例えるなら蝉が苦手だとか、ゴキブリが無理だとか、蛙が嫌い、といったことに似ている。
私は水が苦手だった。
この世の中には町を流れる川や海、雨やシャワー、プールや浴槽に貯めた水など様々な水がある。
それらにもやっぱり好ましくない感情を抱く。
別に溺れかけたとか、水が原因で嫌な思いをしたことがあるとか、そういったトラウマみたいなものはない。
蛙やゴキブリが嫌いな人でも、実際に蛙に襲われたり、ゴキブリに飛びつかれた、なんて体験をしていなくても“嫌い”って人いるだろう。
見ただけで鳥肌が立つ、生理的な嫌悪感を抱く。
得体が知れない、掴みどころの無い、理解のできないもの。
私にとって水というものはそれらと同じだった。
その中でも一番に私の感情をどん底に陥れるものは、”溜まって濁った水”だった。
道に捨てられたバケツに溜まる汚水、窪んだ穴に溜まる雨水、放置されたゴミに溜まる水、水、水。
想像しただけでも全身に鳥肌が立ち、内臓全てを吐き出して逃げ出したくなるくらい嫌な気持ちになる。
コーヒーかってくらいに濁って正体を露わにしない、汚れ、臭くて、どろりとしていそうなもの。
そういった水は死んだ生物と同じだ。動きもなく、汚泥が溜まり、腐り、汚染されていくことをただ待っている。
それは私の精神さえも壊しそうなほどに、嫌なものだった。
いつ頃からそうなったのかは覚えていない。私の両親もはっきりとは分からないという。
でも、言葉を喋り始める頃からはそういった兆候が見られていたと話していた。
人間、生活をしていく中で水との接触は避けられない。不可能に近いと思う。水分だって取らなければいけないし、シャワーやお風呂にも入らないといけない。
日常には特に私の嫌いな“水”というものは溢れるほどにある。
普通に生活しているだけだったが、自身でも気がつかない内に小さなストレスが少しづつ溜まっていたようで、私は体調を崩すことが多かった。
一人娘の私を心配し、両親は私を病院に連れていったりトラウマ克服の治療をしてくれていたが、あまり効果は出なかった。
ある日、両親が連れてきたのは白いワイシャツを着た爽やかな男性だった。
「大変でしたね。私が助けてあげますから」
彼はそう言って不自然に口の端を上げながら私の髪を撫でてきた。
両親は私の手を握りながら
「お願いしたからもう大丈夫。大丈夫だからね」
と不安そうな笑いを浮かべていた。
正直、気味が悪かった。何しに来たんだろうと思っていたら、彼は仰々しくお札やら数珠やらを取り出して、部屋の床に並べ始めた。
「では、初めて行きます」
その男性は何やらぶつぶつと唱えると、いきなり私の背中を叩いてきた。
最初は、ぼんぼん、という程度だったが、次第に叩く力は強くなっていき、終いには私の息が止まりそうなほどの強さで背中をバンバンと叩いてきた。
あまりの痛さと驚きで私は叫びながら両親に助けを求めるのだが、両親は目を瞑り、下を向いてこちらに手を合わせているだけだった。
この男性がなぜ私を叩いてくるのかも分からないし、両親が助けてくれない理由も分からない。恐怖と驚きと激痛で、私は身体が破裂するのではないかというほどに泣き叫んだ。
どのくらいの時間が経ったのかも分からないほど、ただひたすらに背中を叩かれ続けた。いつの間にか両手足は縛られており、抵抗することもできないほどに疲れ果て、叩かれている感覚なんてもう分からなくなっていた。
「とりあえず、ここまででしょう」
男性は額の汗をぬぐいながら両親にそう言うと、私の頬に手をあて
「また明日だね」
と、ねとりとした優しい声で囁いた。
その後、背中が燃えるような、皮膚が全て剥がされたんじゃないかというほどの痛みを感じながら、両親二人に薬を塗られた。
両親はずっと無言だった。私も無言だった。何も、喋りたくなかった。背中に添えられる両親の手は生暖かく、じとりとしていた。
翌日、言葉通りまた男性はやってきた。
同じようにお札や数珠などを仰々しく広げ、爽やかな笑顔で私に語り掛ける。
「治るまで頑張ろう」
その日は、右の太腿だった。
ゆっくりと、撫でるように優しく腿を叩き始める。ぽんぽんと、丁寧に。
