2009年のことだ。
携帯の着信画面に「通知不可能」の文字。
その表示は海外からの着信に表示されるものだ。
「ハロー、ナツーオ?」
10年前、留学先のハイスクールとカレッジで同級生だったナツオ。日本とアメリカで離れてはいるが今も折に触れて連絡を取り合う、いわば親友だ。
「アキラ、いますぐこっちに来れないか?」
「いきなりだな!最短でも飛行機の乗り換え込みで20時間はかかるぞ」
笑いながら答える。
「フユミが見つかった」
その言葉を聞いて、笑いはかき消された。
「いますぐ、こっちに来れないか」
もう一度ナツオが言った。
電話を切ったあと、スケジュールを確認して一週間後の航空券とホテルの手配を済ませた。
ニューヨーク州北部、カナダの国境にほど近い山間の小さな町「ヘイトン」
俺とナツオとフユミが出会った場所。
そしてこれは、俺が一生を共にすることとなったチェルシーと出会った時の話だ。
空港からレンタカーで2時間も走るとヘイトンに到着した。町に一軒だけのホテルに荷物を預けて、すぐにホテルを出た。
目的地は、町名にもなっているヘイトンカレッジ。俺たちの母校だ。
ナツオはカレッジを卒業した後、そのまま大学で数学の講師をしている。
留学当初に出会った時は
「ハロー、サンキュー、ファックユー」
の3つの単語とノリだけで英会話を成立させていたナツオが先生とは、人間成長するもんだ。今は大学時代から付き合っていたヘイトン出身の同級生、エミリーと結婚している。このままヘイトンに骨を埋めるつもりなんだろう。
ナツオのオフィスに入ると、応接スペースにいたナツオが立ち上がって招き入れてくれた。握手をして、お互いにソファに腰かける。
「JFKから国内線で2時間フライトだぜ。ここはニューヨークを名乗るべきじゃない」
俺の軽口には答えず、ペットボトルのミネラルウォーターをテーブルに置くとナツオはじっと俺を見る。
目の下には黒いクマが染みついている。会うのは数年ぶりだったが、ずいぶん老け込んだ印象だった。
「仕事の都合がつかなくてな。遅くなって悪い」
まるで睨むように俺を見つめるナツオに、言い訳のように言った。
「長旅で疲れてるところすまんが、始めてもいいか?」
目線をはずさないまま、ナツオは切り出した。声もしわがれて、張りがない。
俺よりよっぽど疲れた様子だ。
「フユミには会ったのか?いや、それよりお前体調大丈夫か?」
「大丈夫だ。フユミには会った。」
短く、途切れるように答える。
今日は休んだほうがいいんじゃないか、と言う俺を手で制して、
「フユミは隣の州で隠れるみたいに暮らしてた。完全にドラッグ中毒で、もう手遅れだった。」
と、吐き捨てた。
「俺を見るなり、ごめんなさいもう許してって、泣きながら呟いてたよ」
ナツオの背中から、黒い煙が立ち昇っているように見えた。
1997年、俺とナツオはヘイトンハイスクールの2年生だった。
その年に、日本からの留学生として入学してきたのがフユミだ。
当時、ナツオは留学してきた日本人のために日本人会を設立していて、カレッジを含めて20人程度の日本人同士で助け合うコミュニティの運営に力を入れていた。
行事の予定から留学生寮のルールまで、生活に必要な情報を共有したり、ホームシック気味の生徒のためにスーパーを駆け回りなんとか日本の食材を用意して日本食パーティーを開いて励ましてくれたり。
ささやかな活動ではあったが、親元を離れて外国で暮らしている俺たち日本人留学生にとっては心強い支えでもあった。
先頭に立って人の為にできる事をする。
フユミもそんなナツオの姿に惹かれたんだろう。
最初、フユミは自己主張が弱くてアメリカでやっていけるのか、心配になる程だった。
