「誰か…誰かワタシに気付いて。ワタシをここから救い出して。」
ワタシは毎日そんな事を考えていた。
人は誰しも一度は何かに救われた事があるだろう。
金銭的に救われる者、心を救われる者。
時には全てを捧げたいと切に願う程、強い感情を抱く者…。
この世には多くの『救い』が存在する。
彼女は言った。
『ワタシを救ったのは誰ですか?』
彼女との出会いは小学校3年の二学期、季節が秋に変わる頃、突然私のクラスに転校して来た。
「こんな時期に転校生?」と皆は不思議がっていたが、私はそんな事はどうでも良かった。
初めて彼女を見た瞬間、全身に鳥肌が立ち心臓の鼓動が早くなった。
バクバクと体中に鳴り響くこの鼓動が、他の人にも聞こえるんじゃ無いかと心配になる程に、私は彼女に心を奪われた。それ程までに彼女には不思議な魅力があった。
「じゃあ、後ろの席に座ってね。」
担任が案内した。彼女は真っ直ぐとこちらに歩いて来て、私の席のすぐ後ろに座った。
「よろしね。」
転校初日だというのに、臆する事なく笑顔で隣の席の児童に挨拶をした。
休み時間には案の定、珍しい転校生にクラスメイトが湧き立ち彼女の周りに群衆が集まった。
「どこから来たの〜?」
「家はどの辺?」
「学校の中案内してあげるねー!」
皆口々に彼女に質問した。普通なら困惑するそんな状況でも、彼女はニコニコと質問に答えていた。
下校時間、私は上履きのまま昇降口のすぐ脇の花壇で探し物をしていた。
ガサガサと夢中で草花を掻き分ける私に後ろから
「どうしたの?」
と彼女は突然話しかけて来た。
私は戸惑いながら
「あっ…靴が無くて…。」と答えた。
彼女は
「一緒に探してあげる。えっと…名前は?」
私は「アオイ」と答えた。
「アオイちゃんかぁ。素敵な名前だね。二人で探せばすぐ見つかるよ!」
彼女はそう言ってニコッと微笑み、自分の服が汚れるのも顧みず、私とは反対側の花壇まで靴を探しに行ってくれた。
暫くして、
「見つけた!アオイちゃーん!あったよ!」
彼女は見つけた靴を両手で掲げ、私に微笑みかけた。
それを機に、私達は仲良くなった。放課後には毎日公園で遊ぶようになっていた。
そんなある日、私は彼女の家に招待された。
『ピンポーン』
玄関のチャイムを鳴らす。ドアの向こうからパタパタと小走りにこちらに向かう足音が聞こえた。
「いらっしゃーい。」
彼女と両親が笑顔で出迎えてくれた。
家はとても綺麗で、キッチンからいい香りがする。
「今日はお母さんが張り切ってクッキーを焼いてくれたんだよ?」
彼女は得意そうに言った。
ニコニコと私達の様子を見る彼女の両親は、私の両親より少し年上で、彼女の事を「〇〇ちゃん」と呼んでいた。それ程までに彼等にとって彼女は愛おしい存在なのだろう。
続けて彼女は
「後で私の部屋に案内するね。」
「うん…。楽しみ。」
私は、口ではそう言ったが心の中は複雑な想いでいっぱいだった。
私の両親は、私の事を「お前!」と呼ぶ。いや、それはまだいい方だ。機嫌が悪い時は「おい!」と呼ぶ。おいと呼ばれる度に、私は私が嫌いになった。
勿論母親に手作りクッキーなんて作って貰った事など無い。家は古い賃貸で自分の部屋も持っていない。
そんな私とは正反対の彼女。
彼女は全てを持っている。
彼女を心から愛してくれる両親、誰とでもすぐに仲良くなれるコミニュケーション能力。何処か手を差し伸べたくなる程の愛嬌。
全部全部私には無い…。
「今日はお邪魔しました。」
玄関でペコリと頭を下げる私に
