新垣さんが現在住むアパートに引っ越してきた時の話。
大学を卒業して福岡で就職が決まった新垣さんは、その年の3月末に福岡のとあるアパートに引っ越してきた。
新たな生活の拠点となるアパートは4階建のどこにでもあるようなアパートだった。
新垣さんがこれからの新生活に心を躍らせながら荷物の整理をしていると、突然玄関のチャイムが鳴った。
引っ越したばかりなのに誰だろうと思い新垣さんがインターホンを見ると、そこには暗く無愛想な表情をした40代程の女性が立っている。
新垣さんが玄関のドアを開けると女性は先程とは変わって満面の笑顔になった。
「はじめまして!引っ越し進んでますか?」
女性はハキハキとした声で言った。
「まぁまぁです」
と新垣さんが戸惑いながら答えると、女性はバックから茶封筒を取り出した。
「私は隣のアパートに住んでいる本村です」
「これは引っ越し祝いだから受け取って」
と言いながら、新垣さんに茶封筒を渡してきた。
「いえいえ、受け取れませんよ」
新垣さんはそう答えたが
「どうぞお気になさらずに」
と言い、本村と名乗る女性は新垣さんに茶封筒を渡して帰って行った。
(わざわざ隣のアパートまで律儀な人だな)
(福岡ではこれが当たり前なのかな?)
と思いながら部屋のドアを閉めた。
新垣さんが部屋の中で茶封筒を開けてみると、中には5万円が入っていた。
けっこうな金額に新垣さんが驚いて茶封筒を見つめていると、茶封筒の後ろに何か文字が書いてある事に気がついた。
その文字は小さくカタカナで
“オオモリ アキオ”
と書かれていた。
新垣さんは少し気持ち悪さを感じたが、そのままお金を抜き取って茶封筒をゴミ箱に捨てた。
その後、新垣さんが荷物の整理を進めていると大家さんが様子に見にきてくれた。
大家さんはいかにもお母さんといった感じな女性で、新垣さんは地元に住む母を思い出して懐かしい気持ちになった。
しばらく大家さんと話していた新垣さんは先程の話を聞いてみる事にした。
「隣のアパートに住む本村さんって分かりますか?」
と新垣さんが聞くと
「隣アパートの本村さんね、分かるわよ」
と大家さんは答えた。
大家さんの話によると本村さんは隣アパートの所有者で、管理人をしながら住んでいるらしい。
「昔はけっこう人もたくさんいたんだけどね」
大家さんは隣アパートを見つめながらそう言った。
「隣アパートは昔事故があって、その後変な噂が流れたせいで入居者が減ってしまったの」
「今でも入居者が入ってはすぐ出てを繰り返していて、本村さんも大変だと思うわ」
「昔は明るくてよく笑う人だったんだけど、最近はいつも暗い顔をしてるわね」
と悲しそうに言った。
「でもどうして本村さんを知っているの?」
大家さんは不思議そうに新垣さんに聞いた。
新垣さんが引っ越し祝いをもらった事を大家さんに話すと
「あぁそうなの」
「それならお返ししなくちゃね」
「早くした方がいいわよ」
と声のトーンを落としながら言ってきた。
さらに
「今日中には絶対にお返しに行くのよ」
と真面目な顔で大家さんは言った。
あまりの剣幕に新垣さんは少し怖くなって
「どうして今日中なんですか?」
と聞いた。
すると大家さんは
「だって今日もらったら今日返さないと、失礼じゃないの」
と微笑みながら言った。
「じゃあ片付け頑張ってね」
大家さんはそう言うと部屋を出て行った。
大家さんが帰った後も新垣さんは荷物の整理を続け、とりあえず生活できる状態になる頃にはもう夜になっていた。
(もう店も開いてないだろうし)
(本村さんへのお返しは明日にするか)
そう考えた新垣さんはもう寝る事にした。
引っ越し初夜、新垣さんは異変を感じて真夜中に目が覚めた。
時計を見ると深夜2時を指していた。
臭い、とにかく臭かった。
生ゴミを放置したような臭いが部屋中に漂っていた。
(寝る前には全くしなかったぞ)
(なんだこの臭いは)
新垣さんは電気をつけてトイレやお風呂場、台所の排水を調べた。
しかし、臭いはそこからのものでは無かった。
(一体どこからこの臭いがするんだ)
新垣さんがゴミ箱の蓋を開けると、臭いが強くなった。
