やっぱビッグマックって美味ぇよなぁ…。
書きかけの辞表にレタスがこぼれ落ちる。
ソースが付いてませんようにっ!…ギリセーフ…いや、書き直すか…。
職場の人間関係がわずらわしくなっちまって、勤めていた出版社を辞めた。
現在はフリーでちょこまかと記事を書いている。
最近、俺が興味を持ち始めたのがオカルトや心霊の類だ。
その中でも一番興味をそそったのが、呪い。付随するならば生霊や怨念。
そんな情報をかき集めては記事にし、小銭を稼いではその日暮らしをしていた。
とあるアングラ雑誌の出版社に記事を売り込みに行った時の事だ。
「おい姫野、こいつ取材してみねーか?」
《花岡優助》
殺人罪で11年の刑期を満了し、先週出所したばかりだと言う。
どうにもオカルトな臭いが漂うと、俺に話が回ってきた訳だ。
「花岡本人から連絡があってな、なんだか恐ろしい視線を感じるんだとよ。
その男をどう扱ってどんな記事にするのかは、お前に任せるよ。
じゃ、よろしくな」
ボディーガードじゃねーんだからよ…。
だが、恐ろしい視線とは…気になって仕方がねぇ。
取り合えず俺は、花岡優助に会ってみる事にした。
「はじめまして、姫野拓海といいます。あの…月刊実話○○の…」
名刺を手渡すと、花岡さんは安心したかのように小さく息をついた。
もっとイカつくて強面な人を想像していたのだが…。
本当に人のいいおっさんといった感じに、俺は少々拍子抜けしちまった。
彼はアパートの一室に一人暮らし。俺を部屋へ招き入れてくれた。
母子家庭で育った彼は父親の顔を知らない。
父親による認知がなされず、私生児として出生した。
母親はホステスをしながら彼を懸命に育てた。
花岡さん曰く、本当に愛して可愛がってくれたそうだ。
《犯数/八犯五入》
初犯は14歳。仲間がリンチを受けたと、短刀を手に上級生の教室へ。
複数人を刺し、1年2ヶ月の収監。
19歳。当時誘いを受けていた組織の組長と歩いていた時に襲撃に合う。
「盃はまだ受けていなかったんです。
でもね、この人を守らなきゃって思ったんですよ。
ポン刀で袈裟斬りって言うんですか…38針縫いましてね。
頭にきてそのまんまドスで突きまくってやりました」
そして、その収監中に母親は病死。
出所後は母親に誓い、現場作業員や誘導員など、身を粉にして働いたそうだ。
そして11年前…。
当時、同棲していた女性に付きまとっていたのが、紐のチンピラ。
いよいよその男が暴走し、包丁を手に自宅へ押し掛けてきた。
ちょうど花岡さんも在宅中だった。
「その時に刺されたのが、あぁ…この傷。
頭突きかましてヤッパ取り上げましてね、気が付いたら首搔っ切ってました」
正当防衛も考慮され、懲役11年の実刑。
これが花岡さんの略歴だ。
出所後は19歳の時に守った、身元引受人の組長さんを訪ねた。
その組長さんは既に足を洗い、一般人として建設会社を経営していた。
花岡さんはその会社の従業員として働いてる。
そして話は本題に入る。
「花岡さん、なんか恐ろしい視線を感じるって言ってましたよね」
花岡さんは缶コーヒーを俺に差し出すと。
「今まで色々と悪さしてきました。人に怨まれても仕方のない事です。
でもね、なにかが違うんですよ…いかにも殺意丸出しの視線を感じるんです」
優しい表情を浮かべながらも、過去の経歴は凄まじい人だ。
そんな彼が視えない何かに怯えている。
「花岡さんって、幽霊とかって信じますか…」
しばし沈黙すると。
「人間なんて死んじまえばなんも残りません。
そんなもん信じちゃいませんが…そういった類なんでしょうか」
俺は両手を広げながら。
「あぁいや、そう言う訳ではないんです…もしかしたらと思いまして」
実際に花岡さんを怨んでいる人物がどれだけいるのだろうか。
