その夏、俺はいとこの家を訪ねた。
県外の大学に進学し、毎日勉強やバイトに忙しくて、帰省するのは数年ぶりだった。本当は今年も帰らないつもりだったのだが、バイトを休んでまで帰省したのには、わけがあった。
『いとこのシンくんがお盆の間だけ退院してきてるらしいから、顔見にいってあげてほしいの。術後の経過がよくなくて、またいつ容体が急変するか分からないから是非頼むって、シンくんのお父さんから頼まれてね』
母親からこんな連絡がきたら、さすがに帰らないわけにはいかない。それに新幹線の往復チケット代をシンくんの親父さんが出してくれるというから、ますます断れなかったのだ。
いとこのシンくんは俺と同い年なのだが、生まれつき体が弱く病気がちで、入退院を繰り返していた。同年代の子供が少ない地域だったので、シンくんが元気な時はよく一緒に遊んでいた。シンくんは色んなゲームやおもちゃをたくさん持っていて、子供心にシンくんの家はすごいお金持ちなんだなあと思ったものだ。懐かしい思い出がたくさんよみがえってきて、俺も久しぶりにシンくんに会えるのを楽しみにしていた。
ただ、シンくんの家はとても――子供目線のせいかもしれないが――怖い家だった。
時代を感じさせる純日本家屋の建物はとても立派で、豪華な応接間や立派なツボが置かれた床の間は、まるで別世界の空間だった。でも、陽射しや照明の届かない部屋の隅や廊下の奥など、薄暗いところがとにかく怖かった。シンくんの家に遊びに行った時は、とにかく急いでシンくんの部屋に駆け込んでいた記憶がある。自宅の暗いところは全然怖くないのに、なぜシンくんの家の暗さが怖かったんだろう。
何か理由があった気がするんだが……
「シンくんの家は本家だから、立派なのは当たり前よ。でもさすがに古くて不便になってきたからって、何年か前に建て替えたの。シンくんのためにバリアフリーにしたかったんじゃないかしら」
帰宅して早々、シンくんの家へ持参するための手土産を俺に手渡しながら、聞いてもいないのに母がぺらぺら話してくれた。あの怖い家は、今はもうないらしい。俺はちょっとだけホッとした。
中学に入ってすぐにシンくんは大きな病院へ入院してしまい、卒業まで学校にくることはなかった。それ以来シンくんには会っていないので、そういう事情は知らなかった。
そして、本家と聞いて、もうひとつ思い出した。
俺の父は三人兄弟の三男で、本家は長男であるシンくんの父親が継いだ。次男は若い時に病気か何かで亡くなったと聞いている。うちはそこそこ田舎なので未だに本家、分家という言い方をしているが、昔のようにうるさいしきたり云々があるわけではなく、単に「家を継いだ」という意味で言っているにすぎない。
母の家の婿養子となって母の姓に変えた父は昔から、なぜか本家に行きたがらない。俺にも常々、あまり本家に出入りするなと言っていた。何度理由をたずねても、はっきりした返事をもらったことはない。父が一方的に伯父と距離を置いている状態なので、多分あまり良好な関係ではないのだろう。
「そういえば、父さんは?」
ふと振り返って母を見た、一瞬。
『えっ』
麦茶を飲む母の横顔の奥に、青い何かが見えた。
本当に一瞬だったので見間違いかもしれないが、横を向いた母の顔の影から、青いものがこっちを覗いているような感じだった。俺は両目をこすり、もう一度母を見た。
「お父さんは用事があるって出かけたわ。すぐに戻ると思うけどね。今夜はみんなで美味しい物食べに行きましょ」
のほほんとした母の声はいつも通りだ。
見間違い……にしては、ずいぶんはっきりした青色だった。と言っても、きれいな青には程遠い、黒に近い青だ。不安を煽るような、飲み込まれそうな深海の青黒さ――俺は生返事をしながら母の様子を見守っていたが、もう青い何かが現れることはなかった。
何だったんだろうあれは。
いや、ただの見間違いだ。
頭の中で取り留めなく考えながら、俺は家を出た。
