「赤い箸」

投稿者:速水 静香

 

 あのことは、今でも鮮明に覚えている。
 それは会社の帰り道だった。周囲は夜で暗かった。
 家々から漏れ出る光、街灯がぽつりぽつりと周囲を照らしていた。

 そんな狭い歩道を歩いていた私の足元に、何かがぶつかった。
 陶器が転がるような音がしたのだ。

 私は足元を見た。
 茶碗からこぼれたご飯。
 ご飯は炊かれたもののよう。
 そして赤い箸が転がっている。
 赤い箸や茶わん、ご飯は道端に放置されている割には綺麗に見えた。
 それらがアスファルトの道の上に散乱していた。

 どうやら、私が蹴っ飛ばしてしまったようだ。
 足元をあまり見ていなかった。
 私の不注意だ。
 とはいえ、道端にそんな物を置いておいたら、いずれはこうなる。
 私はそう思った。周囲には誰もいなかった。
 疲れていた私は、その散乱したご飯や赤い箸をそのままにして家に帰った。

 私のアパートに着くと、鍵を開け、薄暗い部屋へと入る。
 照明のスイッチを押し、狭い玄関で靴を脱ぐ。
 ワンルームの部屋は、私にとって心から休める場所だった。
 仕事のストレスも、人間関係の煩わしさも、この部屋に入ることで一時的に断ち切ることができた。
 少なくともその日までは。

 シャワーを浴び、適当に夕食を済ませた。
 スマホを片手に、ベッドに横たわる。
 ふと、先ほどの出来事が頭をよぎった。
 道端に散らばった茶わん、ご飯と赤い箸。
 一瞬の後ろめたさを感じたが、仕方ないことだ、と私は思い直した。

 しかし、私が寝ようとしたとき。それは始まった。

 カタコト、カタコト。

 最初は気のせいかと思った。気にしないようにした。しかし、音は消えない。

 カタコト、カタコト。

 まるで誰かが木の下駄を履いて歩いているかのような音だ。
 私はベッドに横になったまま、静かにその音を聞いた。
 音の方向は外からだ。
 その音はアパートの廊下側、それも私のいる部屋のすぐ外から聞こえている気がする。

 カタコト、カタコト。

 私は面倒だったが、ベッドから立ち上がり、ドアに近づいた。
 玄関のドアにある覗き穴から廊下を見てみる。

 しかし、そこには誰もいなかった。
 廊下には、アパートに設置されている蛍光灯の光が見えた。
 おかしなことだった。
 音は確かに聞こえる。
 しかし、その音の主は見えない。
 まるで見えない何者かが、部屋の前の廊下を歩き回っているかのようだった。

 ドアを開けて確認すべきか?
 私はそう考えた。
 しかし、それは危険かもしれない、と思い直した。
 もし本当に誰かがいたら?
 あるいは、もし誰もいなかったら?
 どちらの結果も、私を恐怖に陥れるだけだ。
 そのように結論づけて、私はベッドへと戻った。

 枕元に置いてあったイヤホンを手に取り、音楽をかける。
 イヤホンで音楽でも聴いていれば、あの奇妙な音は聞こえなくなる。
 しかし、どうしてもあの音が気になってしまうものだった。
 私の頭の中ではあの音がずっとなっていた。

 カタコト、カタコト。

 目を閉じると頭の中で、さまざまな想像が駆け巡る。
 もしかしたら、幽霊?
 いや、そんなものがいるはずがない。

 そして、ふと気づいた。
 あの道端のご飯と赤い箸。
 あれは、もしかしたら…そんな考えが私の頭の中で廻っていた。
 しかし、疲れていたこともあってか、しばらくすると私は眠りに落ちた。

 目を覚ますと、朝になっていた。
 もう音は聞こえなくなっていた。
 それに安心した私は、ベッドから起き上がった。

 会社へ出勤しなければならない。

 そして、いつものように狭い洗面所へと向かう。
 歯ブラシを手に取り、歯磨き粉を乗せる。
 鏡に映る自分を見つめながら、機械的に歯を磨く。
 カップに水を注ぎ、口をすすぐ。
 そして、ひげ剃りを手に取る。

 まるで朝の儀式。いつもと変わらない朝。

 そんなときだ。
 洗面台の小さな棚に、見覚えのない赤い箸が置かれているのに気がついた。
 私は思わず手を止めた。
 昨夜、道端で見た赤い箸。

 それと同じものが、洗面台にあった。
 まったく身に覚えがない。
 これまで赤い箸などなかった。
 私が持ち帰ってくるはずもない。
 それなのに、なぜそんなものがあるのか?

