「どっち」

投稿者:にる

 

郵便受けに無造作に入れられていたチラシをゴミ箱に入れていると「夢のマイホーム!」「分譲中」の文字が目に飛び込んで来た。
最近古いアパートがどんどん解体され、分譲地としてよく売り出されている。
保育園に通う娘のユイナも「トモキくんのお家が新しいお家になるんだって!」とか「ミユちゃんのお家もうすぐ出来るって言ってたよ」と話していた。
ユイナも再来年には小学生。もし家を建てるのであればタイミング的にそろそろ決めるべきだろう。
とは言っても今住んでいる場所から近い小学校に通わせるか、それとも土地を優先して選んで学区が変わるのもやむなしとするか……考えることは山ほどある。

「どうしようね」

ユイナが寝た後、それとなく夫のタイチにマイホームの話題を振ると少し考え込んでから「うーん……そうだなぁ」と煮え切らない態度で呟いた。
大抵のことはさっさと決めたがるタイプのタイチにしては珍しい。
今住んでいる賃貸マンションもまだ私たちが付き合っていた時に「ここは長く住めるんじゃないか」とタイチが言い出して、トントン拍子で同棲と婚約が決まったのだった。
確かに不思議と住み心地も良く、娘が生まれてからもこうして問題なく住み続けている。
でも家を建てるとなったら、流石のタイチも即決出来ないものなのかと思った。

「ユイも再来年小学生じゃない?そのうち一人部屋が必要になるし、マイホームじゃなくても今より広いところに引っ越しを考えないと」

私がそう言うとタイチはやっぱり「そうだよなぁ、引っ越さないといけないよなぁ」と何処か思い切りの悪い言葉を呟いている。
タイチは家を建てるかどうかではなく、転居することに二の足を踏んでいるのかもしれない。
しまいにタイチはため息を吐いてソファの背もたれに体を預け、天井を見上げた。

「ねぇ、どうしたの?もしかして引越し出来ない理由でもあるの?」

「ん?ああ、いや別にそういうわけではないんだ」

じゃあ一体何をそんなに躊躇っているのか。
通勤のこと?貯金?引越し作業?
まさか浮気でもしてるとか?
なんだか思わせぶりなタイチの様子にあらぬことまで考えてしまう。
私が押し黙り考え込んでいることに気付いたのか、タイチはもう一度ため息を吐いてから体を起こした。

「ちょっとある人のことを思い出していてさ」

「ある人って?」

「昔のバイト先の先輩。ヨドガワさんって人で、長いこと夜勤で入ってる裏店長みたいな人だったんだよ」

一瞬、先ほどまで考え込んでいた浮気のことかと心配した。
まさかバカ正直に浮気相手の名前を出すとも思えないけれど。

「そのヨドガワさんがどうしたの?」

「うーん……まあ信じて貰えないかもしれないけど」

そう言ってタイチが話し始めた。

ーーヨドガワさん、普段からみんなヨドさんって呼んでいたんだ。
少なくとも俺より一回りは年上で、痩せて顔色が悪く、口髭を生やしてロン毛を無造作に束ねていた。
いつも遠くの方を見ながら勤務先のコンビニの駐車場で気怠そうにタバコを吸っていて、近くまで行ってお疲れ様ですと声をかけても気付かない時がしょっちゅうあった。
最初こそ無視されてるのかと思ったが「またヨドさんあっちを見てるよ」なんて店長も他のパートのおばちゃんも言うから、そういうものなのかと深く考えないことにした。
あっちってなんですか?とわざわざ聞くのもはばかられるし、恐らくぼーっと考えごとでもしてることをそう揶揄しているんだろうと思っていた。

でも普段ぼーっとしているように見えてとにかく仕事が出来る人だった。
急なシフト変更の穴埋めはいつもヨドさん。
どんなことでも頼まれたら「いいっすよ」と軽い返事で引き受ける。
何連勤だろうと変わらぬ様子で出勤して、どんな面倒な客にも毅然と対応して、掃除も陳列も丁寧で発注もミスなくこなす。
店長より仕事をしていたんじゃないかと思う。
まだ若くて調子に乗っていた俺は当初ヨドさんを冴えないバイトのおっさんかと思っていたが、一緒に仕事するうちにすぐ憧れるようになった。
聞けば履いているデニムも安く買って自分で加工したとか、使ってるおしゃれなビンテージ風の小銭入れもレザークラフトで自分で作ったとか、他にもアコースティックギターを弾けたりバイクに乗っていたりと、とにかく男の強い憧れをくすぐる人だった。
ヨドさんを見てると俺も就活するのをやめてこんな風に自由に生きて行きたいな、なんて思ってしまうほどに。

