいられないものなのだ。日常が戻ったとはいえ、ここ最近主人はいつも落ち込んだ様子で、ぼんやりすることが多くなっていたから。
「ねえ。今度貴方の実家に行って、通帳とか証書を探してきましょう。どんな保険会社に加入していたのかも全く分からないし、調べないと」
主人は、返事もせずにびくりと肩を震わせた。
「あの家に、行く?」
「…そうよ?このまま相続手続きを放置もしておけないし、家だって片付けてしまわないと」
「そうだけど…」
歯切れの悪い主人の言葉にやきもきしながら、「実家に行きたくないの?」と聞いた。すると、
「…俺、もう、あの家には絶対に入れない…」
「どうして?」
「…入ってしまったら、もう二度と出てこれないような気がするから」
主人はそう言った。ただ面倒くさがって言っているわけではなくて、心底怯えている声色だった。困惑している私へ、主人は俯いて暗い顔をしながら、次のようなことを話した。
――結婚当初からずっとそうだったのだが、彼は夜中になるとひどくうなされる。ほとんど毎日だ。「子供の頃からそうだから」と主人は言っていたので私は慣れっこになってしまっていたが、何十年も、同じ内容の夢を見ているらしい。
初めて聞かされるその悪夢の内容は、こうだ。
主人が眠ると、現実では見たことのない和室の中で目を覚ます。
じめじめと暗く、天井から下がっている照明の紐を引っ張っても電気はつかない。窓はないが、閉まっている襖同士の数ミリの隙間から漏れ出る光は赤い。そのわずかな光だけがさし込む部屋はとにかく暗く、壁際や天井などは、闇だ。
床一面、ホコリを吸って灰色に汚れた花柄の絨毯が敷かれている。壁際には和ダンスと、ガラスケースに入った日本人形。そして部屋のまん中に座椅子。それだけしかない、誰もいない部屋の中で、目を覚ますのだそうだ。
襖を開けようとしても、まるで石壁のようにビクともせず、叫んだって誰も来てくれない。
その夢を何千回と見た。初めの内は、毎回何とかしようともがいたのだそうだ。和ダンスの中から見つけたハサミで黄ばんだ襖を切りつけてみたり、マジックで『ここから出してくれ』と殴り書きしてみたり、座椅子を襖に投げつけてみたり。だが、自力でその部屋から出られることはついぞなかった。朝が来て、体が目覚めるのを待つことしかできないのだ。
夢の内容を話し終えて、がっくりとうなだれた主人の肩は震えていた。思わずその肩に触れて、さすってなだめながら、私は聞いた。
「でもそれは、よく見慣れた夢の中の話なんでしょう?一体あなたの実家と、その悪夢とは、何の関係があるの?」
「…あの、悪夢の部屋は……実家にあったんだ」
「え?」
「警察と一緒に、俺も母さんが死んでいた現場を確認しに行っただろう…あの時、母さんが死んでいたのは、俺が子供の頃から『入ってはいけない』って言われてた部屋だった。昔から釘で襖を打ち付けられていたから入ることは出来なかったし、その時に生まれて初めて部屋に入ったんだ。
で、気付いたんだ…。
――そこが、俺が何十年と見続けている悪夢と、まったく同じ和室だって…」
一体、どういうことなのだろう。
ぶるぶると震える主人は、もうそれ以上説明することは出来なかった。その様子から、冗談ではないことが分かる。
――もしかしたら主人は、葬儀をきっかけにトラウマになっている母親のことを思い出してしまって、こんな不安定な状態になっているのではないだろうか。悪夢だって本当は、深層心理に根付いた母親へのトラウマが見せているのではないか?