(おかしい、生ゴミなんて入れてないぞ)
新垣さんが吐き気を抑えながらゴミ箱を調べるとあの茶封筒から臭いがしていた。
捨てた状態のままで中身も空なのだが、ものすごい臭いを放っていた。
(このままじゃ耐えられない)
そう思った新垣さんはビニール袋に茶封筒を入れて縛ると、玄関を開けて玄関のドアノブにビニール袋をかけた。
玄関を閉めた後も部屋中に先程の臭いが残っていた。
3月でまだ肌寒かったが、新垣さんは部屋中の窓を全て開けて布団を被って震えながら眠った。
朝新垣さんが目覚めた時、部屋にはまだ臭いが残っていた。
困った新垣さんはとりあえず窓を開けたまま、お返しの品を買いに行く事にした。
(どうせ大した物も無いし大丈夫だろう)
新垣さんがそう思いながら部屋から出ると、昨晩ドアノブにかけたはずのビニール袋が無くなっている事に気づいた。
(臭いの元を調べたかったけど風で飛んでいったのかな)
新垣さんはそう思いながら部屋の鍵を閉めた。
お返しの洋菓子を購入した新垣さんは隣アパートの本村さん宅を訪ねる事にした。
本村さん宅は隣アパートの1階にあった。
インターホンを押してしばらくすると、本村さんがドアを開けた。
本村さんは新垣さんの顔を見ると、満面の笑顔になって
「あぁお隣アパートの方ですよね」
「どうしたの何かあった?」
と聞いてきた。
新垣さんはお返しの洋菓子を渡しながら、引っ越し祝いのお礼を言った。
本村さんは
「あら気にしないで良かったのに」
「時間があるなら中で一緒に食べる?」
と洋菓子を受け取りながら優しい笑顔で聞いてきた。
「いえ私は荷物の整理がまだ終わってないので大丈夫です」
と新垣さんは笑顔で答えた。
しばらく玄関先で本村さんと立ち話していた新垣さんは昨日の事を話してみる事にした。
「あの昨日頂いた茶封筒に文字が書いてあったんですけど」
そこまで話して新垣さんの言葉は止まってしまった。
先程まで人懐っこい笑顔していた本村さんが物凄い形相でこちらは睨みつけている。
あまりの豹変ぶりに新垣さんが立ちすくんでいると、
「だから気にするなって言っただろ」
と小さな声で吐き捨てる様に言うと、ドアを乱暴に閉めた。
新垣さんは本村さんの豹変ぶりに戸惑いながらも、自分のアパートに戻る事にした。
アパートに戻ると大家さんが花壇の手入れをしていた。
新垣さんが大家さんに挨拶すると
「こんにちは、引っ越しは順調?」
と笑顔で聞いてきた。
先程の事もあって、歯切れ悪く答える新垣さんを見て大家さんは
「その感じだとお返しに行ったのね」
「1晩だけなら大丈夫よ、換気を良くしたらすぐ臭いは消えるから」
「ドアノブにかかってたビニール袋は私が処分したから大丈夫よ」
と新垣さんを安心させるように優しく言ってくれた。
聞きたい事がたくさんあるが、何から聞いていいのか分からず戸惑っている新垣さんを見て大家さんは
「人から何かもらった時はお返しは早くしなきゃダメよ」
「あまり時間が経ったら、お返しに行きづらくなっちゃうでしょ」
と笑いながら言い
「あまりお気になさらずに」
と笑顔で言うとまた花壇の手入れを始めた。
部屋に戻った新垣さんは隣アパートについて調べる事にした。
夕陽が入ってくる部屋の中はまだ臭いが残っている気がした。
ネットで検索をかけると隣アパートで数年前に飛び降り自殺をした女性がいた事が分かった。
その事故の後も隣アパートでは女性が自殺した時間になると今でも女性の幽霊が飛び降りをしている等、心霊的な噂が流れている様だった。
(大家さんが言っていた事故や変な噂ってこれの事か)
と思いながら新垣さんがネットを見ていると、ある事に気づいた。
新垣さんが住んでいるこのアパートも事故物件表示がついている。
情報を見てみると男性が真夏に孤独死して、死後5日後に見つかったらしい。
幸いな事に孤独死した男性がいた部屋は新垣さんの部屋とは違うようだった。
まだ昨晩の生ゴミを放置したような臭いが残っている部屋にいると、新垣さんはだんだん怖くなってきた。
考えない様にしても昨晩の臭いと孤独死の男性が結びついてしまう。
(早くこの臭いが消えてくれ)
