地方銀行に勤めるS子さんと、お酒を飲んだ時のこと。
週末で賑わうバーのカウンターで、乾杯を交わして世間話をしていた。
互いの近況報告などを済ませたあと、僕は「そう言えばS子さんには聞いたことが無かったな」と思い、脈絡もなく質問をした。
「何か、怖い話を知りませんか?」
S子さんは少し考えたあと、
「未だによくわからない、変な話でもいいですか?」
と言って、少し目を伏せた。
「全然いいです。ぜひ聞かせてください」
「今から10年ほど前、私がまだ十代だった頃のお話です……」
高校三年生だったS子さんは、卒業式のあとに友人の家へ寄り道した。
友人は地元に残るため、今までのように頻繁には会えなくなる。
二人で思い出話に花を咲かせていると、紅茶とお菓子を持って友人のお母さんがやってきた。何度もお会いしているが、笑顔の優しい元気なおばさんだ。
「二人とも、卒業おめでとう」
「ありがとうございます!」
「S子ちゃんは東京の大学に行くんだって?」
「はい。今まで、本当にお世話になりました」
「あらやだ、これが最後みたいな言い方はやめてよ。またいつでも来なさい」
おばさんは白いワンピースに、薄いピンクのカーディガンを羽織っていた。地元のT百貨店で婦人服売り場に勤めているだけあって、いつも上品で素敵な服を身に着けている。
「相変わらずお洒落ですね」
「ありがとう。でも、頑張ってお洒落するのもそろそろ終わりね。私、退職するのよ」
「え、辞めちゃうんですか」
「うん。前々から足が悪くてね。年も年だし、立ち仕事がきつくなってきたから」
ソファーに腰掛けたおばさんも交えて会話を楽しんでいると、何かの拍子に怪談話を聞く流れになった。
「私が働いてるT百貨店にも、怖い話が沢山あるのよ。聞きたい?」
「それって、お化けですか?」
「いろいろね。お化けもあれば、よくわからないけど怪奇現象とか」
「面白そう! 聞かせてください」
「私が知ってる怖い話は三つあってね。まず、一つ目は……」
そう言って、おばさんが語り始めた。
紳士服ブランドで店長をしていた亀田さんが体験した話。
その日は大晦日、百貨店はいつもより早い時間に店仕舞いとなった。
とは言え、亀田さんをはじめとする販売員達はまだ帰れない。
年明けのセールに向け、値札の貼り替えや福袋の準備があるからだ。
周囲には他ブランドのスタッフも大勢残っており、年内最後の大仕事に励んでいた。
最初の内は騒がしいくらいの環境で作業していたが、さすがに夜11時を過ぎた頃には誰も居なくなった。
亀田さんも、あとは最終調整を残すのみだ。
準備は完了したのだが、正面のディスプレイ周辺がどうにも気に入らない。もう少しだけ、目立つようにしたかった。
思案の結果、目玉商品一式を着せたマネキンを追加で設置することにした。未使用のマネキンは、フロア奥の百貨店倉庫にまとめて保管されている。
静かで暗い店内を、亀田さんは倉庫へと向かった。
途中、若者向けハイブランドが密集するゾーンを通ったが、人の気配は全く無かった。
(今年は、ここで年越しか……)
と、少しさみしい気分になった。
やがて倉庫に辿り着き、扉を開けた瞬間、景色が一変した。
煌々と灯りのついた倉庫の中、ハイセンスでお洒落な格好をした大勢の若手スタッフが和気あいあいとセール準備をしていた。
「あ、お疲れ様です!」
明るく元気に挨拶され、亀田さんは自然と笑みがこぼれた。
自分以外にも残っている者がいたと知り、単純に嬉しかった。
場所はどうあれ、一人の年越しではないのだ。
ちょうど12時が近づいたらしく、周囲ではカウントダウンが始まった。
「3、2、1……」
「あけましておめでとう!」
「おめでとーう!」
