高校1年生の時、とてつもない腹痛に襲われた日があった。
3時間目の授業中から痛みだし、必死に堪えていた。汗は止まらないし、多少の屁くらいは出てたと思う。
この時に僕は、どこのトイレで用を足すか迷っていた。
学校で大きい方を出すというのは、思春期の頃の自分にとっては非常にストレスがかかる行為。
僕はクラスの中でも下の方のグループにいたので、バレたらいじられるのは間違いなかった。
どこならバレないか…1番近いトイレは絶対無理。かといって他のクラス近くのトイレにしたって変わりない。
色々考えた結果、1つしかなかった。
幽霊が出ると噂されるトイレ。ここしかない。
何故なら、幽霊の噂話が広がりすぎて使う人を見たことがなかったから。
僕自身、霊感はないけど噂を信じてしまっていて、過去に1度もそのトイレは使用していない。
だが、腹痛のビッグウェーブに襲われている状態で幽霊がどうとか関係なかった。
3時間目終了のチャイムがなった瞬間、すぐに教室を出た。先生が何か言ってきたけどスルー。
廊下を駆け抜け、階段を急いで降りる。さすがに自覚できるくらいに屁が出まくっていた。そりゃそうだ、漏れそうなのだから。
なんとか幽霊が出ると噂のトイレに到着。採光が取れない立地なのか、電気を付けても雰囲気が暗い。
扉を締め、ズボンを下ろす。
「間に合った! この勝負に勝った!」と安堵した状態で、さぁ出すってなった瞬間、
「うぅ゙ぅ゙ぅ゙・・・ぅ゙ぅ゙ぅ゙・・」
耳元ですすり泣く声が聞こえてきた。
急な泣き声に「うわぁぁああ!!」と驚いてしまったのだが、勢いで体を傾けてしまい、出てしまったブツが制服のズボンに付いた。
……めちゃくちゃムカついた。その泣き声が幽霊なのか何なのか知らないが、とにかくムカついた。
漏らさずトイレに到着出来たのに、この泣き声のせいで漏らしたみたいになったからだ。
怒りと情けなさを感じながら、ズボンに付いたブツをトイレットペーパーで一生懸命拭いた。
でも全部取れなかった。
当然、こんな状態で4時間目に出席できるわけがなく。生徒指導室に行き代わりのズボンを貸してもらった。
トイレで起きたことを一応細かく説明したけど、生徒指導室の先生は「へぇ、そうなんだ」と一言。深くは聞いてこなかった。
結局、生徒指導室で着替えたりしていたら4時間目が始まってしまい、無断欠席することに。
「今日は最悪な1日だ…」
イライラが収まらない。ため息が止まらない。
もう早退しようかな…と思い始めてた時、違和感に気づいた。
僕が利用したのは男性用トイレ。当たり前だ。
しかし、聞こえてきたのは女性のすすり泣く声だった。
思い出した瞬間、全身の血がうごめく感覚に陥り怖くなった。
今日は感情が忙しい…まだ午前だというのに物凄く疲れてしまった。
僕は腹痛を理由に、保健室で休ませてもらうことに。多分2時間ほど寝た。
起きたら少し落ち着いたので、トイレでの出来事を思い返した。やはり、女性のすすり泣く声に疑問が湧く。
「間違えて女性用トイレを利用しちゃったのか?」
「隣の女性用トイレから聞こえてきたのか?」
「単純に音を聞き間違えたのか?」
色々考えたものの答えが出なかったので、放課後にまたトイレに向かうことに。
しかし、予想外なことが起きた。
トイレの前に隣のクラス担任の黒田先生がいたのだ。
焦った僕は立ち止まり、離れたところから様子を伺う。
黒田先生は俯いており、少ししたらトイレの前で手を合わせ始めた。
その姿を見て、僕はつい「えぇっ!?」と声を出してしまう。
当然、黒田先生に気づかれ「何だ! 誰だ!」と強めの声で呼びかけられた。
僕は逃げずに黒田先生の元へ駆け寄り、朝このトイレを利用したこと、その時に女性のすすり泣く声が聞こえたこと、全て話した。
話を聞いた黒田先生はすごく驚いていた。そして、軽い沈黙があった後に悲しげな表情でこう言った。
