毎年、夏の人気番組として制作される怪奇特集。
しかし今回は、スタッフたちの意気込みが違った。
かつて、世間でその名を知らない人はいないと言われた有名霊能者、川嶋亜希子を招いての生収録なのだ。
彼女の名を世に知らしめたのは、彼女が二十四歳の時だった。そのきっかけとなったのが何を隠そう、うちの局で制作したある特集番組なのだ。
それは、見ていた人すべてに衝撃を与える事件にまで発展した。
祖父が亡くなってから謎の霊障に悩まされているという一家の問題を有名霊能力者が暴く、という企画で呼ばれた亜希子は、家族の人からの話もしっかり聞かぬまま家を飛び出し、敷地内の一角を指差して、
「ここの土に、昔殺された人の骨が混じってる。おじいちゃんが生きていた時は守ってくれていたけど、亡くなった今は逆におじいちゃんがその人に縛られて苦しんでるの。警察を呼んで、ここの一角をすべて掘り返して」
その後、そこから人骨の一部が発見され元建築業者の男が逮捕されるという、未解決事件を終わらせる偉業まで成し遂げてしまったのだ。
彼女の力は本物だった。
当時のオカルトブームに乗り、そこそこの顔の可愛さも話題となって、あれよあれよと言う間に霊能力者としてテレビで見ない日はないほどの人気と、確たる地位を築き上げていったのである。
しかしその三年後、人気絶頂であった彼女は突然の引退宣言を各メディアにFAXしただけで姿を消してしまった。
理由を明確に告げぬままの引退だったため、病気になったやら悪霊に憑りつかれたやらと世間は面白おかしく騒ぎ立てていたが、しばらくすると人々の話題にも上らなくなっていった。
その彼女が五年振りにテレビに姿を現すのだ。スタジオ内が落ち着かないのもうなずける。
「吉住さん、控室の川嶋さんにはまだお会いしていないでしょう? 今回は吉住さんの素の驚いた表情が撮りたかったから、敢えて会わないようにしてもらったんですけど、お会いしたらびっくりしますよ」
スタッフが通りすがりに俺にそう話しかけてきた。
「へぇ、何かあるの? 彼女の全盛期の頃の俺はまだ新人で、当時はテレビを通じてしか顔を見たことがないんだよ。今日は本人に直接会えるのを楽しみにしていたんだけどね」
俺はニヤリと笑ってそう答えた。
「何? 女優顔負けの美人になってた? それとも、何かの霊障でずっと苦しんでた? 俺は後者の方が面白い話が聞けるかもしれないと思ってるけど、それは人としてダメなのか司会者として有能なのか、どう思う?」
スタッフは苦笑いをしながらその場を去って行った。
(でも、世間が聞きたい話ってのはそういうことだろう?)
「吉住さん時間です、お願いします」
「はい」
俺はスタジオの中央へと歩いて行った。
司会者用とゲスト用のソファが二つ置かれただけの簡単なセット。しかしその背後には、濡れた髪の隙間から恐ろしい眼を覗かせる女性や、怪しげな黒い影が描かれたパネルがズラリと並んでいる。迫力は満点だ。
その前に立った俺は、スポットライトを浴びながらカメラに向かってこう切り出した。
「まずは、先月にお亡くなりになられた大原経落氏のご冥福を心よりお祈りいたします」
大原氏は、長年に渡り怪奇特集の番組には必ず呼ばれていた常連の一人で、高齢だったが数々の除霊の実績を持つベテラン霊能者の男性だった。それが、亜希子の引退とほぼ同時にテレビでその姿を見ることはなくなり、ついには訃報を聞くこととなってしまったのだ。
(霊能者であろうと、年齢には敵わないってことだな)
俺は声のトーンを変えて片手を大きく振り上げた。
「では本日のゲスト、川嶋亜希子さんにご登場していただきます。どうぞ」
カメラが一斉に上手側を向く。
(えっ)
カツ、カツ、カツ、カツ。
サラサラした黒髪を肩で揃えた彼女は、目を固く閉じて白状を突きながら注意深くこちらに歩いてきた。
少しふっくらとはしていたが、当時の面影は十分ある。
俺は慌てて彼女に近付き、サポートしながらソファに導いた。そして、彼女が落ち着いたのを確認してから向かいのソファに腰を下ろした。
「みなさん、覚えておいででしょうか。あの川嶋亜希子さんが五年振りにテレビに戻って来てくれました。それにしても……」
わざとらしく見えないよう、俺は悲しそうに手で口を覆った。
