「ミナホシ様」

投稿者:橘 うみ

 

「ねえ、ミナホシ様のこと知ってる?」
 夏休みを目前に控えたある日の放課後、志保は突然僕の席に来て言った。彼女の顔を見て一瞬心臓がドキリとするが、それをグッと堪えて目を逸らす。
「そりゃあね。うちの学校、その話で持ちきりじゃん」
「そういうことじゃなくてさ。詳しいこと、何か知らない?」
 志保はやれやれといった表情で僕の前に座ると、大きなため息をついた。そして得意げに小さな手帳を開き、わざとらしく書いてある文字をペンでなぞり始める。志保はいつもこうだ。幼稚園の時も、小学校の時も、そして高校生となった今も、何かやりたいことがあればこんな調子で僕を巻き込みにやってくる。――まあ、正直彼女に悪い感情を持っているわけではないが。
「詳しいことは何も。真ん中川にいる化け物だってことだけ」
「私が調べたところによるとね」
 僕の話を半ば遮りながら、彼女は身を乗り出した。
「ミナホシ様が現れるのはいつも夜、水の近くでなの。どんな姿をしているのかは誰も知らない。その体は水から上がってきたかのようにしっとりと濡れてるんだって。そして――闇夜に真っ赤に光る目が浮かぶの」
 志保は怪談を話すような口調でそう言うと、目を大きく開いて見せる。しかし、志保の真っ黒な瞳では化け物には到底見えはしない。
「ねえ、ミナホシ様に会ってみたくない?」
「会うって、どうやって」
「私聞いちゃったんだ」志保は手帳のページを一枚遡った。「深夜二時七分、真ん中川の水面を二回叩く。その後、小さな声でミナホシ様の名前を呼ぶ。と、出てくるらしいよ」
 簡単でしょ?とでも言いたげな表情で志保は僕の顔を覗き込んだ。
 今までも彼女と様々なものを捜索してきた。ツチノコ、UFO、幻の黄金蛇、海賊の宝の地図、人面犬、他にもたくさん……その全てが失敗に終わっているというのに、彼女の目は依然としてキラキラと輝いている。馬鹿馬鹿しいと思いながらも、この目を向けられてしまえば、僕には断ることなんてできはしない。
「わかった、付き合うよ。でも――」
「でも?」
「もう少し調べてからにしよう。簡単に終わってもつまらないし、もし会えたときどんな化け物かもわからないままじゃ危険だろ」
「さすが、話が早いね! それじゃあさ、話を聞きに行ってみたい人がいるんだけど――」

「ミナホシ様ねぇ、なんだか最近はよくその名前聞く気がするよ。どうしたんだい」
 次の日の放課後、僕たちは社会科準備室に来ていた。この学校の日本史のおじいちゃん先生――日本史は選択していなかったので名前は忘れてしまったが、その先生がこの地域の歴史や文化にも詳しいらしく、話を聞きに来ていた。
 志保も日本史は選択していなかった気がするが、どこからそんな情報を得たんだか。
「自由研究です。いつもは出さないけど、今年はやってみようと思って」
 初耳だ、そんなわけない。驚いて志保の顔を見そうになったが、感心する先生の声を聞いて踏みとどまった。真面目な生徒だ、と誉められ、少し心が痛んだ。
「ね、先生、何か知らない? 民族学?が得意だったんでしょ?」
「得意じゃなくて、そういうのは専攻っていうんだ。さて、ミナホシ様ねぇ、どこから話したらいいか」
 先生は豊かな顎髭を指で整えながらしばし考え、やがて口を開いた。
「ミナホシ様はな、水の神様なんだよ」
「神様? 化物じゃなくてですか?」僕が思わず口を挟むと、先生は笑った。
「おいおい、ずいぶん失礼だな。海のないこの地域では昔から水を大切に扱ってきた。今と違って天候によって色々なものが左右された時代、水不足や洪水、飢饉……水に関わる様々な問題が村で起こるたびに、人々は恐れ、もう許してくれと神様に祈った。それはやがて信仰へと変わり――いつの間にかこの辺りでは、その神様をミナホシ様と皆が呼ぶようになった」
「じゃあさ、ミナホシ様なんて本当はいないってこと?」
「神をいると言うべきか、いないと言うべきか、そんなこと考えるのはナンセンスだよ」
 ナンセンスってなんだろう、そう思ったが今度は口を挟まなかった。
「信仰があれば神様は生まれるんだ。そして面白いことに、信仰がなくなっても|神《・》|様《・》|は《・》|存《・》|在《・》|し《・》|続《・》|け《・》|る《・》。人々の信仰を失った神様は、人々の気を引こうと悪戯を始める……っていうのが、私の恩師が私に教えてくれたことだよ」
 なんだかよくわからない話になってきた。どんな顔をしていいか悩んでいると、メモを終えた志保が顔をあげた。
「ミナホシ様を見たことあるって人はいないの?」
「いるにはいる。でもなぁ」
「でも?」
 先生は小さく唸るように息を吐き、また顎髭を撫でた。
「みんな見た姿が違うんだよ。幼子のようだったと言ったり、大男と言ったり、昔行方不明になった娘といったり、端正な顔つきの青年と言ったり……ああ、あと龍や大鯉の姿と書かれた文献もあったな。まぁ、色々な人から話を聞いたが、全く同じ姿を見たという人はいなかった」
 神は神らしい姿をしているべきじゃないのか。神らしいというのは自分でもよくわからないが、今言われた中なら龍であってほしいな――と、余計なことを想像していると、一つの疑問が頭をよぎった。
「あの、その人たちはどうしてそれがミナホシ様だってわかったんですかね。どんな姿かも――」
「赤い目」
 その疑問に答えたのは先生ではなく、隣に立つ志保だった。
「赤い目だよ、昨日言ったじゃん。ミナホシ様の目は、闇夜で赤く光るの」
「おお、よく知ってるな。そのとおり、ミナホシ様は真っ赤な目を持っていて、それを見てみんなミナホシ様だと言っているわけだ。あとはなんだろうな、文献より口伝の部分が大きいから、私もそこまで詳しいことは――」
 先生がまた顎髭に手を伸ばそうとした時、午後五時を告げる鐘が鳴った。部活動以外の生徒は下校する時間だ。
「おっと、もうこんな時間か。君たちも遅くなる前に帰りなさい。私に答えられることなら、またいつでも聞きにおいで。自由研究、頑張るんだよ」
 そう言って先生は優しく微笑んだ。
 志保は元気よくお礼を言い頭を下げる。僕はというと、ありもしない自由研究が心に引っ掛かり、ぎこちない笑顔と中途半端なお礼を返すことしかできなかった。 

