俺は小さい頃から石を集めるのが好きで、休日のたびに山へ出向いて色々な天然石を探すのが趣味だった。
ある秋の休日、同じ趣味の友人の倉田に誘われ、良質な水晶が見つかると噂の鉱山跡近くへと足を運んだ。キャンプをしながら石探しをする、忙しい日々の合間の癒しのひと時だ。
しかし残念ながら、その日は前評判ほどのよい石が見つからず、俺と倉田は肩を落としていた。遠出してきた甲斐がないなと俺がぼやくと、倉田がこんな提案をしてきた。
「沢伝いに探してみよう。沢の石に紛れてるかもしれない」
このまま手ぶらで帰るのは悔しかったので、俺はその提案を二つ返事で了承した。
俺たちは林道をくだり、途中から沢へ下りて石探しを続行した。石だらけの沢を歩き進めるが、水晶も他の鉱石も一向に見つからない。それでも俺たちは、もっと下流かも、と夢中になって沢を下りていった。
どれくらい歩いたろう、腰を曲げて歩くのに疲れて背伸びをした俺たちは、沢の横に細い脇道が伸びているのに気付いた。二人で覗いてみると、野草に紛れて石がごろごろと落ちていて、よく見ると小さな水晶が混じっているではないか。
「この先にもっと大きな水晶があるかもしれない。行ってみよう」
倉田が意気揚々と沢から出て、脇道の方へと進んでいく。俺も慌ててその後を追った。
秋とはいえ紅葉にはまだまだ早く、深緑の樹々が鬱蒼と覆いかぶさる脇道は、沢よりもずっと薄暗い。俺たちは足元を見ながら、しばらく脇道を歩き続けた。
「何だあれ」
倉田の声につられて顔を上げると、道の奥に鳥居のようなものが建っているのに気付いた。
「鳥居……にしては、何か変だな」
不思議なことにその鳥居には、中央にも柱があった。三柱鳥居のように三つの鳥居が組み合わさったものではなく、鳥居中央の額束から柱がまっすぐ地面に刺さっているのだ。
こんな妙な鳥居は見たことがない。俺と倉田はどちらともなくスマホを取り出し、三又の鳥居を撮影した。証拠を残しておかないと、誰に話しても信じてもらえなそうだったからだ。
石造りの三又の鳥居は小さめで、大人がくぐるには少し屈まなければならない。全体的にかなり風化しているが、いつからここに建っているんだろう。
「鳥居って神域への境界だよな。この先に何か祀ってあるのかな」
こんな山の中に祀るようなものがあるとは思えないが、倉田は興味津々の様子で鳥居を撫でた。
「何か面白そうだし、せっかくだからくぐって行こう」
言うが早いか、倉田は奇妙な鳥居の左側をくぐって先へ進んでいった。普段の倉田は控えめな方なんだが、今日はずいぶん積極的に先を行く――俺も足元の石を気にしながら倉田に続き、鳥居の左側をくぐってその後を追った。
三又の鳥居からしばらく歩いていくと、細道は鬱蒼と絡み合ったクズのツルとイバラの茂みの前で途絶えた。
「何だ、行き止まりか……って、あれは?」
背丈ほどもある分厚い茂みの手前に、大きな黒い塊が見えた。
駆け寄ってみると、その大きな塊は何と、黒い柱状結晶が群生した原石だった。幅五十センチ程だろうか、地面に埋まった黒い結晶の塊を見た倉田は、興奮した様子で叫んだ。
「これ、もしかして黒水晶じゃない?」
黒水晶は文字通り深みのある黒色が特徴で、通常の水晶のように透明感がなく、希少性が高い幻の水晶と言われている。幻とされるだけあって産出地はかなり限られており、この辺りの山で黒水晶が採れるという話は聞いたことがなかった。
黒い原石に張り付き食い入るように観察する倉田の横で、俺も原石の表面を注意深く眺めてみた。確かに黒水晶に似ているが、結晶の根本や中央部がやや赤みがかっていて透明感が残っており、黒水晶よりは煙水晶(透明感のある茶色または黒茶色の水晶)に近い気がした。
しかし倉田は、俺の推測に大いに異議を唱えた。
「この黒さは絶対黒水晶だよ! こんな大きな原石を拝めるなんて奇跡だ!」
冷静に見れば違和感に気付きそうなものなのに、俺が何を言っても倉田は聞く耳を持たなかった。原石を撫でまわし続ける倉田はやがて、鼻息を荒くして俺を見た。