二ヶ月そこらですっかり俺がヨドさんに懐いた頃、パートのハタナカさんが帰る前に「ねぇねぇヨドさん、また見てくれない?」と話しかけていた。
休憩室でパイプ椅子に腰掛けてスマホをいじっていた俺は何が始まるのかとこっそり聞き耳を立てた。
ヨドさんはいつものように「いいっすよ」と返事をする。
視線は手元のスマホに向けたまま、斜め後ろの二人の会話を聞いているとハタナカさんが「息子がねぇ、引越し先をどこにするか迷ってるみたいなのよ」と言う。

「どこっすか」

「えーっと、M市のね、これよこれ」

「あー……その辺やめた方がいいっす」

「そうなの?良くないこと起きる?」

「そっすね。そこマジで入れ替わり激しいんじゃないっすか」

「やだ怖いわ、息子にちょっと聞いてみようかしら。ありがとうね」

何の会話だ?
物件の話をしているのはわかったが、聞き間違いでなければおかしな言葉が混じっていた。
良くないことが起きる?
思わず顔を上げ振り返るとハタナカさんがお先しますと出て行ったところだった。
残されたのは俺と、こちらをゆっくり振り向いたヨドさんだけ。
ヨドさんはいつもと同じく気怠そうな目つきで何を言うでもなく俺の顔を見ていた。
聞いてはいけないものを聞いてしまったのではないかと妙な焦りを覚える。

「気になる?」

ヨドさんがニヤリと笑った。
俺は上擦った声で「あ、はい」と言う他なかった。

「俺さ、土地のことは結構知ってる方なんだ。君もなんか聞きたかったら答えてあげるよ」

「あ、そうなんですね、不動産のことですか?」

「いいや、土地だよ。山とか川とか道路とか」

「は、はぁ……」

今ひとつ要領を得ない話に戸惑っていると、ヨドさんは時計を見て立ち上がりそのまま休憩室を出て行ってしまった。
聞きたかったら答えてあげると言われても、当面引越しの予定もないし何から聞けば良いのかよくわからなかった。
それにさっきのヨドさんの抽象的な言い方から察するに、俺が何を聞いてもかわされてしまいそうだった。
その日は釈然としないまま、ヨドさんとは当たり障りのない会話だけした。

翌日も昨日と同じように休憩室でスマホをいじって時間を潰していたところ、ヨドさんに続いてハタナカさんが入って来た。

「昨日はありがとうねぇ、息子に聞いたらやっぱり空室が多かったみたいなのよ!そこじゃないとこにしたらって言っておいたわ」

「そっすか」

昨日の続きだ。俺は気付けば振り返って二人を見つめていた。
ハタナカさんはこっちを見ながら上機嫌で「ほら、タイチくんも引越しする時はヨドさんにちゃんと聞いときなさいね」と俺に言った。

「え、あ、はい……」

ヨドさんの方をちらりと見るとニヤリと笑っている。
気まずさから咄嗟に視線をそらしてしまった。

「ヨドさんは何でも見えちゃうんだから!タイチくん知ってる?アタシも店長も随分助けられてるのよ。アタシなんてずーっと耳鳴りと頭痛が治らなくってね。ヨドさんに見てもらって引越したら綺麗さっぱり治っちゃったの!店長の奥さんもヨドさんに産院を選んで貰ったのよ。ね、ヨドさん」

ハタナカさんは興奮気味に捲し立て、ヨドさんはニヤニヤと薄ら笑いを浮かべ、俺はただ困惑するばかりだった。
ハタナカさんはまるで宗教の素晴らしさを説く信者のようにヨドさんの武勇伝を語り続ける。

曰く、昔バイトで入っていた学生を見てあげたところ無事ホワイト企業に就職出来た、ヨドさんがあの店はすぐに潰れると言ったら本当にすぐ閉店した、事故や災害を何度も言い当てた……。
ハタナカさんの話す内容は、横でニヤニヤ笑っているヨドさんとはどうも結びつかないオカルトめいたことばかりで俄かに信じられずにいた。
もしかしたら俺は今の今まで何にも知らずに、スピリチュアルを盲信するやばい職場にいたのかもしれないと恐怖さえ覚えた。

ひと通り話し終えて満足したのかハタナカさんはヨドさんにお礼の缶コーヒーとタバコを渡し「タイチくんもヨドさんに何でも聞くのよ!」と言って去って行った。

先ほどまでと打って変わって部屋は静けさに包まれる。
その無言の間が続けば続くほど俺の憧れていたヨドさんのイメージが崩れていくようで怖くなった。

「あの、今のって……」

どうかヨドさんが冗談だよと言って否定してくれるのを願った。

「全部本当だよ」

だが呆気なくその願いは打ち砕かれた。
ヨドさんはいつもの表情のない顔でこちらを真っ直ぐ見てそう言った。
昨日までの二ヶ月間顔を合わせて来たはずのヨドさんが途端に得体の知れないものに見えて来る。
あの話が全て本当だとしたら凄い話なのだが、そんなことよりこの時は恐怖が勝っていた。

