繁華街から少し離れた場所で
飲み屋をやっている。
夜更けまで開けていると
それなりに酔った客も増えていき
自然と口も軽くなる。
上司部下への不平不満などは当たり前。
妻が浮気を、俺が浮気を、
愛人が、といった極めて私的な話しから、うちの会社はこんな事を…
あの上司はあのデータを…などと
【これは聞いてイイ話しなのか?】
という内容の話しまで出てくる。
酒とは時に何と恐ろしい飲み物なのだろうと売っている私ですら思う時がある。
そして、ふとした時、
喋り過ぎた!と我にかえるのだろう。
『ま、昔の話し、昔の、ね!時効、
時効!』と、つい先日の話しを
【はるか昔の出来事】にして
話はオチ着くのである。
この日、来た夫婦は毛色が違った。
この2人、出会いは私の店である。
様々な暴露話しをするオヤジ達を酒の肴に面白可笑しく、楽しそうに飲みに来ていた姉妹、姉のアイと妹のユミである。
姉アイは29歳、妹ユミは26歳。
某百貨店の化粧品フロアで美容部員を
している。同じフロアといっても同じメーカーではないらしく、
それぞれのイメージに合わせた
化粧や髪型の指示があるらしい。
アイは肩より少し長めの黒髪ストレート、メイクは濃さを感じさせない自然な感じ、大人の女性といった感じである。
ユミは髪の長さはアイと同じ位だが、
明るめの茶色でメイクはやや派手な印象で年齢よりも更に若く見え、活発な
感じ。
その職を選ぶだけはある、と言うべきか
美人姉妹である。
当然、オヤジ達にも人気であり
ゆえに【お誘い】も耐えない。
『お姉ちゃん達、今日はオゴっちゃうよ』『この後、飲みに行こうよ』
そんな言葉が頻繁に飛び交いはするが
誘える、ノッてくる、などとは
オヤジ達も思っておらず、
話し掛けるきっかけ半分、淡い期待が
半分、といった所なのだろう。
それらを丁重に交わし
害さない様にお断りをするテクニックと
媚びる事のない堅実さももっていた。
『おっさん達の中で飲んでて楽しいか』
と聞いた事があるが
職場は大半が女性、客も当然女性ばかり。年齢は別として、ここは男性が多いし、何より色んな話しが飛び交うから
それが楽しいのだという。
確かに様々な会社、多種多様の人間、
それらが酒の力で色んな事を喋る。
面白いというより、珍しいのだろう。
何にせよ、美人姉妹に釣られて来る
オヤジ達、
やらしい話、店としては有難かった。
そんな愚痴や暴露話を得意とし、
若い女性が大好きな中年上司の1人に
連れられて来たのが高橋である。
酒の場での上司の扱いになれているのだろう。
姉妹と上司を近付けない様な席取りを
したり、
絡みそうになるとさり気なく割って入ったりと中々に目端がきく好青年である。
女性客からの評価も高く、
当然、姉妹からのウケもよかった。
高橋も姉妹とは気が合う様で
上司や同僚と来る回数が増えたのだが
むしろ姉妹目当てに
高橋が連れて来ていたのだろうとも
思う。
ある時、アイが1人で来店した。
いつもの様に、後からユミが来るのだろうと思っていたが、来たのは高橋であった。
その後も2人で来店する事が増えていった。
高橋は同じ歳であるユミと話している姿をよく目にしていたが
結局、アイとくっついたのだろう。
そして、
同時に、ユミの姿を見なくなった。
高橋と姉に気を遣ったのか
彼氏でもできたのか
詮索するのも、と思い
まぁそんな所だろうと勝手に想像していた。
4ヶ月程経過した時、何気なく聞いてみた。
『ユミちゃん、見ないけど元気にしてる?』
2人の顔が曇った。
これは聞いてはいけない話しだったのだと察し、何か別の話題を、と口籠る私に
アイが話してくれた。
『ユミ、会社の健康診断で
再検査って言われて、結果、乳がんで…
早期だったから、全摘出の必要は無かったんだけど、転移や年齢的な進行の早さとかも考慮して、片側の乳房を全摘出したの。