入学してすぐのハロウィンパーティーでフユミは浴衣を着て参加したのだが、アメリカ人に着物と浴衣の違いなどわからない。
みな口々に「スーシ!ゲイーシャ!ビューティフォー、フジヤーマ!」とフユミのハロウィンコスチュームを褒めたたえた。
彼女は真っ赤になって、蚊のなくような声で「センキュー」と、小さな体をさらに縮こまらせていた。
ホールの中心ではチークタイムが始まり、壁際で休んでいた俺はドラキュラの格好のまま、クランベリージュースを飲んでいた。
ふと見ると少し離れた場所で、小さな浴衣姿がモジモジと揺れている。
どうやらクラスの男子たちから卑猥なスラングを混ぜた聞き取りにくい英語でちょっかいをかけられているようだ。
意味を理解しているのかいないのか、曖昧に愛想笑いで誤魔化そうとしているフユミを男たちが連れ出そうとしていた。
面倒だけど、蹴散らすか。
一歩進んだ俺の横を、黒い影が走り抜ける。
「紳士諸君!彼女は日本のプリンセスだ。もしも花を散らすつもりならば、このニンジャファイターがお相手しよう!」
ニンジャのコスプレをしたナツオがシェイクスピア劇さながらの口上を述べながら、フユミと男たちの間に割って入った。
アイツは何をしてるんだ。
男たちにビニール風船の刀で殴りかかり、この大立ち回りを完全にニンジャショーに変えてしまった。
巻き込まれた観客たちは大盛り上がりで、
「コニチハサヨナーラ!カミカゼ!ハラキーリ!」
と歓声をあげる。
ショーのフィナーレにはフユミを引っ張って、ダンスの輪のど真ん中で一緒にドラえもん音頭まで踊ってみせた。
あの時から、ナツオはフユミのヒーローだった。
そんなナツオと過ごすうち、フユミも留学生活に慣れていき日本人会の活動を手伝うようになった。猪突猛進のナツオと、控えめにナツオの欠点をフォローするフユミ。
いつの間にか彼女はよく笑い、時にはナツオにも物おじせずに意見するほど強くなっていた。
その後クリスマスパーティで、今度はフユミからナツオをダンスに誘った時には参加者全員から祝福の拍手が上がったものだ。
「あの頃は、毎日一緒だったよな。」
フユミの消息を話し始めたナツオを遮って、俺は続けた。
「あの頃はさ、お前、英語力向上のため日本人同士でも日本語禁止とか言って」
ナツオがギュッと目を閉じる。
「でもお前、石の上にもスリーイヤーズとか、ヤブからスティックとか、ルー大柴のモノマネしてさ」
あの頃みたいに、馬鹿話でもしないか。
「フユミは死んだよ」
ケホッ、と乾いた咳が響くほどに静かな部屋の中、それはもう叶わないと知らされた。
ナツオとフユミの関係が変わったのは、俺たちがハイスクールを卒業して付属のカレッジに進学した頃だった。
長期休みでもない時期に、フユミが突然日本に一時帰国をした。1ヶ月後に戻ってきたフユミは、露骨にナツオを避けるようになったのだ。
ナツオは俺に何も言わなかったが、フユミがナツオとの子供を無断で堕胎したという噂は、小さな町の陰で囁かれていた。
しばらくするとフユミは学校に登校しなくなり、近隣の街でギャンググループと遊び回っている姿が目撃されるようになった。
そして、ある日姿を消した。
「それでも、フユミは生きてたんだな」
返答を間違えたと思ったが、ナツオは気にしていない様子だ。
「ああ。生きてたよ。俺が会った日までは。」
ナツオの背中から、更にドス黒い煙が湧き上がる。
「チェルシー事件を覚えてるよな?」
詰めるような言い方だ。
「あの事件の後だろ。フユミがいなくなったのは」
俺たちの住んでいたヘイトンは、なんなら人口よりもリスや鹿の方が多いアメリカのど田舎だった。
そんな平和な町で起きた凄惨な殺人事件。