高校生の頃に使っていた自転車を車庫から引っ張り出し、俺は真夏の炎天下をシンくんの家へと向かった。家を出た直後から汗が噴き出して止まらないほど、その日はひどく暑かった。自転車をこいでいるから風は一応感じるものの、熱風を浴びたところでちっとも涼しくない。俺は時折自転車を立ちこぎしながら、急いでシンくんの家を目指した。
シンくんの家は丘のふもとの高級住宅街の一角にあり、緑豊かで静かな環境だ。例の純日本家屋の頃には、手入れの行き届いた生垣と立派な門があり、門から玄関まで結構距離があった気がした。あの家をどんな風に建て替えたんだろうか。
『いや、そんな場合じゃない。家なんかよりシンくんだ。一次退院してきてるって話だったし、長話して疲れさせないようにしないと』
そうして丁字路を曲がってすぐ、シンくんの家が見えてきた。
住宅展示場のモデルハウスのような、洒落た外観が目を引く二階建ての大きな家が、新しいシンくんの家だ。さすがシンくんちはやっぱり金持ちだなあと、昔と同じことを思った。以前の大きな門はなくなり、家の周囲にあった生垣はおしゃれなブロック塀に変わっていた。
でも、普通の家の塀に比べて、シンくんちのブロック塀は妙に高い。俺は成人男性の標準的な身長だけど、背伸びしないと一階が見えないくらいだ。泥棒避けやプライバシーの保護などを考慮すると、これが今の主流なんだろうか。
大きなガレージのわきに自転車をとめ、母から渡された手土産を持ってモニター付きのインターホンを押した。
『はい、どちらさん?』
インターホンから声がする。
「あの、こんにちは。お久しぶりです」
名前を名乗ると、すぐに弾むような声が返ってきた。
『待ってたよ、いらっしゃい。入って入って、暑かっただろう』
ドアのロックが解除される音がした。俺はおずおずとドアを開け、玄関に足を踏み入れた。
「おじゃましま……」
後ろ手にドアを閉める間際、玄関から伸びる廊下の端に目が吸い寄せられた。
青。
ぎくりとして目を見開くが、瞬きの間に消えてしまった。
また、青。
連続で似たようなものを見間違うなんてこと、あるだろうか。
「いらっしゃい、待ってたよ」
廊下の奥から、笑顔を浮かべた伯父さんが歩いてきた。疑問を一旦頭の隅に追いやり、伯父さんに会釈し挨拶する。やはり兄弟だ、父によく似ている。
「暑い中よく来てくれたね、上がって上がって。冷たい物あげるから」
「失礼します」
靴を脱ぎながら、広い玄関に目をやる。女性用の履物が見当たらないが、伯母さんは留守なんだろうか。それに、シンくんの履物もないようだが……
「あの、伯父さん。シンくんは?」
手土産を持って伯父さんの後を追い、大きな背中にたずねた。伯父さんは振り向かないまま、笑って答えた。
「ごめんな、今ちょっと部屋で寝てるみたいなんだ。病院にいる時より動くことが多いから疲れるんだろう。起きてくるまでリビングでのんびりしてて」
「は、はあ」
「そうだ、せっかくだからうちの中を見学してってよ。昔の古い家しか知らないだろう? 色々こだわって建てたから、ちょっとだけ自慢させて」
広いリビングに通され、本革のソファに腰を下ろす。伯父さんがキッチンの方へ歩いていくのを目で追いつつ、俺はリビングを軽く見渡した。
明るくてキレイな部屋。調度品はどれも高級そうだし、大きな観葉植物が置いてあって、クーラーも効いている。
でも、なぜか落ち着かない。
昔の古い座敷とは雲泥の差の明るい部屋なのに、どうしてか『暗い』と感じてしまうのだ。この違和感は何だろうと思いながら、リビングの隅をふと見ると。
青。
背筋にぞわりと嫌なものが這い上がった。
しかも今度は、消えない――リビングの隅に置かれた観葉植物の鉢の影から、こちらをうかがう半透明の『青』が、そこにいた。
その『青』が何なのかしっかり見ようとした矢先、伯父さんがキッチンから戻ってきた。
「ハイお待たせ、アイスコーヒーどうぞ。手土産まで頂いて、気を遣わせちゃったね。お母さんにお礼言っておいてね」
「あ、はい」
