「はい、これプレゼントぉ」
教室中に響く大声がして、いきなり私の机の上に石を投げだされた。
スクールカースト一軍のギャルたちがくすくす笑いながら遠くから見ていて、私はまたかと内心呆れながら黙っていた。石を投げてよこしたのは、そのギャルたちの中心的存在、キララだ。彼女をはじめ、ギャルたちはみな髪を染めカラコンを入れ、もはやお面と大差ないほどゴッテゴテにメイクしている。
「カマ子のために持ってきてやったんだから、肌身離さず持ち歩きなよ? 毎日点検すっから、忘れんなよ」
それだけ言うと、キララは笑いながらギャル集団と共に教室から出て行った。連中は『一限目はダルイからサボる』という謎の生態があり、教室は一気にしんと静まり返った。
私は蒲田という苗字なので、キララは私のことをカマ子と呼ぶ。私は、その呼ばれ方が大嫌いだった。キラキラネームのDQNに名前をイジられるほどイラつくことはない。とはいえ、口達者なカースト一軍のギャルに言い返す度胸はないし、相手にするのも面倒くさかった。
キララたちが標的にするのは私だけではなく、他の同級生たちのことも男女問わず気まぐれにイジっている。目を付けられると面倒だが、連中は飽きるのも早いので、当たり障りなくやり過ごすのが無難な選択だった。
私はため息をつき、キララが押し付けてきた石を見た。手のひらに収まる程度の白っぽい石――どう見てもただの石だが、こんなものを毎日持ち歩くことに何の意味があるんだろう。
連中が飽きるまでの辛抱だ。私はハンカチで石を包み、制服のポケットに押し込んだ。
その日からキララの指示通り、学校にいる間は石を制服に入れて持ち歩き、家では部屋の机の上に置いていた。キララの方も毎日私に石を持っているか確認してきて、私がポケットから出して見せると納得してさっさと行ってしまう、そんなやり取りが一週間ほど続いた。
「ねえカマ子ぉ、あんた何か変わったことあったりしたァ?」
朝の始業前、取り巻きのギャル集団を従えたキララが話しかけてきた。ポケットが重たい以外、当たり前だが何の変化もなかったのでその通りに答えると、キララはがっかりした様子でギャル集団に振り返った。
「ちぇ、やっぱカマ子も何もないってェ」
「何それ、つまんねえのぉ」
口々に落胆の声が漏れてくるので何なんだろうと思っていると、キララが私の方を見て言った。
「それさァ、スゲェとこで拾ってきた石なんだよねェ。〇〇市の刑場跡の話、聞いたことあるっしょ」
オカルトに興味のない私でも、噂だけは知っていた。
今は普通の公園になって石碑くらいしか残っていないが、かつて大勢の罪人を処刑したとされる有名な場所だ。テレビで取り上げられたり、ユーチューバーらが訪れたりする心霊スポットで、人の気配がするとか心霊写真が撮れるとかいう噂が絶えないらしい。
「そこの磔台の石を持ち帰ると『確実に呪われる』って話だからァ。あんたらに持たせて検証してみちゃったわけェ」
キララが嫌味な含み笑いをしながら言った。他の連中は、期待外れと言わんばかりに肩をすくめている。
「あーあ、あいつが呪われるとこ見たかったのに、超テンション下がるゥ」
「有名な心スポだから期待してたのに、つまんな。行こ行こ」
あいつって誰だろうと考えるのも束の間、ギャル連中は勝手に落胆して去って行った。そいつらに紛れるキララが振り返り、私にひらひらと手を振った。
「もういーよカマ子、検証終わり。その石テキトーに捨てちゃって~」
連中が去った後の静かな教室で、私は茫然としてポケットの重みを感じていた。
そういうことだったのか。
曰く付きの石を押し付けて、私が呪われるか試していたなんて……しかもさっきの口ぶりだと、検証対象は私だけじゃなかったらしい。何て下らない連中なんだろう。
うんざりした私は、今すぐ石を捨てようと教室を出た。でもそこで、私は急に呼び止められた。
「それ、僕にくれないか」
驚いて振り返ると、隣のクラスの痩せた男子生徒が立っていた。他クラスとはほとんど接点がないので、彼の名前は知らない。私が返事に窮していると、男子生徒は手を差し出した。手の上には、石がひとつ――さっきの会話に出てきた『あいつ』とは、この男子生徒のことだとすぐに察した。