もしそうだとしたら、大切な夫が、こんなにも母親や実家のことで心をいまだに縛り付けられている事に、私は我慢ならなかった。
「…私が行くわ」
「……え?」
「あなたの実家へは、私が行く。必要なものを家探ししてくるから、あなたは心配しないで。はやく、あなたをそんなにも苦しめる家やお義母さんの記憶ごと、片付けて消してしまいましょう。放置していたって、先には進めないわ」
その日の夜中に主人の寝室を覗いてみると、やはり彼はうなされていた。
脂汗を浮かべてうめく主人はこうなると、起こそうとしても朝まで起きない。今も、昼間話していた恐ろしい悪夢の部屋に閉じ込められているのかと思うと、私まで辛い。そして、怒りさえ沸いてきた。
この人をいろんな恐ろしいものから解放して、絶対に、いっしょに幸せに生きていくんだ。
数日後。真っ青で不安げな顔の主人が運転する車から降ろしてもらって、私は主人の実家の前に立った。「大丈夫だから役所へ行って来て」と、主人を見送る。
昔ながらの、昭和然とした小さな一戸建て。ここには初めてきたが、住む人を喪ったばかりの家と言うのは、なんて重苦しくわびしい雰囲気がするのだろう。背筋が少し寒くなるが、気合を入れなおして鍵を開ける。早く主人を安心させて恐ろしい夢を見ずに安眠させてあげたいという気持ちが、原動力だった。
からからから。
軽い音を立てて、ガラス戸が開く。
閉め切られていた室内に浮遊する埃が、私の背後からさす太陽の光に照らされてきらきらしている。古い家だが、家具や小物たちは小綺麗に整頓されている様子だ。かなり変わっていたという義母が自死した家の中とはどんなものだろうと緊張していたが、玄関の整えられた雰囲気に少し安心する。
電気はもう止られているので、外が明るい間に探し物を見つけてしまう必要がある。カーテンは初めから開かれていたので、十分なほどに室内も明るい。探し出したいものは、印鑑と、通帳と、保険証書と――主人から受け取った『ありそうな場所をメモした間取り図』を片手に、私はまず、『居間』と間取り図に書かれた部屋へ入った。
居間も、昔ながらの雰囲気だがよく整頓されている。だが、テーブルの上に置かれ開いたままの雑誌や、その横のマグカップなどを見ると、そのあまりの生活感に『透明で視えないだけで、まだここに住人がいるのではないか』という妄想さえしてしまう。だというのに、耳が痛いほどの、無音なのだ。そのちぐはぐな感覚が不気味で、鳥肌が治まらない。
目を閉じて、もう一度気合を入れなおして、壁際の戸棚へと近づいた。古めかしい戸棚の中もよく整理されているし、家具も最低限のものしか無い。これなら、大して苦労せずに、探し物を見つけられるだろう。
なるだけ荒らさずに、一つ一つの棚や引き出しを確認していくと、最後の引き出しから印鑑と通帳、定期証書が出てきた。嬉しくなって思わず小さく歓声を上げ、持ってきていたバッグへそれらをしまった。(さあ、どんどん探していこう。ここは見終えたから、次はどこを探そうか――)
幸先のいい予感に、勢いづいて背後へぐるりと体を向けた。だが、
私が入ってきた居間の扉のすり硝子に、なにかのシルエットが映っていることに、気が付いた。
「、え?」
主人の影ではない。すりガラスのせいでモザイクがかかったみたいな、小柄な、黒い人影。顔の位置だけがうっすらと白く見える、それは、ゆっくりとすりガラスに顔を近づけるから、目鼻立ちがかろうじて分かってしまう。もしかして、
葬式の遺影で見た、お義母さんじゃないのか?
そう思い至った瞬間、空気に溶けるみたいに、映っていた人影のようなものは消えてしまった。ガラス戸から離れたのだと言うより、その場で霧散してしまったように。震える手で慌ててドアを開けるが、廊下には何も居ない。
ドアノブを握りしめたまま荒い息を整えていると、心拍と恐怖心が一緒に大きくなってくる。見間違いだろうか。主人の話を聞いたせいで過敏になっていて、そう見えた気がしたのだろうか。
――いや。あんな、どう見ても人にしか思えないシルエットを、何と見間違えるというのだろう?廊下には黒いものなど何も置かれていやしないのに。
無音。何の音もしない。
でもこの家の沈黙の奥に、なにか訳の分からないものが息をひそめているような気がして、息を止めて耳をそばだててしまう。
怖い。今すぐ玄関に走って出て行ってしまいたい。
その時、掌に力を込めたせいで、主人が持たせてくれた家の間取り図が、くしゃりと音を立てた。反射的に目を落とす。2階部分の間取り図の、『俺が使っていた子供部屋』『母さんの部屋』という文字が目に入る。
――主人は。この家で、母親に苦しめられながら育った。この家を出ても、母親が死んでも、大人になった今もまだ苦しめられ続けている。
ここで帰ったら、あの人を安心させてあげることは出来ない。厄介ごとを全部終わらせてしまうんだ。死んだ人間に一体、何ができると言うのだ。怖がってはいけない、全部探し物を見つけてから、私はあの人の元へ帰る。