犯歴を見る限り、人の為に罪を犯してしまっている事件ばかりだ。
怨まれるような人とは思えない。ここから花岡優助への取材が始まった。
取材と言ってもただただ花岡さんを追いかけるだけ。
仕事の様子やプライベートまでも。
ほんの小さな幸せを、花岡さんは嬉しそうに俺に報告してくれた。
給料が上がっただの、自動車の仮免が取れただの。
子供のように無邪気に喜ぶ姿こそが、本来の花岡さんの姿なのだろう。
そして、花岡さんは母親思いの本当に優しい人だ。
「お袋は死んじまったけど、お袋がもし生きていたら…。
そう思うとね、介護の仕事をしたいと強く思うようになって。
それがお袋への間接的な親孝行になるんだったら…」
俺は密かに花岡さんの母親のお墓を探していた。
日頃の取材のお礼も兼ねて、日曜日に花岡さんをドライブに誘った。
何やってんだか俺…花岡さんの事、大好きになっちまってんじゃねーか…。
東京から約四時間、花岡さんの母親の眠る寺にたどり着いた。
新潟県のとあるお寺。花岡さんは墓前に立つと、無言で手を合わせ目を瞑る。
目を瞑ると涙が頬を伝った。
そんな花岡さんの姿に、俺まで胸が熱くなる。
帰りの道中、花岡さんはポツリと呟いた。
「姫野君、今日はありがとう。
実は介護士の研修を受けてみようと思っていてね。
経験を積んで、認定介護福祉士を目指そうと思っているんだ」
この人はもう立派なカタギだ。
「花岡さん!東京に戻ったら…今夜は飲みましょう!」
東京に着くと、コンビニで酒とつまみを買い込む。
最高に楽しい夜だった。俺の目に、花岡さんの笑顔がしっかりと焼き付く。
酔っぱらっちまったのか…花岡さんが頭を気にして触っている様子が気になった。
翌日はさすがに二日酔いで、寝過ごしちまった。
正午前に建設会社からの一報を受け、俺は花岡さんのアパートへ走った。
警官を掻き分け花岡さんの部屋に入ると、若い刑事が俺を止めに入る。
「あの…見ない方が…」
…なんなんだよこれ…意味が分かんねーよ…。
「花岡さん…誰にやられたんだよ!!花岡さん!!花岡さん!!花岡さん!!」
花岡さんの遺体は、眉毛の上から頭部が綺麗に切断されていた。
そしてその頭部が見当たらない。花岡さんの目が悲しそうに俺を見つめる。
若い刑事は警察手帳を見せると、申し訳なさそうに…。
「黒瀬と言います。色々とお話を…。
あぁ…後日で結構です…任意になりますので」
その日、俺は何も考えられずにいた。
葬儀も終え、俺は刑事の黒瀬さんを訪ねた。俺が知っている全てを話した。
黒瀬さんからは、何か分かれば連絡するので協力して欲しいと頼まれた。
その翌日、俺に来客だと出版社から連絡が入った。
40代だろうか…いや、30代にも見える綺麗な女性が俺を待っていた。
その女性は《桜木香織》と名乗った。
行き付けの喫茶店に入ると、香織さんは話し始めた。
「ニュースを見て、初めてあの人が出所している事を知りました。
花岡の勤めていた建設会社の方に、姫野さんの事を聞きまして…」
香織さんは11年前、あの事件の現場にいた女性。
そう、花岡さんの内縁の奥さんだった。
花岡さんが守ってくれなければ私は死んでいただろう。
そして11年、ずっと花岡さんを愛し続け待っていたそうだ。
出所後に、花岡さんが香織さんを訪ねなかった理由も察していると。
10歳になる娘の為に、自ら身を引いたのではないかと。
「あの、それって…」
「はい、花岡の子です」
香織さんは面会の際に、花岡さんとの子を授かった事を告げた。
それ以降、花岡さんは香織さんとの面会に姿を現す事はなかった。
花岡さんらしいと言えば花岡さんらしい。
香織さんは、最近の花岡さんの様子を知りたがっていた。
俺は資料を用意して、後で自宅に伺うと約束をした。