私はハンカチに包んだ石を取り出しながら、思わずたずねてしまった。
「……こんなもの、どうするの?」
すると、彼は無表情で答えた。
「あいつら、呪おうと思って」
えっ、と声が出た次の瞬間、一時間目の予鈴が鳴った。男子生徒は固まっている私の手から石を取り、眼鏡の奥から、感情の読めない、色の沈んだ目で私を見た。
「ありがと」
彼はふいと顔を背けて隣のクラスに戻り、私も我に返って自分の席へと駆け戻った。
『あいつら、呪おうと思って』
ポケットが軽くなった分、彼の言葉が頭の中に重たく渦巻いて離れなかった。
クラスの友人たちによると、あの眼鏡の男子生徒は笹本くんと言って、以前キララたちにだいぶしつこくイジられ続けたのだそうだ。そんなことがあっては、キララたちギャル集団を良く思わないのは当然だ。
とはいえ、噂の呪物も不発ではどうにもならない。ずっと持っていた私は何ともなかったし、キララたちの言い草だと、おそらく笹本くんも何もなかったはずだ。それなのに、あの連中を呪うなんてことができるんだろうか。私は何となくもやもやを抱えたまま、学校を後にした。
……
その日の夜、私は夢を見た。
暗雲立ち込める広い荒地に、いくつもの悲鳴が響き渡る。
すぐに気付いた。ここは、刑場だ。
けたたましい絶叫が空気を裂き、夢の中なのに私は身を縮めた。悲鳴の方へ目を向けると、地面に何かが一列に埋まっているのに気付いた。
あれは――
『……首?』
地面にずらりと並ぶ、首、首、首。
件のギャル集団が、首から下を地面に埋められて泣き叫んでいるではないか。列のいちばん端にはキララがいて、髪を振り乱して金切り声を上げていた。見たことのない男たちも混じっているが、あれはキララたちの彼氏だろうか。
それら首の列の周囲には、黒い犬っぽいものがもそもそと動いていた。でも、犬にしては動きがおかしい。
『何だろう、あれ……』
目を凝らした私は、見たことを即座に後悔した。
犬のように見えたそれは、首から上が、物凄い形相をした人の頭だった。
しかも四つ足がすべて、人の手になっている。
犬の胴体に人の頭、四本の手――すべてがでたらめな存在に、夢の中なのに吐き気がこみ上げた。
その黒い四つ手たちがキララの首の周りで何をしているのか、これ以上見たらまずい、と私は強く感じた。でも同時に、大嫌いなキララの行く末に、得体の知れない好奇心を抱いていることにも気付いていた。
だめだ、これ以上見たら、戻れなくなる……
「!」
そこで、目が覚めた。
アラームの音で現実へ引き戻され、鮮明な夢の記憶と吐き気が私に残されていた。最悪な目覚めだが、自分の醜い側面に幻滅する前に起きれて少しホッとした。
とはいえ、しょせんただの夢。昨日笹本くんがあんなことを言うから影響されただけだ。私は気持ちを切り替えて身支度を整え、学校へ向かった。
しかしその日から、私は刑場の夢を見続けた。
荒野の刑場に並ぶ首の列、悲鳴を上げる首たちに群がる奇妙な黒い四つ手。日を追うごとに四つ手たちは増えていき、首の列の周囲には黒い群れがうようよと蠢いていた。
その光景を見下ろす私は必死に目を逸らす。この夢を見続けたら取り返しがつかないことになるという悪い予感は、日増しに強くなっていた。
そしてそれと同じくらい、大嫌いなキララたちの首がどうなっていくのか見届けたい欲求に、耐えられなくなりつつあった。アラームに助けられて毎回ギリギリで回避できているが、この頃はアラームが鳴ってもすぐに目覚められなくなってきている。このまま夢に閉じ込められたらどうしようと、私は本気で考え始めていた。
そうして一週間が過ぎる頃には、異様な夢と神経がすり減る葛藤で、私は心身ともに疲れ果てていた。何とか気力を奮い立たせて学校へ向かうが、頭も体も重くて、半ば足を引きずるようにして歩くしかなかった。
「蒲田さん」
生徒昇降口から廊下へ出てすぐ、私は呼び止められた。目の前にいたのは、あの笹本くんだ。
「君が見てくれないと、進まないんだけど」
静かだが、不満げな声でそう言われた。何のこと、と尋ねると、笹本くんは眼鏡の奥から睨むように私を見た。