「よし、この原石を掘り出そう! 持ち帰って調べればいいんだ!」
倉田はおもむろにハンマーとタガネを取り出し、土にがっちり埋まった大きな原石を掘り出そうとし始めた。嬉々とした顔でハンマーを振るい、土と小石を飛び散らせてタガネを打つ倉田――突然の行動に仰天した俺は、慌てて止めに入った。
どれだけ深く埋まっているか見当もつかないのに、闇雲に掘り出そうとするのは無謀だと言って倉田を諭す。仮に掘り出せても、こんなデカイ原石を抱えて沢を登るのは到底無理だ。
何より、あの奇妙な三又の鳥居の先にぽつんとあったこの石が、ひょっとしたらご神体かもしれないじゃないかと――もしそうならこの場所から動かすのはまずい、祟られたらどうするんだと、矢継ぎ早に畳みかけた。
すると倉田は、ハンマーを持ったまま考え込み、しばらくしてしぶしぶうなずいた。
「まあ、確かに……ご神体だったらヤバいか」
そう言いながら、倉田は黒い原石を撫で続ける――余程名残惜しいようだ。撮影して画像を後から調べようと代替案を出し、俺は黒い原石を様々な角度から撮影した。それを見た倉田が連写かという勢いで原石の撮影会を始めたのは言うまでもない。
「そうだ、ここにこんな大きな原石があるなら、近くに同じ石があるかもしれない。探してみよう」
閃いたとばかりに顔を上げる倉田。確かにそれなら罰は当たらないだろう。俺も同意し、原石の周囲を探してみることにした。
陽射しも届かない薄暗い緑色の細道で、小一時間ほど探しただろうか。倉田は運よく親指ほどの煙水晶を見つけたが、俺は普通の水晶のかけらを見つけただけだった。
「あの鳥居をくぐったご利益かな。コレクションがまた増えた」
倉田が戦利品を胸ポケットにしまいこみ、俺も水晶のかけらをひとつ持っていくことにした。でも実はこの時、内心は少々複雑だった。
黒い原石の周囲にはなぜか、同種らしき黒い石はまったく落ちておらず、俺は強い違和感を持った。
地面にしっかり埋まった原石の様子を見るに、別の場所から運んできてここに置いたというのは考えづらい。しかし、自然にこの場所に出てきたというのも大分無理がある気がした。同じような大きさの石がごろごろしている場所ならまだしも、ここは鉱山跡や沢から離れた森の中で、普通に考えてもこんな大きな原石が存在するはずがないからだ。
疑問は尽きなかったが、俺はあえて黙っていた。口に出したら最後、黒い原石を黒水晶だと信じて疑わない倉田に日が暮れるまで反論されそうで、正直面倒くさかったのだ。
そうして俺たちは黒い原石に別れを告げ、細道を戻ることにした。
倉田と二人でまた来ようと話しながら、緑の中をしばらく歩き続けるうち、ふと気付いた。
「あれ……」
三又の鳥居が、見当たらない――
鳥居からあの大きな黒い原石まで、それほど遠くなかったはずだ。そもそもこの細道は一本道だし、あんな奇妙な鳥居を見逃すなんてありえない。
「狸か狐に化かされたかな」
倉田の声を聞き流し、俺は周囲を再度見渡した。
しかし何度見ても、一本道――俺と倉田は首を傾げながら、足早に歩き出した。もしかしたら体感よりも長く歩いたのかもしれない。この先を行けば、あの鳥居が絶対に……
「あっ」
しばらく歩いた細道の先は、分厚いクズのツルとイバラの茂みで行き止まりになった。
しかも。
「……何で?」
倉田が持ち帰ると言って騒いだ、あの大きな黒い原石が行き止まりに鎮座していた。俺は眉間にしわを寄せ、ひと呼吸のあと踵を返す。
「戻ろう、倉田」
俺たちは小走りで細道を戻った。濃い緑に覆われた薄暗い森の中も、ごろごろと石が転がる細道も、すべてが徐々に不気味に見えてくる。
言葉もなく細道を行く俺たちの前に、またもや。
「嘘、だろ」
黒い原石が、再び俺たちを出迎えた。
緑の細道の周囲がじんわりと暗さを増し、原石から薄気味悪い威圧感を感じる。最初に細道に分け入った時より、明らかに空気が重い。
神域で石を拾ったから罰が当たったのか?