お互いの連絡先を交換すると、香織さんは喫茶店を後にした。
そのまま喫茶店でコーヒーを飲んでいると、携帯が鳴った。
知らない番号からだ。
「姫野さん?黒瀬です」
あぁ…刑事さんだ。
「姫野さん、花岡優助を殺したと言う人物が…と言うか…まぁ…。
犯人を名乗る人物が自首してきたんですよ。それがなんと言うか…」
署では何なのでと、黒瀬さんは喫茶店まで来てくれた。
「それがですね、自首してきたのが70も過ぎたであろうお婆さんで…。
呪いで殺しただの《あかうぼ》に頼んで殺してもらったとか。
もうメチャクチャでして」
自分は花岡優助に怨みがある。
息子を殺された怨みは晴らしたのでもう悔いはないと。
しかし婆さんは、逮捕される事なく追い返された。
婆さんは《沼田真由美》と名乗ったそうだ。
沼田真由美…俺はバッグから花岡さんの履歴を書いたノートを取り出した。
11年前、花岡さんが殺害したのが…。
「黒瀬さんこれ見て下さい。ここです」
《沼田康朗》
本当に実の母親なのだろうか。
呪い《あかうぼ》…全く訳が分からない。
黒瀬さんはいぶかしそうな表情を浮かべると。
「沼田真由美の仕草…クセなのかな…頭を両手で何度も押さえるんです。
なんだか、気味の悪いお婆さんでした」
黒瀬さんと別れると、俺は一度自宅へ戻った。
そして、約束通り桜木香織のマンションを訪ねた。
娘さんが既に帰宅していたので出直そうかと思ったが、香織さんは俺を引き留めた。
娘の名前は《桜木久美》礼儀正しくてとても良い子だ。
香織さんに一通りの物を見てもらうと、久美ちゃんが部屋から出てきた。
久美ちゃんが書道教室へと出掛けたので、俺は思い切って伝えてみた。
「実は今日、花岡さんを殺したと婆さんが自首してきたそうです。
その婆さん、沼田真由美と名乗ったそうです。
呪いで殺しただの《あかうぼ》がどうのこうのと。
嫌な事を思い出させてしまったら申し訳ありません」
香織さんは首を横に振る。
沼田康朗から受けた仕打ち、その地獄から助け出してくれた花岡さんへの感謝。
香織さんは切々と俺に打ち明けてくれた。
「私は産みたかったんです…でも沼田が…」
やはり話すべきではなかったのだろうか…。
俺に吐き出す事で、少しでも心が楽になってくれれば…。
香織さんは顔を上げると。
「あの…《あかうぼ》私も初めて聞きました。
役に立つかどうか分かりませんが、沼田は和歌山県の出身です。
小さな漁村で生まれ育ったと聞いた事があります。
何か関係があるかもと思いまして」
和歌山県か…。
俺は香織さんに礼を告げると、自宅へと戻った。
翌日の昼過ぎに黒瀬さんから着信が入った。
「姫野さん…沼田真由美が遺体で発見されました。花岡優助と同じ状態で」
都内のビジネスホテルの一室で発見された。
チェックアウトの時間を過ぎても出てこないので、従業員が確認すると…。
「これ…本当に呪いなんじゃないですか?。
刑事の僕がこんな事言うのもなんですけど…オカルト肯定派でして…」
これが本当に呪いなのであれば《あかうぼ》とは…。
《あかうぼ》の呪いはこれで終わったのか。嫌な胸騒ぎしかしねぇ。
俺は和歌山県へ向かった。
海岸線を気持ちよく歩いていると、乾物屋を見つけた。
結構色々な物を干すんだなぁ…と眺めていると…。
「あの…ウツボってあのウツボですか?海のギャングの?」
店員さんが言うには、高知県ではたたきや唐揚げで食べるようだ。
そして、この地域では干物や佃煮として食べる事が多いらしい。
ウツボかぁ…とは言え、店員さんの丁寧な対応にウツボの佃煮を購入してみた。
ウツボ?、あかうぼ、まさかな…。店員さんに《あかうぼ》を聞いてみると。
「あかうぼ…あか…あかう…うぼ?…うぼ…あのぉ、赤いウツボのお話ですか…」
もしかしてビンゴか。店員さんに話を聞くと。