私は震える息で深呼吸しながら、扉を抜けて廊下へ出る。身体や息が震えるのは、恐怖のせいなのか怒りのせいなのか分からなかった。
1階部分は、今確認した居間と、台所・トイレ・お風呂など水回りだけらしい。次私が向かうべきは、『※ここにあるかもしれない』とメモが書かれた、『母さんの部屋』だ。廊下を挟んですぐ向かい側に階段があるので、ゆっくりとそれを登る。ぎっ、ぎっ、ぎぃ、重たく木が軋む。真ん中くらいで階上を見上げると、ひどく暗い。1階は明るかったのに、2階はカーテンが閉め切られているようだ。パニックを起こさないように慎重に階段を登り切って、間取り図を確認する。
私の右手が『母さんの部屋』。左手が『子供部屋』。そして――
『×、入らないで』
大きく、太く、間取り図にそう記された部屋は、この廊下の突き当り。お義母さんが死んでいたという部屋。そして、主人が悪夢に見るのだと言う、あの部屋だ。
廊下の奥は闇がわだかまっているように見える。直視できずに、逃げ込むみたいにして『母さんの部屋』へ入った。しかしその部屋を一瞥すると、思わず吐き気がこみ上げる。
そこは、異様だった。
赤ちゃんの頃から、幼児、小学生、中高生の頃など、あらゆる時期の主人の写真が、 ”すべてきちんと写真立てにおさまって、床に無数に立てられている” 。
部屋の真ん中に敷き布団と薄い掛け布団、枕が置かれている。それ以外の床は、足の踏み場だけを残して、全て、何百もの写真立てで埋め尽くされていた。真ん中の空間で、お義母さんは寝ていたのだろうか。主人の写真を見つめながら、主人の写真に見つめられながら。
あまりの狂気に言葉を失った。主人を苦しめる母親と言う存在の異質さを、私はやっと、身をもって知ってしまった。
こんなにも狂った部屋には、一秒だって長く居られない。生理的に出てきた涙をそのままにして、私は写真立てを何個かなぎ倒しながら、机へ近寄る。机の引き出しを、もう半ば漁るみたいにかき回す。一番下の引き出しの書類ケースに、『保険関係』とラベリングされているのを発見して、私はそのファイルをひっつかんだ。半透明のファイルを透かして見ると、中には証書のようなものが見える。
先ほどみたいに歓声を上げる気分にはとてもなれないが、私はほっと息を吐いて元来た道を戻ろうとした。
振り返ると――先ほど私が倒してしまった写真立てのひとつが目に入る。枕に一番近い位置に置かれたその写真立てに、私は強烈な違和感を感じる。思わずそれを手に取って、言葉を失った。
(どうして、 ”つい最近の主人の写真” が、ここにあるの!?)
その写真の主人は、黒いTシャツにジーンズをはいて、紙袋を下げて笑っている。背景は、半年前に主人と訪れたアウトレットパークだ。笑う主人の目線の先には、私が居るのだが――僅かに写りこむ私の顔や腕などは、黒マジックで何重にも塗りつぶされていた。
林のように写真立てが並ぶ部屋を見渡す。ここ数年の主人の写真が何十枚も混じっていることに気が付いて、私は愕然とした。
お義母さんを喪っても、この部屋にはまだ、主人への執着がよどみになって堆積している。主人は『大人になって、一生懸命お金をためて、やっと母さんから逃げ切った』のだと言っていた。でも、逃げ切ってなどいなかった。居場所も、遊びに行った場所も、私という伴侶のことも知られていたのだ。痛いくらいに脈打つ心臓に手を当てながら考える。
絶対におかしい。お義母さんはどうして、30年以上かけてこんなにも執着してきた主人のことを、 ”自殺という方法” で諦めたりしたのだろう?
――この狂った人が、本当に主人を諦めたりするのだろうか?何もアクションを起こさず、ただ指をくわえて、幸せそうに私と暮らす主人を見守っていたというのだろうか?いや。絶対に、そんなはずはないと感じた。
(この人は何か恐ろしいものを遺して死んだんじゃないか)と言う、確信にも似た予感。
ふらつきながら廊下へ出た。軽くめまいがする中で、『×、入らないで』と主人が記した部屋の襖が、目に入る。
――あの部屋を、確認しなければならない。主人と私の、幸せのために。
突き当りの部屋を目指して2階の廊下を進んでいると、まるで遊園地のからくり屋敷の中を進むように、平衡感覚が失われるような心地がする。ぐらぐら。私と言う異物がその部屋にたどり着くのを、家が拒んでいるみたいだった。
襖の目の前に来ると、足元に何かが転がっていることに気が付く。錆びついて茶色くなった、大きな釘だった。『この襖は昔から釘で打ち付けられてた』と言っていたが、お義母さんが自殺する前に、これを引っこ抜いたのだろうか…
襖に顔を向けた時、私は息をのむ。 ”これまで家のどこにも感じなかったヒトの気配” がするからだ。ふう、ふーっ、ふ、ふう。そんな噛み殺した息遣いみたいなものが、襖の隙間から聞こえてくる気がするのだ。
今私は、襖を挟んで、お義母さんと対峙しているんじゃないか?