俺たちは原石の周囲で拾った石をすべてその場に放り出し、もう一度細道を駆け戻った。
「そ、んな」
しかし、結果は同じだった。
細道から外れて樹々の合間を進んでみたりもしたが、結局また黒い原石が目の前に立ちふさがった。
どう歩いても、戻される――万策尽き果てた俺たちは、やがてその場から一歩も動けなくなっていた。
俺は、震える手でスマホを取り出す。もう、助けを呼ぶしかない――
……
『事情は分かった。その手の話に詳しい奴に聞いてみるからちょっと待ってて』
【頼む高岡、おまえしか頼れる奴がいないんだ】
俺はワラにも縋る思いで、大学の同期だった友人、高岡へ連絡した。高岡は人当たりがよくてコミュ力が高く、俺みたいに地味なヤツにも分け隔てなく接してくれる貴重な友達だ。そして何より、高岡の後輩におそろしく霊感が強いヤツがいる、というのは有名な話だった。今みたいなわけのわからない事態には、きっと何か助言をもらえるはずだと皮算用していたせいもあった。
山の中なので電波が弱く通話は無理だったが、LINEならかろうじて連絡が取れることに気付いて心底ほっとした。例の三又の鳥居の画像も、時間はかかったが無事送信することができた。
「俺も手あたり次第LINEしてみたけど、誰も既読がつかない。どうなってんだよ」
黒水晶で盛り上がっていた倉田が、絶望的な顔でうなだれる。
俺たちは黒い原石が見えない場所まで離れ、細道の真ん中でじっとしていた。どうやってもループしてしまう今、無駄に動いて体力を消耗するのは避けるべきだと判断したからだ。
俺たちは三又の鳥居の中に閉じ込められたんだろうか。あれをくぐったせいで、ループする細道から一生抜け出せないんだろうか――嫌な考えが次々に浮かんできて、不安で押し潰されそうになる。
鬱々と押し黙ること数分、高岡からLINEの通知が来た。ハッとしてスマホを引っ掴む。
『霊感強い後輩に画像見せたら、この鳥居だいぶマズイものらしい』
やっぱり例の後輩に相談してくれた、と喜ぶのも束の間、一緒に画面を覗き込んでいた倉田と共に息が止まった。
『普通の鳥居だと、中央は神様の通り道だろ。この三又の鳥居は神様の通り道を塞いでいる状態、つまり、神じゃない〖何か〗が通る鳥居なんだそうだ。神域とは違う、別のどこかへの境界だって』
【待ってくれ、俺たち鳥居をくぐっちゃったんだ。じゃあ】
震える手で文字を打つと、少ししてから返信がくる。
『落ち着け。LINEの通知がこっちに届くってことは、まだ完全に異界に取り込まれてるわけじゃないはずだ。きっと何とかなる、考えよう』
【分かった。こっちももう少し考えてみる。また連絡する】
俺はLINEの画面を見つめ、深く息を吐く。
いや、諦めるな。考えるんだ――俺はこの細道に入った辺りからの記憶を振り返った。
鳥居をくぐり、原石を見つけ、周囲で石探しをして、もと来た道を戻り、鳥居が消えて、ループ……
「……倉田、鳥居が消えたのって何でだと思う」
俺は倉田の返事を期待せず、つぶやいた。
「高岡も言ってたけど、スマホが繋がるってことは、まだ俺たちは『異界に取り込まれる条件』を満たしていない、ってことだよな」
倉田は腕を組み、青ざめた顔で俺の言葉を聞いている。
「条件を満たしていないから、俺たちには脱出できる可能性が残ってる。だから、鳥居を見えなくして俺たちの逃げ道を塞いでいる、って考え方ができるんじゃないか」
俺はLINEを開き、高岡に今の推測を伝えてみた。やり取りができるうちにどんな些細なことも伝えておかなければ。
しばらくして、高岡から返信がきた。
『その仮説が事実だとすると、おまえたちを足止めしている間に条件が満たされるってことになる。時間経過がカギだとしたら、すぐに動かないとまずいぞ』
