合格発表で自分の受験番号を見つけた瞬間、街に色が戻ったように感じた。
俺、頑張った…メッチャ頑張った。ゲームも辞めたしマンガも我慢できた。
実家から通えなくもないのだが、憧れの一人暮らしを選択した。
新しいとは言えないが、このアパートの一室が俺の城だ。
夢のキャンパスライフを存分に謳歌してやろうじゃねーか。
小学校三年生からサッカーを続けていたので、サッカーサークルに入った。
サークルには三人の女子マネージャーがいる。
三年生の《琴音先輩》。穏やかで優しそうな女性だ。
俺と同じく一年生の《小梅》。照れ屋でちょっと抜けてそうな感じ。
そして…。
「三年の《行田久子》です。よろしくね」
虚ろな目で俺を見つめると、ジットリと湿った両手で俺の右手を包み込む。
妖しく微笑むと、歯科矯正のワイヤーが鈍く光った。苦手なタイプだなぁ…。
そんな気分も練習を始めると吹き飛ぶものだ。
気持ちよく汗を流し練習を終えると、久子先輩は早々にグラウンドを後にした。
「悪い奴じゃねーんだけどなぁ…なに考えてるか分かんねーとこがあんだよ」
両手を後ろに着きながら《沖田先輩》が呟いた。
この沖田先輩がスゲーのなんのって。サークルでは一番の俊足。
オフサイドギリギリでパスを受けては得点を決める。
そしてもう一人スゲー人がいる。《永倉先輩》。
この人のドリブルは神がかっている。俺は一度もボールを奪えた事がない。
まぁ…俺がヘタクソなだけなんだけど…。
俺が練習中に足をくじいてしまった時だ。
結局、次の試合には出れずにベンチで観戦する事になった。
試合の内容に興奮する俺を見て、小梅がクスっと笑う。
試合は快勝。沖田先輩と永倉先輩が琴音先輩からタオルを受け取る。
その様子を久子先輩が寂しそうに見つめていた。
「沖田先輩ってカッコいいよねぇ…永倉先輩も憧れちゃう。
でもなぁ…琴音先輩がいるから、私なんて相手にされないよねぇ…」
小梅が羨望のまなざしで三人を見つめる。
「しょうがない、翔ちゃんでガマンしとくか」
俺は少し…いや、だいぶムカついたので言い返してやった。
「お前みたいなドジっ子と付き合う訳ねーだろ。俺にも選ぶ権利があんだよ」
口を尖らせベソをかき始めたので。
「ああぁ…分かった分かった、悪かったよ…」
俺は子供をなだめるように、小梅の頭を撫でてやった。
そんな関係が続いていたのだが…何故か俺たちは今、付き合っている。
実家に戻り家族に小梅を紹介すると、姉貴が必要以上に冷やかしてきた。
俺と小梅は逃げるように実家を出ると、近くの神社でのんびり過ごした。
ご神木の前の小梅を写真に収めると、お婆さんが声をかけてきた。
「お写真撮りましょうか?お二人並んでいるところを」
その言葉に甘えて、小梅とのツーショットを撮ってもらった。
お婆さんにお礼を告げると、お婆さんは俺の目を見つめながら。
「あなたとはまたお会いする事になるわね。
これも巡り合わせ…必ず私を思い出す時がくるわよ」
なんか不思議なお婆さんだなぁ…そんな感傷に浸っていると…。
「翔ちゃん!プリンが食べたい!プリン!」
小梅がダダをこね始めた。
仕方ねぇ…帰りにコンビニでも寄ってくか…先が思いやられんなぁ…。
俺たちが付き合い始めた頃、沖田先輩と琴音先輩も付き合い始めたようだ。
永倉先輩はどことなく二人に遠慮している感じが伺える。
俺としては、何とも複雑な気持ちだ。
その頃から、永倉先輩と久子先輩が二人でいる場を何度か目にした。
俺が見る限り、決して楽しそうではない。いつも二人は真顔で話していた。
もうすぐ夏が来る。そんな時期に、切ないニュースがサークルに届いた。
沖田先輩が意識不明で病院に搬送されたと。原因は全く不明だそうだ。
