「てるてる坊主」

投稿者:速水 静香

 

私が住んでいるマンションは、駅から徒歩5分ほどの場所にあった。

 5階建てのマンション。  1LDKの部屋。  その3階に、私は住居を構えていた。  単身者の私には十分すぎるほどの広さだった。

 周辺には、スーパーやコンビニ、病院まで揃っており、生活には不自由しなかった。

 その日は、その出来事以外に思い出すことが無い。  特に特筆すべきことがない日だった。

 私は、ユラユラと自宅であるマンションへ帰宅していた。  夜も始まったばかりの時間帯だったが、周囲には誰もいなかった。  ただ、街灯の明かりだけが、私を照らしていた。

 自宅のマンションに近づいたときだった。  なんとなく、自分の部屋を確認しようとマンションを見上げた。

 その瞬間、私の目に異様な光景が飛び込んできた。

 4階のベランダに、何か白いものが吊るされていたのだ。  街灯の光を受けて、白いものが不気味に揺れている。  まるで、私を見下ろしているかのようだった。

 目を凝らして、それをじっと見る。

 …テルテル坊主だった。  それは、一般的に普及しているテルテル坊主そのものだったが、この状況下では異様に感じられた。

 気味が悪い。  そう思いながらも、私は視線を逸らすことができなかった。  テルテル坊主は、まるで生きているかのように、風もないのに揺れ続けていた。  そして、不意に私の脳裏に浮かんだのは、白いウサギや鶏を血抜きのために逆さづりにする光景だった。

 ゾッとして、私は急いでマンションの中に入った。

 エレベータに乗り込むとき。  ふと、私には何か言いようのない感情が沸き起こった。

 私は考えた。  一体、あれはなんだろう、と。

 確かにテルテル坊主は、晴れになるように祈る、おまじないで和やかな儀式だ。  一般的に普及しており、オカルトや神秘に満ちたものではない。

 そのはずなのだが。  あのテルテル坊主からは、何か禍々しいモノを感じざるを得なかった。

 エレベータは、3階へ着いた。  私はそのまま、自室へと直行する。

 自室に入ると、ホッとした安堵感と共に、さらなる疑問が湧いてきた。  なぜ、あんな場所にテルテル坊主を吊るすのだろう。  4階の住人は、どんな人なのだろうか。

 真上の部屋の住民は、まじないやゲン担ぎを好んでいるのか?  もしかしたら、晴れないと駄目な仕事に就いているのかもしれない。

 …いや、それとも。  家族連れで、子どもが作ったのか?

 だとすれば、子どもが作った、というのが一番妥当なものだろうか。

 しかし、上の部屋の住民は、家族連れではないと思った。

 足音、水を流す音。  大声やモノがぶつかる音、落下音。  そうした音は、これまでに一度も真上の部屋から、聞こえてこなかった。

 というのは、マンションの防音性には、限界がある。  もし、真上の部屋に住んでいる者が、子ども持ちの家族連れならば、なんらかの生活音が聞こえてくるはずだ。

 不思議なほどの静けさ。  それが、あの4階の部屋の特徴だった。

 私は、考えを巡らせていた。  その時だった。

 ドンッ!ドンッ!

 何かを叩きつけるかのような音。

 ハッとして上を見上げる。  今まで一度も聞こえたことのない音だった。

 …まあ、生活をしていると、音が出るときもあるかな。  そう私は、自分に言い聞かせた。  そして、その日は早々にベッドに潜り込んだ。

 その夜、激しい雨音で目が覚めた。  時計を見ると、深夜3時を回っていた。  再び眠りにつこうとした瞬間、天井から奇妙な音が聞こえてきた。

 ズルッズルッ、ドンッ!

 何かを引きずっているような音。それに混じる何かを叩きつけるかのような音。  私は、布団の中で体を丸めた。  音は、しばらく続いた後、突然ピタリと止んだ。

 翌朝、雨は上がっていた。  出勤前に窓から外を眺めると、4階のベランダの手すりにテルテル坊主が吊るされているのが見えた。

 それから数日が過ぎた。  ある朝、いつものように外を眺めると、4階のベランダに2つ目のテルテル坊主が吊るされているのに気づいた。  2つのテルテル坊主は、まるで私を見つめているようだった。

 夜になると、上の階からの物音がより頻繁に聞こえるようになった。  何かを引きずるような音。叩くような音。  断続的に聞こえた。  そして、時には、かすかな悲鳴のような音さえ聞こえる気がした。