「このトイレで2年前、俺のクラスだった女子生徒の遺体が見つかってな。今日がその子の命日なんだ」
……僕は返す言葉が見つからなかった。
黒田先生が続ける。
「彼女は自分で命を絶ってね。ここでいつも暴行を受けてたらしい。亡くなる直前も……。俺や他の先生、親さえも暴行があったことを知らなかった」
僕が入学する前のことだけど、話を聞いて一気に悲しくなった。と同時に、泣き声にムカついた自分を責めた。
「事実を知ったきっかけは彼女の遺書だ。頼れる友達がいないとか、母子家庭だから忙しそうな母には相談出来ないとか、色々書いてあったな……辛いわ」
僕もかなり辛い気持ちになった。しかも、彼女が受けていた暴行は性的なものだったらしい。顔や腕などに大きな傷があるとかではなかったために、気づく人は誰もいなかったとのこと。
「でもまさか彼女の命日に、偶然君がこのトイレを利用し、すすり泣く声が聞こえるなんてな。噂話に信憑性が増すじゃねえか」
「えっ…先生、もしかしてトイレの噂話について知ってるんですか?」
「あぁ。酷い噂だわ。ここで生徒が亡くなったことを知ってる人は一定数いるから、誰かが適当な噂話を作って流したんだろう。でも君がすすり泣く声を聞いたとなるとな…」
「はい…あの、言い方難しいんですけど…いわゆる成仏出来てないみたいなやつですかね?」
「うーん。そういうの俺には分からない。お祓い的なことをしたって話は聞いてないし。何もしてないと思う」
「そうですか…ちなみにお名前は?」
「綾子って子だ。忘れないであげてくれ」
「…はい」
話はそこで終わり、僕も手を合わせてから帰宅した。
家に着いてから、ネットで事件のことについて何か載ってないか調べてみた。
結構な時間かけて調べたが、何も出てこない。ニュースにはならなかったようだ。
綾子さんとは、会ったことなければ顔も知らない。
悲しい事件だけど自分には関係ない。
にも関わらず、必死になって綾子さんのことを知りたくなっている自分がいた。
もちろん、すすり泣く声を聞き間違えただけの可能性も残っているけど…僕が利用したトイレで、ちょうど2年前に綾子さんが亡くなったことは事実としてあるわけで。
仮に、綾子さんが亡くなってもなおトイレに留まっているとした場合、すすり泣いているのはまだ苦しいのでは?なんて思ったりもした。
色々考えたけどモヤモヤする一方だったので、翌日に黒田先生の元へ行った。
「先生、綾子さんのことですが」
「ん? 何だ突然」
「どんな生徒だったか知りたくて」
「いきなり何を言い出すかと思ったら。聞いてどうするんだ」
「いや、昨日から綾子さんのこと気になりすぎて。亡くなってもまだ苦しんでいるんじゃ。だから泣いてるんじゃないのかなって思ってしまって…」
「気持ちは分からなくもないが、考えすぎじゃないか?すすり泣く声は俺も気になってるけどな」
「余計な詮索はしない方が良いですかね?」
「そうだ、今日の夕方彼女の家に行くんだけど一緒に来るか? 命日の昨日は仕事で行けなかったからさ。お母さんには君のこと説明しておくから」
「ホントですか! 邪魔でなければ、ぜひ」
僕も綾子さんの家に伺うことになった。
綾子さんの家は学校からあまり遠くなく、すぐに到着。
玄関からお母さんが出てきて黒田先生と軽く会話し、僕の方を見た。
「はじめまして。綾子の母です。黒田先生からお話は聞いております」
お母さんは物腰が柔らかく、品のある笑顔。いきなりやってきた僕に対して非常に親切だった。
「綾子に会いに来る生徒さん、あなたが初めてです。すごく嬉しいです」
僕はなんとも言えない気持ちになったが、お家に上がらせてもらった。
そして仏壇の前へ。綾子さんの遺影が視界に入る。
すごく良い笑顔。自然な笑顔というか、ホワッとした柔らかな笑顔。
写真の中の綾子さんを見ていたら、さすがに泣きそうになった。自ら命を絶ったけど、殺されたようなものだから。
