これは俺が数年前、いや、厳密には二ヶ月前に体験した話です。
自分でも荒唐無稽でオチも無く、どういう事かも分からないですし、怪談が好きな皆様のお知恵、考察をお聞き出来れば幸いです。
その日は、会社の飲み会がありました。詳細は濁しますが、会社は東京の中央・線総武線の駅にある広告業の中小企業。俺は二十代後半で、そこでしがない営業のサラリーマンをしていました。
職場の雰囲気は良くも悪くも、平成初期の様に、まぁ年功序列と言うか、縦社会と言うか。昭和で育ったおじさん達の普通がそのまま会社のルールみたいな感じです。仕事で失敗をすれば軽く頭をパーで叩かれ、何か気持ちが落ち込んだ時は一杯奢られながら愚痴を聞いてくれるというようなところ。
俺自身、良い大学を卒業した訳でもないし、高校の時は球児だったこともあり、この若干時代に迎合出来ていない感じの体育会系のノリな性格なので、会社は別に嫌いじゃありません。
この日は半期決算が終わり、下半期の方針を会議するという名目で、親睦会を兼ねた飲み会がありました。とは言え、中小企業のせいか、昨今の不況のせいかは知りませんが、一人三千円の会費を取られるのは解せません。もっとも会社からもお金は出ているので、出向いたお店の飲み放題のコースにしては安く済んでいますが。
お店を出て「んじゃ、また来週の月曜日に、会社で!」上司のこの一言で同僚達と解散。そんなに飲んでは居なかったと思うが、それなりに酔っ払いながら駅に向かい電車に乗りました。
電車に乗り、飲み会の事を思い出しつつ、スマホをいじる。社内ではまだ若い方なので飲んで食べてよりも、上司の話しを聞く事も仕事の内。やっぱり、人生の為になる話も何も聞けないのに三千円はおかしいと思っていました。
ぼやっと視界が開ける。どうやら寝ていた様だ。うつらうつらしつつ、スマホを見ると時間は22時40分過ぎ。「しまった……」と心の中で呟きました。
通常この時間であれば、家についている時間である。しかし、俺は未だに電車内。そう、酔って寝て乗り過ごしている訳です。
「はぁ……」
と深い溜息を漏らしたタイミングで電車は止まり乗車口が開く。とりあえず戻らないと行けないので降りる事にする。
グゥ~
電車を降りたと同時に腹の虫が鳴く。スマホで路線情報を調べると23時50分位が終電であるらしい。約一時間の余裕がある。腹も減った。この辺の事は知らないが、改札を出ればラーメン屋の一軒くらいはあるだろう。〆に食って帰ろうと思い、俺は改札を出た。
深夜も近いとあってか人通りは少ない。駅周辺をてきとうに歩き、ラーメン屋を探す。こういう時の行動として、まずは飲み屋街と思しき方を探すのが鉄則だ。または焼肉屋の看板でも良い。何故ならそういう場所には必ずラーメン屋があるのだ。最低でも日〇屋や福〇ん等の中華チェーン店は存在する。
しかし、俺は最悪の場合って時にそういったお店をチョイスする形で、出来るだけ此処でしか食べられない味を求めるのを美学としている。
と某グルメドラマの主人公になりきった感じで思いながら歩くこと10分。全然それらしき店が見当たらない。あったとしても営業時間外だ。いや、正確に言えば一軒は見つけた。しかし、口がその味を欲してはなかった。
更に歩くこと5分。不意に路地に目をやると、赤い提灯にらーめんの文字。おっ!と俺の美味しいものセンサーが反応して、その店の前まで行く。
醤油とガラの匂いがする。外観はほったて小屋を改築しましたみたいな、木造の作り。暖簾はない。外にメニュー表も無ければ、食品サンプルも写真もない。さらに言えば店名すら何処にも書かれていない。
しかし、磨りガラスの引き戸の真ん中に木札で営業中が掛かっている。中の明かりがついているので、木札の通りに営業はしているっぽい。このパターンは隠れた名店or寂れた見た目通りのカッガリ店かの二択だと推測できる。※俺の経験上の話しでです。
グゥ~