俺と小梅もお見舞いに行ったのだが、病室には入れなかった。
俺は、琴音先輩の気丈に振舞う姿を見ていられなかった。
永倉先輩の落ち込み様も半端ではなかった。しかし気になる事が…。
永倉先輩はあからさまに琴音先輩を避けているように感じる。
そして、久子先輩の永倉先輩に対する甘えようは異常に感じた。
永倉先輩も嫌な素振りを見せずに、苦笑いを浮かべるだけだ。
二人は付き合っているのか…なんか物凄く違和感を感じる。
日に日にやつれていく永倉先輩。サークルも休みがちだ。
永倉先輩を見かけると、傍らには常に久子先輩が…。束縛が酷いのだろうか…。
たまたま一人で歩いている永倉先輩を見かけたので、声をかけてみた。
永倉先輩は辺りを見渡すと、一緒に来てくれと俺の手を引き大学を出る。
そして大学から少し離れたカラオケボックスに入った。
まるで何かに怯えるように…いや、久子先輩に怯えているのだろう。
永倉先輩は堰を切ったように話し始めた。
「なぁ、芹澤…お前呪いって信じるか…普通は信じねーよな!。
沖田があんな事になっちまったのは俺のせいなんだよ…。
二人が付き合い始めてから、久子が執拗に付きまとうんだ…」
あの永倉先輩が泣きじゃくる…俺は無理しないで下さいと声をかけたが。
「久子が言ったんだ。私と付き合わないんだったら沖田か琴音を呪うって。
俺はバカにしながら言ってやったよ。じゃあ沖田を呪ってみろよって…。
そしたら…そしたら沖田があんな事に…」
永倉先輩はウーロン茶を一気に飲み干す。
「次は琴音を呪うって…呪いなんて信じちゃいねーけどよぉ…。
そんな事言われたら久子と付き合うしかねーじゃねーか!。
朝から晩まで久子に付きまとわれて…俺もう限界なんだよ…」
かなり追い詰められている様子が伺える。
これが本当に呪いなのであれば、久子先輩…いや、久子は何をしたんだ。
「芹澤、頼みがあるんだ。琴音に伝えてくれ。
今すぐサークルを辞めろ、そして行田久子には関わるなと。
俺が琴音にしてやれる事は、これくらいしかないんだ…芹澤、頼む…」
永倉先輩は俺の右手を両手で握る。俺も分かりましたと左手を添えた。
憔悴し力なく立ち上がると、永倉先輩はうなだれながら部屋を後にした。
翌日、俺は小梅に付き添ってもらい琴音先輩を訪ねた。
久子を警戒しながら、昨日のカラオケボックスに入る。
そこで俺は、永倉先輩が語った話を琴音先輩に全て伝えた。
「確かに信じられない話しよね。でもね、沖田くんが倒れた日…。
あの日、沖田くんと久子さんが二人で話している所を見かけたの。
本当に呪いだとしたら、あの時になにかされたのかしら…」
確かにまだ久子の呪いとは断定できない。
もし本当に呪いだったとしても、どんな呪いなのかも分からない。
そして俺たちにその呪いを調べるすべもない。
「とにかく永倉くんの言う通りにしてみる。
沖田くんが倒れた時、休学しようとも考えてたの。
私も色々と疲れちゃって…二人ともありがとう」
その数日後、琴音先輩は言葉通り休学する事になった。
その状況に安心したのか、永倉先輩の体調も回復してきた。
そして永倉先輩は態度を一変させ、久子をあしらい始めた。
あからさま過ぎるその様子に、俺は少し心配にもなった。
そして…永倉先輩と久子は、同時期に大学へ来なくなった。
永倉先輩…もしかして久子に何かされたのか…。
携帯番号を教えてもらってはいたが、初めての電話に緊張する。
「あの…新一の母ですが、どちらさまでしょうか…」
えっ?…永倉先輩のお母さん…嫌な予感しかしない。
事情を説明すると、お母さんは泣きながら話してくれた。
俺は愕然とした。沖田先輩と同じく、意識不明で病院に搬送されたと…。
本当に久子は人を呪う事ができるのか…。