そして、お母さんの「ありがとうね」という声が何度も聞こえてきた。ずっと感謝している様子。
その言葉が余計に悲しさを増幅させた。
少し時間が経ち、お母さんが話を切り出した。
「あの…先生からトイレの話聞かせてもらいました。綾子の命日である昨日、すすり泣く声を聞いたと」
「はい。勘違いだったら申し訳ないですが、自分の中では彼女の声だと思います」
お母さんは少し目を潤わせた。
「勘違いではないかと。きっと綾子です。だってあの子は辛い気持ちを抱えて亡くなったんだから。自分で命を絶つほど苦しかったんだから」
重い空気が漂いはじめた。
そんな中、黒田先生がある提案をする。
「お母様が嫌でなければ、供養してあげませんか? 実は学校として、そういったことは何もしてなくて…すすり泣く声が勘違いだったとしても、あの場で供養することは意味があるかと思います」
黒田先生がそう言うと、お母さんは涙を流しながら了承した。
当然、僕もその提案に賛成した。
綾子さんの家を後にし、黒田先生はすぐ学校に相談。
後日、きちんと供養された。
それからは自然と噂話は聞かなくなり、あのトイレを利用する人は多くなった。
僕もよく利用するようになったし、すすり泣く声を聞くことは2度となかった。
月日は流れ、僕は高校生活の大半を勉強に捧げた。そして、希望する大学に合格し一人暮らしをするため地元を離れることに。
卒業間近、僕は綾子さんの家へ伺うことにした。この前の命日は受験で忙しく行けなかったため、合格の報告も兼ねて。
到着後、綾子さんの仏壇の前へ。合格したことや学校生活のことを色々と話した。
会ったことはないけど、僕の中で綾子さんは特別な存在になっていた。
「随分、身長伸びましたね。前より男らしくなったかな?」
背後からお母さんに話しかけられた。
「いえ、とんでもないです。あの、今日は報告も兼ねて伺わせていただきました」
「報告?」
「実は大学に受かりまして。地元を離れるので、一応お伝えしようかと」
「えぇ!? それはおめでとうございます! なんだか自分のことのように嬉しい! きっと綾子も喜んでるわ」
前に会った時よりも笑顔で、しかも喜ぶお母さんの姿を見て安心した。
また、大学名を言うとめちゃくちゃ褒めてくれた。人に褒められる機会なんて滅多にないから僕も喜んだ。
「でも、地元を離れてしまうのは寂しいね。まだ出会ったばかりなのに」
「そんな! 帰省した際には立ち寄らせていただきますよ」
「…優しいですね。綾子が生前、あなたと出会ってたらなって思っちゃった。良い男だと思いますよ?なんて言ってみたり(笑)」
冗談を言うほど、お母さんは元気になっていた。今日は来て良かったなと改めて感じた。
その後もお母さんと談笑を続け、帰ることに。別れ際には「綾子と一緒に応援してる!」とまで言われ、大学生活はしっかり頑張ろうと決心した。
しかし…
いざ大学生になると、僕はプー太郎になった。勉強ばかりの高校生活だったから、大学生になってリミットが外れたのか、反動がものすごかった。
大学デビューを華麗に決めた僕は、毎日遊びまくり。サークル! 旅行! ギャンブル! 大学生最高!!といった感じで、全く勉強せず。
念願の初彼女もゲット。恥ずかしい話なのだが、人目を気にせずイチャイチャするようなカップル。大学デビューの力は恐ろしいものだ。
そして、大学1年の冬。彼女と電話をしていた時のこと。電話でもイチャイチャ会話をしていると、彼女が突然怒り出した。
「ねぇ。何か女の声するんだけど。1人暮らしだよね?誰かいるの?」
「はぁ? 誰もいないよ。何言ってるの」
「いや、ずっと女の声がボソボソ聞こえるんだけど! もしかして浮気してる!?」
「ちょっと待ってよ、今1人だってば。女なんていないし浮気もしてない!!」
「もう良い」