動いている手は少しずつ激しさを増していく。
私だって馬鹿じゃない。どうせまた強く叩かれるんだろうと思い、その場から逃げ出そうとしたのだが、父と母が私を押さえつけてくる。
「大丈夫だから。ね、ね」
目にいっぱいの涙をため、泡を垂らした口をゆがめ悲しそうに笑顔を作る両親の姿を見て、私は逃げ出すこともできなくなってしまった。
「ほらぁ、あなただけじゃないんです。苦しんでいるのは」
男性が私の右腿をひたすらに叩く。弾けるような鋭い音は徐々に激しさを増していく。私は声にならないような叫びをあげるも、助けてくれる人などいない。
目の前で起こる出来事に耐えきれず、母が部屋から出ようとしたのだが
「逃げるなあぁぁ!」
低く醜い声で男性が叫び、母は身体を震えさせながらその場にへたり込んだ。
そこからあまり記憶はない。気が付くと男性は荒い息を整えながら、私に向かって優しく
「ごめんね、終わらなかった」
と言いながら、赤黒く腫れた掌で私の頬に触れた。
男性の手は熱く、触れた皮膚からびくんびくんと脈打つような鼓動を感じるような気がした。
「ぼくも頑張るから、君も頑張ろう、ね」
男性はぐねりと目を細め、粘りこそうな糸を引く口を歪めて笑っていた。
男性の口から洩れる生ゴミのように耐えがたい悪臭を吸い込みながら、こいつのことを絶対に許すまいと思った。
父と母は、俯くだけだった。助けてくれない。こんなにも私が苦しんでいるのに、何もできない無能な奴らだと感じた。
両親と男性が見守る中、まだ痛みの残る背中と右腿の激痛に耐えながら、水を浴びせられた。
「ほら、水なんて怖くないでしょう?すごいすごい!」
桶に水を貯め、男性が大袈裟なリアクションを取り手を叩く。両親もその横で口を歪めて笑っていた。
屈辱だった。私が何をしたというのか。なぜこんなにも冷たい水を浴びせられながら、ドクドクと脈打つ背中と腿の痛みに耐え、見知らぬ男性と両親にあられもない姿を見せなければならないのか。
何も理解できないし、しようとも思わなかった。
脳内に渦巻くのは、こいつらを絶対に許さない、という感情だけだった。
いつまでこれが続いたのか分からない。男性は毎日のように家に来ては、私を叩いて帰っていった。背中、腹、胸、尻、左右の腕、足──私の全身を飽きもせずに叩き続ける。
ただ身体を叩く訳では無く、日によっては両親を外へ出し少しばかり私の身体を触った後、無理やりシャワーを浴びせてきたり、桶に貯めた水に顔を突っ込まされたりした。
「傷の度合いや、現在の状態を観察してこのように上手く調整している、安心して欲しい」
男性は心配そうにしている両親へ同情するような、悲しみを感じる声で説明していた。今すぐにでもこいつの喉を掻っ切りたいと思った。
ある夜、駆け巡る全身の痛みのせいで眠れずにいた。
外では大雨が降っていたと思う。音が、物凄い雨音が部屋中に響き渡っていた。
いつの間にか、雨は部屋の中に侵入してきていた。痛みで動けない私の顔に、雨粒が落ちてくるのを感じた。気持ち悪さ、嫌悪感を感じるも、動くことが面倒くさいとも思えた。
ざあああぁぁと叫ぶように、私を嘲笑うかのように、雨音が部屋の中を駆け回っていた。部屋の中に、じとりとした、皮膚にへばりついてくるような重苦しさが充満してい く。
部屋中に水がたまる。嫌いな水たまりができる。
その雨は黒く濁っており、粘り気を感じさせながら悪臭を放っている。
部屋のなかは大振りの雨となり、あちらこちらに溜まった水がびちゃりびちゃりと、私を求めるように音を奏でている。
大嫌いなはずの水に全身を包まれ布団の中で濡れる私は、驚いていた。
──とても心地よい
その水からは今までに感じたことのないような、安堵と癒しを感じた。
ざああぁぁぁと激しく鳴り響く雨音は久しく忘れていた両親への感情を私に感じさせ、全身に染み渡る水は傷の痛みを癒してくれ、私本来の身体というものを思い出させてくれた。
私の絶望にまみれた心も、傷だらけでガラクタのようになった精神も、水は癒し包み込んでくれた。
気が付くと、それは部屋の隅に立っていた。