「見てるでしょ、刑場の夢」
ぎくりとして息が止まった。
私が押し黙ると、笹本くんは口元を歪ませた。とても、嫌な笑い方だった。
それに、笹本くんの顔がやけに黒く見えた。こんな顔色だっただろうか……
「早く続きを見なよ。絶対おもしろいから」
それだけ言って、笹本くんは歩き去っていった。
笹本くんは、例の刑場の石でキララたちを呪うと言っていたが、それと私と何の関係があるんだろう。まさか、刑場の夢がその呪いに関わるとでも言うのだろうか。
私は、もう何も入っていない制服のポケットを押さえた。わけが分からない。
なぜ笹本くんは、私が見ている夢の事を知っているのか。夢の結末を見ずに我慢していることまで、なぜ。
教室に入ると、キララとギャル集団がいつものように教室の後ろにたむろしていた。いつもの光景だと顔をそむけようとして、ふと違和感に気付く。
あのうるさいキララたちが、一切しゃべっていない。
思わずそっと様子をうかがうと、彼女らは皆ぼうっとした顔で突っ立って、それぞれ誰とも目を合わせていなかった。それに連中の顔色が、妙に悪い……というか、黒い。笹本くんに似た、妙な黒さだ。妙だなと思って見ていた私は、ハッとした。
キララたちの足が、おかしい。
履きつぶした内靴からのぞく足が、どう見ても、足の形ではなかった。
手に靴下をはめ逆立ちで靴をはいている、まさにその形で、私は息を飲んだ。
慌てて何度か目をこするが、その途中で一時間目の予鈴が鳴り、キララたちはぺたぺたと靴を鳴らして教室を出ていった。
足が、手に――心当たりは、ひとつしかない。
その日の授業中、キララは教科書も出さずに机に突っ伏していた。取り巻きのギャルたちも同じくぐったりと机に伏せていたが、教師たちは誰も彼女らを咎めなかった。面倒だから寝てろと言わんばかりの放置っぷりだ。
でもひとりだけ、数学の若い臨時教師の多賀先生だけは、机に伏せた連中を見るなり一瞬言葉を詰まらせた。私たちが問題を解く間、多賀先生は教室を回りながら、キララたちから目を離すことはなかった。そして先生は時々、私の事も睨むようにして見据えてきた。女子に人気の先生だが、真正面から睨まれるとさすがに怖い。
授業が終わる間際、多賀先生は大きく息を吸い、鋭く二度、手を叩いた。
途端に、机に伏せていたキララと他のギャルたちが跳ね起きた。きょとんとしているキララたちに、先生は言った。
「今、目が覚めたヤツ。今日はもう帰りなさい。担任には俺から言っておく」
不思議そうな顔のキララたちは、珍しく反論も何もせず、黙って教室を出て行った。当人たちにも何か思い当たることがあったのかもしれない。
そうして授業終わりのチャイムが鳴る中、私は多賀先生に教室の外へと呼ばれた。
「蒲田さん、だったね。今から言う言霊をしっかり覚えて」
突然のことに戸惑う私に構わず、先生は小声で、短い言霊を口にした。言霊は何かに書いてはいけないし、誰に教えてもいけないと念を押され、私はただうなずくしかなかった。
「何かあったら必ず唱えなさい。絶対に忘れないで」
「は、はい」
真剣な面持ちの多賀先生はそれだけ言って、去っていった。
何があったか聞くわけでもなく、ただ言霊を教えてくれただけの多賀先生の表情は、終始固かった。言霊なんて大げさな、と思う反面、書いても話してもいけない言霊を教えられたことの意味を思うと、寒気がしばらく止まらなかった。
その日の夜。
あの夢を見るのが嫌で、部屋の照明をつけたままスマホを手に夜更かしをしていた。でも、何をしていても笹本くんの言葉が頭の隅で繰り返された。
『早く続きを見なよ。絶対おもしろいから』
笹本くんは、夢の結末を知っているような口ぶりだった。首筋がぞわぞわするような悪い予感がするのは、私の考えすぎなんだろうか……何気なく目を閉じた、一瞬。
フッと意識が沈み、しまったと思った次の瞬間には、私は夢の中にいた。
処刑場。並ぶ首。あちこちから上がる悲鳴。黒い四つ手の群れ。
それを見下ろす自分。
『絶対おもしろいから』