 しかし、いつまでも考えている時間はない。
 仕事に遅刻するわけにはいかない。

 その時の私は、深く考えないことにした。
 急いで身支度を整え、アパートを出た。

 駅に向かう。
 通勤中の私の心は、その奇妙な出来事を考えざるを得なかった。
 道端のご飯と箸、夜中の足音、そして家にあった赤い箸。

 駅のホームについて、電車を待つ。
 そのとき、習慣としてスマホを見ていた、と思う。
 そして、お祓いや赤い箸について検索する。

 電車がホームへと入ってきた。
 周囲の人の流れに従って、私も電車に乗った。

 その電車の中へと、足を踏み入れた瞬間。
 場違いな何かに気が付いた。
 電車の隅に、一人の老婆が立っていた。

 白い着物をまとった老婆。
 朝の通勤ラッシュの電車内で、着物姿の老婆。
 奇異な光景だった。

 さらに異様なのは、その時に居合わせた乗客の反応だった。
 誰一人としてその老婆に気づいていないようだった。
 混雑した車内で、老婆の周りだけ不自然に空間が空いている。
 それなのに、誰も気にする様子すらない。
 皆、いつも通りスマホを見たり、ぼんやりと前を向いたりしていた。
 まるで、その老婆が見えているのは、私だけのような感じだ。

 電車内で、老婆は窓に向かって立っていた。
 顔は見えない。

 その老婆は、私の方へ、ゆっくりと振り返った。
 振り返った老婆の顔が見える。

 無表情な老婆。
 口だけがゆっくりと動いていた。

 何かを私に話しかけているよう。
 今思い返しても、恐怖を覚えてしまう。

 その時の私は声を上げようとしたが、何もできなかった。
 恐怖のあまり、目を閉じた。
 吊り革を握りしめて、目を閉じる。
 時間が過ぎるのを待った。

 その間も、私は、ずっと視線を感じていた。
 誰とはいうまでもない。
 しばらく、その地獄のような時間を過ごした。

 電車が次の駅に到着した。
 電車のドアが開く音と共に、私は目を開いた。
 老婆がいる方向を一切見ない。
 見てもいいことはない。

 さっと電車を飛び降りる。
 その駅のホームに逃げる。
 逃げたホームから、私は電車を見た。
 電車の中に老婆の姿はなかった。
 着物を着た老婆どころか、先ほどまで不自然に空いていた空間さえ、乗客で埋まっていた。
 幻覚だったのか?
 そう思えた。

 その時の私は、混乱していた。
 頭の中は、昨夜からの出来事で一杯だった。
 道端のご飯と箸。夜中の足音。洗面台の赤い箸。そして今の老婆。

 思考がぐちゃぐちゃだった。
 駅のホームで、強い不安を覚えたことを覚えている。

 会社を休むことにした。
 今の状態では、とても仕事どころではない。

 会社に電話をして、体調不良を伝えることにした。
 私は、会社に電話をした。私の電話に出た上司は、体調に気をつけろ、とだけ簡潔に言った。
 そして、リモートワークができればそうしろ、と言ってきた。
 休暇を申請する場合での、上司の常套句だ。
 私は、それらの話を一通り聞いてから、電話を終えた。

 そして、私は会社へ向かう方向とは逆の電車に乗りなおす。
 逆方向の電車には乗っている人もまばらだ。
 私は周囲を確認する。
 電車内には、あの老婆はいない。
 一安心だ。

 そのまま電車内で私は、スマホで赤い箸やお祓いの方法などを検索していた。
 やはり、大した情報は得られなかった。
 そのまま、自宅の最寄り駅まで私は戻った。
 駅を出て、来た道を引き返す。

 これからどうすればいいのだろう?
 私は考えた。
 なぜなら、家に帰れば再びあの赤い箸と向き合わなければならないからだ。
 そして、夜になれば再びあの足音が聞こえてくるかもしれない。