「今は目が……? すみません、何も知らされていなかったものですから」
素の驚いた表情が撮りたいと言われていたので、アップで撮られていることを意識しながら表情を作る。驚いたのは本心からなので、良い画が撮れたに違いない。
「まさかそれが原因で引退されたのですか」
「え?」
亜希子が聞きづらそうに首を傾けて、右耳を前に出すような仕草をした。
(悪いのは目だけではなさそうだな)
俺はもう一度、同じ質問をゆっくりと繰り返した。
すると亜希子はほんの少し笑みを浮かべて、うなずきながら、
「今日は、みなさんが知りたいことをようやくお話できるようになったので、ここで初めて語らせていただこうと思っております」
初めて、と言う言葉にスタジオの空気が変わった。俺を含め、スタッフの心に〈特ダネ〉〈視聴率〉の文字が浮かんだのが伝わってくる。
「私は、幼い頃から他人には見えないモノが見えていました。そういうものは肉眼ではなく第三の目で視るのだと思っておられる方もいらっしゃるようですが、私は普通にこの二つの目で見てきました。幸いにもそのほとんどが動くことも話しかけてくることもなく、人の形を保ってただそこにいるだけだったので、幼い頃の私はソレを怖いと思ったことはなかったのです。例えばそこに人が立っていたとしても、わざわざ「そこに人がいるね」とは誰も言わないでしょう? それと同じように、私はその存在を誰かに話す機会がなかったので、誰も私が〈見える人〉だとは気付かなかったと思います」
しかし、祖母だけは気付いていた。そして、祖母も見える人であった。
彼女が十歳を過ぎた頃、祖母に連れられて近所のスーパーへ出かけた時のこと。
「亜希ちゃん、ほら、あそこ。男の人が立ってるやろ。アンタは何見てもいつも気にしてへんけど、アレはあかんヤツよ、覚えておきなさい」
祖母が指差した電柱の横には、作業着姿の男性が立っていた。
「見た目は本当に普通の人なので、祖母に言われなければ霊とは気付かなかったかもしれません。いつも見えていたモノは動かないのに、それはソワソワとずっと動いていたんです」
「見ちゃいかんよ」
祖母が、つないだ手に力を入れた。
亜希子はソレの前を通り過ぎる時、初めて感じる寒気と怖さに思わず目をギュッと閉じた。
その動きに気付かれた。
男はフラリと体を動かして亜希子のそばに近付いてきたのだ。
(付いてきた!)
こんなに動くモノに出会ったのは、それが初めてだった。
ソレは亜希子の耳元でこう言ったのである。
【見えてるんだろ?】
初めて霊の声を聞いた瞬間だった。
亜希子は叫び出したいのを我慢して、目を閉じたまま祖母の方を向いた。
おばあちゃん、目にゴミが入って痛い」
「うん? どれどれ」
祖母はしゃがみ込んで、彼女の顔を両手で包み込んだ。
「痛い、痛い。帰りたい」
亜希子は目を閉じたまま涙を流した。
「それだけ泣けば、ゴミも取れるよ。手を引いてやるから、目を閉じたまま歩いて行こうね」
閉じた暗闇の中で、気配が遠ざかって行くのを感じた。
今度は安心感から涙が止まらなくなった。
「よしよし、もう大丈夫だよ。亜希ちゃんは賢くて偉いね。今の気配を忘れたらいかんよ」
「それ以来、私は姿を見ることだけでなく、声も聞こえる様になってしまいました。その声には二種類あって、私に救いを求める声と……」
そこで亜希子は、一旦黙り込んだ。
「……【見えているのか?】と質問する声でした」
そこで亜希子は、目を閉じたまま顔を真っすぐ正面に向け、
「実は私が引退した理由は、見えていることに気付かれてしまったからなんです」
と言ったのである。
突然の引退を宣言した年、亜希子は二十七歳だった。
結婚を約束した男性は亜希子の能力の理解者であり、このまま進めば必ず幸せな家庭が作れるという自信があった。
だから、少し浮かれていたのだ。
冬のある日、亜希子は婚約者と映画館に来ていた。客席は空いている席がまばらで、二人はすでに人が座っている席から一つ空席を作って座り、亜希子は反対側の二つ空いていた空席の一つにコートを置いた。
そこにカップルが近付いてきた。席が満席に近かったので別に不思議にも思わず、亜希子は二人分の席を空けるためにコートを自分の膝の上に移動させた。
女性が先に亜希子の横に座った。
そして男性が亜希子に声をかけた。