俺はハッとした。確かにそうだ。
『後輩によると、おそらく日没がタイムリミットじゃないかって言ってる。それまでに突破口を見つけないと戻れなくなるかもしれないって』
今、午後四時半。日没までもう一時間もない。
俺は居ても立ってもいられず、また細道を歩き出そうとした。
「倉田、行こう。何とかして脱出しなきゃ」
すると、倉田はなぜか、緊張感のない様子で笑顔を浮かべた。
「うん、行こう。黒水晶が待ってる」
「おい、こんな時に冗談はやめ、……ッ」
そこまで言って倉田の顔を見た俺は、続きの言葉が一瞬でかき消えた。
倉田の様子が、何かおかしい。
さっきまでの絶望的な青い顔が嘘のように、急に倉田は楽しそうな笑顔で歩き出したのだ。俺は困惑したが、倉田の後ろを黙ってついていくしかなかった。
しかしやはり、俺たちはまた黒い原石の前へ戻ってきてしまった。
もちろん、細道の途中に三又の鳥居は見当たらなかった。
「何度見ても綺麗だ、会いたかったよ黒水晶。どうせ待機するならここにいようぜ」
鎮座する黒い原石を撫で回し、倉田が夢見心地でつぶやく――俺はもはや反論する気も失せて、ただじんわり鳥肌が立つのを感じていた。急がないと危険だと言われているのにこの場で待機だなんて、まるで日没を待ってるのと同じじゃないか。
そこまで考えて、ふと、倉田が撫でている原石に目をやった。
何だろう、最初に見た時と印象が違う気が――違和感を確かめるため黒い原石を撮影し、最初に撮った画像と見比べてみた。
すると。
「うっ」
黒い原石は最初に見た時より、かなりいびつに、盛り上がっていた。
やはり気のせいじゃなかった。まさか、ずっと少しずつせり上がってきていたのか?
俺は倉田と黒い原石から数歩後ずさり、急いで高岡に原石の画像を――最初のものと今撮ったものの二枚を送信した。
「早く……頼む!」
さっきよりも画像の送信に時間がかかる。日没が迫っているせいでさらに異界に引き寄せられているのかと思うと、気が狂いそうだった。しばらく待ってようやく画像を送信できたのを確認し、続けて、倉田が急におかしくなって原石から離れない、と連絡を入れた。
高岡からの返信を待つ間、俺は浅い呼吸を押し殺してスマホを構え、黒い原石を抱えて座り込む倉田の画像を何枚か撮影した。這い出して来る原石とおかしくなった倉田の証拠を残したいと思ったのだ。
しかし撮影した画像を確認した途端、俺は呼吸も忘れて固まった。
「へ、あ」
画像には、原石から立ち上る黒いもやのようなものが写っていた。原石を抱える倉田を包むように伸びる黒いもやは、絡まり合った植物のツルのようにも見えた。
俺は黒い原石とスマホの中の画像を、何度も、何度も見比べた。
実際には、何も見えない。なのに、この画像は……
そこで、スマホに通知が入った。気を抜いていたので心臓が飛び上がる。
『こっからは後輩に代わる。口が悪いけど我慢してな』
高岡を間に挟むより、確かにその方が早い。面倒をかけて申し訳ないと高岡に送信しておいた。その後、すぐに返信がきた。
『初めまして、高岡先輩の後輩の野口です。もう面倒くさいし時間もないんで直接やり取りさせてもらいます』
【すまない、よろしく頼みます】
後輩相手につい敬語になってしまうが、今頼りになるのは彼だけだ。
『さっきの二枚の画像見ましたけど、それ石じゃないです』
いきなりの言葉に、目が点になる。
『山に棲む穢れの類です。魑魅魍魎と言うと分かりやすいですかね。それがお二人の好きそうな石に擬態してるんです』
【ケガレ?】
野口とやり取りしながら、俺は黒い原石と倉田を横目で確認した。倉田はへらへら笑いながら地面に横たわり、原石を抱えて丸まっている。どう見ても石にしか見えないが、これが穢れ……?