 眠れない夜が続いた。  枕元に置いたスマートフォンの時刻が、やけに遅く進むように思えた。

 耐えきれなくなった私は、管理会社に相談することにした。  電話で状況を説明する。

「上の階の住人への苦情は、今のところありませんが、確認してみます」

 管理会社は、それだけ言った。  しかし、その後に管理会社からの連絡はなく、物音は相変わらず続いていた。  むしろ悪化していった。

 夜、叩くかのような音はずっと鳴り響いている。  まるで、何かが暴れているかのような音。  そして、時々聞こえる小さな悲鳴のようなもの。

 そして、それらに関連しているのか、ベランダには、3つ目、4つ目のテルテル坊主が現れていった。

 気になった私は、もはや眠ることすらできなくなっていた。  この状況が限界に達しつつあると、考え始めていた。

 ある夜、眠れぬ時間が続く中、ついに私は行動に起こすことにした。

 直接、上の階に行って確認しようと思ったのだ。

 部屋を出る。  そして、エレベータに乗り込んで、4階のボタンを押す。  すぐにエレベータは、4階に到着する。

 そして、誰もいない4階の廊下に出た。

 私はとても緊張していた。

 なんて言えばいいのだろう?  お宅の部屋から、物音が聞こえる?  いや、物音自体は誰にでもあることだ。

 もっとこう、何か深刻な…。

 そんなことを考えて歩いていると、いつの間にか、真上の部屋の前に近づいていた。  私は、真上の部屋のドアの前で立ち止まり、深呼吸をした。  インターホンを押す。

 長い沈黙の後、ドアが開いた。

 玄関が見える。  同時に、部屋の中の強い匂いが周囲へ広がった。  生臭さと甘ったるさが入り混じったような匂いが周囲に漂い始めた。  まるで、腐った肉の臭いのようだった。

 その匂いの中心には、やせ型で目つきの鋭い中年男性がいた。  その男は、私を見ていた。

「何か用ですか?」

 その男性は笑みを浮かべながら尋ねてきた。  心の底が見えない表情。  その笑みは、まさに張り付いた笑みという表現がふさわしい。

「あの、夜中の音のことで…」

 私が言いかけたとき、一方的に男性は私に話しかけてきた。

「ああ、トイレが詰まってしまって、いろいろとやっていると音が出てしまったみたいで…すいません。」

 明らかにおかしな理由だった。  しかし、その男の持つ言いようのない凄みに私はそれ以上、追及することが出来なかった。

 一刻も早く、この男から距離を取りたい。  そう思った。

 男の背後の部屋の中は暗く、何も見えなかった。  ただ、特徴的な匂いが、部屋の中から強く漂ってきていた。

 私は急いで自室に戻った。  しかし、その夜も、上の階からの音は続いた。  そして、私の耳には、かすかな笑い声さえ聞こえてきた。

 その後、数日が経った頃のことだ。  夜も更けた時間だった。  仕事が終わるのも遅かった私は、ゴミを捨てに行くため、マンションの裏手にあるゴミ置き場へと向かった。  蒸し暑い夜気の中、虫の音だけが響いている。

 ゴミ置き場に近づくと、誰か一人でいるようだった。  誰かがゴミを捨てているのだろう。  私は特に気にせず歩みを進めた。  しかし、その人が振り返ったとき、私は驚いた。

 4階の男だった。

 男は大きな黒いゴミ袋を抱えていた。  私と目が合うと、男は張り付いたような笑みを浮かべた。  その笑顔は、月明かりに照らされて、より一層不気味に見えた。

 「こんばんは」

 その声は、どこか上機嫌だった。

 「こ、こんばんは」

 私の声は、震えていた。  男を前に、私は緊張していた。

 男は、そんな様子の私を気にも留めない様子だった。  そのまま男は、黒いゴミ袋をゴミ置き場へと置いた。  袋からは、あの生臭い匂いが漂ってきた。

 「いい夜ですね。静かで」

 男はそう言うと、私の方へ一歩近づいてきた。  私は思わず後ずさりした。

 「そうですね…」

 私は、そう反射的に口にした。  その私の答えに男は、何かの興味を抱いたように見えた。

 「あなたも、静かな夜が好きですか?」

 その問いかけに、私は答えられなかった。  男は再び笑みを浮かべると、私の横をすり抜けていった。

 「おやすみなさい。」

 その言葉を残し、男はマンションの中へと戻っていった。  私は、その場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。  何か、得体の知れない恐怖を感じていたからだ。

 それから私は、ふとした時に誰かの視線を感じることが多くなった。  マンションに近づいた時、エレベータに乗っている時、部屋に入る時。  常に誰かに見られているように感じた。

 しかし、誰から?  私は、ふと、あの中年の男のことが脳裏に浮かんだ。

 首を振る。  あの男が、私を監視して一体何になるんだ?  私の理性は、冷静にそう判断する。  しかし、一方である仮説を私は考えざるを得なくなった。

 そう、彼は音がうるさいと、苦情を入れたことに根を持っているのだ、と。  つまり、それは私を監視する理由になりえるのだ。

 私は、男がまともであることを祈るしかなかった。

 そんな不安な日々を過ごしていた時。  ある日を境に、突然全てが静かになった。  上の部屋からの音も聞こえなくなり、視線を感じることもなくなったのだ。

 最初は安堵感があったものの、この突然の変化に違和感も覚えた。

 それでも数日が経つと、私は徐々に落ち着きを取り戻し始めた。  悩みが消えて、久しぶりにスッキリとした気分で日々を送れるようになった。

 そんな平穏な日々が続いていたある早朝、突然の物音で目を覚ました。   部屋のドアをそっと開けると、階段を駆け上がっていく大勢の警官の足音が聞こえた。  その後を追うように、カメラを抱えたマスコミらしき人々の姿も見えた。