いつの間にか真っ暗になった部屋で新垣さんはそう祈りながら眠った。
翌朝、新垣さんが目覚めるとあの臭いは無くなっていた。
お返しの品を本村さんに早めに渡したおかげか、あの晩以降新垣さんの部屋であの臭いがする事は無い。
新垣さんはその後、孤独死した男性の名前を調べたが
“オオモリ アキオ”
という名前では無かった。
隣アパートで飛び降り自殺した女性の名前も当然
“オオモリ アキオ”
では無く関係がありそうには思えなかった。
関係がありそうな事と言えば、新垣さんが住んでいるアパート名が大家さんの名前から取っているのか
“オオモリマンション”
と言う名前な事だ。
大家さんは今でも優しく明るい方で新垣さんの事を気にかけてくれている。
大家さんと顔を合わせた時は挨拶を交わした後、少し立ち話をするのが日課になっていた。
新垣さんは何度か大家さんにアパート名について尋ねてみようと思ったが、大家さんと本村さんの笑顔が重なり聞けないままでいる。
聞こうとする時、あの日物凄い形相でこちらを睨みつけてきた本村さんが頭に浮かぶのだ。
そのような事を考えている時、大家さんは新垣さんの考えを見通してか
「まぁあまりお気になさらずに」
と優しい笑顔で言ってくる。
本村さんとはあの日以来、時々顔を合わせるが言葉を交わした事は無い。
本村さんは引っ越し初日の笑顔が嘘のように常に暗く無愛想な顔をしている。
そんな中、日にちは流れて4月に入り新垣さんは社会人としての新生活をスタートさせた。
新垣さんは慣れない仕事に翻弄されている内にこの奇妙な出来事を気にしなくなっていった。
そんなある日の事だった。
新垣さんが休日に仕事疲れを癒すため部屋でゆっくりしていると、外から少し慌ただしい感じがした。
新垣さんが玄関を開けて様子を見ると、大きなトラックが駐車場に停まっていた。
どうやら引っ越しのトラックのようで荷台から引っ越し業者が荷物を運び出し、階段を駆け上って行った。
(上の階に新しく入居者が来るのだろう)
と新垣さんは玄関を閉め、部屋に戻った。
しばらく休んだ新垣さんは晩ご飯に必要な食材を買いに行く事にした。
部屋から出るとアパートの駐車場で2人の人物が立ち話をしていた。
1人は見知らぬ顔の男性でもう1人は本村さんだった。
本村さんは新垣さんが引っ越してきた時のように、満面の笑顔をしていた。
2人の方を見てる新垣さんに男性が気づくと
「どうも初めまして」
「302号室に引っ越してきました」
「宮ノ原と申します、よろしくお願いします」
と言ってきた。
それを聞いた新垣さんは、宮ノ原と名乗った男性が孤独死をした男性がいた部屋に引っ越してきた事を知った。
「新垣です、よろしくお願いします」
そう返す新垣さんを本村さんは優しい笑顔で見つめていた。
宮ノ原と名乗った男性は
「今日は引っ越しの手伝いありがとうございました」
と本村さんの方を向いて言った。
「いえいえ、いいのよ」
「困った事があったら言ってね」
と宮ノ原と名乗った男性に笑いながら言った。
「じゃあ自分は部屋に戻ります」
と部屋に戻ろうと階段を登って行く、宮ノ原と名乗った男性に本村さんは笑顔で手を振っていた。
本村さんの笑顔に安心した新垣さんが宮ノ原と名乗った男性に手を振り、もう1度本村さんの方を見た時だった。
本村さんは無愛想な表情で新垣さんの顔をじっと睨んでいた。
そのまま本村さんは新垣さんを睨んだまま
「やっと返せる」
とそう小さく呟いた。
本村さんの手にはいつの間にかあの日新垣さんがもらった様な茶封筒があった。
よくは見えないが茶封筒には何か小さな文字が書かれているようだった。
本村さんはそのまま宮ノ原と名乗った男性を追うように、階段を登って行く。
新垣さんが階段を登って行く本村さんを見つめたまま固まっていると、突然本村さんは立ち止まった。
本村さんは新垣さんの方に振り向くと
「まぁお気になさらずに」
とハキハキとした声でそう言った。
本村さんの表情は引っ越してきた日のように満面の笑顔だった。
新垣さんは今でも時々宮ノ原と名乗った男性とアパートの廊下ですれ違う時があるそうだが、その時にプンと生ゴミを放置したような臭いがするらしい。