今は薬で治療しながら入院してる』と
どうりで飲みになど来ないハズである。
ここ数ヶ月を要約すると、
高橋とアイ、ユミ姉妹は3人で食事をしたり飲みに行ったりもする様な間柄になっていた。
程なくしてユミの病気が発覚。
入院を期に高橋が見舞いに行く様になり、同じく見舞いに来ていたアイとも
会う。必然的にアイと2人になる機会も
増え親密になったのだという。
『命を、という所まで進行していない
早期の発見で良かったしさ、
うちで出会った2人も、幸せのきっかけを掴めたのだから、それはそれで良かったじゃん』
精一杯の返しになっていたのか、いないのか、
曇った2人の顔も少し和らいだ様であった。
ある休日、高橋とアイが来た。
どこかに出掛けた後なのか
2人共にいつものスーツ姿ではなく私服、
お洒落な装いだ。
ユミの悪化、訃報、とも聞かないから
ユミの治療は順調であり、
2人の仲も継続中という事だろう。
高橋は車だと言うのでソフトドリンクを、アイはいつものレモン多めの
ハイボール。
それらを作りながら
『どこか行って来たの?』と尋ねると
アイが口を開く。
『ユミの事があって、
私も、いつ病気になっても不思議じゃない、とか思ってたら怖くなっちゃって。
だから、早く子供が欲しくて、
子宝祈願の○○神社に行って来たんです』
親密になったと聞いてはいても
せいぜい半年かそこら程度。
何とも早い展開だなと思い、
『子供?妊娠?、籍入れたんだ』と聞くと
『式とか籍とかより、子供が欲しくて。
早く赤ちゃんが欲しいんです!』と
アイが笑顔で答える。
『少子化だし、独身で通す女性も多いらしいからさ、じゃんじゃん産みなよ』という私に
『はい!』と再び笑顔で答えるアイの横で、高橋の顔は無表情。
カウンターに置かれたコースターを
指先で触りながら、ジッと見つめていた。
私は、高橋の顔の理由を知っていた
高橋は何度か1人で店に来ていた。
その時に聞いた話しである。
アイの妊娠、子供への執着が尋常ではない、というのである。
女性の身体的に、妊娠し易い周期には
夜の営みは決して欠かさない。
何なら、一晩に何度も求められるという。昼に食べる物の指定、夜の食事に
多種多様のサプリ、酒の量まで決められ、”営み” の前日、当日は
アルコール厳禁、他、多数…
『ま、高橋君より歳上だしさ、
女性的な出産適齢期とか、その後の育児とか考えたら、早めに欲しいんじゃないの?』
と【子供が欲しい事への熱意】という
意味で言ったのだったが
『それだけじゃないんです』と続ける。
『県内、近県の、安産、出産、子宝に関する神社、神宮、あらゆる場所に行くんです。近い時は1日に数カ所…』
『で、行く先々で ” 絵馬 ” を書くんです』と。
デートで映画や遊園地、買い物といったおざなりではあるが定番のスポットに
行くのではなく、
全てを【祈願】にあてているのだという。
流石に少し…とも思ったのだが、
さ程珍しいというか、聞かない話しでもない。
『それだけ必死なんじゃないの?』と
言うと、
高橋は言う…『違うんです』と。
『自分は絵馬とか、
受験じゃないんだからさ、って感じで
書かないんです。
アイだけお願い事しなよ、って。
で、その間にトイレ済ませたり
帰りの飲み物を買いがてら周りを
フラっと散歩とかして。
近くで待たれるよりは
ゆっくり書けるかなぁと思って』
相変わらず気が利く青年である。
『まぁ、いい気遣いなんじゃないの。
確かに書いてる横に居られると気が散るしね』
と答えると、高橋が続ける。
『○○神社での事なんですけど。
トイレが結構近い場所にあって、
すぐ済ませてしまったんで、
こっそり見てたんですよ。
絵馬、掛ける場所を見といて、後で、
何て書いてあるのか見ちゃおうかな、って』