気になるのは、二人とも家ではなく屋外で倒れている。
少し犯罪めいた事を想像してしまう。
そして、7月に入った頃…サークルに変な噂が流れ始める。
《ナメクジの呪い》
行田久子に見初められた二人が意識不明で入院している。
行田とは《いくた》とも読めるが《なめた》とも読める。
そして久子も《ひさこ》とも読めるし《くじ》とも読める。
子供がやるような言葉遊びだ。なめたくじの呪い、ナメクジの呪い。
そんな噂話を聞いた数日後。
俺が帰宅すると、見計らったかのように呼び鈴が鳴った。
ドアスコープを覗くと…嘘だろ…なんで俺の部屋知ってんだよ…。
そこには久子の姿があった。なにしに来たんだ…意を決してドアを開く。
なんなんだこの女…久子はナメクジの入った虫かごを持っていた。
「ちょっとお邪魔してもいいかしら」
そう言うと久子は部屋に押し入り、テーブルの上に虫かごを置いた。
茫然と立ち尽くす俺を気にも留めずに、久子はクッションの上に座る。
「カタツムリとナメクジの違いって知ってる?」
久子は虫かごの中を覗きながら俺に問う。
「殻があるかないか…それだけの違いなの。
でもね、カタツムリの殻の中には内臓が詰まってるの。
無理やり引っこ抜いたらどうなると思う?」
そんなの知らねーよ…なに言ってんだこの女…。
「死んじゃうんだよ」
俺は腰が抜けてしまい、ただただ久子から視線を逸らし続けた。
久子はそんな俺に構う事なく話し続ける。
「ナメクジにも脳があるのよ…記憶力がとってもいいの。
だから私、思考能力を高める為に…魂を入れ替えてあげたの。
芹澤くん見て見て…このおしとやかにしているのが琴音さん」
その言葉に俺は虫かごへ視線を向けた。
琴音先輩って…えっ…意味が分かんねー…。
「そして、それに寄り添うようにしているこの子が永倉くん。
ほらぁ、この子…ナメクジになっても足が速いのね。
沖田くんガンバって、永倉くんに取られちゃうわよ」
久子はポケットからBB弾を取り出すと、虫かごの中に入れた。
「やっぱり永倉くん反応が早いわね。
ご覧なさい、ドリブルでもしてるつもりかしら。
フフフフフっ…面白いわねぇ…フフフフフっ…」
この女なに言ってんだ…マジで意味が分かんねーよ…。
「こいつらの肉体にはナメクジの魂を入れといてあげたの。
琴音は上品ぶって思わせぶりな態度ばかり取って。
沖田も永倉も私には目もくれない…ふざけてるわ…」
ナメクジには先輩たちの魂が…入っているのか…嘘だろ…。
「ナメクジってね、体内の85%が水分なんだって。
塩をかけると小さくなるでしょ…でも塩じゃナメクジは死なないの。
試してみましょう!塩は?塩はどこ?…冗談よ冗談。フフフフフっ…」
久子は俺の目を見つめると、少し興奮気味に。
「ナメクジになってまで、おままごとみたいな三角関係しちゃって。
芹澤くんは違うわよね。あっ…私も翔ちゃんって呼ぼうかしら。
実は私、芹澤くんの事ずーっと可愛いなって思ってたの」
俺の顔を押さえると、無理やり口づけを交わしてきた。
俺はあまりの恐怖に何も抵抗できなかった。
「芹澤くんが私の彼氏になってくれたらぁ…小梅ちゃんは助けてあげる。
それとも…あなたもナメクジになる?彼氏じゃなくてペットになる?。
まぁ、考えといてちょうだい」
永倉先輩のあの姿を見て分かっているんだ。
この女の言う事を聞こうが聞くまいが地獄が待っている。
それならば…俺は勇気を振り絞って言い返してやった。
「お…俺は!…俺は、小梅の事が大好きだ!。
テメーみてーに頭のトチ狂った女と付き合うわけねーだろ!」
自分を信じよう…小梅は必ず俺が守る!。不思議と怖さは消し飛んでいた。
「そう…分かったわ。あなたも絶望のどん底に突き落としてあげる。