濡れてべたりとした長い髪。瞬間的に、女性だと直感した。何も纏っていない身体はとろりと柔らかそうで、白い皮膚は軟らかそうに波打ち、とろけそうだった。部屋の天井から降り注ぐ黒く濁った水滴が、その女性に触れるだけで透き通るように綺麗になっていく。
私はその女性から目を離すことができなかった。
目や鼻があるはずの顔は卵みたいにつるりとしておりとても綺麗で、一直線に伸びる美しく艶やかで真っ赤な唇だけが存在していた。
その口が、人の頭を呑み込めそうなくらいにパカッと開く。
「 きャハはハハはハハハ!」
頭の中で金属音がいくつも集まったような高い笑い声が響き渡る。それはこの女性の笑い声だと、そう感じた。
女性は笑い声を響かせながら、とろりと溶けていき、床に広がる水に混じりこんでいった。黒く溜まっていた汚水は、透き通る水になっていく。じとりと重苦しく漂っていた空気までもが美しく澄み渡っていくような気分だった。
大振りの雨はいつも間にか弱まり、穏やかに私の身体を撫でるように流れていた。
女性が立っていた場所にはとろりとした、白いゼリーのようなものが溜まっている。
それは柔らかそうで優しそうで素敵だった。
私はゆっくりと身体を起こしその場所まで行き、生臭さの残るそれを両手で掬いあげ口に運んだ。
目が覚めたときには朝日が差し込んでいた。
いままでに感じたことのないくらいに、爽やかな気分だった。生まれ変わったような感覚、輝くような、素晴らしい日々が自分を待ってくれていると思った。
昨日あれだけ濡れて水溜まりになっていたはずの部屋は、いつもと同じだった。濡れた形跡なども無く、何も変わらない、いつもの部屋のまま。
ただ昨日、あの女性が立っていた場所に黒い水滲みが出来ていた。蠅が集り、汚臭を放っている。私は感謝の気持ちを込めてゆっくりと跪き、それを紙めた。
その日、あの男性は姿を現さなかった。電話を片手になにやら騒いでいる両親の姿を横目に、私は穏かな気分でいた。身体の傷はまだ残っていたが、痛みを感じることは無くなっていた。
窓の外に目をやると、ベランダに置かれた鉢植えの中に水が溜まっていた。朝日を浴びて煌めくそれがとても愛おしく思え、丁寧に手で掬い口に運んだ。両親は頭を下げ、涙を流しながら私に何かを必死に訴えていたが、私の耳には何も入ってこなかった。頭の中は昨日の全身を包み込むような水の感覚と、心地よく優しい雨音でいっぱいだった。
鉢植えに溜まり、虫が浮き泥で濁り汚れた水を見ていると、あの女性が優しく微笑んで私を見つめてくれている気がした。
それ以降、二度とあの男性が家に来ることはなかった。両親も何も言わなかった。両親は以前の私のように、水を嫌うようになってしまった。
特に”何かに貯まった水”を見ると、身体を震わせ小動物のように身を縮こまらせる。
涙を流しながら必死に謝っているのだが何を言っているのか分からない。私はこんなにも感謝しているというのに。
あれだけ私が水を苦手にしていた理由も、今なら分かる。知らなかったのだ。無知だったからなのだろう。
水を、水というものの本質を、素晴らしさを。
未熟な私にとってはまだ理解できるものでは無かったのだ。水の美しさ、水に宿る存在の素晴らしさを。
あの女性がそれを教えてくれたのだ。
今なら理解できる。それらはもう私と一体となり、これからもずっと一緒に生きていくのだから。
ベランダに置いていた鉢植えや水槽に溜まった、生ゴミのように耐えがたい悪臭を放つ水を両親に飲ませながら思う。気付かせてくれて、ありがとう。今度は私が父さんと母さんを助けるからね。
胸いっぱいに感謝の気持ちがこみ上げる。
内臓を全て吐き出そうとしているのかと思えるほどに鳴咽する両親の口からは、懐かしいような、狂おしいほどに醜い臭いが漂ってくる。その臭いと共に白いワイシャツの爽やかな男性の醜い笑顔が脳裏に蘇るが、粉々にちぎれ消えていく臭いと共に、その顔は滲み見えなくなっていく。
ふと溜め置いている水を覗き込むと、幸せでたまらないというように艶やかで真っ赤な唇を目一杯広げて満面の笑みを浮かべる私の姿が写っていた。
「きゃハハはハハはハハハ!」
今はもう、水が好きで好きで仕方がない。