「また来てね!」
と彼女と両親は優しく見送ってくれた。
陽は傾き、遠くから犬の遠吠えが聞こえた。
家に帰ると、開口一番
「お前!どこ行ってたんだよ。」と私に怒鳴る父。手にはビールの缶が握られている。
「おい!つまみ買ってこいよ。」とクシャクシャの千円札を投げつけられた。
私は仕方なく、脱いだばかりの靴を履き直し玄関を出た。外は暗くなり始めていた。
アパートの階段を下りると、仕事から帰宅した母とバッタリ鉢合わせた。
「アンタ何処行くの?」
母の問いに私は
「お父さんから買い物頼まれてスーパーまで。」
「ふーん。」
母はそれだけ言うと、私に興味無さそうにさっさと家へと帰って行った。
私は一番近いスーパーまで、今日彼女の家で体験した夢のようなひと時を思い出しながら下を向きトボトボと歩いていた。
ふと、いつも彼女と遊ぶ公園が目に入った。
日中はワイワイと騒がしいこの公園も、夜にはシン…と静まり返っていた。
公園のブランコが揺れている。
だが人は居ない。
私は引き寄せられるように揺れるブランコに座った。
キーコ…キーコ…キーコ…
静かな公園にブランコの音が鳴り響く。
暫くブランコを漕いでいると、目の端に何やら動く物を捉えた。動物だろうか?
暗闇の中、必死で目を凝らす。
それは人の形をした影だった。
影はまるで、ペラペラの紙に子供がクレヨンで乱雑に塗り潰したかのように真っ黒で、目は白くくり抜かれていた。背丈は私と同じくらい。なんだかアニメのキャラクターのようなそのフォルムに不思議と怖さはなかった。
それはこちらをジッと見つめていた。
「あなた誰?」
私は思わず話しかけた。
「ワタシは…アナタを…スクウ者…。」
「救う?助けてくれるって事?」
影はこくりと頷いた。
「名前は?」
私の問いに影は首を横に振った。
「名前が無いの?私と同じね…。私もね、おいって呼ばれてるの。そうだ!名前をつけてあげる。」
「そうだなぁ、黒い…くろ…クロはどう?」
影は嬉しそうに大きく頷いた。
影は余程嬉しかったのか、ブランコの周りを何度もぴょんぴょんと跳ね回っていた。
クロの嬉しそうな様子に私も嬉しくなった。
「あっ!いけない!スーパー。」
思い出したように私はブランコから飛び降り駆け出した。公園を出る時もう一度ブランコを見たが、そこにはもうクロの姿は無かった。
次の日、
「昨日はお邪魔しました。楽しかった。」
私は彼女に昨日のお礼を言った。
「お母さんがまた来てねって言ってたよ。今度はあおいちゃんの家にも遊びに行ってもいい?」
「あ…うん。私、ちょっとトイレ行ってくる。」
私は逃げるようにトイレの個室に駆け込んだ。
暫くしてから
「私さぁ、昨日の夜スーパーで一人で買い物してる所見ちゃった。」
トイレの洗面台からそんな声が聞こえて来た。
私は個室から聞き耳を立てた。
「えーサキちゃんも?私も見た事あるよ。結構遅い時間だよね?」
「うちのお母さんが、あの子は放置子だからあんまり一緒に遊ばないでって言うんだよね。」
「ウチも言われたー。」
私の事だとすぐに分かった。三人組の軽蔑にも同情にも聞こえるその言葉に、私は奥歯をギュっと強く噛み締めた。
「そんな事言うもんじゃないよ!生まれた環境なんて自分じゃ選べないんだから!」
トイレに彼女の声が響き渡った。
その普段とはかけ離れた彼女の様子に、悪口を言っていた三人はすごすごとトイレを後にした。
『コンコン。』
「アオイちゃん?大丈夫?」