「おばーちゃーん、アイス二本ちょーだーい」
「はい、はい。どうぞ」
 翌週、放課後早々に下校した僕らは小学校裏にある駄菓子屋に来ていた。僕は中学に上がってからはしばらく来ていなかったが、志保はこの様子だと今でも頻繁に来ているみたいだ。
 そういえば、ここの駄菓子屋のおばあちゃんは父さんが通ってた頃からおばあちゃんらしい。一体今何歳なんだろう。 
「ね、おばあちゃん。聞きたいことがあるの」
 店内に設置された小さなベンチで棒アイスの包みを明けながら、志保はおばあちゃん話しかけた。おばあちゃんは小さな椅子を僕らの側に置くと、それにゆっくりと腰かけた。
「ええ、なんだい志保ちゃん」
「ミナホシ様って知ってる?」
 志保がそう聞くと、店内は一瞬しんと静かになった。おばあちゃんの笑顔はさっきと変わらない。でも、なんとも言えない嫌な空気が肌を刺すのを感じていた。
「突然どうしたんだい、ミナホシ様の話なんて」
「学校の課題なの。私たちの班が担当になって調べなきゃいけないんだけど、本とか全然見つからなくて」
 志保もこの空気を感じたのか、昨日とは違う言葉を並べてみせる。よくもこうつらつらと嘘が出てくるもんだ。
 おばあちゃんは笑顔を崩さない。じっと僕らを見つめたまま、小さく息を吸い、そして話し出した。
「どのくらい知っているんだい、ミナホシ様のこと」
「この地域の水の神様だってことくらいです」アイスを齧る志保に代わって僕は答えた。 
「それじゃあ、この話は聞いたかい? ミナホシ様にはこんな言い伝えがあるんだよ。夜一人で水辺に行くと、どこからともなくミナホシ様が現れて、自分もミナホシ様に変えられちゃう、ってね」
 僕と志保は顔を見合わせ、首を横に振った。
「よく私もお父ちゃんに言われたもんさ。帰りがずいぶん遅くなったり、親に黙って遊びに行ったときなんかにね。|神中川《かみなかがわ》、ああ、今は真ん中川ってみんな呼んでるんだったね。『神中川に近寄っとらんか、ミナホシ様は寂しがりだから、気ぃ付けろ』って」
 なるほど、わかった。みんなが見たミナホシ様の姿が違う理由。ミナホシ様には|人《・》|を《・》|ミ《・》|ナ《・》|ホ《・》|シ《・》|様《・》|に《・》|変《・》|え《・》|る《・》|力《・》があるんだ。ミナホシ様はたくさんいて、それぞれ姿が違う。本当はどんな姿をしているかなんて、誰にもわかるはずがない。
「ねぇおばあちゃん。私たち、ミナホシ様に会ってみたいの」
「それはやめておきなさい」
 初めて聞いたおばあちゃんの怒気をはらんだ声に肩が跳ねる。溶けかけてたアイスが棒から外れ、床に落ちてしまった。
「ただの都市伝説じゃない、ミナホシ様は神様だよ。敬意をもたない者には容赦しない。悪いことは言わないから、もうミナホシ様の名前を口にするのはやめておきなさい。いいかい、あなたたちはもうミナホシ様に気に入られてる。絶対に夜一人で水辺に行くんじゃないよ。水辺に近寄る時は誰かと一緒に。わかったね」