腹が催促してやがる。えい、いったれ!ガラガラと建付けの悪さが伺える引き戸を開けるとチリンチリンとベルの音が聞こえる
「「「「「「「いらっしゃ~せ~い」」」」」」」
店員さん達が威勢良く、入店の挨拶をしてきた。L字のカウンター席がたったの4席。そして厨房には5人の男。ホールに1人の男。店の規模感と店員の数が全然あって居ない。
「こちらにどうぞ」
ホール担当であろう男にカウンター席に案内され、水の入ったコップをトンと置かれた。店内を見渡す。メニューらしきモノが見当たらない。すると突然、
「あい!らーめん一丁!!」
「「「「「「あい!!!!!!らーめん一丁!!!!!!!!!!!!」」」」」」
ホール担当の男が叫ぶ様に言うと、目の前の厨房、奥にある厨房からも一斉に大声が聞こえた。
「え?あ、いや……。すみません、あのメニューは無いんですか?」
それは聞くでしょう、普通に。料金もわからん上に勝手に注文コールされたら困る。
「ウチ、らーめんだけしかないんで」
そんな店あるのか?って思った。店内はBGMも無ければ、TVもラジオも流れていない。剥き出しの蛍光灯がジリジリと音を立て、クツクツと麺を茹でる寸胴の湯が沸く音にガス火の音。ほぼ無音だ。
漫画や雑誌もないし、本当にカウンターと厨房だけと言う簡素さも相まって不気味である。ただ、ガラと醤油。そして節の良い香りが鼻孔を擽る。
ザクザク、タンタンタンタン――
葱を切る音が聞こえる。俺は何もする事が無いので背広のポケットからスマホを取り出した。
「あれ……圏外……?」
「フィットさん!おなっしゃっす!!」
「うむ」
さっきから突然の大声辞めて欲しい。どうやら赤いタオルを頭に巻いた男が、アシスタントと思われる男が器にスープを注いだのを見ると、蓮華ですくって味を確かめる。次に、別のアシスタントが麺を上げる時に使う平ざるを、頭を深く下げながら渡し、そして赤いタオルを頭に巻いた男がそれを受け取る。
ほぅ。今時テボザルではなく、平ざるのスタイル。コレは期待が出来る。赤いタオルを頭に巻いた男はチャッチャと刻みの良いリズムで湯切りをして、スープにゆっくりと麺を入れた。菜箸で麺線を整え、最後にチャーシュー、メンマ、ナルト、海苔、葱を盛りつける。
全てが終わり、赤いタオルを頭に巻いた男が静かに頷くと、ホール担当の男がどんぶりを俺の前に置いた。
「お待ちどうさま」
昔ながらの中華そばと言う感じで、見た目はかなりシンプルだ。どんぶりに掛っている蓮華を手に取ると、スープを一口飲む。
「う……美味い……」
薄口ながらキレのある醤油に、鶏油のコク。そして、ほんのりと口の中に広がる煮干しや鰹などの節の風味。絶妙なバランスである。なるほど、無駄な湯が入って居ないからこそ、この繊細な味がそのまま伝わるのか。平ざるを扱う技術が素晴らしいのが分かる。
俺は目の前の筒から割り箸を一本取り出して、麺を啜る。プルもち食感で、歯切れも良い。コレは手もみによる自家製の麺であろう。つるりと啜れ口当たりも滑らか。
この時点で良店だと確信できる。チャーシュー等も勿論美味しく、俺は無我夢中で食べ進めていた。
店員全員が固唾を飲んで凝視しているという状況にも全く気にならない位には。
「ご馳走様でした」
俺がそうポツリと呟くと、店は拍手喝采となった。
(な、なんだ!?)
「フィットさんおめでとう!」と店員が口々に賛辞を送っている。状況が呑み込めない。赤いタオルを頭に巻いた男は手の甲で涙を拭った。
「みんな、ありがとう。次は君の番だ、カンフル君」
そういって、頭に巻いた赤いタオルを外すと、指名されたアシスタントに手渡された。
「はい。お、俺も頑張ります!」
手渡された男が涙ながらに受け取る。一段と拍手が大きくなった。二人は固く握手を交わす。頭に巻いた赤いタオルを巻いていた男が俺の方を見た瞬間に、拍手がピタッと止む。
「では、慣例に倣って、君はそうだなぁ……バンビ君だ」
(……。……?)