トイレのドアをノックしながら彼女は優しく問いかけてきた。
私はドアを開け
「全然!慣れっこだから大丈夫。」
自分に出来る最大限の作り笑顔でそう答えた。
『ガシャーン。』
教室で何かが割れる音がした。
私達は慌てて教室に戻った。
床にはガラスが散らばっていた。先程私の悪口を言っていた三人組が腕を押さえてしゃがんでいる。三人の腕からは血が滴り落ちていた。
「ヤベェー!俺、先生呼んでくる!」
クラスメイトの男子が急いで先生を呼びに行った。
幸い三人は大事には至らなかったようだが、どうやら突然教室の窓ガラスが割れたそうだ。
(いい気味。)
私は心の中でそう思った。そして、この不思議な現象に心当たりがあった。
そんな私の隣で彼女が小さく呟いた。
「可哀想…。」
私は彼女の顔を見る事が出来なかった。
その日の深夜、私の家にクロが来た。
私は横で寝ている両親を起こさないように静かに布団から出て小声でクロに聞いた。
「今日のあれって、クロがやったの?」
クロはこくりと頷き私に言った。
「ワタシは…アナタを…スクウ者…。」
それからというもの、私に不幸が訪れる度、不幸を招いた相手にも同じ数だけ災難が訪れるようになった。
私の悪口を言ったあの三人も。靴を隠したクラスメイトも。虐めに気付かない担任も。
皆ちょっとずつだが不幸になった。
その度に胸がスッとした。
私は全てクロの仕業だと分かっていたが止める事はしなかった。
だってクロは私を『救う者』だから。
クロは私を救う度、嬉しそうに私の周りを跳ね回った。同時に、少しずつだがクロの色が薄くなっていった。
いつの日かクロが消えてしまうのではないかと不安だったが、それを止める術を私は見つけられないまま時だけが過ぎた。
彼女が転校して来てから一年が経ったある日。
「先生から聞いたよ?また転校するって本当?」
私は彼女に聞いた。
「うん。黙っててごめんね。せっかく仲良くなれたのに…。」
彼女は悲しそうに言った。
「何で急に…?」
「私にも分からない。でもまた絶対戻ってくるから!そしたらまた一緒に遊んでね。」
「私、沢山助けて貰ったのに力になれなくてごめんね。」
肩を落とす私に彼女は言った。
「いいんだよ!私もね、ここに来る前「ある人」に助けて貰ったんだ。その人に救われたから今があるの。そのお返しを今アオイちゃんにしてるだけ。いつかアオイちゃんの助けを必要としている子が居たら、その時は迷わず助けてあげてね。」
そう言って彼女は教室を後にした。
私は教室の窓から校庭の彼女に向かって叫んだ。
「アコちゃーん!またいつか絶対遊ぼうねー!さよならー!」
「うん!」
私の声に振り向いた彼女は、屈託のない笑顔で大きく手を振っていた。それが私が見た彼女の最後の姿だった。
アコちゃんが転校してから暫くして、こんな噂を聞いた。
「アコちゃん転校したけど、アコちゃんの家引っ越ししてないよね?お母さんとお父さん普通にあの家に暮らしてるよ?」
「アコちゃんだけ引っ越したって事?」
「さぁ?」
私は走った。かつて彼女が暮らしていたあの家へ。行けば彼女にもう一度会える気がした。
引っ越したと言っていたが、噂通り表札は佐藤のままだった。
『ピンポーン』
息を切らしながら私はチャイムを押した。
「はーい。」
彼女の母親が出て来た。
「あの…アコちゃん…居ますか?」
切れる息を何とか整えながら私は聞いた。
母親の後ろには、私達より少し年上の女の子がコチラを見て立っていた。
(あれ?お姉さんかな?)