「来週とかどうかな、月曜か火曜」
 駄菓子屋からの帰り道、しばらく黙っていた志保はそう言って僕を見た。
「月曜からお父さん出張でさ、お母さんは早寝だから夜行けると思うんだよね。どう?」
「どうって、もしかして真ん中川行くの?」
「そうに決まってるじゃん。これ以上知ってそうな人もいないし、聞き込みは終わりにしていいかなって」
「でもさ、駄菓子屋のおばあちゃんもやめた方がいいって言ってたし」
「何、怖いの?」
 足が止まる。そんなことない、とは言えなかった。
「私思うんだけどさ」少し先を歩いていた志保が振り返る。「昔は街灯もなくて、夜は真っ暗だったでしょ。水辺は危ないし、子どもを早く帰らせるための方便だったんじゃないかなって。私たちの小さい頃もあったじゃんそういうの。鬼が来るぞとか、ブラックサンタとか、夜に口笛吹くなとか、そういうのだよきっと」
 本当にそういう迷信めいた、実在しないものなら、なおさらわざわざ行く必要なんてない。矛盾してるじゃないか。そんな考えが頭をよぎるが口には出さなかった。
「それに、一人じゃなきゃ大丈夫だっておばあちゃんも言ってたし。ね、来週行っちゃおうよ、本当に会えたらどうしようかな、写真に撮れればベストだけど――」
 楽しそうな志保の目の輝きに比べれば、そんな矛盾なんて些細なことだった。

 *

 翌週、火曜日の深夜。僕は一人真ん中川の土手に立っていた。時刻はもう二時を少し過ぎている。昼に比べて暑さはずいぶん和らいだ気がするが、じっとりと全身に汗が滲む。眠気のせいかぼんやりする頭を何度も振っていると、遠くに人影が見えた。
「お待たせ」 
「遅いよ。もう時間ぎりぎりじゃん」
「ごめん、お母さんがなかなか寝なくてさ。待った?」
「結構待った」
 ひとつわざとらしくため息をついてみせ、志保より先に土手を降り始めた。僕の数歩後ろを志保もついてくる。
「昨日怖がってたくせに、今日は乗り気じゃん」
 後ろからおどけた声が聞こえる。悪戯っぽい笑顔が見えるかのようだ。
 でも、確かになんでだろう。思っていたより今は怖くないな。そういえば、ここに着くまでは怖くて手が震えていた気がする。
「志保のおかげかも」
「え、どうしたの急に」
 自分でも思ってもみなかった言葉が口をついて出た。こんな時間だからかな、取り繕わない気持ちが浮かんでくる。
「志保がいれば何でも大丈夫な気がしちゃうんだ。僕一人じゃできなかったことをたくさん経験させてくれる。志保、ありがとう」
「その、えっと、照れるなあ……あ、もうすぐ時間になる、行こ!」
 小走りでかけていった志保を追いかけ、すぐに僕らは川辺に着いた。スマートフォンを開くと時間は二時七分、噂の時間ちょうど。志保と顔を見合わせ、二人同時にしゃがみこんだ。
「たしか、水面を二回叩いて名前を呼ぶ、だったよね」
 志保の手が水面に向かって伸びていき、やがて水面に触れて微かな音をたてる。大きく息を吸い、そして吐く音が聞こえた。その手をゆっくりと持ち上げ、チャプチャプと二回水面を叩いた。
「ミナホシ様、ミナホシ様、おいでください」
「はぁい」
 その返事はすぐに、どこか近くから聞こえた。周りに全く人影はない。真ん中川に変わった様子もない。じゃあどこだ、右?左?後ろ?いやもっと近かった気がする。
 声の主を見つけようと、二人で辺りを見渡す。やがて、志保だけが動きを止めた。
「ねぇ何、それ」
 志保の声は震えていた。
 志保は僕を、いや、僕の目を見つめていた。
「その、赤い目」
 志保の瞳に写る僕の顔。赤い瞳がついた僕の顔。
「何言ってるんだよ、志保。さ、もう帰ろう」
 僕は志保の手を掴むと、川の中へと歩みを進めた。

 

得点

評価者

怖さ鋭さ新しさユーモアさ意外さ合計
毛利嵩志151515151575
大赤見ノヴ161715161579
吉田猛々171717171785
合計4849474847239