俺は慌てて笑顔を作り伯父さんの方に顔を向けた。伯父さんとあれこれ会話しながら、今見たばかりの『青』の姿を思い返そうとする。
その時俺は、伯父さんには何も聞いてはいけない気がした。見えていることも気付かれてはいけない、虫の知らせのようなものを感じたのだ。根拠はない。でも、今はとりあえず余計なことを言わないように、俺は奥歯を噛みしめた。
そこからしばらく、伯父さんはワンマンショーよろしく独りで話を弾ませていた。俺はもっぱら聞き役に徹していたが、適当に相槌を打つのも骨が折れる――何より、こうしている間もリビングの隅に『青』がいるのかと思うと、気が気じゃなかった。
そして、おしゃべりな伯父さんとの会話の中に、なぜかシンくんの話題は一切出てこなかった。
シンくんに会いに来てくれと俺に頼んだのは伯父さんのはずなのに、まるでシンくんの話を避けているように思えてならなかった。
シンくん、そろそろ起きていないだろうか。シンくんになら、『青』について聞けそうな気がするんだが……
「ああ、ごめんね、君は聞き上手だからすっかり話し込んじゃったよ。どれ、自宅をちょっと案内しようかな」
俺の返事を待たず、伯父さんは立ち上がった。おしゃべりから解放されるのは助かるが、シンくんの部屋に案内してくれるだけでいいんだけどな、と内心では少々げんなりしていた。
「二階から案内しよう。吹き抜けの天井にある照明は特注品でね」
話しながら歩き出した伯父さんについていこうと腰を上げ、伯父さんの後ろ姿に目をやった、その時。
青。
俺はとっさに唇を引き結び、息を止めて声が漏れるのをこらえた。
伯父さんの首元に、『青』が、乗っていた。
部屋の隅にいたものより一回り大きいそれは、青い――赤ん坊、だった。
細い手足にふくらんだ腹部、どう見ても新生児の体つき。その不安定な小さい体に、大人サイズの頭――老人めいたしわくちゃの顔が、くっついているのだ。アンバランスすぎて吐き気がするほど、異様な姿だった。
それが伯父さんの後頭部に細い指を突き立ててしがみつき、折れてるんじゃないかと思うほど首を曲げて、値踏みするように俺を見ていた。頭部以外は首が座っていない赤ん坊そのものなのが余計に気持ちが悪い。
「天窓とここの出窓にはこだわりがあってね、デザイナーさんと何度も打ち合わせして」
楽しげな伯父さんの解説が聞こえるが、内容は一切頭に入ってこなかった。
伯父さんの後頭部に張り付く青い赤ん坊の頭が、壊れたおもちゃのようにがくん、がくんと揺れ動いて、でも、細く黒い目だけはずっと俺を捉えたままだ。
『思い出した』
昔、シンくんの家が大きな日本家屋だった頃、暗い場所がとにかく怖かった理由……
青。
俺は子供の頃から、シンくんの家の暗がりに潜む、この青い赤ん坊が見えていたんだ。
一体だけじゃない、複数のそれが家の暗がりのあちこちにいて、棒立ちのままじっとこちらを見ていた。それが怖くて、シンくんの部屋に逃げていた。何で今まで忘れていたんだろう。
新しいこの家が暗く感じる理由も、そこだったんだ。
「階段の踊り場にはどうしても鏡が欲しくてね、海外のメーカーのカタログをいくつも取り寄せて」
伯父さんに案内されるきれいな家の中のちょっとした影に、いるのだ――棒立ちの小さな青い赤ん坊たちが。小人なんてかわいいものとは程遠い、例のアンバランスな頭と体の比率で、今もこの家に、昔と同じように存在しているからだ。この家に一体どれくらいそれが蠢いているのか、考えるのも恐ろしかった。
しかし、古い日本家屋ならまだしも、どうして今風の新しい家にこんな気味悪いものが湧いているんだろう。
「えと……すいません伯父さん、あの、そろそろシンくん起きてないかなって……シンくんの部屋はどこですか?」
俺はつとめて平静を装い、申し訳なさそうな顔を作って伯父さんに声をかけた。
早くシンくんに会って、話を聞きたかった。伯父さんは何も見えてなさそうな雰囲気だが、シンくんには青いこいつらが見えているんだろうか。いや、見えていようがいまいが、こんな連中がいるような家に、体が弱いシンくんがいたらダメに決まってる。