アコの母親は戸惑いながらこう答えた。
「アコちゃんは、もういないのよ?残念だけど亡くなったの。」
「えっ…そんな。ウソですよね?えっ…?」
固まる私に母親が続ける。
「そういう事だから、もう此処には来ないでちょうだい。」
そう言って玄関の扉を強く閉め、母親は家の中へと消えて行った。
かつてのあの優しかったお母さんとは別人のように冷たい母親に私は驚いた。
佐藤家を後にした私はガックリと肩を落とし
(きっとあの夫妻にもいつか絶対不幸が訪れる。)そう心の中で思った。
また一つ私の中に黒い感情が芽生えた。
私は気を落としたまま家に帰った。
アコちゃんの死のショックと、あの母親からの仕打ちに頭の中がボーッとしていた。
「おい!」
「…。」
「おいっ!!!」
「おいっ!お前無視してんじゃねーよ!」
ビクッ。
父親からの怒号で我に返った私は、怒鳴る父親を見上げた。
「酒買って来いよ。」
父はそう言うと、またクシャクシャの千円札を私に投げつけてきた。
「お酒は…未成年だから買えない…。」
「いいから行けよ!」
「行かない!」
私の態度が気に障ったのか
「チッ!」
と舌打ちをした父親は、私の腕を強く掴み、部屋の一番奥にある物入れの戸を開けると、
その狭く真っ暗な空間に私を無理やり押し込んだ。
『バタン!』
と外から施錠をする音がした。
『ドンドンドン!』
私は戸を強く叩いたが無駄だった。物入れの中は埃が舞い、とてもカビ臭い。
暫くして、小さく蹲った私の前にクロが現れた。私はクロに言った。
「私…もうこんな生活嫌だ。私も死んでしまいたい。早く大好きなアコちゃんの所に行きたい!」
悔し涙を流す私に、クロは激しく首を横に振り
「ワタシは…アナタを…スクウ者…。」
そう言って戸の向こうを指差した。
私は閉ざされた戸の隙間から、部屋の中を見た。
そこにはテレビを観ながら呑気にお酒を飲む父の後ろ姿があった。
一缶飲み終わった父が立ち上がり、キッチンに向かおうとした時
『ドサッ』
突然父が胸を押さえて倒れ込んだ。それと同時に物入れの戸が開いた。
私は物入れから這い出ると、激しく悶え、苦しむ父をただじっと見つめていた。
父は私に
「アオ…イ…。助け…て…くれ。ア…オイ。」
そう言いながら必死でこちらに手を伸ばしていた。私はそんな父を見ても、救いの手を差し伸べようとはしなかった。それどころか、苦しむ父に何の感情も湧かなかった…。
暫くして、父は酷い形相のまま動かなくなった。
「クロが助けてくれたの?」
私は物入れの方に振り向きながら聞いた。
戸の前でじっと佇むクロの身体は消えかかっていた。
クロは言った。
「オワカレ…。」
「えっ?もう会えないの?」
戸惑う私にクロが続ける。
「サヨナラ。」
「クロ!待って行かないで!私クロに助けて貰ったのに、友達なのに…。まだ何もしてあげられてない。」
謝る私にクロが
「アオイちゃん…ワタシに気付イテクレテ、アリガトウ。名前をくれてアリガトウ…。」
辿々しいクロの言葉に私の目から涙がポロポロと溢れた。
消えゆくクロは私を強く抱きしめこう言った。
「ワタシを…暗闇カラ救ってクレテありがとう…。」
その言葉に私の心は救われた。
何故ならかつてアコちゃんが私に言った
「いつかアオイちゃんの助けを必要としている子が居たら、その時は迷わず助けてあげてね。」
あの日の約束を、私はようやく果たす事が出来たのだから。
涙と鼻水でぐしょぐしょの私にクロは続ける
「サイゴにアオイちゃん…」
『ワタシに身体をくれてありがとう。』
「えっ?!」
その瞬間、眩しい光が私達を包んだ。
ワタシは恐る恐る目を開け、近くの鏡を見た。そこに映るのはアオイの姿のワタシ(クロ)。
ようやく手に入れた『人間の身体』をまじまじと眺めながらワタシは鏡に向かってこう言った。
「言ったでしょ?
『ワタシは貴方を巣食う者』
ワタシが貴方を救う度、ワタシの身体は消えて逝く…。代わりに貴方が黒(クロ)となる。」
彼女は父親の死体の側で、満足そうに手に入れたばかりの身体をウキウキとさせながら、部屋を出て行った。
暗闇の中、黒い彼女はこう叫ぶ
「誰か…誰か私に気付いて。私をここから救い出して…。」
彼女は言った。
『私を巣食ったのは誰ですか?』