「ええと……予知、みたいな……?」

どうにか刺激しないよう、その場が丸く収まるように、俺は恐怖心を見せまいと咄嗟にとぼけて見せた。

「予知じゃないね。あっちが見えてるんだよ」

さも当然のことかのようにヨドさんは言い放つ。
そういえばヨドさんに話しかけても気付かずぼーっとしている時、店長たちは決まって「ヨドさんまたあっちを見てるよ」と言っていたことを思い出す。
あっちとは何なんだ。

「あっちって……」

「ヘイコウセカイかな。こことは別の世界。でもここと同じ場所にある」

並行世界。こことは別だが同じ場所にある。
わけがわからない。
この人は何を言ってるんだろう。
少し口籠った瞬間、ヨドさんが続けた。

「あっちの世界でこの店はスーパーなんだよ。だからここは惣菜系と日用品がよく売れる」

「スーパー、ですか……」

「ハタナカさんの住んでたアパート、あっちでパチンコ屋なんだ。慣れてないと頭も耳も痛くなっちゃうよね」

「はぁ……」

「ハタナカさんの息子が住もうとしてたとこは介護施設の敷地。長く住むのは厳しいよ」

淡々と話すヨドさんの声だけが頭に響いていた。
理屈を説明されても感覚的に理解が追いつかない。
ただ少しだけ恐怖心が薄れつつあった。
目の前にいるのは見知ったヨドさんだ。
さっきまで得体の知れないものに見えていたのに、話を聞き続けていると不思議と落ち着きを取り戻していた。

その日から俺はヨドさんに「あっち」の世界について時折たずねた。
ヨドさんは聞けば何でも答えてくれた。
あの路地裏の細い道はあっちではもっと大きい道路だからドライバーは無意識にスピードを出してしまって事故が多いとか、あの廃病院はあっちの墓地の上に建ってたんだとか、あの土地はあっちでガソリンスタンドだから飲食店が入っても味に影響が出てすぐ潰れるんだとか。
不思議とヨドさんの話には説得力があった。

「ヘイコウセカイって無限にあるんだよ。俺はその中で一番こっちに似ていて、影響を及ぼして来る世界だけはっきり見える」

すっかり恒例になっていた仕事終わりの質問タイムにヨドさんは嫌がることなく付き合ってくれていた。

「あっちにはどんな人が住んでるんですか?」

ヨドさんはタバコを吸いながら遠くの空の方を見ていた。
この様子を目の前にしてもまたあっちを見てるんだろうな、と自然と受け止められるようになった。

「こっちとそっくりな人が住んでるよ。探せば君に似た人もいるかもね」

「へぇ、探せるんですか?」

「うん。でもやりたくないな。だって君に似た人があっちでもう死んでたり人をぶっ殺してたりしたら嫌でしょ」

ヨドさんの目が真っ直ぐこっちを捉えていた。
この時のヨドさんの気怠そうな目の奥は底知れぬ深淵のようだった。
この深淵には何がどんな風に見えているのか。
自分に似た誰かがあっちで人を殺めたとしたら、こっちにも影響を及ぼすのだろうか。
じゃあもしも自分に似た誰かがあっちで死んでしまったら……考えてゾッとした。

「確かに嫌ですね……」

「ははは、大丈夫だよ。あっちでもこっちでもみんな似たような生活をしてるんだ。君に似た人も元気にバイトしていると思うよ」

「そうなら良いんですけど」

「ただ一つ言えるとしたら、あっちで悪いことしてるやつはこっちでもやるんだ。それだけの話だよ」

ヨドさんは言い終えてまたぼーっと遠くの方を見ていた。
あっち側の俺に、どうか悪いことはしないでくれよとこっそり祈った。

それからもシフトが被る限り幾度となくあっちの話を聞いた。
ヨドさんは就活の相談にも乗ってくれたし、おすすめのデートスポットも教えてくれた。
あっちで何度も売りに出されるような場所に建ってる会社はやめといた方がいいとか、あっちでもオシャレなカフェが建っていて雰囲気が良いからここでデートすれば悪いようにはならないよとか。
あっちの世界が見えているだけではなく、実際にバイクで色んなところに出かけているからこそ生きた情報も手に入るらしい。

ヨドさんはたまに仕事終わりにバイクでメシに連れて行ってくれることもあった。
勿論どこも決まって美味い。ハズレがなかった。
俺は勝手に心の中でヨドさんを兄貴分のように慕っていた。
仕事中もまるで右腕にでもなった気持ちでサポートに徹して動いた。
自慢じゃないが仕事ぶりはヨドさんにも、店長にも褒められるほどだった。