いつもなら顔を背けて見ないようにするのに、考えることに疲れていた私には、笹本くんの言葉を打ち消す気力が残っていなかった。私はいつしか、キララたちの首の方をじっと目で追ってしまっていた。
首に群がる恐ろしい形相の黒い四つ手たちは、みなひとつの手に小さな鋸(のこぎり)を持っていた。しかも鉄製ではなく、竹でできた鋸だ。
黒い四つ手は叫び散らす首たちに竹の鋸をあてがうと、無造作に数回、引いた。
キララも他の連中も絶叫し、血しぶきが勢いよく飛んだ。よく見ると、どの首もすでに何度か鋸引きされていて、首の周囲は血だまりになっていた。
黒い四つ手は入れ替わり立ち代わり、血を吐きながら叫び続ける首の列を、鋸で引いていく。
ロクに切れない竹の鋸で、何度も何度も。
肉や筋がぶちぶちとちぎれていく音が、耳元で聞こえてくるかのようだった。
……ああ、何て……
『何て、いい気味なんだろう!』
大嫌いなキララが、豚みたいに叫びながら血まみれになっていく様は、実に愉快痛快だ。何でもっと早くこの無様なキララを見なかったんだろう!
私はいつの間にか、嬉々として笑っていた。スマホで動画を見ているような他人事の感覚に、私の理性は完全に麻痺してしまっていた。
やがて数えきれない鋸引きののち、ついにキララの首が血まみれの地面に転がった。ざまあみろ、と思ったその時、真っ赤に染まったキララの首の切断面から、ごぽん、と血が噴き出した。
『えっ?』
キララの首から、血しぶきにまみれた黒い手が、ぬるりと伸びた。
一本、また一本――切断面を押し広げながら伸びる、黒い手。
四本目が揃う頃には、キララの首は新たな黒い四つ手と化していた。
鋸引きされて転がり落ちた首はみな例外なく黒い四つ手となり、キララも他の連中も、嘘だ、いやだと泣き叫び地面を転げ回った。あまりの絶望に発狂している者もいた。
私は、次第に笑みを失い、眼下の地獄絵図から目を逸らせずにいた。黒い四つ手たちは、元は人間だったのか。連中の凄まじい形相の意味を、痛切に理解した。
終わらない悲鳴の中、ふと気づくと、黒い四つ手たちがぞろぞろと群れを成し、私の方へ向かってきていた。
手に、槍を持って――
『ひっ』
さっきまでの余裕が一変し、私は青ざめた。
逃げようと体をねじるが、動かない。ハッとして初めて自分を見た私は、キララたちに負けない金切り声を上げていた。
私は太い支柱に、磔にされていた。
刑場を見下ろしていたのは、高い磔台にくくられていたからだ。
磔台……
【磔台の石を持ち帰ると『確実に呪われる』って話だからさァ。おもしれーからあんたらに持たせて検証してみちゃったわけェ】
キララの言葉を思い出したと同時に、自分のすぐ隣から声が聞こえた。
『呪いの片棒を担いでくれてありがとう、蒲田さん』
素早く自分の横を見るとそこには、私と同じく磔にされ、狂気的な満面の笑みを浮かべた笹本くんがいた。
『俺、もともと自殺するつもりだったんだ。世の中つまんなくて』
笑顔で言い切る笹本くんが、この場の何よりも不気味に映る。
『でもあの石を押し付けられた時、どうせなら連中を道連れにしてやろうと思って。こんな簡単に呪えるなんて思わなかったよ』
血の気が引いた。
あまりのことに理解が追いつかない私に、笹本くんは突然ゲラゲラと狂ったように笑い出した。
『ひゃははは、俺のことおかしいって思ってんの? 君だってあの連中が鋸引きされてるのを見て大笑いしてたくせに!? 奴らの不幸を笑う君も俺と同類だ、呪いを成立させたのは俺たち二人なんだよ! ギャハハハハ!』
笹本くんの磔台の下に、黒い四つ手らが集まってきた。キララたちはいつの間にかそれらに混じってしまい、もはや判別がつかなくなっている。四つ手たちの真っ黒な顔がいつの間にか、笹本くんに似た異様な笑顔で固まっていた。
連中が槍の穂先を笹本くんに向ける。笹本くんは引きつるように笑いながら私に叫んだ。
『ひへ、へへへッ、ねえ蒲田さん、狂ってる同士一緒に死のッ! 先に地獄で待っ』
いきなり、笹本くんの首から槍の穂先が鋭く突き抜けた。
腹から槍を突き上げられた笹本くんはごぼごぼと血泡を吹き散らし、笑いと悲鳴が混じった異常な声で叫び狂った。血なまぐささで目まいがする。
これは本当に夢なのか?