亀田さんも新年の挨拶を皆と交わした後、目的のマネキンを脇に抱えた。
倉庫の扉を閉めて暗い店内に出た途端、背後が水を打ったように静まり返った。
「えっ……?」
不思議に思った亀田さんが再び倉庫の扉を開けると、そこは真っ暗であった。
庫内からは、外気温にも似た冷たい空気が漏れ出てくる。
さっきまで人が居たような熱気は一切感じられない。
暗闇の中、亀田さんは手探りで照明のスイッチを入れた。
誰も居なかった。正確に言うと、近い物は居た。
整然と並んだ10体以上のマネキンが、入り口に立つ亀田さんを見つめていた。
どこかのブランドが年明け用に着せ付けたのだろう、どのマネキンもハイセンスでオシャレな格好をしていた。
S子さんと友人は、怖くて言葉が出ない
そんな反応を、おばさんは楽しんでいるようだった。
「二つ目の怖い話はね……」
間髪入れず、次の話が始まった。
警備員をしている吉村さんが体験した話。
どこの百貨店にも、大体お客様用のコインロッカーが設置してある。
店によってルールは様々だが、最大利用日数を超えた場合、警備員によって開錠・回収される。T百貨店では30日間は保管され、その後は廃棄、または警察へと引き渡される仕組みだ。期限を過ぎて開けた際、一番多いのは何も入っていない空の状態で、次いで多いのが衣類等の着替え。意外にも、購入した商品や貴重品は少ないらしい。
その日、普段は昼間担当の吉村さんが、珍しく夜勤に入った。同僚の急病で、やむを得ない代打だった。ロッカーをチェックしていると、利用期限の過ぎているロッカーを発見した。開錠して確認せねばならないが、何度やっても慣れない作業だった。腐った食材が入っているかもしれないし、危険物の可能性だってゼロではない。
マスターキーを使って鍵を開けると――そこに位牌があった。
位牌の前には燃え尽きて灰となった線香が散らばっており、独特な匂いが鼻をついた。
正直触りたくはなかったが、吉村さんは位牌を回収して警備室へと戻った。一旦は所定の場所で保管という決まりになっているので、他の忘れ物と一緒に位牌を並べて置いた。しばらく事務作業を続けていると、線香の匂いが漂ってきた。きっとあの位牌に、匂いが染み付いているのだろう。
空気を入れ替える為、廊下に面した窓を開けると、更に強い線香の匂いが吹き込んできた。
吉村さんは警備室を飛び出すと、匂いの出所を辿った。
案の定、匂いはロッカーのある方角から漂ってくる。
突き当りを曲がり、ロッカーまではあと数メートルの場所で足を止めた。
10名ほどの男女が、ロッカーに手を合わせて拝んでいるのが見えた。喪服らしき黒い服装をしており、年齢も様々だった。線香を焚いているのが彼らならば、注意しなければならない。そもそも、閉店後の百貨店だ。内部の者であればまだいいが、もし外部の者なら不法侵入だ。一体、どうやって入ったのだろうか。
吉村さんが一歩踏み出すと、全員が一斉に顔だけをこちらに向けた。大きく見開いた目で、だけど無表情のまま、吉村さんを凝視している。その口が、合唱団のようにゆっくりと同時に開いた。
「か……え……せ……」
「か……え……せ……」
掠れた声で、全員が同じ言葉を繰り返した。
警備室に逃げ帰った吉村さんは、恐怖に耐えながら朝を待った。
彼らが何を返せと言っているのか見当はついたが、今すぐあのロッカーへ行く勇気はなかった。やがて朝日が昇る時間になると、交代の社員が来る前に大急ぎで位牌を元のロッカーに返した。とにかく関わりたくない一心で、再びロッカーに鍵を掛けた。
それ以来、吉村さんが夜勤で入ることはなかった。
通常通りの昼勤務へ戻った吉村さんに、位牌がどうなったのかはわからない。
しかし時折、出勤すると微かに線香の匂いが漂っていることがあるそうだ。