その大好きな小梅ちゃんをナメクジにしたら…また見せに来てあげるわ」
久子が部屋を出ると、俺は速攻で小梅に電話を掛けた。
なんでだよ…誰と話してんだよ!早く!早く繋がれ!。やっと繋がると。
「翔ちゃん!久子先輩が怖い事ばっか言うの…怖いよぉ…怖いよぉ…」
俺は早く来いと、小梅を部屋に呼び寄せた。
小梅…ごめんな…。
いや、俺自身もターゲットにされちまってる。
しばらくすると小梅が部屋にたどり着いた。
俺はさっきまでの久子との出来事を小梅に話した。
小梅と二人、いくら話し合っても解決策なんて見つからない。
このまま指をくわえてナメクジにされるのを待つしかないのか…。
ガンガンガンガンガン!…扉を乱暴に叩かれる。
「芹澤くん、いるんでしょ。小梅ちゃんもいる事分かってるのよ」
嘘だろ…戻って来やがった…ドアノブがガチャガチャと音を立てる。
物音が止み、諦めたのかと思ったその刹那…ガラスの割れる音がした。
久子は裏の窓ガラスを割り、土足で踏み入ってきた。
一匹のナメクジを右の手のひらに乗せると、こちらに近付いて来る。
そして、左の手のひらを小梅の頭頂部に当てると、小梅は力なく倒れ込んだ。
久子は手のひらをパンっと合わせると。
「小梅ちゃん、おまけで飼ってあげる」
なにしてんだ俺…なにが必ず守るだよ…ポンコツにも程があんじゃねーか…。
呪いなんかじゃない…この女が直接魂を抜いてたんだ。
恐らく先輩たちも背後から…。
久子は小梅の魂が入ったナメクジをサイドボードに置いた。
怒りにまかせ、久子をぶん殴ってやろうと思ったその時…。
久子の右の手のひらには新たなナメクジが…一体どこから…。
そして、もう一つの疑問が頭をよぎった。
久子は小梅の頭頂部に左の手のひらを当て魂を抜いた。
そして手のひらを合わせ、ナメクジと魂を入れ替えた。
それならば…久子自身の頭頂部に、久子の左の手のひらを当てたら…。
力技にはなるが試してみる価値はある。
小梅のナメクジがどこかへ向かっている…。
確証はない…小梅は何かを知らせようとしている。時間を稼ごう…。
「久子先輩…なんでナメクジなんですか?。
他の虫や動物とも、魂の入れ替えってできるんですか?」
久子は動きを止めると、得意気に答えた。
「ナメクジが一番都合がいいのよ。すぐに手に入るから。
私の足元を見てなさい…面白いものを見せてあげる」
ポトっと一匹のナメクジが久子の足元に落ちた。
そしてまたポトっ…ペタっポトっ…ポトポトペタポトペタっ…。
久子のスカートの中から次々とナメクジが落下する。
久子は妖しい笑みを浮かべると。
「私ね、ナメクジを産む事ができるの。便利な身体。
だからナメクジには困らないの…お分かり頂けたかしら?」
この女…イカれてるとかトチ狂ってるとかそう言う問題じゃねー…。
人間じゃねーんだよ!…バケモノだ!。
「ナメクジってね、雌雄同体なの。交尾しなくても受精可能なのよ。
出産するんだもん…当然人間の姿としては女性の姿を選択したわ。
私は子宮で卵を孵化させるの…そして産みたい時に自由に産むの」
つまりお前はナメクジのバケモノって事でいいんだよな…。
「私だって一応は女よ…出産なんて恥ずかしいところ見られたくなかった。
芹澤くん可愛いからついつい見せちゃった…でも、どうせお前も…」
俺は勢いよく久子に近付くと、ひるんだ久子の左手首を掴んだ。
そのままその手を久子の頭頂部へ運んだ。久子は手を握ると。
「私の手よ、あなた本当におバカね…こんな事も予測でき…」
俺は久子の手首を手前に曲げ、親指で手の甲を強く押してやった。
手が開いた隙に、頭頂部へ押し当てた。
「乳幼児が物を握って離さない。母ちゃん苦労したって話してくれたよ…。
そんなに人の魂いじくりまわしてーんなら、テメーの魂でも抜いてろよ!」