『本当、軽い気持ちで…』
『そしたら、2枚、書いてるんです』
『…』
『2枚?高橋君の分じゃね?』
『いや、そうじゃないんです。
絵馬って、棚に掛ける為の上の紐、
白とか赤とかピンクじゃないですか。
でも、1枚は、自分で持ってきたのか
黒い紐に付け替えてるんです』
『え?』流石に驚いた
『1枚の絵馬に何かしてるなぁって見てたら紐を取ってて。
で、カバンの中から
封筒なのか、紙に包まれてるのか、
黒い紐を1本、スーッて抜いて、
それを、絵馬に結んでたんです』
『確かに、黒い紐の絵馬は見た事ないかも。ま、あるのかもしれないけど、
大抵、白とか赤かもね』と答えると
『僕もですよ…』と。
『で、何を書いたのか、余計に気になって。どこに掛けるのかを見てたんですけど、黒い紐の絵馬は1番下の、端から2列目辺り。
しかも何枚か掛かっている絵馬を抜いて
黒紐の絵馬を入れて、
で、抜いた絵馬を戻してて。
何か、手なれた感じで、ササッて
周りの絵馬とならす感じで隠して。
普通の紐の絵馬は、目線の高さの
掛けやすい所に普通に掛けてたんですけどね』
何やら話しがおかしな事になってきた
『で、知らん顔して【書けた?】
って戻ったら、
【終わったよ、帰ろう】って。
【トイレ近くにあったよ、平気?】って
トイレに行かせて、
そのスキに見てやろうと思って、
トイレ行かせたんです。
【行ってくるね】って
その場を離れたんで
まず、
目線に近い “普通の絵馬” に手を伸ばして
確か、この辺りに…ってパラパラ探してたら…
絵馬の掛かってる棚の隙間から
向こう側の社務所が見えるんですけど。
その陰から
アイがこっちをジッ…と見てたんです。
トイレから外をぐるっと周って
社務所の裏から横に移動して
僕の方を見てたんです。
見てるっていうよりは
何か無表情で立ってる、みたいな。
本当、マジで驚いた、というか
ビビったんですよ。
全然違う所に立ってたんで。
何でそこにいるの?って感じで。
どうにか気付かないフリして
全然違う絵馬をめくったり、
別の段見たりして誤魔化して…』
結局その日、
普通の絵馬も、黒紐の絵馬も
内容は確認できなかったのだと言う。
しかし、黒紐の絵馬の存在と位置だけは
どうにか確認できたという。
表面上は全く判らない場所に
見事に隠す様に掛けられていたのだと。
その後、別の神社でも、
やはり、2枚書いている姿を度々目撃したり、トイレや買い物から戻ると
棚の下段、端から2列目付近の奥には
既に黒い紐らしきモノが掛けられていたという。
しかし
毎回、どこかからアイが見ている気がして他の絵馬を見るフリをして
黒紐の絵馬の存在と位置を確認するのみで内容は見る事ができずにいるのだ、と。
『触らぬ神に、とか、知らぬが仏、
とか言うしさ。見なくて正解なんじゃ…』
本当は、かなり気になっていた私も
良く知っている子の隠れた一面など
知らない方がイイのでは、とも思い、
そう言ったのだが。
『でも、やっぱり、あの黒い紐の絵馬だけはどうしても気になってしまって…』と。
そんな【絵馬話し】を数回聞いた頃で
ある。
『休日はアイの神社巡りの予定があるから、平日、休みを取って、前に行った
神社とか、いくつか回って見てきます』
と言い出したのである。
確かに、アイの目がある以上、
そして”見ているかも”と疑われている
以上、アイと一緒にいる日に確認するのは不可能であろう。
見られる事に警戒するからには
それなりの理由があるのだとも思う。
『んん…まぁ、まだあればいいけどね。
【黒い紐の絵馬?うちのじゃねぇな】
ナンて事に職員か誰かが気付いたら
外されるかもしれないしさ』
既にないかも、
という事を示唆したつもりだったのだが
『じゃぁ
無くなる前に早めに行ってきます!』と
逆に拍車をかけてしまう事になった。