当時14歳のチェルシー・リッツバーグが、深夜になっても帰宅しなかった事から両親が警察に通報し大規模な捜査が行われた。
2日後に町はずれの雑木林の中で、全身を激しく殴打されたチェルシーの遺体が発見された。遺体には複数人による暴行の跡があったそうだ。
ガラの悪い少年少女達がチェルシーに因縁をつけているのを見た、という証言もあったが結局犯人たちは捕まっていない。
「フユミは、チェルシー事件の現場にいたそうだ。つるんでた連中がラリって彼女を攫ったらしい」
あいつらならやりかねないな。ストンと腑に落ちる感覚を覚えた。
「それで、自暴自棄になって姿を消したのか。」
掠れた声が出た。テーブルの上のペットボトルを開けて一気に煽る。
「違う。それが始まりだったんだ。」
ゲホッ、ゲホッ。ナツオは大きく咳き込む。
「おい、本当に大丈夫か?俺は明後日まで滞在する予定だから、続きは明日にしよう。」
「時間がない。今じゃなきゃダメなんだ。」
ナツオは俺の腕を掴む。その手はかすかに震えている。
「フユミが言ってたんだ。事件の後、仲間達とあちこち転々と逃げてる間、ずっとチェルシーがそばにいたって」
腕に爪が食い込む。
「俺が会った時も、チェルシーがいる、もう殺して、って繰り返していた。」
「ちょっと待てよ!チェルシー・リッツバーグは死んでるだろ?何を言ってるんだ!?」
「チェルシーは、彼女をあんな目に合わせた者を許さない。関わった全ての者を。」
焦点の定まっていない瞳。思わず、ナツオを突き飛ばした。
ゲホッ!ゲホッ!ソファにぐったりと横たわり、激しく咳き込んでいる。
出来るだけ刺激しないように、ゆっくりと話しかける。
「順を追って話してくれ。フユミは何を言ったんだ?」
ナツオの喉からヒューヒューと苦しげな息がもれる。
「フユミと一緒に事件を起こした連中は、みんな死んでる。自殺、オーバードーズ、内輪揉めで殺し合った奴らもいる」
黒い煙が少しづつナツオの周りを覆い始めている。虚空に揺らめくその煙が瞬間、ひらりと手招きする少女の手に見えた。
「さっき言った通りだ。彼女の死に関わった者は、みんな彼女の標的だ。」
「・・・お前もなのか?」
ナツオの異様な姿。明らかに異常なことが起きている。
俺を見つめるナツオの目は空洞のように暗く、少しの光も帯びていない。
「フユミのアパートを出たあと、車に乗り込んだら目の前にフユミが降ってきたんだ。チェルシーは俺を待ってたんだよ。次の獲物を。」
呼吸が苦しいのか、胸を掻きむしる。シャツから覗く胸元には血が滲んでいる。
「今朝なあ。ワイフが首を吊ってた。」
ソファから体を起こして、ずいっと顔を近づけてくる。
「お前とエミリーが、あの事件になんの関係があるんだ!?」
ナツオの顔が歪み、目からは涙が溢れた。
「フユミがあの事件に居合わせることになった原因は、俺だよ。あいつが俺の子供を堕した時、話も聞かずになじって。それでフユミはあんな連中と付き合うようになった」
「そこまでお前が背負うことじゃない。ボタンの掛け違いが最悪の結果になっちまっただけだ。」
ドサッ、と背もたれに倒れ込むナツオ。
「ボタンの掛け違いか。」
もうナツオの表情は見えない。全身を黒い煙が覆っている。
「ボタンを掛け違えさせたのは、お前なんだろ?」
黒煙は一層大きく膨れ上がり、まるでドレスを翻して踊るように揺らめく。
「フユミの妊娠がわかった時、最初にお前に相談した。その後、あいつは急に日本に帰って手術をした。フユミに何を言った?」
「思えばエミリーと引き合わせてくれたのもお前だった。フユミとの事で落ち込んでいた俺にはエミリーは救いの女神だったよ。」
「でも、お前はその裏でフユミに俺とエミリーの事を話していた。あのギャングどもをフユミにけしかけたのも、」
ゲボッ!