腕や指が震える。
怖い。
襖の取っ手に手をかける。
主人の笑顔を思い出す。
怖いけれど、ここに何が居たとしても、主人の笑顔を絶対に取り戻す。
思い切り取っ手を横に引く。
――闇だ。
最初に感じた印象はそれだった。まだ昼間だと言うのに、窓のない部屋の中に充満した闇。目が慣れてくると、そこが殺風景な、誰もいない和室であると気が付く。真ん中に座椅子。埃っぽく汚れた花柄の絨毯。壁際の和ダンスと日本人形。全て、主人が話してくれた悪夢の内容と同じだった。
ふいに漂ってきた異臭にハッとして目を凝らすと、座椅子とその周辺の絨毯だけが、真っ黒に汚れているのに気が付く。――お義母さんは、あの場所で自殺したのだろうか。
一歩部屋に踏み込んで部屋中見渡すが、 ”お義母さんの幽霊”のようなものは見当たらない。さっきまで襖を挟んで目の前に居たような気がしたのに、今は――気配が分散しているというか、部屋全体がまるで息づいているみたいな、とてつもない圧迫感がある。
息を整える。異臭が満ちて吐き気がせり上がるが、とにかく冷静を保とうと躍起になる。改めて見回して、(ここが毎晩、夢の中で主人を閉じ込める部屋か)と、私は苦しくなった。真っ暗で、気味悪くて、埃っぽくて。こんな場所に閉じ込められると分かっているなら眠るのは恐怖でしかないし、私だったら気が触れてしまうだろう。
しかし、どうして主人は、入ることを禁じられて一度も見たことが無かったというのに、この部屋のことを夢に見てしまうのだろう?
何かヒントがないかときょろきょろし、開けっぱなしの襖の方向へ振り向いたとき――開いて半分だけ重なっている襖に、あるはずの無い物が描かれているのを見つけて、思わず私は叫んだ。
「!?うそ、どうして!?」
”ソレ” をしっかり確認しようと、開けられていた襖に飛びついて、私は自分で、ぱちん!と音を立てて閉めた。急に真っ暗になるが、慌ててポケットからスマホを取り出して、ライトをつける。ライトにまあるく照らされた襖には。
『ここから出してくれ』
と、書かれていた。主人の字だった。
息ができない。過呼吸気味になりながら、マジックで書かれたその文字の周りも照らしてみると、貫通はしていないがハサミで切りつけられたような跡や、何か固いものがぶつかった凹みが、無数にある。そのどれもが、古い痕だった。
主人の話を思い出す。
「以前は夢の中で、毎回何とかしようともがいていた。和ダンスの中から見つけたハサミで黄ばんだ襖を切りつけてみたり、マジックで『ここから出してくれ』と殴り書きしてみたり、座椅子を襖に投げつけてみたり。でも、自力でその部屋から出られたことは一度もなくて、諦めてしまった。」
”たかが夢の中の話” じゃ、ない。眠ってしまったら、主人の精神は、本当にここへ、閉じ込められているのではないか?
(そんなことが現実で起こるはずがない)と言うはずの理性は、いま、もう完全に沈黙している。主人の怯え、母親の狂気、そして異常な部屋。それらを目の当たりにして、超常的な何かが起きているんだとしか思えなかった。
きっと警察がお義母さんの自殺に、『事件性の有無』を確かめようと大きく時間を割いたのは、間違いなくこの襖の状態に異常を感じたからだ。『誰かが閉じ込められていたんだ』と一目でわかるのだから、当然だ。調べたらそれらは古くに付けられたもので、お義母さんの死とは無関係だと証明されたが…
これを一緒に確認した主人だって、心臓が止まってしまうほど驚いたことだろう。 ”どうして自分が夢の中で付けた傷や落書きがここにあるんだ” 、と。
主人が「この家にまた入ってしまったら、もう二度と出てこれないような気がする」と話した理由がやっとわかった。
襖を見つめて立ち尽くしていると、部屋全体の圧迫感で脂汗が浮いてくる。そして緊張からか、本当に微かな、ぼそぼそと囁くような声が聞こえてくる気がしてしまう。幻聴だろうか、でもなんだろう、何か文章になっているような……?