数日後の平日夜、高橋が来た。
平日なのに私服である事、
何日も寝ていないかの様なトロンとした目と何より顔色が、青さをこえて白いのである。
前情報が無ければ、先ず体調不良を
疑い会社を休んだのだろうと思う程だ
…が、
私はすぐに察した
絵馬を確認した帰りなのだと。
『見てきたの?』と聞くと
『はい』と高橋は頷く
市内、市外と隣県を合わせて
結局、6ヶ所を見て来た、という。
2枚書いている事を最初に目撃した神社は
絶対に行きたかったから
そこを最初の目的地に設定し、
可能な限り回れそうなルートを
選びに選んで、6ヶ所行ってきたと。
『平日は観光客も少ないから
人が書いた絵馬をこっそり見るのは
中々大変でしたよ…』
精一杯の笑顔のつもりだったのだろうが、私には、ただただ疲れた男の
ひきつった笑顔にしか見えなかった。
絵馬は、6ヶ所、全ての場所に残っていた、そして、全部見てきた、という。
しかも、黒紐の絵馬のみ。
普通の絵馬は
【紐】に色の区別がつかない事と
【およそ、この辺りに掛けた】と
記憶している場所はいわゆる掛け易く
多くの人が掛ける場所でもあり
数も膨大で探し切れなかったのだと。
逆に、
全てが最下段の2〜3列目付近と
わかっていたし、紐も黒い絵馬。
かがんで少し探したら
すぐに見つかったのだという。
その”黒紐の絵馬”に書かれていた内容は
【癌が
残った方にも元気に転移します様に。
ユミを差し上げます】
【癌が
子宮で元気に育ちます様に。
ユミを差し上げます】
【癌が
元気な子供を沢山産みます様に。
ユミを糧に元気に育ちます様に】
【×××× ×××× ××××】
…だったと言う。(類似は除外)
要するにアイは、
自身の子宝祈願を絵馬に書いたと同時に
ユミの【癌】を【生き物、生命】に見立て、【癌細胞の活性化】を祈願していたのである。
加えて
【ユミをあげる】【ユミを糧に】と、
まるで、
生贄、餌として差し出している様だ。
そして【××××】だが、
これは小さな文字で絵馬一面に書かれており、梵字や漢字、外国語とも違い、
象形文字の様な形のものと、何かの
模様の組み合わせの様なものであった
という。
しかも、紐はもちろん、”板”の色や材質も、その神社で買った絵馬とは違うものらしい、という事であった。
あの字の数と形からすると、
神社での短時間で書いた物ではないだろうと。つまり、
事前に書いていた物を持参し
絵馬の棚に忍ばせたのだろう、と。
そして
ランダムに選んだ6ヶ所の神社の全てに
黒い紐の絵馬があった以上、
他の、約15ヶ所の神社、神宮にも
恐らくあるだろう、と…
『ナニそれ…
なんか、呪いというかさ。
…というか、
そもそも、あの姉妹、仲良しだったじゃん。高橋君と出会う結構前から来てるけど、毎回2人一緒だったし、
何で姉が妹を呪うのよ?理由は?』
そうは言ってみたものの…
黒紐の絵馬を書くのを目撃し、
掛ける所すらも。
その絵馬には、妹と同じ”ユミ”の名前、
アイが書いた事に間違いはないのであろうが。
『実は、』と高橋
『実は、アイと身体の関係になる前に
ユミと付き合ってたんです。
身体の関係もありました。
付き合いは全然浅かったですけど、
お互い、結婚とかもいいねって、
意識してたんです。
でも、ユミが病気になって、
見舞いに行ってる内にアイに告白されて』と。
『最初は断ったんですよ。
ユミと付き合ってるからって、
アイもそれを知ってましたし。
でも、先々を考えたら、
健康体のアイの方を選んでしまって。
ユミだって完治するか、再発するかは
判らないですし、だから…』と。
私は再び『ナニそれ』と。
『ナンだよ。とんだクズ野郎じゃんよ。』と。
『それでも、完治を願って、見舞いに
通って、励まして、ってやるのが
彼氏の努めじゃねぇの?