その昔、妻に暴力ばかり振るう漁師がいた。
漁を終えると網に掛かったウツボを外そうとして、指を何本か喰い切られてしまう。
噴き出す血を浴びたウツボは真っ赤に染まり、海へと逃げて行った。
指を喰い切られた漁師は、漁に身が入らず酒に浸るようになってしまった。
妻への暴力は更に酷くなり、子供は神様に祈った。
「神様…どうか母ちゃんをお助け下さい」
子供が祈ると、血を浴びた赤いウツボが現れた。怒りで更に全身を紅潮させる。
赤いウツボは漁師の頭を喰い切ると、海へと帰っていった。
悪い事をすると赤いウツボに頭を喰われるぞと、子供の頃に聞かされたのだと。
だが《あかうぼ》と言う言葉は聞いた事がないと言われた。
しかし収穫はあった。お礼がてら黒瀬さんの分の佃煮も購入し、店を後にした。
そして沼田真由美の自宅、沼田康朗の生家であろう家へと向かった。
予想はしていた。既に規制線が張られ、関係者以外は立ち入る事はできなかった。
多くの捜査関係者が入り乱れる中…あれ?…。
「黒瀬さーん!」
黒瀬さんが俺に気付き走り寄ってくると。
「姫野さん…なにしてんすか?こんなところで」
《あかうぼ》について収穫があった事を伝え、黒瀬さんに佃煮を渡す。
黒瀬さんは迷惑そうに苦笑いを浮かべた。あぁ~あ…東京へ帰るか…。
東京へ戻った翌日の夜、黒瀬さんと喫茶店で待ち合わせた。
俺が到着すると、黒瀬さんはナポリタンを豪快に頬張っていた。
「すんません…朝から何も食ってなくて…」
俺にフォークを向けると、黒瀬さんは話し始めた。
「とにかく家の中は異様で、窓は全て新聞紙で覆われてたんですよ。
風呂場の浴槽なんて死んだウツボでビッシリと埋め尽くされてましてね」
そんなん話しながらよく食えんな…。
「全ての壁がウツボの血で真っ赤に染まってたんです。
何か儀式でもやってたんでしょうか…。
もう狂気の沙汰としか思えないですよ」
鑑識の結果《イクシオトキシン》が検出され、ウツボの血で間違いないだろうと。
「姫野さんにお願いしたい事があるんです」
沼田真由美は一年ほど前から沖縄を何度か訪れている。
南紀白浜から那覇へ、那覇から南紀白浜への航空券の半券。
それと共に《金城幸子》と言う人物の住所のメモ書きが残っていたそうだ。
「僕、この金城幸子が今回の事件の元凶なんじゃないかと思うんです。
姫野さん…金城幸子に会ってきてもらえませんか。
僕はオカルトで捜査はできないんです…お願いします」
俺は日頃から感じていた疑問を黒瀬さんに聞いてみた。
「黒瀬さん…こんな情報俺に流しちまって…」
黒瀬さんは俺の話をさえぎると。
「いい訳ないじゃないですか…でも、その可能性があるならば…。
姫野さんに頼るしかないんです。お願いしますよ」
黒瀬さんからメモを受け取ると、背筋に悪寒が走る。
それと共に、一枚のお札を渡された。
「そのお札は、緊急で書き上げてもらったものです。
京都へ行って来ました。そのお札を確実なものとする為に」
黒瀬さん…あんたもうしっかりとオカルトで動いてんじゃねーか…。
「金城幸子の家の中、どこでもいいです。貼り付けてきて下さい。
僕は僕でやらなければならない事があるので。姫野さん、お願いします」
やってやるよ…花岡さんの為にも。俺は沖縄へ飛んだ。
そう大きくはない平屋の古民家。表札には金城とある。
呼び鈴を鳴らすと、金城幸子本人が出迎えた。
一通りの自己紹介と事情を説明すると、家に招き入れられ茶の間へ通された。
穏やかな表情をしてはいるが、目の奥に感じる悪意に恐怖する。
「あの…《あかうぼ》ってご存じですか?」
金城はお茶をすすると口角を上げた。
「赤いウツボの話は知っているか?」
俺はハイとうなづいた。
「それなら話は早いね。《あかうぼ》ってのは私が考えた造語だ。