「ああ、そうだね。そろそろいいかな。こっちだよ」
軽い返事をしながら伯父さんは明るい廊下を進み、一階奥の突き当りのドアを指差した。薄暗い廊下の隅をちらりと見ると、やはり、小さな青い赤ん坊が数体並んで俺を見ていた。
「どうぞ」
短い一言が一瞬、伯父さんとは違う声に聞こえた気がした。嫌なことを考えないように、俺は伯父さんが指差すドアをノックした。
静まり返る空間。
返事も、物音もない。
シンくん、やっぱりまだ寝てるんだろうか。
「入っていいよ」
俺は伯父さんに言われるまま、ドアノブをひねった。
「シンくん……起きてる? 入るよ」
そっとドアを開け、部屋の中に一歩踏み込む。部屋の中はカーテンがぴったりと閉ざされていて、やけに暗い。しかも。
「え……」
部屋の中は、異様なほどの熱気が籠っていた。この真夏の時期に何日もクーラーをつけていないような、むせ返る暑さ――こんなところにいたら熱中症になってしまう、そう思った時だった。
背後のドアが、突然音を立てて閉まった。
ハッとしてドアに駆け寄りドアノブをひねるが、開かない。必死にドアを叩いて、部屋の前にいるはずの伯父さんへ呼びかけた。
「伯父さん、冗談はやめて下さいよ! 開けて下さい! 伯父さん!」
暑い。暗い。
暗いところには、必ずいる。
青。
何度呼びかけても、伯父さんからの返答はない。俺は焦ってドアノブをがちゃがちゃとひねりながら、振り返って部屋の奥を見た。
ベッドには寝具も何もなく、当然誰かが寝ていた痕跡はない。シンプルなデスクの上の写真立てには、小学生の頃に伯父さんに撮ってもらったシンくんと俺の写真が入っていた。
生活感が、まるでない部屋。シンくんは、どこに――
「悪いんだけどね」
ドアの向こうで、伯父さんがぽつりと言った。
「君に、シンヤの代わりになってもらうよ」
伯父さんの言葉に呼応するように、部屋中から気配が立って一斉に俺を見たのが分かった。息苦しいほど暑い部屋の中で、全身に鳥肌が立つ。
「代わり、って、どういう」
何とか絞り出した問いに、伯父さんは抑揚のない声で答えた。
「シンヤは死んだよ。病気に勝てなかったんだ」
頭の中の思い出が一瞬で流れ落ち、真っ白になった。
「ま、待ってよ伯父さん、嘘でしょ? そんなの聞いてない!」
小さな足音が背後から、ひた、ひた、と重なって聞こえてきた。
「だって誰にも言ってないもの。病院からすぐに葬祭ホールの安置所へ移して、一度も家に帰らないまま荼毘に付したからね。だって本家の跡継ぎが死んだなんて、いい笑いものじゃないか」
「そ、そんな言い方……!」
すると、両手でドアを大きく叩く音がした。ドアを叩き割りそうな勢いに、思わず身が縮む。
「跡継ぎがいないと困るんだよ! 私の代で本家が途絶えることになれば誓約違反になってしまう!」
俺は身をすくめたまま、汗を滴らせて振り返った。
いる。そこら中に。
青。
青。
青。
「君の父さんが婿養子になって一族から逃げたのが悪いんだ。息子の君に責任を取ってもらうからね。君、霊神さまが視えてるんだろう?」
伯父さんは急に静かになり、落ち着いたトーンで語り続けた。
「れ、れいじん?」
ひた、ひた、ひた。
熱気で澱んだ空気の中、数えきれない小さな足音があちこちから、ゆっくりと近づいてくる。
「霊神さまは代々本家が受け継いでいてね。跡継ぎ以外の本家の子孫を、一世代にひとり捧げることで、富と名声を約束される。いつの時代からかは知らないけど、そうやって一族は繁栄してきたと祖父や親父から教わった」
伯父さんも、青い赤ん坊たちが視えてるんだ。
こいつらの異様な姿が視えていて、それでもなお霊神と言い張るのか。
捧げる、って……生贄と引き換えに繁栄を得るだなんて、今時そんなバカげた話があるわけない。確かに父さんの代では次男が亡くなっていると聞いたが、そんなもの単なる偶然に決まってる。