その間に、よりにもよって姉妹の片方と
浮気するとかさ、なくね?』
高橋が客である事を失念し
つい強い口調で言ってしまった、と
思ったのだが、
高橋は表情も変わらなければ
顔を上げもせず目を伏せている。
そして、
『見てない人には解らないですよ』と。
『ユミ、どんどん痩せて
今は別人ですし、治療の副作用で
髪もたくさん抜けて…
病院着?って言うんですかね。
あの服越しに、片方、無いのはすぐ判りますし。あの下には、大きな傷があるんだろうな、とか考えたら、何かツラくて』
自身の恋人が…
親しい人がそうなったら…
『見てない人には…』
それを言われてしまったら
見てもいない私には
それ以上は責める事はできなかった。
『絵馬なんですけどね、
もう一つ、あるんです』と言う。
絵馬に付け替えられた”黒紐”
園芸や農業に使う、縄の様に編まれた
黒い紐らしい、という事である。
雑貨量販店、手芸店等をまわり、
結局はホームセンターの園芸コーナーで見た物が”それ”である、という。
しかし、その絵馬の黒紐、
良く見ると、黒ではなく
所々、
茶色い物が巻き付ける様に編み込んで
あったのだという。
『あれ、
多分、薬で抜けたユミの髪の毛です。
それを何本か束ねて、縫い針に通して、
で、黒の紐に巻き付ける様に縫ったんだと思います』
丁寧、とも言える程に巻いてあり、
かつ、決して取れない様に、
黒紐の中を数本の茶色い毛の束が
縫われていたのだという。
『何かの意味を込めた自作の絵馬に
髪の毛ってさ…
いよいよ呪いじゃん…
なんで、そこまで憎んでるのさ』
と言う私に
『憎んではいないと思います。
憎んでいるとかではなくて、
ただ単に、
アイにはユミが邪魔なんだと思います。
ユミは、僕とアイの関係を知りません。
まさか姉と、なんて微塵も思っていないと思いますし、退院したら
当然、元の関係に、結婚も、とすら
思っていると思います。
でも、アイにしてみれば
ユミに治る可能性が出てきた以上、
ユミの退院までに”既成事実”として
妊娠したいんだと思います。
だから妹とは言えど、完治、退院も
望まなければ、その後のユミの
妊娠の可能性すらなくす為に
絵馬に【転移、子宮】の文字があったんだと思います』
納得である
高橋とユミがいい仲になった。
しかし、アイも高橋に好意を持っていた。
ユミの入院はアイにとっては
思わぬ【棚ぼた】だったのかもしれない。
そして、妹よりも高橋を選んだのだろう。
ゆえに、
治っては困る、退院されては困る、
ヨリが戻られては困る、のだろう。
だから、絵馬に “なにか” を込めた。
ユミの髪の毛まで編み込み、
何らかの文字を刻み”なにか”を込めた…
最後に2人を見掛けて以後、
疎遠になっていた。
ユミが、アイが、
そして高橋がどうなったのか
全く知らないでいた。
『最近、美人姉妹見ないね』と
オヤジ達からの話題が出なければ
思い出さない程に、
自身でも記憶のスミに追いやっていた。
1年半程経っただろうか
それが、コレを書いている
今から数ヶ月前である。
この日、来た夫婦は毛色が違った。
この2人、出会いは私の店である。
高橋と【ユミ】の2人である。
『久しぶりじゃん』とは言いつつも、
その組み合わせに、
高橋が連れているのが、アイ、ではない事に内心、とても驚いていた。
ユミは、癌で入院した事、片側の乳房を切除した事、その後から現在まで、を
丁寧に話してくれた。
若さゆえの病の進行を心配したが、
若さゆえの回復力が功を奏したと。
そして、
高橋とユミは婚約したのだ、と。
『おぉ!おめでとう
アイちゃんも喜んでるんじゃない?』
少しの悪意と興味で
アイの名前を出してみた
『アイさん、亡くなったんです』
高橋が言う
『車で事故を起して。
それ自体は全然軽症だったんですけど、
一応、脳を含めて、MRIとかCTとかで
精密検査をしたら影みたいのが
見つかって。結局、それが【癌】で』
ユミも話す
『巣病巣は私と同じ乳がんだったんですけど、もう、色々と転移してて。
両方の乳房と子宮を全摘出しても、
少し余命を延ばすだけ、みたいな状態で。結局、痛みだけ抑える薬で延命して、3ヶ月経たないで、あっという間に』
言葉がなかった
それでも、と思い
ユミには、治って良かった、と、
そしてアイへの適当なお悔やみの言葉を
言った記憶はある。
…が、