沼田真由美も知らない呪いの本質…お前さんには特別に教えてやる」
やはり沼田真由美と接触していた。
この婆さん…まるで俺が来る事を分かっていたような口ぶりだ。
不気味な笑みを浮かべる金城幸子。
「人を呪う事と、呪いを祓う事…お前さんはどちらが正義だと?」
俺は当然《祓う事》と答えた。金城は高笑いを上げると。
「青臭いもんだね。お前さん、これから私を怨む事になるよ…」
婆さん…こっちはそれを確かめに来てんだよ。
「あかうぼ、あかんぼ、あかうぼ、あかんぼ。
あかうぼは人間の脳みそが大好物ぅぅぅぅぅ。
鱈の白子みたいな美味しい脳みそぉぉぉぉぉ」
気でも触れたか…気味の悪さに身体が硬直する…。
全身に鳥肌が立ち、冷や汗が背中を伝う。嫌な予感しかしねぇ…。
黒瀬さんから預かったお札を、ちゃぶ台の裏に貼り付ける。
「沼田真由美から聞いた。桜木香織には沼田康朗との間に水子がいるだろ。
赤いウツボを呼び寄せる、それだけじゃ…ダメダメダメダメ…ダメぇぇぇぇぇ。
あかうぼ、あかんぼ、あかうぼ、あかんぼ」
この婆さん完全にイカれちまってる…呪いを楽しんでやがる…。
「今回は赤いウツボに桜木香織の水子を憑依させてやった。
そうさ、赤いウツボに水子を憑依させて《あかうぼ》の完成だ」
赤いウツボの略語じゃねーのかよ…水子を憑依させるだ…。
水子になった赤ん坊の気持ちも考えねーで、好き勝手やってんじゃねーよ…。
「桜木香織の影響だろうね…花岡って男には手こずったねぇ。
沼田真由美からの依頼は二人。時間は掛かれど遂げたも同然。
沼田真由美は簡単だった。たった三百万ぽっちで人を呪えだって。
こっちはリスク背負ってやってんだ…冗談じゃないよ」
黒瀬さんの言った通りだ。恐怖と怒りで頭が混乱する。
このクソババアが花岡さんを…えっ…二人ってなんなんだよ…まさか…。
「さてさて、《あかうぼ》の行き着く先はどこだと思う。
大体の予想は付くだろ。そうだ、母親の元だ…桜木香織の元だ。
呪いを祓う?呪った方が楽しいだろぉ!お楽しみの始まぁぁ…」
金城幸子の眉毛の上に、一本の赤い線が走る。
「え?…あい?…」
血で滑る頭部を、慌てて両手で押さえて直す。
黒目が白く濁ると、両端を見るようにゆっくりと開く。
白目は真っ赤に充血し、白髪混じりの頭髪がパラパラと抜け落ちる。
首筋から青黒い血管が、這うようにジワジワと顔面に広がる。
頭を押さえ、口をパクパクと開閉させながら片手を俺に伸ばしてきた。
「あぁ…あぁ…ああああああ!!」
俺は悲鳴を上げながら、金城邸から逃げ出した。
香織さんが危ない…。
どんだけ走ったんだ…。
コンビニの駐車場の縁石に腰を下ろすと、黒瀬さんに連絡を入れる。
上手く伝えられたかどうか怪しいもんだ。
頭がズレるって…花岡さんと酒を呑んだあの夜…沼田真由美の取り調べの時もだ。
もしかして次の犠牲者は金城幸子なのか…って事は既に香織さんは…そんな…。
しばらくすると黒瀬さんから連絡が入る。
香織さんと久美ちゃんの無事が伝えられた。
黒瀬さんはホッとしたように。
「姫野さん!お札貼ってくれたんですね!。
まぁ、戻ってきたら全て説明しますので」
とにかく香織さんが無事で良かった…。
俺はもどかしさを抱きつつ、最短で東京へ戻った。
いつもの喫茶店には黒瀬さんの他に、香織さんと久美ちゃんも同席していた。
思いも寄らない状況に唖然としていると、黒瀬さんは。
「今回は、久美ちゃんの協力があっての事なんです」
と一枚のメモを渡された。メモは久美ちゃんが書いたものだと言う。
・ふどうみょうおうのいきりょうがえし
・だいにちにょらいのじゅそがえし
・とくさのかんだから
・ふるのこと
とても美しいひらがなの筆字だ。そして黒瀬さんの説明が始まった。