笹本くんは槍でめった刺しにされ、磔台の下にできた血だまりに黒い四つ手が群がった。血まみれの地面を我先に舐めながら、連中はじっと私を見上げる。次の獲物である私の血を、待っているのだ。
別の黒い四つ手たちが、私の方へ穂先を向けた。
『……あ、あ、アラーム! 早く鳴って! 早く!』
私は必死に叫んだ。今すぐ目覚めないと、私まで――
『早く覚めて、早く! お願……ッ』
腹部を襲う衝撃。
体内を裂き肩口へ突き抜ける、真っ赤な槍の穂先。
血を吐き散らして絶叫する、私。
凄まじい激痛で悲鳴が止まらない。槍を伝って流れ落ちる私の血に、黒い四つ手たちが群がってくる。助けを求めて喉も枯れよと泣き叫ぶが、ここに私の味方はいない。
でも、黒い四つ手たちの鳴き声の合間に、かすかに何かが聞こえた気がした。悲鳴をこらえ、荒い息を吐きながら耳を澄ます――
……アラームだ!
四つ手らの蠢きにかき消されるほど小さく、アラームの音が続いている。しかしこんな音量ではとても目覚められない!
絶望するうちに、次々と槍が構えられた。
もうだめだ、私はここで死ぬんだ。
十七年間の他愛ない出来事がざらざらと頭の中を流れ落ちて……
【 今から言う言霊をしっかり覚えて、何かあった時に唱えなさい 】
『あッ』
その時になって、先生が教えてくれた言霊が脳裏に閃いた。
鋭い槍が迫る中、私はきつく目を閉じ、悲鳴じみた大声で言霊を叫んだ。
ばつん。
……
突然視界が真っ暗になり、私は悲鳴を上げて目を覚ました。
激しく息を切らし、全身に冷や汗をかいて体がとても冷えていた。震える手で腹部や肩に触れたが、傷も、血も、何もなかった。混乱しすぎて安堵する間もない私は、天井を見上げて浅い呼吸を繰り返した。
見覚えのない天井……ここは、どこだ?
「起きれたね。よかった」
私を覗き込んだのは、あの数学の多賀先生だった。
そうか、ここは保健室だ。壁の時計に目をやると、もう放課後になっていた。
「俺と話したあと、君はその場に倒れたんだ。覚えてないか?」
私は首を振った。倒れたなんて、いつの間に……まったく記憶がない。
「蒲田さん、君は何かに呪われてたね……とても厄介なものに」
ぎくりとして体が硬直する。多賀先生はため息をついた。
「手遅れになる一歩手前だったから急いで除霊したけど……何があったのか、話してくれないか」
体の底から、震えが沸き上がった。
夢の中の惨劇がフラッシュバックして、私はワッと声を上げて泣き出してしまった。ぼろぼろと涙を落とし、先生にこれまでのことを必死に話した。
キララに刑場の石を押し付けられたこと、笹本くんがその石を使ってキララたちを呪うと言ったこと、その日から恐ろしい刑場の夢を見るようになってしまったこと。夢の中での壮絶な出来事も、洗いざらい打ち明けた――キララたちが処刑されるところを見て、いい気味だと笑ってしまったことも、何もかも。
多賀先生は、難しい顔をして私にたずねた。
「……君は、槍で突かれたんだな?」
私が泣きじゃくりながらうなずくと、先生は言った。
「君は今、魂の半分を夢に置いてきている状態だ。夢の世界に長くとどまると死へ繋がる……早く手を打たないと」
多賀先生が教えてくれた言霊は、悪夢を断ち切り現世へ魂を引き戻すものだったそうだ。言霊を思い出すのが遅れ、槍に貫かれた後に唱えてしまったために、私の魂が半分になってしまったのだと。
黒い四つ手となったキララたちや、めった刺しにされた笹本くんは、もう助けようがないと多賀先生はうつむいた。黒い四つ手は処刑された罪人たちの怨霊で、生者を永遠に呪い続けており、憑りついてその人に成り代わるのだという。四本の手は強欲さの現れ、獣の姿は畜生以下の卑しさの現れなのだそうだ。刑場跡はそれら凶悪な怨霊が渦巻く特異な場で、呪い主ですら憑り殺すのだ、と――
