「安楽さん」

投稿者:坂本ユミ子

 

あんらくさんが来たら、
あんらくさんに何も聞いてはいけません。
あんらくさんに一言でも何か言ったら、
あんらくさんとの契約は無効になります
あんらくさんはみんなを幸せにしてくれます。

 夢を見ていた。この頃は寝てばかりで、夢をよく見る。夢は記憶を素に生まれると聞いていたのだが―。
雲一つ無い青空、今が盛りと咲き誇る桜、ハラハラと散る桜の花びら、たくさんの人々の宴、その中の一つに道人はいる。祖父母と母、三歳違いの弟の直人、四歳違いの妹の詩織、家族全員がいる。
母と祖母が作ったのだろう。ゴザの上には重箱に入った豪華な弁当が並んでいる。それを囲むように家族が座っている。直人と詩織は、桜を愛でるよりお弁当を食べるのに忙しい。二人はまだ小学校に上がる前なのか、とても幼い。
「きれいだね。お天気でよかった」
 祖母は桜を見上げている。母も桜を見上げ、頷いた。
「お義母さん、明日は雨になるそうです。今日、来てよかったですね」
 二人ともずいぶん若かった。姑と嫁は仲が悪いものだが、祖母と母は仲が良かった。たぶん、それは祖父のせいだろう。祖父は二人の共通の敵だったから、二人は同盟を結んでいたのだ。
「花散らしの雨か―今日みんなでお花見に来てよかった」
 祖父は家族をゆっくりと見回してから、
「みんな、ありがとう。みんながいてくれたから、ワシは幸せだった」
 祖母と母が驚いて祖父を見た。道人も祖父を見た。祖父と目が合った。とても優しい穏やかな笑顔だった。思わず叫んでいた。
「おじいちゃん!」

自分の声で目覚めた。泣いていた。切なくなって心が苦しくなっている自分に戸惑った。祖父が大嫌いだった。それなのにこんな夢を見るなんて……。
―家族でお花見に行った記憶など無いのに……。

祖父の笑顔を見たことがあっただろうか?いつも怒った顔をしていた祖父。実際、祖父はいつも些細なことに腹を立て、家族に怒鳴り散らした。家族に暴力こそは振るわなかったが、言葉の暴力は十分に家族の心を傷付け、怯えさせた。
祖父は昔の人にしては背が高かった。体格もよかった。百八十センチ以上もある体躯と怒鳴り声は威圧的で、みんなを震え上がらせるのに十分だった。
現在ならパワハラと呼ばれ、社会問題になっているが、当時は家長であれば許さる風潮だった。養われている家族は家を出たら食べて行けない。我慢するしかなかった。

祖父の一番の被害者は祖母だった。機嫌の悪い時、祖父はまるでサンドバックを叩くみたいに、言葉で祖母を痛めつけた。理由はなんでもよかった。暑くてイライラするも理由になってしまう。
「おまえの様な能無しは、ワシがいなかったら生きてゆけない!」
「だれのおかげで飯を食っているのだ!」
「おまえのような役立たずなんか、妻にしたのは失敗だった」
どんなひどいことを言われても、祖母はいつも黙って俯いて耐えた。一言でも言い返そうものなら、
「いい訳なんぞ、聞きたくも無い!」
祖父の怒りが増すだけだから。家族はだれも祖母を庇う言葉を言わない。何か言ったら、さらに暴言が続くだけなのだ。みんなわかっていた―嵐が去るの待つしかない。