堰を切ったように捲したてるナツオの口から赤黒い血が吹き出した。黒煙はナツオの首の辺りでとぐろを巻いている。
「落ち着け!今救急車を呼ぶから!」
黒煙をかき分けてナツオの肩を抱き、叫んだ。
俺の腕の中でナツオは時々体を痙攣させている。それでもナツオは話す事をやめない。
「フユミを追い詰めた俺も、俺を奪ってフユミを孤立させたエミリーも、チェルシーにとってはあの事件を引き起こした原因なんだよ。」
ズズッ、と鼻血をすする。
「か、関係ないだろ!理不尽すぎる!」
俺の言葉が癇に障ったかのように、黒い煙が俺にもまとわりついてくる。
この世の全てのおぞましさを凝縮したような、粘度を含んでべっとりとはりつくような質感の黒煙がはっきりと憎悪を宿していると感じた。
ひどい耳鳴りと吐き気に襲われて、ナツオを離して床にころがる。
ナツオはソファに倒れ込んだままの体勢で俺の髪を掴み、無理やり顔を上げさせる。
「俺も、もう死ぬ。なんで、あんな事をしたのか、聞かせろ。」
一言、一言絞り出すようにナツオが言った。
ナツオを傷つけるつもりはなかった。
親友だから。
ただの親友でいる事しか、できなかったから。
「だって、お前は何をしたって俺に振り向いてくれないだろ」
俺の気持ちに気づいてももらえない。そんな対象ですらない。いつも隣にいたって、想いを伝えることも出来ない。
だから、フユミが妬ましかった。フユミの卒業を待って結婚したいって言ったナツオに嫌がらせがしたかった。
それが、あんな事件になって怖くなった俺は全てから逃げた。
落ち込んでるナツオをエミリーが慰めて、それでナツオがフユミを忘れてくれれば。
そのために恋のキューピットを演じたりもした。
「そうか。これで、俺の役目は、終わりだ。」
ふらふらと立ち上がり、ゴボッ、と喉の奥を鳴らして、ナツオは大量に吐血した。
「キャハハハハハハハハハハ!!」
ナツオが、耳障りな甲高い少女の笑い声をあげる。
「次はあなたの番よ」
少女の声でそう言って、ナツオは倒れた。
ナツオを包んでいた黒煙は、ブロンドの髪にグリーンの瞳の少女に姿を変えて俺を見下ろしている。蔑み切った笑みを浮かべて。
「俺も殺してくれるのか」
彼女は何も答えない。
その瞳に見つめられるだけで、頭の奥にザラリとした激痛が駆け巡る。
全ての罪が暴かれた。裁いて欲しかった相手ももういない。それならせめて、ナツオと一緒にいかせてくれ。
チェルシーが、そっと俺の頭をなでた。
脳天からつま先まで突き抜ける衝撃に、体がビクンと跳ね上がる。
気が遠くなっていく瞬間、少女は歌う様に、冷たく言った。
2024年。
冒頭に言った通り、これは俺が一生を共にすることとなったチェルシーと出会った時の話だ。
あの日から15年、俺は死ぬ事が出来ずにいる。両親や友人、仕事仲間、俺と関わった人間は殆どが死に絶えた。
チェルシーは今もあの時に言った言葉を俺の傍らで囁き続けている。
「殺してなんてあげないわ。あなたの命が続く限りずっと。苦しめ苦しめ苦しめ苦しめ苦しめ苦しめ苦しめ」