 震える手でテレビのスイッチを入れると、信じられない光景が映し出されていた。

「昨夜、本市内のマンションで複数の遺体が発見されました。警察は、部屋を借りていた40代の男を殺人容疑で行方を追っています。」

 アナウンサーの声が続く。

「容疑者の部屋からは、多数のテルテル坊主が発見されました。これらは人皮を使って作られていた可能性が…」

 思わずテレビを消してしまった。  私の頭の中で、これまでの出来事が走馬灯のように駆け巡る。  あの音、あの匂い、あのゴミ袋。  そして、増え続けるテルテル坊主。  全てが繋がった。

 私は部屋を飛び出し、エントランスを抜けて、マンションが見えるところまで移動した。  そこからマンションを見上げると、4階のベランダの手すりからはテルテル坊主は消えていた。

 しかし、あの白い物体がベランダで吊るされている姿が、しっかりと私の脳裏に焼き付いていた。

 警察の調べで、4階の住人だった容疑者は連続殺人犯だったことが判明した。  被害者の数は5人以上とも。  そして、各被害者の失踪日に、新しいテルテル坊主が現れていたのだ。

 あの夜、私が聞いていた音の正体は…。  考えたくはなかったが、間違いはなさそうだった。  それにしても、犯人と向かいあった私は幸運だったのか、それとも…。

 それから数日後、犯人だった4階の男の遺体が市内の河川敷で発見された、と報道があった。  自殺だったらしい。  そのため、事件の全容は闇に包まれたままだ。

 マンションの管理会社は、事件後すぐに4階の部屋を完全に清掃し、新たな入居者を募集し始めた。  しかし、噂を聞きつけた人々は誰も入居しようとはしないようだ。

 天井から微かな音が聞こえる気がする。  本当に死んだのだろうか。

 私は不安に駆られ、昔から伝わる言い伝えを思い出していた。  強い怨念を持って死んだ者の魂は、この世に留まり続けるというものだ。  彼の魂は、未だに4階にあって…。

 バカバカしいことだ、と私は思った。  しかし、上の部屋から聞こえる微かな音は、終わることなく聞こえてきていた。

 ある日の夕方、帰宅途中にマンションを見上げると、4階のベランダに新しいテルテル坊主が吊るされているのが見えた。  私は目を疑った。   そして、すぐに管理会社に連絡を入れた。  管理会社の人間に確認すると、まだ新しい入居者は決まっていないという。  そして、テルテル坊主のことを話すと、すぐに管理会社から人が確認しに来たようだった。

 それによれば、そのようなものはなかった、とのことだ。  管理会社の人たちは、私が精神的におかしくなっている、と疑いはじめたようだった。

 私は、もうこれ以上我慢できなかった。  翌朝、すぐに不動産屋に電話をかけ、引っ越しの手続きを始めた。  幸い、会社からそう遠くない場所に、すぐに入居可能な物件が見つかった。

 荷造りをしながら、私は4階を見上げた。  テルテル坊主は相変わらずそこにあった。  まるで縛り首でもされたかのように揺れており、逃げる私を恨めしそうに見つめている。  私には、それが人の顔のように見えた。

 引っ越し当日、最後の荷物を運び出す際、エレベータの中で男と鉢合わせた。  男は相変わらずの笑みを浮かべていた。  しかし、それは明らかに幻であるはずだった。  なぜなら、その男はすでに死んでいるはずなのだ。  もしかしたら、私の気がおかしくなっているのかもしれない。

「お引っ越しですか。残念ですね。」

 私は黙っていた。  この明らかに異常な状況を無視することにした。  しかし、男はいた。  そして、私がエレベータを降りる際、男が口を開いた。

「また会いましょう。」

 私は振り返らず、足早にマンションを後にした。  しかし、背中には4階の窓から、誰かの視線を感じていた。  車に乗り込み、マンションを見上げると、4階のベランダには、複数のテルテル坊主が吊るされていた。

 そして、その瞬間、私には見えた。  無数に吊るされたテルテル坊主の中から、あの男の顔が覗いているのを。  男は、死んだ後もテルテル坊主を作り続けているのだ。

 私は急いで車を発進させた。バックミラーに映るマンションが小さくなっていく。  しかし、4階のベランダに吊るされたテルテル坊主は、はっきりと見えた。  そして、それは確かに、私の方を向いて笑っていた。

 

得点

評価者

怖さ鋭さ新しさユーモアさ意外さ合計
毛利嵩志151518121575
大赤見ノヴ161516161679
吉田猛々171716161682
合計4847504447236