「いったい、いつまでこの家に居座るつもりなのだ」
祖父は嫁の母にもひとかけらの遠慮もなく、ひどい言葉を浴びせた。直人と詩織は祖父が怒り出すと、さっさと逃げ出す。子供部屋の押入れに篭る。道人も怒鳴る祖父が恐ろしかったけれど、母の側にいた。
「夫を亡くしても、女手一つで子供を育てている母親は世間に山ほどいる。子供を連れて出て行け!」
母も黙って俯いたまま、嵐の過ぎ去るのを待つ。道人も母の手を握り締めて、一緒に耐えていた―そうすることが長男である自分の勤めのような気がした。
「わかりました。子供を連れて出て行きます!」
母が祖父に毅然と言い放ち、この家を出て行く日が来るのを夢見ていたが、そんな日は来なかった。祖父は母が何を言っても出て行かないとわかっていて、暴言を浴びせていたのだろう。母は児童養護施設で育った。天涯孤独の身だった。
母が家を出て行かなかったのは、帰る実家がないからなのか、三人の子供を一人で育てて行く自信が無いからなのかはわからない。きっと、この家で耐えるしか、三人の子供たちと生きる道は無いと、思い込んでいたのだろう。
嵐が去った後、祖母と母は祖父に傷付けられた心を癒すために寄り添う。
「ごめんなさいね。きっと、本心じゃないのよ。あの人が何を言っても出て行かないで。ここにいてね」
「出て行きません。お義母さんをお義父さんと二人にはできません」
 二人は手を取り合って、いつも同じ言葉を言う。
「あの子がいてくれたら―」
「あの人がいてくれたらー」
二人は亡くなった父を想って泣く。ひとしきり泣いたら元気をとりもどす。祖母と母が語る美化された父は神様みたいな人になっていた。

父は道人が四歳のときに亡くなった。直人は一歳、詩織は生まれたばかりだったから二人とも全く覚えていないだろう。道人は微かに父の記憶はある。一つだけはっきりと覚えているのは棺の中の父だった。周囲の人はみんな泣いているのに、父一人、穏やかな顔をしていた。いい夢を見て、微笑んでいるかのような顔だった。
父は交通事故で亡くなった。国道一号線の浜松で、父が運転する乗用車はセンターラインを越え、大型トラックと正面衝突した。乗用車はトラックの下に潜り込み大破した。トラックの運転手は無事だったが、父は即死だった。
スピードメーターは時速百キロを越えていた。ブレーキを踏んだ形跡はなかった。警察の現場検証では、夫の居眠り運転が事故の原因と見られた。体は骨折だらけでズタズタになっていたが、父の顔は奇跡的に傷一つ無かった。享年三十四歳だった。
「あのロクデナシがさっさと先に死んでしまったから、ワシが苦労するのだ!」
 亡き息子にも、祖父は容赦無く、暴言を吐いた。
「仕事もロクにしない。昼間から酒を飲む。あげくのはてに飲酒運転で、居眠りして事故を起こした。親より先に死ぬだけでも、最大の親不孝なのに、ワシの顔に泥を塗って死んだ!」
一人っ子で、後取り息子だった父を亡くした祖父に、悲しみより怒りしかなかったようだ。祖父の暴言は悪意の固まりだが、少々の真実も含んでいる。どっちが本当の父なのだろう。
―神様かロクデナシか……。

戦前、道人の家は裕福な家系だった。町内のほとんどの土地を所有し、二階建ての大きな家に住んでいた。町外れにある家は周囲を広い庭と高い塀で囲まれ、町に住む人々に「お屋敷」と呼ばれていた。使用人が多数いて、毎日人の出入りが多い、生き生きとした家だったが―。
祖父が商売に失敗し、多額の借金を抱えて一家は一気に没落した。莫大な負債のために、所有地を全て売却した。かろうじて家だけが残った。使用人のいなくなった家は手入れが行き届かなくなり、荒んで行くばかりだった。その家で道人は生まれ育った。

没落しても、家は祖父の王国だった。王国で君臨する祖父。家族は愛すべき国民ではなく、祖父の奴隷にすぎない。祖父が仕事でいないとき、家族に穏やかな空気が流れていた。祖父が帰宅すると、家の空気が一変し、家族に緊張感が走った。
祖父が六十五歳で定年退職して一日中家にいるようになってからは、常に張り詰めた空気が流れているようになった。祖母も母も子供たちも祖父に怒鳴られないよう細心の注意を払い、いつもオドオドと暮らしていた。家はずっと、祖父以外、家族の安らぎの場所ではなかった。
―でも、永遠に続くことなど、何一つ無い。全ては終わりの時を迎える。奴隷は解放される。