再度、拍手が起きた。
皆、口々に「よろしく、バンビ君!」と肩やら背中を叩いてきた。意味不明だ。とりあえず、そろそろお店を出ないと終電に遅れてしまうと思い「お会計を――」と言いかけたのだが、カンフルと呼ばれていた男は食い気味に、
「お代は要らないよ」
と言う。もぅ本当に意味が分からずチンプンカンプンだ。
「えっと……よく分かりませんが、俺、もぅ行かないと終電無くなるんで、ここにお金置いておきますね。(とりあえず千五百円置いておくか……)」
「いや、お金は本当に要らないよ」
「は?」
「それに帰れないよ?」
「何ですかそれ?」
「ドア開けてごらん」
カンフルと呼ばれていた男は真顔で引き戸を指さす。流石に付き合いきれないので、俺は店を出ようと引き戸に手を掛けた。開かないし、ビクともしない。
「な、なんだコレ……」
段々、苛立ってきてバンバンとドアを叩くが微動だにしない。
「ね。出れないんだよ」
「マジ、何言ってんだ!」
俺は怒鳴り散らすが、それをカンフルと呼ばれていた男は諭すように言う。
「今日から君もここで修行の日々さ。大丈夫、いつかは出れるさ。時期はそれぞれだけど早くて1年。私の知る限り長くても4年だよ」
「本当に何言ってんだ!ふざけんなよ。警察呼ぶぞ!!」
「どうやって?電話もないし、この店から出られないんだよ?」
真顔で言うコイツに俺の怒りの頂点を迎えた。咄嗟に殴り掛かっていたが、他の店員に地面に押さえ付けられるように制された。それを見て、頭に巻いた赤いタオルを巻いていた男は言う。
「みんな、放してやれ。バンビ君。今は意味が分からないと思う。みんなそうだったんだ。カンフル君、みんな……俺はもう行くよ。達者でな」
そう言うと頭に巻いた赤いタオルを巻いていた男は普通に引き戸を開けて、外に出て行った。
どのくらい時間がたったであろうか。俺の怒りが収まり、それを見てカンフルさんは俺に説明をしてくれた。
①このお店からは出られない事
②出るには店内の序列を上げて赤いタオルを巻いて『人間』の客にらーめんを提供する事
③序列とは、基本、入店順だが働きぶりや能力に応じて店員のランクを2~7位で表す事
④赤いタオルは店長として1位となる事
⑤店長は前店長からの指名制である事。(勿論、らーめんを作る技術が高い事が前提である)
⑥普段の『お客様』には絶対に粗相のないようにする事
⑦本名を名乗ってはいけない事
⑧他、この店のルールを犯す事は禁忌である事
他にも細々あるが、ざっくりとこんな感じだった。
「そのルールを破ったらどうなるんですか?」
俺の質問に他の店員は、皆、目を逸らし下を向いた。その中でカンフルさんは言った。
「それは分からないんだ。たぶん、消えるんだよ」
「消える?」
「うん。絶対にこの店には7人いる事が前提なんだけど、たまに6人の日があった。確かに7人居たと言うのは分かるんだけど、どんな人で何と言う名前かとか、そう言うのが頭から全部消えるんだ」
「死ぬって事ですか?」
「私はね、死ではないと思っている。死であれば故人の事を覚えていると思うんだ。でも何も思い出せない。だから消滅という概念で此処では捉えているんだよ」
淡々とカンフルさんは話してくれた。
それから俺は3日間、奥にある厨房で何もせずに塞ぎ込んだ。俺が働かなくとも誰も何も言わない。いや、あえて誰も何も言わなかったのだろうし、言えなかったのだと思う。
「バンビ君。お茶、飲む?」
声を掛けて来たのは俺の前に入った人で名前をマットさんと言う。マットさんだけは俺に積極的に話しかけて来てくれた。今になって思えば、少しでも早く此処から抜け出すために、働いて修行する手助けをしてくれたんだと思う。
「僕もさ、ここに来たときはバンビ君みたいに塞ぎ込んでいたよ。だってさ、此処に閉じ込められる2日前に娘が生まれたんだ。もぅ1年も会えてないけど。だからさ、今は1日でも早く此処を抜け出してやろうって。娘を……抱きしめたいんだ」
そうぎこちなく苦笑するマットさん。
(俺は特にそう言ったモチベになるような経緯は無い。でも、そうだよな。頑張れば出れるかもしれないし、実際にフィットさんはお店を出れたんだ!)