プツン…ツー…ツー…
電話を切られた。僕は本当に1人でいたし、浮気もしていない。
まず、彼女は僕にとって初めての恋人。めちゃくちゃ大切な存在。だから裏切るようなことはしない。
とにかく誤解を解きたくて、彼女に何度も連絡した。その日の夜、説得して家に来てもらうことに。必死に身の潔白を訴え続け、なんとか許してもらえた。
気づけば終電間近だったので、彼女はそのまま泊まることになった。
適当に食事を済ませ、一緒にテレビを見ていた時のこと。彼女が勢いよく後ろを向いてキョロキョロしだした。
「もう嫌! さっきから何! 視線感じるんだけど! 」
僕は気のせいだろと言ったのだが、彼女は相当怖がっていた。
「このアパート、事故物件とかじゃないの!? 電話の時も変な声聞こえてきたし。もしかして、前に誰か亡くなってるんじゃ……」
怖いこと言うなよと思いながらも、気になってしまい事故物件かどうか調べることにした。
パソコンを開き、検索バーにアパート名を打ち込んでいた時だった。
なんとなく日付が気になり、カレンダーに目をやった。
綾子さんの命日だった。
大学生活が楽しすぎて、綾子さんのことはすっかり忘れていた。
声や視線の正体、もしかして…と思い彼女に綾子さんについて話してみたけど、余計怖がらせてしまうことに。その姿を見て僕も一気に怖くなった。
結局、仲直りしたのにラブラブな雰囲気は台無しに。お互い恐怖で一睡も出来なかった。
次の日、朝早くに彼女を駅まで送った。デートの予定だったが無しに。最悪だ。
その後、昨日の出来事を思い返し僕はムカついていた。
命日を忘れてたから僕の部屋に来て伝えたかったのか。もしくは命日そっちのけで彼女に夢中だったことが許せなかったのか。
いずれにしても、別に綾子さんに悪いことをしたわけではない。だからイライラが募っていった。・
アパートに戻り、もし霊が現れたら怒鳴ってやろうと思っていたら、部屋の前に紙袋が置いてあった。
不気味に感じたが、彼女が密かにプレゼントを置いていったのかと思い、一応中身を確認。
水筒とおにぎり、手紙が入っていた。
手紙を読むと、僕は驚愕した。
「1人暮らし、大変でしょう。良かったら食べてね。綾子も好きだったの。梅おかかのおにぎり」
綾子さんのお母さんからだった。
想定外すぎて思考が停止した。
部屋に入りたかったけど、待ち伏せしていたらどうしようと思ったので震えながら近所の喫茶店に逃げた。
普段飲まないブラックコーヒーを飲むことで気を紛らわし、先程のことを思い返す。
まず、彼女と電話してる時に聞こえてきた声、そして背後からの視線。あれは綾子さんではなく、お母さんだったのか。
もしそうだと仮定した場合、綾子さんの存在を忘れていることに怒っていて、生霊的なものが飛んできたのか。
一応、綾子さんの家の電話番号は知っている。確かめるか? いや、余計なことはしない方が良いかも。
色々な考えが頭の中を駆け巡る。
何時間経っただろうか。喫茶店に居座り続けるのも迷惑なので、周囲を気にしながらアパートに向かった。
部屋の前には先程の紙袋が置きっ放しになっていたが、誰もいないことを確認。万が一部屋のどこかに隠れていたらやばいので、すぐ逃げれるよう靴を履いたまま奥まで入った。
……ホッとした。部屋には誰もいなかったので。
とりあえず、玄関の鍵だけでなく小窓の鍵などもすべて閉まっていることを確認し、念の為武器になりそうなものを準備した。
ちなみに、おにぎりは食べていない。水筒の中身はお茶だったが飲んでいない。捨てたかったが、もしバレたらどうしようと思い、両方ともタッパーに移し冷凍した。
一安心したら、ドッと疲れが。早めに寝ることにした。
昨夜は一睡も出来なかったのですぐに眠れたが、この時に奇妙な夢を見てしまう。
僕の目の前に綾子さんのお母さんが立っていて、お母さんの背後からは綾子さんの姿も見えた。