祖父が突然、倒れたのは、祖父の七十歳の誕生日だった。いつものように些細なことで祖母を怒鳴っているとき、祖父は急に意識を失い倒れた。脳卒中だった。救急車で病院に運ばれ、一命を取り留めたが、寝たきりになった。
家に帰ってきた祖父は、もはや暴君ではなかった。自分で食べることが出来ない、トイレに行けない、話すことが出来ない、寝返りも出来ない巨大な赤ちゃんだった。泣き声の代わりに大きな唸り声を出す、世話ばかりかかるかわいくない赤ちゃん。
―死んでくれたらよかったのに……。
祖母と母の気持ちが道人に伝わってきた。道人も同じ気持ちだった。直人と詩織は怖がって、祖父の寝ている部屋に近寄らなかった。
―祖父の王国は、あっけなく滅びた。

祖父が家からいなくなったのは、道人が十歳のときだった。脳卒中で倒れ、寝たきりになって退院してからすぐだった。亡くなったのでは無い。ある日、突然、いなくなったのだ。
あの日の朝、子供たちは外へ遊びに行くのを禁じられ、二階の一番奥の部屋に閉じ込められた。
「道人、直人と詩織とここにいて。呼びに来るまで、絶対にこの部屋を出てはいけません!」
母に強く言われた。
「どうしてなの?なにがあるの?」
 道人が聞いても母は何も言わなかった。祖母はぎこちない笑顔を浮かべて、
「直ぐに済みます」
とだけ言った。部屋に鍵をかけ、祖母と母は部屋を出て行った。二人は一階に行ったのだろう。階段を下りる足音が聞えてきた。

 しばらくして、道人は一階の様子を見に行くことにした。何か良からぬ事が起こっていそうな、胸騒ぎがしていた。
「お兄ちゃんはすぐに戻るから、直人と詩織はここにいて」
 言い聞かせると、二人は不安そうな顔で、コクンとうなずいた。道人は押入れに入り、天井板をはずし天井に登り、天井を伝って隣の部屋の押入れに出た。
天井板が簡単に外れることを知っていた。みんなに内緒で「忍者ごっこ」と称して、そうやって一人で遊んでいた。誰も気付いていなかった。部屋を出て長い廊下を歩き、足音を忍ばせて一階へ下りて行った。

祖母と母は祖父が寝ている部屋にいた。部屋は十二畳の広い洋室で、南の窓の側にベッドが置かれていた。道人は開いているドアに隠れて様子を窺っていた。
二人は道人に気付いていない様だった。並んでベッドの側に立ち、寝ている祖父を見下ろしていた。祖父はよく唸り声を出しているが、眠っているのか静かだった。
「薬は飲ませましたね」
 祖母に聞かれて、母はうなずいた。
「もうすぐ約束の時間です。『あんらくさん』が来たら、あなたが書類にサインしてください」
 あんらくさん―ってなんだ?どうして家に来る?
「あんらくさんのスタッフに、何も聞いてはいけません。家族が一言でも何か言ったら、あんらくさんとの契約は無効になります。そうなったら、この地獄が続くのですよ」
 母は深く頷いた。
「わかっています。お義母さん。私たちの幸せのために『あんらくさん』にお願いしたのですから」
祖母も深く頷いた。その時、外で車の停まる音がした。二人は部屋を出て玄関に向かった。道人は素早く祖父が寝ている部屋のクロウゼットに隠れた。クロウゼットの扉をほんの少しだけ開けておいた。
間もなく祖母と母が部屋に戻ってきた。その後から長方形の大きな木の箱を抱えた、二人の若い男が入ってきた。男たちはあんらくさんのスタッフだろう。
二人とも黒いスーツを着て、黒いネクタイをしていた。まるでお葬式に参列する人みたいに。スタッフが運んで来た長方形の箱をテレビでみたことがある―棺だ!死者を納棺する棺。
―祖父が死んだ?