『山には神々だけでなく様々なものが集います。禍事を呼ぶ鬼神や悪霊、人を喰ったり姿を奪ったりと人に悪意を向ける魑魅魍魎、山にはそれらの棲む異界の入り口があちこちに存在します。先輩たちはそういうところに首を突っ込んだんです』
体の底から震えがきた。常日頃、非科学的なことは信じないと言い張ってきたが、そんな虚勢も今はすべて無意味だ。周囲が次第に暗さを増す中、俺はさっき撮ったばかりの黒いもやが倉田を包むように伸びている画像を送信した。
【どうしたらいいんだろう、何か手立てはないか】
しばらくして野口から返信がきたが、そこには。
『まず勘違いしないでほしいんですけど』
続きの言葉に目をみはる。
『僕が霊能者だからって、面倒事を何でも無償で解決する善人だと思われると迷惑なんです』
ぎくりとして、心臓が跳ね上がった。
『高岡先輩を当てにしたのは僕を頼るためだって魂胆が見え見えなんですよ。正直、大変不愉快です。高岡先輩にも失礼だと思わないんですか』
すべての言葉が胸をえぐってきて、返す言葉もない……確かに口は悪いが、野口の言うことは正しい。無意識に俺は、霊能者ならこういう事案を善意で解決してくれるはず、というバイアスがかかっていた。そのために友人の高岡を利用して、俺は――冷静に考えれば相当ひどいことをしていたのだと気付かされた。
俺は急いで、必死に詫びの言葉を入力した。
【ごめん、本当にごめん。高岡にも君にも申し訳ないことをした。無事に帰れたら必ず直接謝る、ちゃんと報酬を支払う、絶対に約束する!】
それから少しして、返信が届いた。
『分かってもらえればいいです。ところでさっきの画像見ましたけど、倉田さんでしたっけ。この人はもう無理です』
【無理?】
はっきり言い切られてまたもや心臓が跳ね上がる。
『言動がおかしくなったのは、日没が近づいて異界の気が強まり、穢れに深く侵食されたからでしょう。ここまで絡みつかれたら助かりません。先輩は穢れに触れていませんか?』
【俺は触ってない】
『なら、先輩はまだ間に合います』
俺は青ざめ、倉田に振り返る。
倉田は地面に寝そべって原石を抱き込み、うつろな表情で土まみれの結晶を舐め回していた。舌が裂けて血が出ているのも構わず、幸せそうな笑顔なのがただただ恐ろしい。
『倉田さんは穢れに呼ばれたんですね。山に分け入るうちに目を付けられたんでしょう。先輩が今日そこに出かけたのは、倉田さんに誘われたからじゃないですか?』
冷や汗がにじみ出た。
そういえば――
鉱山跡にキャンプに行こうと誘ってきたのは、倉田。
林道を下って沢伝いに探そうと言ったのも、倉田。
細い脇道に行こうと提案したのも、鳥居をくぐって先へ進んだのも……
『まあ、詳しい話は後にして早くその場を離れましょう。時間がありません』
【でも、どう歩いてもこの石のある行き止まりに戻ってしまうんだ】
何もかも野口に頼り切りで情けないが、今この場で俺にできることはひとつもない。
『それなんですけど、そこが〖行き止まり〗だって思う理由はなんですか?』
【え?】
野口の言っていることが、すぐには理解できなかった。
『画像を見る限り穢れの先はただの茂みです。〖行き止まり〗という暗示をかけたのは誰です? 倉田さんの言霊に惑わされてるんですよ』
頭の中で、何かがゆっくりと開く感覚がした。
そうだ――
そうだ。
クズやイバラがどれだけ生い茂っていようと、越えられないはずがない。どうしてその先には行けないと思い込んでいたんだろう!
野口は続けて、こう返信してきた。
『茂みの向こうにも道は続いてます。彼らを正面に見て絶対に目を離さず、後ろ向きで茂みを突っ切って下さい。倉田さんはもはや穢れと一体化しつつあるので、何を言われても反応しないように』
【分かった。後ろ向きに歩けばいいんだな】
『彼らに背を向けたり視線を逸らしたりすると、勘付かれて襲ってくる可能性があります。幸い、魑魅魍魎の類はそれほど頭がよくない。常に彼らの方を向いていればごまかせるはずです』
【ありがとう、やってみる!】
『もうひとつ。三又の鳥居を見つけたら、入った時と同じ側から後ろ向きに出て下さい。では、頑張って』
スマホの時計を確認する。日没まであと三十分もない――
俺は細道をはみ出して倉田と黒い原石を迂回し、彼らを正面に睨みながら、後ろ向きに茂みに踏み込んだ。
クズの強靭なツルが足に絡みつき、イバラの鋭い棘が追い打ちをかけてくる中での後ろ歩きは想像以上に難しく、痛くて足が止まりそうになる。だが、少しずつ遠くなる倉田の姿を見て、懸命に気を奮い立たせた。
あんな風になってたまるか――すまない倉田、俺は、元の世界に戻りたい!