「彼らを乗っ取った怨霊は、現世にとどまることを許されていない存在だから、またすぐに地獄へ落ちる。でも現世にいる間、あらゆる禍を呼び寄せて悪事を働くだろう。蒲田さん……君も、半分になった魂の隙間に、怨霊が憑りついていたんだよ」
多賀先生は黒い革のカードケースを取り出し、私に憑いていたものだと言って見せてくれた。中には一枚の人形(ヒトガタ)が入っていて、半分だけ、真っ黒に滲んでしまっていた。
「これは俺が責任を持って何とかする。でも夢に置いてきた魂は、君が自分で取り戻さないといけない。また刑場の夢を見ることになるが、やるしかない」
「そ、そんな」
「笹本は二つの石で彼らを呪った。巻き込まれたとはいえ、君も夢で呪いを成立させている。君は笹本と同じ『呪い主』なんだ。憑りつかれた連中と同じ、呪われた四つ手になりたくないなら、覚悟を決めなさい」
多賀先生は手帳に何かを書き込み、その一枚を裂いて私に手渡した。
「蒲田さん、刑場の夢を見たらこの言霊を唱えなさい。夢の中の時間が少しずつ巻き戻るから、槍が抜ける日まで繰り返すんだ」
「ど……どれくらいかかるんですか」
「分からない」
即答され、絶句する。あの夢を思い出すだけで、全身が震えてくるというのに――
「……正直に言うと」
多賀先生は、眉間にしわを寄せて私を見た。
「人形に移したこの半分の怨霊ですら、俺に祓えるかどうか分からない。それくらい、大勢の罪人の恨みが籠った刑場の呪いは強い。完全に祓い終えるまで、かなり時間がかかるかもしれない」
先生の母方の家系が霊感が強く、とりわけ霊力に秀でていた祖母に色々と教わったのだと、多賀先生は教えてくれた。
「除霊は本業じゃないけど、乗り掛かった舟だからね……俺も力を尽くすから、蒲田さんも頑張って。必ず何とかなる」
笹本くんの口車に乗って人の不幸を喜んだりしたから、罰が当たったんだ。
そのせいで多賀先生に迷惑をかけてしまったことが、本当に情けなくて申し訳なくて、私はまた涙が止まらなくなっていた。多賀先生がもういいからと言ってくれても、ごめんなさい、ごめんなさいと、私はただただ、繰り返した。
……
その後。
キララたちギャル集団は次第に学校に来なくなった。夜の繁華街で彼氏らと集団暴行事件を起こして警察沙汰になり、ほどなく退学処分となった。それ以降の噂も色々あるが、なるべく聞かないようにしている。キララたちを乗っ取った黒い四つ手たちは、好き放題に暴れているようだ。
笹本くんはしばらく普通に学校へ来ていたが、授業中に奇声を上げたり意味不明なことを叫んで暴れたりするようになり、休学して専門の病院に入院した。復学の目途は立っていない。
多賀先生は、間もなく別の学校へ異動になった。お世話になった先生がいなくなるのは不安だったが、時々メールで近況を報告するようにしている。
そして私は、今も毎日、刑場の夢を見ている。
磔にされ、槍に貫かれてもがき苦しむ場面から始まる、刑場の夢――夢を見ている時間は短いが、それでも泣き叫んでしまうほど怖い。だが、夢の中の痛みと恐怖は、軽率に他人の不幸を嘲笑ってしまった私の贖罪だ。
夢を見るたびに、多賀先生が教えてくれた言霊を唱える。
すると、ほんの少しだけ、時間が戻る――と言っても本当にごくわずか、槍が数ミリ動く程度。
それでも、私は夢を繰り返す。
心が折れそうになることもあるが、絶対に黒い四つ手になるものかと気力を振り絞り、私は目を閉じる。いつか槍が抜けて半分の魂を取り戻せば、刑場の夢から解放されるはずだという多賀先生の言葉を信じて。
おやすみなさい。