俺は久子の左手を引き上げる。
ナメクジが乗った右の手のひらと合わせると、久子は膝から崩れ落ちた。
終わったのか…。
ふざけんなよ…人の部屋ナメクジだらけにしやがって…。
俺は小梅の元へ駆け寄るが、いくら呼びかけても起きてくれない。
そうだ…小梅のナメクジ!。小梅のナメクジは写真立てに張り付いていた。
怖くて怖くて…警察を呼ぼうとも思った…でも…。
まずは頭を整理しよう…このナメクジが小梅だ。そしてこっちが久子。
小梅のナメクジを写真立てから丁寧にはがすと、肩へと乗せる。
俺と小梅のツーショット写真。実家近くの神社で撮ってもらった…。
写真を撮ってくれたお婆さん…あのお婆さんの言葉が脳裏をめぐる。
「小梅…必ず助けてやっからな」
俺はあの神社へと向かった。
神社に着くと社務所に駆け込んだ。すると優しそうな男性が。
「どうかなさいましたか?」
その男性は《近藤修》と名乗り、この神社を管理している方だった。
宮司さんなのだろう。俺は近藤さんに全てを話した。
近藤さんは険しい表情のまま、屋内へ招いてくれた。
「またお会いしましたね。《國井孝子》と申します」
あの時のお婆さんだ…いてくれて良かった…。
普段は沖縄でユタとして人助けをしているそうだ。
孝子さんは久子のナメクジの袋をつまむ。
「この魂だよ…私が探していたのは。あなたとは強いご縁を感じたのよ。
本当によくガンバったわねぇ。もう少しだけお手伝いしてちょうだい」
近藤さんは深々と俺に頭を下げると。
「本当によく来てくれました。
まずは現状を収拾する為にも、君のアパートへ向かおう。
状況を確認して、それから手立てを考えよう」
俺たちは早速、近藤さんの運転でアパートへと戻った。
移動中、孝子さんは後部座席でずっと何かを唱えていた。
アパートに着くと、孝子さんは俺の肩から小梅のナメクジを手に取る。
「マブイ、マブイグミ…聞いた事はあるかい?。
魂を正常に戻すまじない。火の神様にお助け頂きましょう。
まぁ、魂を入れ替える訳だから…マブイグミの応用ね」
米や酒、線香などが用意され儀式は始まった。
聞き慣れない言葉が続く。孝子さんは一息つくと。
「マブヤーマブヤーウーティキミソーリ」
呪文を唱えながらナメクジを小梅のつむじに当てた。
しばらく呪文を続けると、孝子さんはナメクジを小分け袋に入れた。
それからも、作法に従い儀式は続いた。
「焦っちゃダメよ。魂が定着するまで待ってあげてね。
問題はこっちね…邪悪すぎて封印なんてムリムリ。異界へ送りましょう」
孝子さんは何かを唱え始めると、ナメクジをテーブルの上に乗せた。
久子の魂が入ったナメクジは、孝子さんから逃げるように這う。
そしてナメクジは動きを止めた。
孝子さんには見えていたのだろう。
久子の邪悪な魂が、苦しみながら異界へ飛ばされる様子が…。
近藤さんは常に冷静に判断してくれる。
「この女性からナメクジの魂を抜けば死亡してしまう。
小梅ちゃんが目を覚ましたら、警察と救急を呼ぼう。
そして明日の昼間に、この三人の病院を訪ねる事にしよう」
すると、小梅が小さく唸った。俺は小梅を優しく抱き起すと。
「小梅…小梅、聞こえるか…ゆっくりでいいから…戻って来い」
そして、眠りから覚めるように小梅が目を開いた。
「あれ…翔ちゃん…翔ちゃん私…」
ああぁ…小梅ぇぇぇ…俺やっぱこいつの事が大好きなんだな…。
近藤さんが先輩たちのナメクジを預かると、俺は言われたとおり通報した。
小梅の身体も心配だ。二台の救急車とパトカーが早々に来てくれた。
そして俺たちは事情聴取を受けた訳だが…。
俺は刑事の山南さんに全てを正直に話した。信じてもらえないのも当然だ。