「本家唯一の跡継ぎであるシンヤが死んでしまった今、本家は私の代でおしまいだ。霊神との誓約が果たされないと、一族は霊神の怒りに触れる。シンヤの身代わりになるのがいかに重要か、君なら分かるよね」
伯父さんがあまりにも淡々とした口調で話すものだから、何もかもまるで現実味がなかった。
それでも、部屋の中にひしめく異様な空気は、俺の背後にじわじわと近づきつつあった。
「なぁに、問題ないよ。君は小さい時からうちに遊びにきてるから、霊神さまも君のことをシンヤの代わりとして認めて下さる。恩恵を授けてもらえるんだよ」
言っていることが矛盾だらけなことに、伯父さんは気付いていないのか。
本家の跡継ぎじゃないと誓約が成り立たないと言いながら、いとこの俺が身代わりでも構わないだなんて、結局そいつが憑りつく先は誰でもいいってことじゃないか。
「伯父さん、こんな連中絶対に霊神なんかじゃない、ただ生贄が欲しいだけの悪霊だ! 伯父さんはだまされてるんだよ、目を覚ましなよ!」
俺は負けじとドアを叩いて叫んだ。すると。
『んぶぁあああッあばあッびゅやああああああ!』
俺に悪霊呼ばわりされたのが気に障ったのか、ぞっとする吠え声がドアを震わす勢いで響いてきた。伯父さんのものではない、歯のない老人が赤ちゃんの泣き声を無理やり真似たような声だ。その声の切れ間に、背後からは。
ひた、ひたひた、ひたひたひたひたひたひたひた。
青い赤ん坊たちが間合いを詰めてくる。部屋の暑さと不気味な青だらけの威圧感に、俺も次第に視界が渦巻いてきて、正気を失いそうになった。
しかしふと、視界の端に一瞬、白いものが見えた。
目まいを堪えて振り返ると、部屋一面にひしめく青い赤ん坊の中にひとりだけ、白く光る赤ちゃんが座っていた。青い赤ん坊たちのように頭でっかちなしわくちゃの老人の顔ではない、ごく普通の姿の赤ちゃんだ。
白い赤ちゃんに青い赤ん坊たちが一斉に注目した、その時。
「兄貴!」
玄関ドアが開く音と共に怒鳴り声が聞こえ、部屋の前の廊下が騒がしくなった。吠え続ける伯父さんと激しく揉める怒号には、覚えがあった。
「と、父さん!?」
ドアの向こうの喧噪の中、俺に迫っていた青い赤ん坊たちはわらわらと白い赤ちゃんに群がって、瞬く間に覆い尽くしていった。あまりのことに声も出せずにいると、ドアが勢いよく開いて父が飛び込んできた。手に持っているものをフローリングの床に置き、父は大きく叫んだ。
「おまえらと本家の狂った誓約は兄貴の代で終わりだ! 無関係の俺の息子を巻き込むな!」
父が床に置いたのは、位牌。
シンくんの戒名が刻まれた位牌を見た途端、青い赤ん坊たちは細い目を一斉にぎゅるっと大きく見開いた。出目金のように飛び出した真っ黒な目で床に置かれた位牌を凝視し、そして、溶けるように消えてしまった。
父は静かに位牌を抱え、半分腰が抜けている俺の腕を取って部屋から引きずり出した。部屋の前の廊下には、伯父さんが倒れ込んでうめいていた。父に何発か食らったんだろう。
伯父さんの後頭部に張り付いていた大きな青い赤ん坊は、いなくなっていた。
「早くうちに帰ろう」
ガレージ前に停めた父の車はエンジンがかかったままで、後部座席に誰かが乗っていた。
「伯母さん?」
乗っていたのは、伯母さん――シンくんのお母さんだ。
車に乗り込んだ父が伯母さんに、家の合鍵とシンくんの位牌を手渡すと、伯母さんはハンカチで目を押さえ、声を震わせて泣き出した。
「ごめんなさい、本当にごめんなさいね……」
言葉を返すことができず、俺は小さく会釈して助手席に乗った。自転車をガレージ横に置きっぱなしだったが、父がそんなもんどうでもいいと言うので従うことにし、俺たちは急いでシンくんの家を後にした。
……
本家の跡継ぎが霊神を継承し一族に繁栄をもたらす、というと聞こえはいいが、誓約したものが霊神とは程遠い怪異の類となると話はまったく違ってくる。
「……主人は昔から運気が強いというか、何をしても失敗するということがなくて。霊神がついてるから大丈夫と、口癖のように言っていました」