「コート、置いてもらったままで大丈夫ですよ」
血の気が引いた。
自分は浮かれていたのだと、心から反省した。
それはカップルではなかったのだ。
隣に座った女がゆっくりと亜希子の方を向いたのが、視界の縁に映る。
【見えてるよね?】
どうしたらいいのかわからなかった。
女が体をくねらせて、亜希子の顔を覗き込むように近付く。
【ねぇ、見えてるよね?】
反対側から、亜希子の状態になど気付きもしない婚約者が笑顔で何か話しかけてきた。だが、彼女の耳にはその優しい声は聞こえない。
その代わり、女の声だけはハッキリと聞こえていた。
【見えてるんだよね?】
彼に助けを求めることもできず、亜希子はただ目を見開いて固まったまま必死に呼吸に集中した。
【ねぇ、見えてるんだよね?】
女が亜希子の顔を正面から覗き込んだ。
ハッキリと見えてしまった。
落ちくぼんだ真っ黒の目の奥に、無いはずの眼光があった。
脂肪を失ってたるんだ皮だけの顔には幾重にもシワが重なり、鳥肌が立ったかのようなボツボツとした毛穴までしっかりと見える。
(ヒッ)
必死で声を飲み込んだ。
今までに数多くの霊を見てきたが、こんなに恐ろしいと感じるモノに出会うのは初めてだった。
いや、〈あれ〉以来二回目だ。
【ねぇ、見えてるんだよね?】
鼻から数センチ先で女の口が動いた。
もう、無理だった。
亜希子は夢中で首を振ってしまったのだ。
それは、見えていることを肯定したに過ぎないのに。
その瞬間。
女はガバッと両手で亜希子の頬を包み、鼻の頂点同士が擦れるほどの距離に顔を近付けて言った。
【見えてた見えてた見えてた見えてた見えてた見えてた見えてた見えてた見えてた見えてた見えてた見えてた見えてた見えてた見えてた見えてた見えてた見えてた見えてた見えてた】
「いやあぁぁぁぁぁぁぁっ!」
「突然叫んでパニックを起こした私を、彼は急いで大原経落先生の所へ連れて行ってくれました。そして各メディアにFAXを送り、私を世間から切り離してくれたのも彼でした」
息をするのも忘れていた俺は、今一番聞きたいことを口にした。
「じゃ、大原氏が亡くなったのは……」
呟くような声だった。だからだろうか、亜希子は再び片耳を前に出して聞き返した。
「え?」
それが反って良かった。俺はほんの少しだが冷静さを取り戻すことができたのだ。
意識しながらゆっくりと、大きな声で彼女に質問した。
「先ほどから気になっていたのですが、川嶋さん。あなたの視力と聴力、そして大原氏の死去は、何か関係があるのですか?」
「川嶋さん! 目を閉じて耐えてくれ! 必ずワシがこいつをどうにかしてやるから!」
大原は亜希子を曼陀羅の上に寝かせ、一心不乱に経を唱え続けた。
女がのしかかる重みと響き渡る女の声。
気が狂いそうだった。
【見えてた見えてた見えてた見えてた見えてた見えてた見えてた見えてた見えてた見えてた見えてた見えてた見えてた見えてた見えてた見えてた見えてた見えてた見えてた見えてた】
「見えてない! 私は何も見えてない!」
「川嶋さん! 応えちゃダメだ!」
【見えてる見えてる見えてる見えてる見えてる見えてる見えてる見えてる見えてる見えてる見えてる見えてる見えてる見えてる見えてる見えてる見えてる見えてる見えてる見えてる】
「いやあぁぁぁぁぁぁぁっ!」
「川嶋さん! 踏ん張れ! 黙って!」
亜希子は両手で耳を押さえた。彼女の頬を包んだままの、ヌルッとした冷たい女の手が触れた。
「ヒィィィィィィッ!」
怖いから怖いと叫ぶ。人はそれ以外に何もできなくなった時、理性も知性も役に立たない。その存在すら忘れてしまうのだ。
「川嶋さん!」
その戦いは、三日三晩続いた。
女は途切れることなく言葉を発している。
疲れ果てた亜希子は、もう叫ぶこともできなくなっていた。
横になって固く目を閉じ、ただひたすら女の声と大原の唱える経だけを聞いていた。
その時に気付いたのだ。
女の声が以前より小さくなっていることと、発する言葉に変化があることを。
【見えてる? 見えてる? 見えてる? 見えてる? ねぇ、見えてる? 見えてる? 見えてる? 見えてるよね? 見えてる? 見えてる? ねぇ、見えてる? 見えてる? 見えてるよね? 見えてる?】
(何? 私が反応しなくなったから、自信がなくなったわけ?)