かつて高橋から聞いていた一連の事が
鮮明に浮かんでいた。
ユミは、自身が入院している間に
アイがしていた【事】を知っているのだろうか。
そもそも、浮気と絵馬について、
高橋が話さなければ、
ユミはおろか、アイすら
2枚目の絵馬に気付かれている事を
知らないハズである。
それに
アイが、呪いとも言える願をかけた
絵馬に書いた、乳房と子宮。
ユミの病を傍らで見ていたアイである。
加えて子供を欲する事に執着していた。
当然、自身の身体の健康状態も管理し、
健康体であろうとしただろう。
何なら会社の定期健康診断すらある。
そんな人間が、
手遅れになる程の末期癌に
果たしてなるのだろうか。
それも、乳がん、と、子宮への転移。
ユミが完治し、目の前にいる以上、
アイの絵馬の”効果”はなかったのだろうが
…本当に”なにも”なかったのだろうか
高橋とユミが顔を見せに来てくれた後、
高橋が1人で来てくれた事がある。
アイと来ていた頃よりは顔色もよく
髪もフワッとしていた以前よりも
はるかに短く切られ、
スポーツをやるかの様な、
店に来はじめた時の様な好青年感で
ある。
私は
ありとあらゆる事を聞きたい衝動を抑え
敢えて何にも触れずに接客した。
聞く事で知る…という
少しの恐怖があったのも事実だが、
まずは彼が元気そうで何よりであった。
そんな私の内心を察してか、
高橋が近居を話してくれた。
転勤で北陸に移動になる為、
ユミと共に引っ越すのだという。
ユミは、同じく移動願いを出し
同じ地方への転勤が叶った為、
退職せずに済んだ、と喜んでいるそうだ。
病み上がり、という事を理由に
少し都会から離れて、という文言も
移動が叶った理由だという。
『色々ありましたが
本当にお世話になりました。
たくさん聞いて頂いて。
アイとの思い出もありますけど、
結局ユミと結婚する運命だったと思います。
今、引っ越しで荷物を整理してるんですけどね。
ユミの荷物の整理もまだ途中なんで、
取り敢えず全部出して、量を減らさないと、と思って色々開けたり出したり。
で、
退院祝いか、見舞いかで貰ったのか
お菓子の缶があったんですけどね。
まだ、残ってたんだ、と、
食べれるかな、と思って開けたんです。
そしたら、
紙に包まれた、穴の空いた木の板が2枚。
多分、角を落とす前の絵馬だと思います。
で、その下に【あの】黒い紐の束があって。丁度、絵馬に通す長さにくらいに
切って、束ねてありました。
その内の3本くらいに、
あの時の紐みたいにら既に髪の毛が
縫い込まれて巻かれてました。
多分、1本は、クセ毛っぽい太めの黒髪だったんで、僕の髪の毛だと思います。
それ見た時、
何でコレがここに、とか
何でユミも持ってるんだ、とかより
あぁ…
アイとの事、ユミ、知ってたんだ…って。
別れたりしたら、僕も、コレ、使われるんだな、と思ったら、吹っ切れました。
だから、逃げられない【運命】なんだって』
驚く程、普通に、淡々と語り、
深々と頭を下げ、高橋は帰って行った
アイの絵馬の事を
ユミはなぜ知ったのか。
ユミも黒い紐の絵馬を使ったとする。
【何らかの手法】があるとして、
ユミは、なぜそれを知っているのか。
アイの事故と発病、その後の顛末は
ユミが起こした事なのか。
髪が巻かれた3本の黒い紐。
内、1本は、自分のだ、と高橋は言う。
ならば、残り2本は…
今思えば
ユミが病気になった事から
なにか、が始まっていたのか。
それを仕掛けたアイは
その”返し”に遭ったのか…
極めて身近で起きた実話である。
ゆえに
判らない事だらけ、謎だらけの結末で
本当に申し訳ない…
ただ、確信して言える事がある。
高橋は絵馬の【正体】を知っている
あれ程、貪欲に、
全てを知ろうとした人間が
絵馬の意味を調べない訳はない。
そして
それ、を知った高橋が
髪を”短髪”にしたのは…
これ以上
【採取】され【縫い込まれる事】を
避ける為だろう。
そして、
彼自身も確信しているのだと思う。
ユミがアイに”なにか”をした、と。
だから、
『別れたりしたら、僕もコレを使われる』
使われたら、終わり、なのだ、と。
酒とは時に何と恐ろしい飲み物なのだろうと思う時がある、が、
人とは時に何と恐ろしく変貌するのだろうと思った出来事である。
(注意)
神社、神宮の絵馬棚の下段に
【黒い紐の絵馬】を見かけても
決して触れない様に