「怖い! 解決してないじゃないですか!?」
思わずS子さんは叫んでしまった。
「そうなのよ。まったく、無責任な話よね」
「もしかしてまだ、ロッカーに位牌が入っているんですか!?」
「さあねえ、入っているかも」
おばさんは怖がるS子さんたちに顔を近づけ、ニヤリと笑った。
「じゃあ、最後に、一番怖い話。実は六階のお客様用女子トイレは……」
その時、階下から物音と共に、「ただいま」と声が響いた。
「あ、お父さんが帰ってきた。続きはまた後でね」
そう言って、おばさんは去って行った。
気づけば、時刻は午後6時。S子さんもそろそろ帰らねばならない。
階下に降りると、おばさんが玄関まで来てくれた。
「あの、一番怖い話の続きって……」
「今度、時間がある時に話してあげる。言葉で説明するには、少しややこしい話だから。まあ、気になるなら行けばわかるわ。六階の女子トイレ、一番奥の個室よ」
おばさんはにこやかに笑い、大きく手を振ってS子さんを見送った。
その後、上京して新生活を始めたS子さんは、大学の授業やアルバイトで忙しい日々を送っていた。何気なく地元のニュースをチェックしていたS子さんは、T百貨店がこの夏で閉店すると知った。たまたま翌週から帰省予定であったS子さんは、この機会に行ってみることにした。さっきまで怪談話などすっかり忘れていたが、今はおばさんの顔と共にしっかりと思い出していた。
翌週、電車を乗り継いで地元の駅に降り立ったS子さんは、その足でT百貨店へ向かった。
一度実家に帰ってしまうと、両親に囲まれて長くなりそうだからだ。
百貨店に到着すると、想像以上に賑わっていて驚いた。閉店セールが行われている影響もあって、お客さんが詰めかけているのだろう。どのフロアも赤札が並んでいた。
一応、おばさんに聞いた紳士服売り場を回ってみたが、当然おかしな点は何もない。怪異の現場である倉庫は従業員施設であるから、S子さんには行けない場所だ。
次に、店内案内板でコインロッカーを探したが、入店した時に見かけたロッカーがそうであるらしい。すぐ横を通って入店したが、線香の匂いなど感じなかった。そばにある化粧品売り場から漂う幻想的な香りが、全ての匂いをかき消していた。
S子さんはエレベーターに乗り、六階のボタンを押した。
今回ここに来たメインの目的、それが六階の女子トイレだ。
おばさんは行けばわかると行っていたが、そんなことがあるのだろうか。
先に聞いた二つの怪異は、恐らく心霊現象と言えるものだった。しかし、行けばわかる怪異となると話は別だ。毎回起こるのであれば、それは自然現象か物理的な不具合だ。
果たして何があるのだろうと、S子さんは怖さよりも好奇心が勝った。
エレベーターの扉が開くと、目の前に閑散とした空間が広がっていた。
本来はイベントスペースのようだが、本日は何もやっていない。
自動販売機やベンチが点在し、くつろいでいる客が数名居たが、他のフロアとは比較にならないほど静まり返っている。この場所に用があって来た客は、恐らくS子さん唯一人だ。フロアを見渡すと、左隅にトイレの矢印を発見した。
一直線にそちらへ向かうと、中の様子をそっと窺った。
予想はしてたが、誰も居ない。
中に入ると、心なしか照明の明度が低いように感じられた。
物音ひとつしない静けさの中、S子さんは奥へと向かった。
個室は四つ並んでいたが、三つの扉は開いている。
一番奥の個室、そこだけ鍵が掛かっていた。
物凄く嫌な予感がした。まだ何も起こっていないのに、鳥肌が立った。トイレに誰かが居る――当たり前の出来事なのに、どうしてこんなにも恐ろしいのだろう。
頭がガンガンする。怖い。理由はわからないが、逃げ出したくて堪らない。
照明の明度が更に下がった。