「…? ”ヨルニハ、ココへ、ワタシノトコロへ、モドレ” ?」
聞き取れたような気がした言葉を復唱した瞬間、その意味を理解して全身が総毛立った。
”夜には此処へ、私の処へ戻れ”。
それはきっと、お義母さんが毎日毎日、主人の写真たちに囲まれながら呪詛のように呟いていた言葉じゃないのかと、頭によぎったから。
闇が蠢いた気がして、ばっと振り返る。
ライトに照らされた黒く汚れた座椅子の後ろから、両手分の ”黒い指” が伸びて、その背もたれをそっと掴んだのが、見えた。
そして更に、ぬらぬらと黒い頭頂部が、ゆっくりと出てきて、
「っわああああああああああ!!!」
喉が裂けるかと思うほどに絶叫した。私は叫びながら、半ばぶつかりながら襖を開き、振り向かずに走り出す。短い廊下を抜けて階段へ体を滑りこました一瞬、
「 わたしのものだ 」
という低い声を、はっきりと聞いた。汚い水音が混じった、不快な声だった。
転がるみたいにあの家を出て、見知らぬ町を走って、泣きながら主人に電話する。急いで迎えに来てくれた主人は、汗や涙でぐずぐずになった私を、泣きながら抱きしめた。「一人で行かせてごめん」と泣く主人へ、「私たちの家に帰ろう」と、私は答えた。
家に帰って、私は家で見たことを全部話した。主人は震えながらそれを聴いている。
「…あなたのお義母さんの執着は、怖いくらいだった。きっと、起きている間は言うとおりにならないあなたのことを、眠っている時間だけでも自分のモノにしようとしてたんじゃないかって思うの…それがどんな方法なのか分からないけれど、子供の頃からあなたに、”夜にはあの部屋へ戻ってくるように”って、呪いとか、暗示とか洗脳とか…そんなものをかけてたんじゃないかな…」
毎日夜中になると、あの部屋に精神が囚われる主人。そして、あの部屋のすぐ真横の自室で、お義母さんは夜な夜な主人の存在を感じていたんじゃないだろうか…
主人が青い顔で、ポツリとこう漏らした。
「…俺も、母さんが死んだ後あの部屋と襖を見て、『俺は本当にここへ閉じ込められてたんだ』って、思い知ったんだ…。それに、まだ君にひとつだけ話してないことがある」
「…なに?」
「実は――母さんの葬式が終わった夜から、あの悪夢の部屋の中に、母さんが居るんだ…」
「え…!?」
「今までは、夢の和室の中には俺以外誰も居なかった。でも、あの葬式の日から、座椅子の上に母さんが座ってるんだ…
首がぱっくり割れて、そこから流れ出る血で首から下は真っ黒に汚れてて…
真っ白の顔は、満面の笑みで… ”おかえりなさい” って、俺に言うんだ――」
3か月後。
私たちは、解体されていく主人の実家を、少し離れた場所から見つめていた。
私が回収した貴重品以外の、家具等をいっさい残したままの解体。中のものの処分はすべてお願いした。解体業者はいぶかしんでいたが、訳アリの依頼者というのはたまにいるらしく、詳しいことは聞かずに引き受けてくれた。
突如必要になった数百万円の解体費用は、庶民の我々にはなかなか荷が重い。でも、主人が笑って暮らして、夜には安心して眠るためならば、惜しくなかった。
おそらくお義母さんは、主人を諦めたために自殺を選んだのでは無くて――主人への執着を煮詰めきってしまって、ついには自殺という方法で、自らあの部屋と融合してしまったのかもしれない。夜には必ず、自分の内側へ主人を取り戻せるように。
中のものが運び出されたのであろう家に、重機のアームが迫る。あの部屋がある一角が崩された瞬間、断末魔のようなものが風に乗って微かに聞こえた気がした。
(主人を縛り付ける、家も、部屋も、母親の執着も狂気も、全て瓦礫になって消えてしまえ)
強く手を握りながら、私たちはただただ、崩れゆく家を睨みつけた。