そう思い立ってから3年が過ぎた。仕事には慣れたが、それでも毎日、ラーメン作りの修行と『お客様』への対応には戦々恐々としている。
お客様は日に数名やって来る、皆様、黒い影のような姿でハッキリ何かとは言えない。アレは何かと言う議論を店員同士でする事もあるが、一応に『神様』だと言う答えにしていた。黒い影とは一切会話をしてはいけないと言うルールもあるから、お客様に質問も出来ないし、仮に粗相となった場合、自分が消滅すると考えると恐ろしく、淡々と業務をこなす他無い。
店員の中には精神的におかしくなっている人も居る。時間の概念はあるが、毎日毎日、休みなくラーメン作りだ。朝の9時から仕込みを行い11時に開店。深夜24時まで営業。お客様が来ない間で修行をして、自身を高める。寧ろおかしくならない方がおかしいまである。
この3年で4人が入れ変わった。そして今は赤タオルをマットさんが巻いている。俺も一応ここでは中堅となっていた。新しく入って来た人は全員男で、年齢はバラバラ。俺が入って来た時みたいに狼狽した人を諭してみたり、店員の心得を教示したりと、どこかやりがいすら感じている。
そんな頃に『人間』の客が入って来た。マットさんはそれは丁寧に真剣に全身全霊で至極の一杯のらーめんを提供した。
そこからの流れは最早リピート再生でもして居るんではないだろうかという、有様だ。困惑する客、現実に戻る同志を称える店員。そして、
「僕の最後のお仕事だ。次の店長はバンビ君に託すよ。そして、君の名前は……マルチ君とします!」
そう言い残し、マットさんは僕らと固く握手を結び、号泣しながらお店を出て行った。
そして4年目になり、店長になった俺は更に修行に心血を注ぐことにしたのだが、その矢先、事件が起こった。
朝起きると、4人しかお店に居ない。
誰が居たかは覚えていない。名前も顔も、何も覚えていない。しかし、3人消えたという事だけは分かった。
その3人が何をしでかして消滅したのかは皆目見当もつかない。ただ、これにより生じる事、それは開店に間に合わない可能性がある。それは即ち粗相となりうるのだ。
7人で行っていた作業を4人で急ピッチでやる上に、らーめんの質を落とす事なんてのは出来ない。四の五の考えている時間はない。
俺は全力で体を動かした。でも、間に合わなかった。開店と同時に来店するお客様がたまにおり、それが今日たまたま当たった。
らーめんの提供には少なくとも、あと一時間は掛かる。どうするべきなのだろうか?お客様に説明するか?いや。会話が厳禁だからそれは難しい。そもそも、らーめんの提供スピードに時間制限がないんじゃないか?そんなルールを聞いた事がないし。しかし、普通に考えて説明も無しに、一時間も待たせる事は粗相に当るよな?
グルグル思考を巡らせるも答えはでない。
「あの、すみません、お客様……。実は開店準備がおしておりまし――」
「あ、馬鹿!マルチさん、会話は――」
――〇※%$※□∑▽!!
文字では言い表せない、獣と人みたいな低い声と黒板を爪で引っ掻いた時の様な音が入り混じった絶叫が店内に一瞬響いた。響いた次の瞬間にゴトンとボウリングの球が落ちる様な鈍く重い音が聞こえる。
呆然と立ち尽くしながら床を見ると、マルチさんの首がごろんと転がっており、頭が切り離された断面から湧き水の様に血が溢れ出ている。それを目の当たりにして声を上げてしまいそうだったが、俺は必死に堪えた。たぶん此処で叫んでしまえば更なる粗相になりかねない。
「うぉぉぉぉぉ!」
その光景を見ていた店員のメンカズさんは叫んでしまっていた。再度、獣と人みたいな低い声と黒板を爪で引っ掻いた時の様な音が入り混じった絶叫がこだまする。犠牲者が2人になってしまった。正直、俺も、もう限界ではある。
毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日、こんな訳の分からない奴らを『お客様』として向かい入れ緊張の糸が張り詰める閉鎖的な空間で、ラーメン作りを強要させられてるんだ。脳に語りかけるように騙し騙し、頭がおかしくなっていないと言い聞かせて、それを払拭するのに修行と言う建前で技術を磨き続ける。
叫びたくもなる。
口の中が鉄の味で充満し始めた。俺は目を見開きながら、涙を流しつつ、必死で叫ぶまいと唇を上歯で噛み締めていた様だ。
黒い影がぬらりと揺れる、顔も目もない黒い影。しかし、コチラを、俺を睨んでいると言う感覚が背筋まで伝わる。確実に俺も殺される。どろりとした苦々しい生唾をゴクリと飲んだ音がいやに大きく聞こえる。もう口周りの筋肉も限界だ、痙攣して震えるて徐々に開いて発狂しそうだ。声が出掛かった、その時――
――パンッ!パンッ!