すると、突然。
カッ……チャ……。
中からゆっくりと鍵を開ける音がトイレに響き、直後に扉が勢いよく開いた。
そこに女性が立っていた。
白いワンピースに、ピンクのカーディガン。そして、見覚えのある笑顔。
女性はグッとS子さんに顔を近づけると、爆発的に笑い出した。まさに呵々大笑。大口を開けてカラカラけらけらと笑いながら、時折、歯と歯がぶつかりカチリと鳴った。まるで、骸骨が笑っているかのようだった。
怯えるS子さんをよそに、女性は笑い続けながらスタスタとトイレを後にした。
笑い声が遠ざかり、室内は再び静寂に包まれた。
S子さんの鳥肌は、すでに全身を覆っていた。
何もかも、本当に訳がわからなかった。
今のはどう見ても友人のお母さん……この話を教えてくれたおばさんだ。
どうしておばさんが今、このタイミングで。あの時と、全く同じ格好で――。
我に返ったS子さんは、大急ぎで百貨店を後にした。
そのままタクシーに乗り込んだS子さんは、運転手に行先を告げた。
実家ではなく、友人の家だ。このままモヤモヤした気持ちでは帰れない。
どうしても、会って確かめたかった。
何を――と自分でも思った。
さっき会ったのが自分の知っているおばさんであるならば、まだ帰宅していないはずだ。
だけど、もし……家に居るとしたら。
友人の家に着き、インターホンを押すと聞き慣れた声がした。
「あら、S子ちゃん。久しぶりね、ちょっと待ってね、今行くから」
やはり、おばさんは家に居た。正直、留守であって欲しかった。奇跡的な偶然で、たまたまT百貨店のトイレで出会ったのだと思いたかった。
しばしの沈黙の後、玄関の扉が開いた。
現れたおばさんは、記憶と少し様子が違っていた。
随分とラフなグレーのスウェットを身に纏い、車椅子に乗っていた。
「帰省してきたの? ごめんなさいね。あの子、まだ帰ってないのよ」
「い、いえ、いいんです。こんにちは、ご無沙汰してます。あの、お母さん……ちょっとお話しいいですか」
混乱しながらも挨拶を済ませたS子さんは、リビングに案内された。
「お身体、どうかされたんですか?」
「以前から悪かった足の手術をしてね。今はまだリハビリ中なのよ」
「ああ、そうなんですね……」
では、先程見た元気に歩いている姿は何だったのか。
T百貨店で体験した出来事を、S子さんは語った。
問題のトイレに行ったこと、奥の個室に人が居たこと、そして……。
話を終えると、ニコニコと笑みを浮かべて聞いていたおばさんが、なぜか手招きした。
腰を屈めて顔を寄せると、小さな声で耳打ちした。
「もしかして私、手を洗わずに出ちゃった?」
笑えない冗談に真顔で凝視すると、おばさんの顔もスッと真顔になった
「私の時もそうだった。この現象はね、連鎖するの。あなたも誰かにお話しするといい」
返す言葉が浮かばなかった。
恐怖を感じた。この場に居ることに、目の前にいるおばさんに、巻き込まれた自分に。
「あの、私……そろそろ帰りますね、お、お邪魔しました」
逃げるように玄関へと向かうS子さんの背後から、おばさんの呟きが聞こえた。
「次は……あなたが出てくる番ね」
S子さんはゾッとしながら、T百貨店が閉店で本当に良かったと心から思った。
「この話を人にするのは初めてです」
そう言って、S子さんは酒を口にした。
「もうあの百貨店はありませんから、大丈夫だと思うのですが……やっぱりまだ少し怖いんです。自分が話すことで誰かの前に現れるなんて、気持ち悪いじゃないですか」
話を聞き終えた僕は、平静を装いながらも内心とても困っていた。
先程から、トイレに行きたいのを我慢していたのだ。
もしもトイレに、誰かが入っていたとしたら――。
それからしばらく、僕は秘かに悶え苦しんだ。