 私は歩きながら、これからどうすべきか考えた。
 その時、その結論は出なかった。

 アパートに着いた。
 自分の部屋へ戻って、私がまず行うこと。
 シャワーを浴びる。

 そしてシャワーを浴び終えた私は、この奇妙なことについてを考えていた。
 私には、どうすればいいのか分からない。

 自室を見た。
 ワンルームの狭い部屋。
 その時の私は、気がついた。

 部屋にあった小物が移動している。
 まるで、誰かが私の不在中にここにいたかのような感じだ。

 いや、気のせいだ。
 その時の私はそう思った。
 そう思いたかった。
 どこか信じるような、祈るような気持ちになっていた。

 そして、ベッドで横になった。
 スマホで検索をしながら、なおも今後の行動方針を考えていたが。

 いつの間にか、私は眠りに落ちていた。

 ふと、目を覚ました。
 部屋は明るい。
 まだ、昼間のようだ。
 ベッドから起き上がった私は、洗面台に向かう。

 そこに赤い箸が置いてある。
 私はそれを手に取り、よく観察した。
 やはりそれは、あの道端に落ちていたものと同じだ。

 その時。
 私は、あることを思いついた。
 あの道端に同じように赤い箸や茶わん。そしてご飯を置く、ということだ。
 結局、私がそれらを蹴飛ばしてしまったことが発端なのだ。
 ならば、もとに戻してしまえばいいのだ。

 私は、行動に移すことにした。
 まず、台所から茶碗を取り出し、炊飯器にあったご飯を茶わんに盛る。
 そして、その茶わんに盛ったご飯に、赤い箸を突き刺す。

 私は家での作業を終えた。
 その赤い箸が立っている茶わんを片手に私はアパートを出た。
 あの場所へと向かう。

 外に出たときには、夕方だった。
 日が沈み始め、街灯が灯り始めていた。

 私は、茶わんや赤い箸があった場所に到着した。

 こんなものを置くのは不審者みたいだ。
 誰にも見られないほうが良い、と思った。
 周囲を見回すと、人通りは少ない。
 私は、さっと茶碗を道端に置いた。

 しかし、何かが起こるわけでもない。
 その時に、特に変わらない現実について、とても重く感じたことを覚えている。
 その重い足取りのまま、アパートへと戻り、自分の部屋へと戻る。

 一仕事が終わった私は、ベッドに横たわった。
 スマホをいじって時間を潰す。

 そうしていると、時間は夜にさしかかっていた。
 自然と私は、あの足音が聞こえてくるのではないかと、聞き耳を立てていた。
 カタコト、カタコト。
 あの音は聞こえてこない。
 やがて、疲れからか、私は眠りに落ちた。

 目が覚めると、朝日が窓から差し込んでいた。
 慌てて時計を見ると、いつもよりも早かった。
 出勤にはさしつかえない。
 昨日の出来事を思い出し、私は急いで洗面所に向かった。
 鏡に映る自分の顔は、少し疲れているように見える。
 赤い箸はそこになかった。特に問題は起きなかった。

 私は出勤の準備を始めた。
 しかし、何かひっかかるものがあった。
 あの道端に置いたご飯と箸が気になる。

 その時の私は、部屋での怪奇現象が収まったのもあって、どうなったのか確認しようと思っていた。
 私は出勤する途中、嫌でもあの場所を通る。
 あの場所を確認しようと思った。

 そのまま身支度を終えた私は、通勤を開始する。
 駅への道。
 あの場所へとさしかかる。
 そこには確かに、茶碗とご飯、そして赤い箸があった。

 そこへ近づいた。違和感があった。
 というより、私が置いたときとは、明らかに違う状態だった。

 茶碗は古びて、ひびが入っている。
 ご飯は腐りかけで、異臭を放っていた。
 そして赤い箸は、まるで何年も風雨にさらされたかのように色あせていた。

 それをじっと見ている時、背後で物音がした。
 振り返ると、そこには白い着物を着た老婆が立っていた。
 電車で見た、あの老婆だ。
 老婆の顔は見えない。

 私は言葉が出ない。
 何が起きているのか、理解できない。

 私は逃げた。
 その場所から一目散に走り去った。
 私は駅へと向かった。
 逃げるように人込みの電車へと乗る。
 朝の出来事が私の心に重くのしかかっていた。
 私は、あの老婆が何だったのかを考えていた。
 あれは幽霊なのか?
 なぜ私のもとに現れたのだろう。
 しかし結局、答えは出なかった。