しかし、警察の協力も必ず必要になる。先輩たちは全員面会謝絶だろうから。
翌朝、孝子さんと近藤さんが約束通り来てくれた。
そして刑事の山南さんが、参考の為にと同行してくれた。
万事順調に事は運び、三人の先輩たちも元に戻った。
孝子さん、近藤さん、山南さん…感謝してもしきれない。
そして、小梅と先輩たちは順調に回復していく。
小梅の体調が安定してきたと連絡があり、病室へ見舞に行った。
「…私、翔ちゃんの事大好き…翔ちゃんの彼女で良かった」
口をへの字に曲げ、涙をポロポロと流す小梅に。
「ああぁ…分かった分かった、ありがとな…」
俺は子供をなだめるように、小梅の頭を撫でてやった。
小梅は鼻水をすすり、泣きながら俺の腕にしがみつくと。
「翔ちゃん…プリンが食べたい!プリン!」
・・・
うん、間違いない…小梅だ。
数日後、刑事の山南さんから連絡が入った。
器物破損、不法侵入の容疑で、久子は警察病院へと移送されていた。
見て欲しいものがあると言われ、孝子さんと近藤さんにも連絡を入れた。
三人で警察病院を訪ねると、久子の監視映像を観て欲しいと言われた。
山南さんは頭をかきながら。
「君の話はまったくもって信じられなかったんだけどね…。
病室で、君の先輩たちの奇跡の生還を見せられただろ。
そして、これを観たら信じざるを得なくなってしまったよ」
映像が流れ始める。
まず目が飛び出ると、触覚のように伸縮を始めた。
しばらくは、先っぽに目玉を付けた触覚がウネウネと動き回る。
すると、目玉からナメクジへと姿を変え、ポトポトと顔に落下する。
そしてポッカリと開いた眼窩から、モゾモゾと大量のナメクジが湧き出す。
掛け布団が平らになると、顔の肉と頭蓋骨までもがナメクジに姿を変えた。
看護師が気付き、数人で確認に向かう。
掛け布団をめくると、シーツ一面にビッシリとナメクジが張り付いていた。
映像はそこで終了した。
こんなの見せられると思ってなかったぁ…。
そうなんだよなぁ…俺ナメクジにキスされちまったんだよ…。
孝子さんは憐れんだ目でモニターを見つめる。
「この女性に入っていたナメクジの魂、その本来の身体が寿命を迎えた。
女性からはナメクジの魂が抜けてしまい、呪縛が解けたんだろうねぇ」
近藤さんは険しい表情で。
「人とナメクジのDNAは70%が共通していると言います。
化けて身を隠すには、都合が良かったのかもしれません」
そして山南さんに再度聞かれた。本当に行田久子と名乗っていたのか…。
山南さんが言うには、大学の名簿からは行田久子を確認できなかったと。
それからはいつもの大学生活に戻った。
平凡な日常が一番良いのかもしれない。
夏休みが終わる頃には全員が無事に退院した。
秋にはみんなで旅行へ行き、年末もみんなで二年参りに行った。
沖田先輩と永倉先輩はことさら俺を可愛がってくれた。
ドーナツを両手に持ち、交互に頬張る小梅。
そんな小梅を琴音先輩は妹のように可愛がった。
そして冬が終わる…。
春の訪れと共に、三年生の先輩たちはサークルを引退した。
沖田先輩、永倉先輩、琴音先輩のいない喪失感は半端じゃなかった。
サークルにも新入生が入ってきた。
個々の自己紹介が終わる度に拍手が沸き起こる。
そして…。
梅雨になるとナメクジも増える。
孝子さんと近藤さんにも相談はした…でも…。
小梅はナメクジを見た時など、不意に思い出す時がある。
ナメクジにされた時の恐怖と、その記憶を…。
泣きじゃくり、頭を抱えしゃがみ込む小梅。
情けない話、俺はそんな小梅を抱き締めてやる事しかできない。
行田久子がもたらした災いが、呪いのように小梅を苦しめる。
ナメクジの呪い…行田久子との本当の戦いはこれからなんだ。
小梅…俺はずっと側にいる。俺は小梅を愛しているから。