憔悴した様子の伯母さんの言葉を、俺と父は黙って聞いていた。
「でも、シンくんの容体が悪化するたび人が変わったように『絶対死ぬな、おまえに死なれたら困る、本家が潰れる』と言って怒鳴りちらして……結局最期まで、父親としてシンくんを思いやる言葉を聞くことは叶いませんでした。かわいそうなシンくん、あんなにお父さんが大好きだったのに」
伯母さんはそう言って、痩せた頬に流れる涙を何度もぬぐった。シンくんの気持ちを思うと、俺も胸が痛んだ。
「疲れ果てた私は、シンくんの葬儀が終わってすぐに位牌を持って実家へ帰ったんです。弁護士を立てるまでもなく、あの人はすんなり離婚に応じました……シンくんを産んだ後、持病が悪化して子供が産めなくなった私には、用がなかったんでしょう。あの人も子供ができにくい体質なので、どちらにせよあの家は、あの人の代で終わりだったんです」
父は深く息を吐いて、伯母さんの前にあるシンくんの位牌を見つめた。
「……おまえが帰ってきた時、母さんに憑いてただろ」
あの時、母さんの横顔の奥に一瞬だけ見えた『青』。そういえば母さんは霊を引き寄せやすい体質だと、本人から聞いたことがある。
「父さんも、視えるの?」
「一応な。シンくんのことは義姉さんに聞いてたから、あれを見て兄貴が何を考えているのか分かった。おまえを呼び出すために母さんを利用したんだ。まったく腹立たしい」
本家の跡継ぎであるシンくんが亡くなったことを聞いた父は、その後も続いた叔父さんの羽振りの良さを見て、なぜまだ伯父さんと青い連中との誓約が生きているのか不思議に思ったそうだ。もともと青い連中を霊神だなんて信じていなかったが、そこで確信を持ったという。
「あいつらはタチの悪いただの悪霊で、本家との誓約なんてもん最初から関係なかったんだ。生贄をもらい続けるために、対価として運気を上げてただけにすぎない。奴らは使い捨てで、用が終われば消滅する。数が多いのはそのためだ。母さんに憑いてたやつも今は消えてるから心配ない」
俺が帰宅した時に父がいなかったのは、伯母さんにシンくんの位牌を借りにいったんだそうだ。本家の跡継ぎが亡くなって誓約が破棄されたこと、生贄を差し出せなくなった本家に憑りつく価値がなくなったことを改めて示して牽制し、一時的に連中を追い払うためだったのだと。
「あくまで一時しのぎだから、すぐまた兄貴とあの家に湧いて出る。最後の生贄を喰った後にどうなるか、誰にも分からん。でも、一族から抜けている俺たちに手が及ぶことは、もうないはずだ……と、思いたい」
最後の生贄――重く、恐ろしい言葉だが、伯父さんは逃れられないだろう。
伯母さんは、俺に深々と頭を下げた。
「迷惑をかけてしまって、本当にごめんなさい……シンくんといちばん仲良くしてくれていたのに、こんなことに巻き込んで……」
ふと俺は、あの時見た白く光る赤ちゃんを思い出した。
あれは、シンくんだったんじゃないだろうか。
あの子が青い赤ん坊たちの注意をそらしてくれなかったら、今頃どうなっていたか分からない。そのことを伯母さんに話すと、伯母さんは顔を覆って泣き崩れた。今度こそ丈夫な体で生まれ変わってほしいと繰り返す伯母さんの嗚咽が、シンくんの魂に届いていることを心から願ってやまなかった。
……
とんでもない盆休みを終えて、俺はまた勉強とバイトの日々に戻った。
あの後のことは、あえて聞いていない。家族と伯母さんが元気ならそれだけでいい。そう思っていたのだが、聞いてもいないのに母があれこれ連絡してきて、結局色々知る羽目になった。
伯父さんの経営する会社があっという間に傾いて、倒産しそうだということ。
あの家が売りに出されていること。
伯父さんが現在、行方不明になっていること。
ああ、やっぱり、と思った。あんなものに頼って築いたものは、崩れるのも早いんだな、と。
だから今日も勉強にバイトに、全力を出す。
シンくんの分もしっかり生きて、自分の力でしあわせになるために。