就活が本格的に始まるのと同時にバイトを辞めたがその後もたまにコンビニに顔を出しては仕事終わりのヨドさんと話した。
コンビニで適当に飲み物を買って、五分程度ヨドさんと話すのは卒論の息抜きにちょうど良かった。
もうこの頃には俺の頭の中には、こっちとは別の世界の地図のようなものがなんとなく出来上がっていた。
このコンビニはスーパーで、道路を挟んで向かい側の美容院は郵便局で、横の道路は遊歩道で、ラーメン屋が焼肉屋で、マンションは畑と空き地で……。
あっちの自分も今頃卒論を書いていたりするんだろうかなんて考えたりもしていた。 

「そういえば最近ハタナカさん見ないですね」

吐く息なのかタバコのものなのかわからない白い煙に包まれたヨドさんに何の気なしにそう問いかけた。
ヨドさんは静かに目を閉じた。

「うん。多分あれはダメだね、もう潮時だ」

思いもよらない返答に驚いてヨドさんを凝視していると、ヨドさんは目を閉じたまま言った。

「あっちの世界の俺、詐欺師なんだよ。インチキ宗教の教祖」

「え?」

「あっちでハタナカさんは信者。でもしくじったみたいだ。ちょっとやりすぎた」

声色はいつもと何ら変わらない。ただ話している内容がめちゃくちゃだ。
ヨドさんは一人でぶつぶつ何か言っている。
「そうだよ、やりすぎだ」だの「一応見張ってたんだけどなぁ」だの絶え間なく呟いていた。

「もうおしまいだね。あっちの宗教施設のあるところから遠ざけたまでは良かったのに」

声も出せずただその異様な姿を見ていると、ヨドさんはパッと目を開いた。

「じゃ、あとは頼んだよ」

ヨドさんはそう言ってタバコをポイと灰皿の穴に入れ、さっさとバイクに跨ると勢いよく走らせて行ってしまった。
呆気に取られているうちにバイクはどんどん遠ざかった。
追いかけることも叶わず俺はただ途方に暮れ、しばらくそこで立ち尽くしていた。

後から店長に聞いたところ、ハタナカさんはひと月前から無断欠勤が続いており、連絡を受けた息子さんが様子を見に行った時にはガス電気水道が止められた状態で亡くなっていたそうだ。
ヨドさんの言葉通りに引越しを繰り返すうちに困窮し、体を壊して病院にも行けず亡くなっていたということだった。
結局ヨドさんともあれ以来連絡が取れなくなってしまった。
急にヨドさんがいなくなったため、コンビニもあっという間に立ち行かなくなり閉店。
気付けば跡地にはあっちと同じようにスーパーが建った。

「実はこのマンションの場所もあっちでは畑と空き地らしくてさ、近所の子供たちがよく遊んでいた場所だから子育てもしやすい土地だって昔教えて貰ってたんだ」

ーータイチは興奮気味に早口で続けた。
目の前でタイチが話す内容にどんどん血の気が引いていって、私の指先はさっきから冷えて震えている。

「昔二人でデートした場所も教えてもらった場所ばかりなんだ。今更言うのも恥ずかしいけどさ」

「ね、ねぇ、あなた、何を言って……」

「引っ越すって聞いたら急に思い出したんだよな。こんな時に良い土地かどうかを教えて貰いたかったよなぁ」

タイチは夢中で話し続けている。
私ではなく、どこか遠くの方を見ながら。
ずっと口を挟む余地もない。
怖くて上手く声が出せない。

「あの時デートのことを相談していた彼女と結婚して、今じゃ子供もいますって伝えたらびっくりするだろうなぁ」

喉まで出かかった言葉が吐き出せない。
「あなたが学生の頃働いていたのってスーパーだったじゃない」とたった一言言うだけなのに、言ってしまったらどうなるのかもわからない。

タイチは学生の頃ずっとスーパーで働いていた。
スーパーの目の前には郵便局があって、遊歩道があって、焼肉屋があって、このマンションは十五年前まで畑と空き地だった。
タイチの話の中に頻繁に出て来たあっちとこっちは最初から何もかも逆なのだ。
そして同時に嫌な事件が頭の中で駆け巡っていた。
二つ隣の町にあった宗教施設で起きた事件。
犯人である教祖の名前が確か……。

「ヨドガワさん、今どうしてるかなぁ、元気にしてるといいなぁ」

目の前にいるタイチが、これまで毎日顔を合わせて来たはずの夫が、何か得体の知れないものに見えて仕方なかった。

 

得点

評価者

怖さ鋭さ新しさユーモアさ意外さ合計
毛利嵩志121512151266
大赤見ノヴ191718191891
吉田猛々181718171888
合計4949485148245