 そして会社に着いた。

「おはようございます」

 そう言って職場に入った私に、皆が注目する。
 しかし、それはいつもの目ではなかった。
 まるで初めて来た人を見るような目だった。

 その日から、私の生活は一変した。
 何かがおかしい。
 なんというか、同僚や上司の反応が素っ気ない。
 仕事に支障はないのだが。

 ……いや、気のせいだろう。
 私はそう思うことにした。
 その日の帰り道。駅から自宅への道。
 私はその道を通らなければならない。
 恐る恐る、という感じだったが、私はその場所を見た。
 道に置いてあった茶わんや赤い箸はなくなっていた。

 周辺の住民が片付けたのか?
 そもそも怪奇現象が解消したのか?
 考えても結論は出ない。

 私は深く考えることをやめた。

 それからは、特に直接的なことが起こることはなかった。
 周囲からの素っ気ない反応は続いていた。
 そして時折、誰かに見られているような視線を感じることがあった。
 あの老婆が見えているかのような。

 しかし、私は、それらを全て気のせいだと思い込み、気にしないようにしていた。
 実害がなければいいのだ。
 どこかすがるような気持ちだった。
 深く考えるとこれまでの私の世界が崩れていく。
 恐怖があった。

 家と会社を往復する毎日。
 そんな日々がしばらく続いた。
 そんなある日のこと。
 私は退社後、ある場所で足を止めた。

 駅前の交差点だった。
 そこは私が出勤時に駅へ行くために渡る交差点だ。
 なぜ立ち止まったのか?
 それは自分でもわからない。
 ふと見ると、信号は赤だった。
 そして、横断歩道の向こう側に老婆がいた。
 交差点待ちをしている人に紛れているが、間違いない。

 あの老婆だ。

 やはり、老婆の顔は見えない。
 一人だけ、通行人とは全く違う方向を向いている。
 異様な風景だ。
 そのときの私はなぜだか老婆を確認しようとした。
 老婆のいる方向。
 そこをもう一度見るために、老婆のいる場所を見た。

 確認するまでもなく、白い着物を着た老婆はいなかった。
 交差点待ちをしている会社員や学生しか見えない。
 信号は、すでに赤から青へと変わっていた。
 彼らは、交差点を歩きだしていた。

 私は、しばらくその場に立ちつくしていた。
 しかし、思い直してから、私は交差点を渡り始めた。

 その時だった。
 周囲の通行人が逃げ惑うように、あちこちへ走り出した。
 車が速度を出して走ってくる音がする。
 私は気づいた。
 交差点内に猛スピードで突入する車があった。

 私の目の前へと車が迫っていたのだ。
 強い衝撃と痛みが私を襲った。

 次に気がついた時には、私は病院にいた。
 病室のベッドで寝ていた。
 どうやら私は、あの車にひかれたらしい。

 意識を取り戻した私のもとに、医師が来た。
 中年の男性の医師だった。
 私はベッドで横になったまま、医師からの説明を受けていた。

 幸い一命を取り留めたらしい。
 そして医師が行った手術や事故の状況など。
 これからのことについて。医師からの話をぼんやりと聞いていた。
 ただ、その時。
 奇妙な話を聞いたのだ。
 その奇妙な話は、医師が立ち去る直前だった。

「…その今回の事故とは、直接関係ないのですが。」

 医師がそう言った。

「体内に棒がありました、赤い箸のような。切除しましたので、問題はありません。」

 医師は、そんな感じの話を続けた。
 要約すると人体に問題がない、という話に終始していた。
 その赤い棒は、かなり前からあったのだろう、という医師の推測だった。
 私はもはや、医師にこれまでの怪奇現象を話す気にもならなかった。
 医師の話を適当に頷きながら、流した。
 しばらく話をしてから医師は、病室を後にした。

 あの交差点で、私は車にひかれた。
 しかし、なぜ私の体内から赤い箸が出てきたのか?
 あの出来事は何だったのか?
 考えれば考えるほど、答えが出なかった。

 いや、最大の問題は、今なのだ。
 私のいる病室は、個室だ。
 私は一人だ。

 今、この病室で、私はノートPCを立ち上げている。
 そして、PC上で文章を作成している。

 私が一人でいる病室の外。
 病院の廊下のほうから音がしている。

 カタコト、カタコト。

 病院に下駄なんて履いている者なんて、いるのだろうか?
 これはどう考えても…。

 ナースコールは、すでに押した。
 でも、応答がない。

 これから私はどうすればいいのだろうか?
 私にはもう何も分からない。

 

得点

評価者

怖さ鋭さ新しさユーモアさ意外さ合計
毛利嵩志121515121569
大赤見ノヴ161616151679
吉田猛々171717161784
合計4548484348232