2人は終始笑顔で、僕を見つめてくる。ただそれだけの夢。
翌朝は夢のせいで目覚めが悪く、嫌な気分のまま大学に向かった。
授業中に夢のことを振り返り、どういう意味なのか考えてみたが答えは出ず。夢占いも調べてみたけど意味無し。
昨日の怖い出来事があったから、夢に影響を与えたということにした。
授業を終え、帰宅の準備をしていると彼女からメールが来た。
今日も会う予定だったが、彼女は別の授業で早く終わる日だったので、合鍵を渡し先にアパートに行かせていた。
着いた連絡だろうと思ってメールを開く。すると、もう別れようと書いてあった。
一瞬時が止まったような感覚。返信はせず、すぐに電話した。
「もしもし、いきなり別れようって、何で?」
「………」
「おい! 何で? 黙らないで」
「……やっぱ浮気してるじゃん。嘘付きがこの世で1番嫌い」
「待って。浮気してないって! どうして誤解するんだよ」
「部屋の前に置いてあるマフラー。ハンドメイドって感じ。浮気相手からのプレゼントでしょ」
「は? えっ…部屋の前ってどういうこと? マフラー??」
「もういいよ。じゃあね」
「おいっ!」
一方的に電話を切られた。折り返しても出ない。
僕は嫌な予感しかしなかった。
また、あの人の仕業か?
とにかく急いで帰宅。部屋の前には昨日と同じ紙袋が。彼女の言った通り、見覚えのないマフラーが入っていた。
今回は手紙はなかったけど、僕は確信した。綾子さんのお母さんに間違いないと。
ここで初めて、綾子さんのお母さんに電話をかけた。迷惑だと正直に伝えるつもりで。だけど出ない。
何度かけても出なかったので、部屋に入り不法侵入されていないか、監視カメラや盗聴器など仕掛けられてないか、隅々までチェックしたが何もなかった。
さすがに部屋に入るわけないよなとホッとし、椅子に腰掛けようとしたその時、気配を感じた。玄関の方からだ。
僕は固まってしまい、気配の正体をすぐには確認出来ない。
しばらく音を立てないよう、耳をすませる。何も聞こえてこない。
そーっと玄関に近づくも変わった様子はなく。気のせいかと一応郵便受けを開けてみたのだが、手紙が入っていた。昨日と同じ見た目の手紙。
今来ているのか? 心臓の鼓動が早まる。
手紙を軽く開き、薄目で読む。「綾子と同じの…」という文字が目に入った。
嫌な予感しかしない。恐る恐るドアスコープを覗く。
部屋の前には、真顔でこちらを向く綾子さんのお母さんが。
思わずのけぞった。
急いで警察に通報しなければと携帯を取り出したが、動揺でボタンがうまく押せない。その時、玄関の向こうから「こんにちは」という声が聞こえてきた。
恐怖心はあったが、ここで無視しても意味がない気がしたので思い切って玄関を開けた。
「あの・・・迷惑です。お願いですから、もうやめてください」
久しぶりの対面だったが、いきなり素直な気持ちを伝えた。
「お久しぶり。ごめんなさいね、こんなことして。でも、綾子の命日にもしかしたら来てくれないかもって思ったら居ても立っても居られず。あ、紙袋に手紙入れ忘れたので今投函しましたよ」
明るい口調で淡々と話してきた。
やはり、命日のことを忘れてるんじゃないかと危惧していたみたいだ。
「…すみません。実際忘れてました。でも、僕は大学生ですし、簡単に地元には戻れません」
「そうですけど。電話くらいは……ねぇ。綾子のこと大事なんでしょ?」
「大事ですけど…綾子さんのことは今は関係ないです。まず、何故このアパートに住んでるかわかったんですか?」
「大学名を聞いてたので。ある程度学生が住みそうな物件は特定しやすかったですよ」
他にも詳しく聞くと、僕が命日を忘れるのではないかと結構前から思っていたらしい。数ヶ月前から僕のことを調べ、後をつけたりもしたと自白した。
ちなみに、おにぎりと水筒、マフラーは僕のためを思って用意したとのこと。