「不動明王の生霊返し、大日如来の呪詛返し、十種神宝の宝物の内容、布瑠の言。
あのお札にはそれらの全てが記されています。更に総本山で清め高めて頂きました。
金城幸子は必ず何かを仕掛けてくる。姫野さんに先手を打ってもらったって訳です」
つまりは黒瀬さんの張った罠に金城幸子は掛かった。
「沖縄からの姫野さんの報告にホッとしましたよ。
金城幸子の額に赤い線が走ったのを聞いて、呪いが返ったと確信しました」
観光もなーんもしてねーけど、無駄足じゃなかっただけ良しとすっか…。
「結果、金城幸子自身への呪いは終わらない。死ぬに死ねない永遠の旅。
呪いを返され死んでは違う世界線へ。その世界線では生き返っている。
また呪いを返され死んでは違う世界線へ。それを永遠に繰り返します」
つーか黒瀬さん…あんたが一番怖いんですけど…。
「そして、そのお札に全てを記してくれたのが久美ちゃんなんです。
桜木さん宅にお伺いした際に、久美ちゃんの字の美しさに感心しまして。
写経の経験もあると聞いていたので、適任だと思いお願いしました」
褒められたのが恥ずかしいのだろう。
モジモジしながら久美ちゃんは説明してくれた。
「知らないおじさんが…夢に現れたんです。そのおじさんは…」
『久美…久美…姫野君と刑事さんに協力してあげてね。
それがきっと、ママを守る事に繋がるはずだから。
久美には久美にしかできない事が必ずある。頼んだよ』
「その夢を見たその日に、黒瀬さんに頼まれたので…。
黒瀬さん、学校まで来るんだもん…よっぽど急いでるのかなと思って。
でも私、字を書くのが好きだから、喜んで引き受けました」
黒瀬さんはバツが悪そうに、香織さんから顔を逸らす。
「でも、その夢の中のおじさんは全然怖くなくて…。
包み込んでくれるような、本当に優しい笑顔でした。
目が覚めると…とても寂しくて…涙が止まらなくて…私…」
香織さんは久美ちゃんを抱き寄せると、久美ちゃんの頭に頬を乗せる。
俺は、野暮な事は言うもんじゃないと思いながらも。
「久美ちゃん、そのおじさんは久美ちゃんの守護霊様なんじゃないかな。
これからもずっと、久美ちゃんとママの事を守ってくれると思うよ」
花岡さん…久美ちゃんしっかりと協力してくれましたよ。
俺は花岡優助を記事にする事を辞めた。
この約二ヶ月あまりの花岡さんとの思い出。
取材を書き留めたノート、写真、動画、ボイスレコーダー。
それらの全てを桜木香織に託した。
その夜、黒瀬さんから金城幸子の訃報が届いた。
遺体は、花岡優助、沼田真由美同様、頭部を綺麗に切断された状態で発見された。
俺が沖縄へ行っていた間、黒瀬さんは金城幸子の身元を洗っていた。
沖縄県警から情報提供を受け、判明した事実。
金城幸子に戸籍はない。あの婆さん…一体誰なんだ…。
沼田真由美との繋がりも、未だに判明していない。
そして、沼田真由美はウツボの血を使い何をしていたのか。
一番の謎は…。
来客などほぼ無かろう金城邸。通報した第一発見者が不明と言う点だ。
俺は、お札を預かった時点で黒瀬さんに疑念を抱いていた。
なんの確証もない金城幸子に、何故あれだけ拘り京都にまで行ったのか。
全て黒瀬さんの描いたシナリオ通りに事が運んでいるようで、違和感を感じる。
恐らく黒瀬さんは…いや、もう止めておこう…。これは結果論でしかない…。
何かが影を潜めているようで、闇深さに恐怖と危険を感じる。
いくつかの謎は残ったが、深追いはしない方が身の為だ。
桜木家に怪異が生じていない事もあり、俺の中では幕を引く事にした。
怨みや憎しみではなく、快楽で呪いを扱う素性不明な狂人。
壮絶な人生を生きる過程で、歪な人格が形成されてしまったのだろう。
《あかうぼ》
その呪いが終結した事を願いつつ、花岡優助の眠る墓前で手を合わせた。