「薬は飲ませましたね」
 先ほど祖母に聞かれて、母はうなずいていた。
 ―祖父は毒薬を飲まされて、殺された!
心臓が早鐘のように打っている。棺は祖父のベッドの横に置かれた。スタッフは二人で棺の蓋をゆっくりと開けた。祖母と母は黙って見ている。スタッフが二人で祖父を抱え、棺に納棺し、蓋をかぶせようとしたときだった。祖父が小さく唸り右手を棺から出した。
祖父は生きている!
祖母と母は声を上げなかったが、驚いて顔を見合わせていた。スタッフは冷静だった。祖父の右手をさっと棺に戻し蓋をして、書類を差し出した。母は震える手で書類にサインした。スタッフは棺を抱えて玄関に向かった。
祖母と母も棺を追うように玄関へ。道人もクロウゼットを出て玄関に向かった。スタッフは外に出ると、家の庭に駐車していた黒いリムジンに棺を乗せた。
スタッフは祖母と母に一礼して、運転席と助手席に乗った。去ってゆくリムジンを二人は黙って見送っていた。玄関のドアに隠れていた道人が我に帰り、二階の部屋に戻ろうとした時だった。
「睡眠薬が少し足らなかったようね……」
祖母がつぶやく様に言った。
「すみません。適量ではありませんでした」
「いいのよ。もう済んだことです。後はあんらくさんにおまかせするだけです」
 祖母と母は顔を見合わせ、安堵したかのように微笑んだ。

三日後、宅配便で荷物が届いた。あんらくさんから届いた荷物は、祖父の遺骨だった。

道人が祖父と同じ脳卒中で倒れたのは、歳も同じ七十歳の時だった。祖父のようになりたくなかったのに、祖父そっくりになってしまった。家族のために一生懸命に働いているのだから、家族は自分の従うのがあたり前だと思っていた。
反省したのは寝たきりになってからだった。妻や娘に謝りたかったが、口から出るのは唸り声だけだった。祖父の唸り声も、家族に謝っていたのかもしれない。
―運命の日が来た。
あの日の朝、妻に朝食を食べさせてもらった後、強い眠気に襲われた。眠りに落ちる前、妻と娘の話し声が聞こえた。
「お父さん、よく眠っているね」
「薬が効いているみたい」
 朝食に睡眠薬が入っていたのだ!
「お母さん、本当にいいの?」
「もう、決めたの。お父さんに『あんらくさん』に行ってもらう。家族の幸せのために」
あんらくさん―道人の記憶が甦った。十歳のとき目撃した光景を、昨日のことのように鮮やかに思い出した。あんらくさんのスタッフはリムジンでやって来る。黒いスーツを着て、黒いネクタイをして、棺を持ってやって来る。
まだ生きている祖父を棺に入れて連れて行った。祖母と母は黙って見送っていた。三日後、祖父は遺骨になって帰ってきた。
外で車が停まる音がした。
「あんらくさんかな?」
「そうね。あんらくさんが来たようね」
 二人が部屋を出て行く足音が聞こえた。
 ―ピンポーン
 玄関のチャイムが鳴った。
(止めてくれ!私をあんらくさんへ行かせないでくれ!)
叫びたかったが、唸り声も出なかった。道人は深い眠りに落ちた。

あんらくさんが来たら、
あんらくさんに何も聞いてはいけません。
あんらくさんに一言でも何か言ったら、
あんらくさんとの契約は無効になります。
あんらくさんはみんなを幸せにしてくれます。

 

得点

評価者

怖さ鋭さ新しさユーモアさ意外さ合計
毛利嵩志121515121266
大赤見ノヴ151616151678
吉田猛々161716171682
合計4348474444226