「お母さん、いくらなんでもやり過ぎです。さすがに怖いですよ」
「申し訳ありません」
「あと、勝手に部屋に入るのも駄目です。犯罪かと…」
「え、いやいや! 部屋には入ってませんけど。不法侵入になりますので。ただ、私と綾子、あなたと3人でいるイメージは毎日してましたよ。忘れてほしくないから、ね? 気持ちは届けてました」
…全身の毛穴から汗がじわっと出てくる感覚がした。
そして、全てつながった。
電話してる時に彼女が聞いた声、テレビを見てる時に感じた視線。お母さんの思いが生霊化したのだと。
僕はお母さんに、2度と同じような行為をしないこと。もし次やったら警察に通報すると伝え、帰ってもらった。
そして、帰ったことをしっかり確認した後、僕はフラレた彼女に電話した。
着拒されていた。
誤解を解けぬまま、別れる羽目に。
初めての彼女。大好きだった。
そんな彼女が元カノに変わってしまい、僕は未練タラタラになった。着拒されているのに毎日電話をかけてみたり、元カノの様子を離れた場所から伺ったり。若干ストーカー化していたので、これじゃ綾子さんのお母さんと一緒だな…とか思ったりしたけど、好きな人だから諦められない。
あれだけ楽しかった大学生活はつまらなくなり、学校をサボるようになった。
ろくに食事もとらず、ひたすらボーッとして1日が終わる。
そんな堕落した生活が続いたある日、夢を見た。前に見た、あの夢。
僕を笑顔で見つめてくる、奇妙な夢。
目が覚めて、夢を振り返る。また生霊を飛ばしてきたのか?と思ったけど、どうでも良かった。
そもそも別れた原因は綾子さんのお母さんのせいなので、懲りずに生霊を飛ばしてるならムカつくし怒るべきだ。
だけど、失恋のダメージは相当なもので怒る気力など皆無。元カノのことしか考えられなかった。
それからも、度々同じ夢を見るようになった。鬱陶しいし意味不明だし、いい加減にしろよと思っていたのだが、気付いたことがある。
夢を見ると一瞬だけ元カノを忘れられていた。
そりゃそうだ。あんな酷いことをしてきたお母さんが出てくるわけだから。亡くなっている綾子さんまで出てくるし。嫌でも夢に集中してしまう。
ここで僕は、あえてポジティブに捉えるようにした。夢を見れば元カノを忘れられる。繰り返し夢を見れば未練を断ち切れるかもしれない。
失恋の原因を作った人が夢に出てくるのでおかしな発想かもしれないが、そう思ってからは夢に期待する自分がいた。
同じ夢を繰り返し見ていく中、頭がおかしくなったのか夢に居心地の良さを感じ始めた。
「笑顔で見つめられるの、悪くないかも。力が抜ける」
「……いや、僕は迷惑をかけれたんだ。ふざけるな! 元カノ返せよ!」
「……でもなぁ、何故か気持ちいいんだよなぁ」
心の中で葛藤する。
入り乱れた気持ちを抱えながら、その後も何度か夢を見続けた。
どれくらい経っただろうか。
気づけば失恋から立ち直っていた。もう夢は見ていない。
不思議と僕は、プー太郎から真面目な人間に生まれ変わっていた。
遊びに夢中だった自分はもういない。何かに取り憑かれたように、ひたすら勉学に励んだ。
就活も必死に頑張った。就職先は地元の大手企業に決まり、周りから尊敬されるように。
昔の自分が馬鹿みたいだ。失恋なんかで凹んでさ。
でも、失恋して良かった。失恋させてくれてありがとう。
すべて、綾子さんのお母さんのおかげだ。
現在、大学を卒業して約10年。最初に就職した会社でずっと働いている。上の立場になり、良い部下も出来た。
家に帰れば、パートナーが待っている。
僕より年上だけど、今どき年の差なんて関係ない。
馴れ初めは少し変わっているが、良い思い出。
以前と変わらない品のある笑顔が大好きだ。
写真の向こうからも、柔らかな笑顔で見守ってくれている特別な存在がいる。ありがたい。
2人がいるから、今日も頑張れる。