「おぉい、こっち来いよぉ、いい石がいっぱいあるぞぉ」
気の抜けた倉田の声が届く。
急がなければ。この声が届かなくなるまで遠くに……!
「ずぅっと一緒に、石に囲まれて暮らそうぜぇ、へへ、へへへへ」
倉田の笑い声が耳の奥に沁み込んできて、俺はなぜか吐き戻しそうになった。奴の声はもう、穢れと同じなのだと思い知らされる。
俺は必死に急いだ。
絡まるツルに足を取られて倒れそうになっても、イバラの棘で顔や手が傷だらけになっても、道なき道の分厚い茂みを後ろ向きに分け入って、進み続けた。
そして。
「はあ、はあ……うわっ」
どん、と背中に固い何かがぶつかった。
後ろを振り向かないよう手探りで確認する――風化してざらついた石の感触――ついに、三又の鳥居にたどりついた!
後ろ向きのまま三本の柱の位置を確かめる。俺が入ってきたのは左側、左側……後ろを見ずに確認するのがもどかしい。焦っていたせいか、俺はつい、正面から視線をわずかに逸らしてしまった。
その途端。
〖 に げ る き か ぁ ? 〗
耳元で声がした。
ぎょっとして正面に向き直ると、倉田がすぐ目の前に立っていた。全身に黒い結晶を生やし、だらしなくにやけた顔で俺を見据え――
その時。
スマホが何かを受信した。
俺がそれを見るより早く、スマホから一瞬の閃光が走ったかと思うと、俺は勢いよくその場から弾かれて三又の鳥居の向こうへ後ろ向きに吹っ飛ばされた。
頭から地面に転がり、衝撃でぐらぐらする頭を振るってすぐ、冷たい感触にハッとして顔を上げる。
「ここ、は」
俺は、冷たい沢の流れに座り込んでいた。
通り抜けた三又の鳥居やあの細道は影も形もなく、異様な姿の倉田も、もうどこにもいなかった。
スマホを見ると、野口から画像が送られてきていた。
難しい漢字と複雑な紋様を組み合わせた、御札の画像だった。
もしやこれのおかげで、俺は――そして時計の表示を見つめ、俺はぐったりと脱力して顔を覆った。
日没の時刻。
間に合ったんだ。
……
命からがら山を下りた俺は、倉田の件を警察に通報した。二度と見つからないだろうことは分かっていたが、それが友達としての最後のつとめだった。
警察から解放されたその足で、俺は急いで高岡と野口に会いに行った。遅い時間だったが二人とも待っていてくれて、俺は感謝と詫びの気持ちを伝え二人に何度も頭を下げた。
「気にすんなって。おまえだけでも無事でよかったよ」
倉田を助けられなかったせいか高岡の表情は曇っていたが、野口はしれっとした顔で肩をすくめた。
「残念だけど倉田さんはそういう運命だったんです。気に病んでも仕方ないですよ」
「ったくおまえは……身も蓋もないこと言うなよ」
高岡に嗜められてもどこ吹く風の野口は続けて、俺が助かったのは守護霊や先祖霊が守ってくれたからだと言った。穢れに触れなかったのはそれらのおかげだ、と。
「野口、御札の画像送ってくれてありがとうな。あれのおかげで俺、土壇場で助かったんだ」
すると野口は、急に真面目な顔をして俺を見た――俺の〖奥〗を見透かすような視線に、一瞬寒気が走る。
「……当分の間、その御札の画像を待ち受けにしておいて下さい。穢れに飲まれた倉田さんは先輩に強く執着したままです。何があろうと、もう絶対山へは近づかないで」
「わ、分かった」
「絶対ですよ。次は、守護霊も僕も、助けられません」
野口はそれきり口を噤み、俺は、黙ってうなずいた。
……
それ以来俺は鉱物採集をやめ、自慢のコレクションもすべて手放した。
石を見ていると、嫌でも思い出してしまうからだ。
あの時、倉田から生えていた無数の黒い結晶を。
その結晶が、今まで見た石の中でいちばん……美しかったことを。
この渇望を、山の穢れの呪いと言わずして、何というのか。
きっと野口には、すべて視えていたのかもしれない。
もう一度、この目で見たい。
あの山へ行きたい。
俺は、いつまで耐えられるだろうか。