柏手を打つかの様な音がなった。黒い影の動きがピタリと止まる。すると黒い影はスッと店を出て行った。
俺はドサリと腰から砕け堕ち、その場にへたり込んでしまった。過呼吸気味にハァハァと息を吐き、トン、トンと床に口から零れた血液が垂れる。
生きてはいる、生きている。生きてしまった。ただもう、ここでは働けない。無理だ。心も気力も完全に壊れた。死んだ方が、いや、消えた方が楽だ。
ガラガラとお店の入り口が開く音がした。
「あーあ。酷いね、こりゃ」
白いシャツに白いエプロンを来た老人が入店してきた。店内をぐるりと見渡すと、ため息交じりに呟いている。
「お前さん、今の店長か?」
その老人は俺に指をさして問う。この人は人間なのか?真っ白の頭の中、俺はゆっくりと頷く。
「生き残りは2人か。まぁどちらにしろ、一時閉業だな」
頭をポリポリと掻きつつ、老人はカウンターの席に座った。
「あ~……。お前さん、名前、何て言ったっけ?」
「ば、っば、バンビです」
「そうそう、バンビだ、バンビ。おい、バンビ。今かららーめん一丁作るのに、どの位時間かかるよ?」
「え……?あ。い、一時間くらいです」
「わかった。なら待つから、俺に作ってみせろ」
そう言うと老人はシッシッと手を払い、早く作業をしろと促した。
もう何が何だか分からない。ただ俺は、らーめんを作る事だけに集中する様に、無理くり体を動かした。人間すごいもんで、毎日行う作業ってのは体に浸み込んで居るようで、頭がそれほど回らなくとも、らーめんを作る事が出来た。
老人の前にどんぶりを置く。老人はスープを一口飲む。
「おぉ~。うめぇじゃね~か。バンビ、お前さん才能あるよ」
なんともシュールな光景だ。血まみれの店内で、満面の笑みを浮かべてラーメンを啜る老人。俺はうな垂れる様にその老人を見ている事しか出来なかった。
スープ迄、飲み干してチッチッと爪楊枝で歯の間の詰りを取りながら老う人は不意に質問をしてきた。
「お前さん。あの黒い影は何だと思う?」
「……。神様ですか?」
「カッカッカッ(笑)お客様は神様だってのかい」
「違うのですか?」
「んじゃ、コレが神の所業か?」
バッと両手を広げ店内の惨状を見せびらかす老人。
「……」
「別にお客様は神様じゃねぇ」
「では、アレは何なのですか!?」
「ただの客だ」
「客……」
「そう。それ以上でも以下でもねぇ」
「じゃなんで、こんな目に遭うんですか!」
「知らん。ただな、何でもそうだが、お代さえ払えば、良いって思ってる奴は客でも何でもねぇ。逆もまた然り」
「なんですかそれ。どういう意味ですか?」
「そのまんまの意味だ。さっ、そろそろ、お前さんは出て行きな。もう店から出れるから」
「え?」
「いいから、行った行った。今まで、ご苦労さん。この味、忘れるんじゃねーぞ」
俺は半ば追い出されるように、店の入り口に追いやられると引き戸を開けた。すんなりと開くことが出来た。外に出るなり酷い頭痛に襲われ、吐き気を催す気分だ。
目を開ける。酷く体が怠い気がする。首だけを動かして辺りを見回す。
「……病院?」
どうやら俺は4日間、昏睡状態にあったみたいだ。原因は急性アルコール中毒だと思われるらしい。そう、らしいである。医者が言うのには他の要因が見当つかないとの事で、名目はそういう処置にしたようだ。因みに俺が入院していたのは、俺が寝過ごして降りた街の病院だった。
ここまでが二ヶ月前の出来事であり、今は脱サラして元居た会社の近くでラーメン屋の開業しました。辞める時には、突然だったので上司に少し怒られましたが、今では良い客として元同僚達が食べに来てくれています。
この話は正直、昏睡状態時に見た夢や幻の類だと思われるでしょう。俺自身、他人から聞いたらそう思ってしまいます。
ですが、自宅にてお店で修行していた時の様にラーメンを作ると、あの美味しいらーめんを完璧に再現できるんです。それに受け継ぎをしていない俺は今も赤いタオルを持って居るんです。本当に自分でも意味が分かりませんし、最初に言った通り荒唐無稽な話だと思います。
ただ、開業にあたり、神社に商売繁盛の祈願に行った際、俺は一つだけ注意しました。それは『商売繁盛、宜しくお願いします』ではなく、『商売繫盛できるよう、精進します』と心の中で誓う事。俺は嫌な客にも神にもはなりたくなかったからです。
その神社の帰り道、ふと気になったので俺が修行していた、あのラーメン屋に出向くことにしました。結果を言うと、その土地にはほったて小屋を改築したみたいな建物はありませんでした。それどころか、路地すら無かったです。
よくある怪談話の終わり方で恐縮ですが、俺にはこれ以上、話せることはありません。
もし、ご縁があれば是非、当店に来ていただければと思います。人間の客としてなら。