これは良い傾向にあるのかもしれない。大原に伝えるべきだと思った亜希子は宙に手を伸ばした。
「亜希子」
その手を握り返してくれたのは、婚約者の温かい手だった。ずっとそばにいてくれたことに、思わず涙が溢れた。
「あり……がとう」
その瞬間、女の声量が変わった。
【騙された騙された騙された騙された騙された騙された騙された騙された騙された騙された騙された騙された騙された騙された騙された騙された騙された騙された騙された騙された】
喉がヒュッと鳴った。
これは婚約者の手じゃない。亜希子は投げ捨てるようにその手を離した。
(そうか、もう彼はいないのね。こんな状態の女と結婚なんてできるわけないもの、当然だわ)
だが、自分を大原の元に連れて来てくれたことは感謝していた。あの時、あのカップルにもっと注意を向けていたら気付けたはずだったのだ。自分の迂闊さを恨むしかなかった。
「川嶋さん」
経が途切れ、大原の声が亜希子に話しかけてきた。しかし、今の一件を考えると素直に返事をするのは危険だと判断した。
亜希子は床に指で文字を書く仕草をした。
「川嶋さんは賢いね。それがいいよ」
人が近付いてくる気配がしたことに安心して、亜希子は指で文字を書いていった。
『私は話さない方がいいと思います』
「そう感じるならそうした方がいい。聞かれているのかい?」
『はい』
亜希子は、今後の自分に絶望を感じていた。この先ずっと、目を閉じて話すこともできずに生きていくのだろうかと。
しかし、次の大原の言葉に希望が生まれたのである。
「ワシも、この女を取り去ろうと努力はしておるのだが、一気に全部は無理なのだ」
『一気に全部とはどういうことですか』
「ワシの力を以てしても、時間をかけながら一つ一つ剥がしていくしかないということだ。気付かないか?」
そう言われて、亜希子は初めて気が付いたのだ。
女の重みを感じない。
恐る恐る両手を耳に持っていく。
(触れない)
そうなのだ。
あの時、確かに触れた女の手。あのヌルッとした冷たい感触は忘れられないが、今はどこに手を伸ばしても女に触れることはなかった。それだけで八十パーセント以上救われたような気になれた。
『ありがとうございます。これなら今日にでもマンションに戻れそうです』
「礼を言うのはまだ早いよ。ワシにも見えておるが、コレはまだあなたにべったりとくっ付いていて離れようとする様子がないからね。コレの声はまだ聞こえているんだろう?」
亜希子はゆっくりとうなずいた。
べったりとくっ付いたままということは、目の前に女のあの顔があるということだ。目はまだ開けない方がいい。だが、鼻先に感じていた気配を感じなくなっただけでも、亜希子にとっては救いだった。
『私が声を出さなければ、コレは反応しなくなっていくようです。実際、先ほどまでは小さな声になっていましたから』
「そうか。川嶋さんの声に反応しているのなら、聞こえないようにしてしまえば何か進展があるかもしれない。それまでは声を出さぬよう辛抱してくれ」
『はい』
そうして、亜希子は一人暮らしのマンションに戻った。目を閉じ、声を発しない生活は想像以上に困難だったが、実家の家族に頼ることはできなかった。祖母はすでに他界しているが、その血筋の家系である。もしも女が家族に何らかの影響を及ぼしたらと考えると、怖かったのだ。
大原はそれからも欠かすことなく亜希子のために経を唱え、あっという間に五年の月日が経ったのであった。
「それで先月、大原先生の訃報を聞きました。先生はご自分の命と引き換えに私を助けてくださったんです」
亜希子の告白に、スタジオ内はシンと静まり返っていた。
俺は興奮しているのを悟られないよう神妙な面持ちで、なおかつ安心感を与えるトーンの高い声を出して、最後を締めくくった。
「そうでしたか。大原氏が偉大な霊能力者だということを改めて感じさせられますね。いやぁ、恐ろしい話でした。大原氏は命を、川嶋さんは視力と聴力を失われたということですが、無事に除霊できてよかったです」
「え?」
自分でもいいセリフで締めくくれたと思ったのにと、俺はイライラした気持ちが表情に出ないよう努めながら、もう一度同じ言葉を繰り返した。
すると彼女は、驚くべきことを言い出したのだ。
「ごめんなさい、まだまだ声がうるさくて。それに、私が奪われたのは視力ではありませんよ?」
亜希子は目を閉じたまま話を続ける。
「大原先生は五年もかけて、コレに私の声が聞こえなくなるようご尽力くださいました。おかげで私はこうして怯えることなく話すことができるようになったのです。でも、コレをすべて剥がすまではいかなかった……。私が奪われたのは視界であり、静けさなのです」