これは今から30年前、1994年の話。この年は平成6年渇水とよばれ、日本各地で春から少雨の傾向が続き、梅雨時期の降水量も平年の半分以下であった。このため九州北部、瀬戸内海沿岸、東海地方を中心とした地域の各地で上水道の供給が困難となり、時間指定断水などの給水制限が実施された。この影響は約1660万人におよび、農作物の被害は約1400億円にのぼった。特に酷かったのは九州北部の寺内ダムで、9月に貯水率が0%になってしまった。
そんな日本中がカラカラになっていた夏の日の話。社会人3年目だった俺は、同僚の村松と盆休みを利用して二泊三日でツーリングに出掛ける計画を立てていた。リュックに一人用のテントと寝袋を詰めて、オートキャンプ場を回ってキャンプする予定だ。学生時代に登山部だった村松はキャンプには慣れているが、俺は人生初のキャンプとなる。正直言って、ツーリングは好きだがキャンプにはあまり興味はない。キャンプに最低限必要なテントと寝袋だけを購入して当日に備えた。
まず初日はC湖に向かい、そこでルアーフィッシングをする予定。村松も俺も、子供の頃にブラックバスのルアー釣りをしていたので、その頃に使っていたロッド(竿)、リール、ルアーが残っていた。そこで、久しぶりにルアーフィッシングをしようということになった。
朝4時半に東京を出発したにも関わらず、C湖に着いた時には既に大勢の釣り人がいた。C湖に来たのは初めてだったが、岸辺の干上がり具合でいつもより水位が低い事がわかった。
俺達は早速、空いている場所で釣りを始めたが、全く釣れない。当たりすらない。そうしているうちに昼近くになり暑くなってきた。村松がルアーを引き上げたところで言った。
「なあ、釣りは止めて、ちょっと早いがキャンプ場に移動しないか?」
「そうだな、これ以上続けていても釣れそうにないからな」
俺達は釣りを止めて、キャンプする予定のC湖近くのオートキャンプ場に向かう。予定よりも早くオートキャンプ場に着いたが、ここも既に大勢の人で賑わっている。キャンプ場の隅の方にテントを張って、俺は初めてテントの中で一夜を過ごした。その夜はよく眠れ、翌日、清々しい朝を向かえることができたが、体の節々が痛い。これが何日も続く事を想像すると、自分はキャンプ生活に向いていないと悟った。
二日目は那須高原の方に向かい、その周辺のキャンプ場でキャンプをする予定。キャンプ場でテントを張って晩飯のコンビニ弁当を食べながら俺は言った。
「明日、風呂に入って美味い飯を食ってクーラーの効いた部屋のベッドの上で寝るのが楽しみだなぁ~」
「その事なんだけど……。明日は一人で帰ってくれないか? オレは更に北の方に走ってツーリングとキャンプを続けようと思っているんだ」
「計画では二泊三日と言っていたのに……?」
「それは二泊三日くらいしかケイタ(俺)には無理だと思ったからさ」
この時、俺は村松の「ケイタには無理」という言葉にカチンときてしまった。今思えば、つまらないことに腹を立てずに聞き流しておけば良かったと後悔しているのだが、この時の俺は聞き流す事ができなかった。まるで自分がひ弱で、村松と同じスケジュールの旅は無理だと言われたような気がしたからだ。
「もう一日くらいなら予定も空いているから付き合ってもいいぞ。あさっての夜には実家に帰る事になっているから、一日なら延長しても大丈夫なんだ」
「じゃあ、明日も一緒に行くか?」
「ああ」
こうして俺は明日も村松と一緒にツーリングを続けることになった。
次の日の朝、地図を開いて村松が言った。
「ここから更に北へ行ったところの山の中に、穀雨湖(コクウコ)という大きめの湖がある。先ずそこに行ってみようと思う……」
観光地でもないような所を選んで目的地にするあたりは村松らしい。
「穀雨湖? 聞いたことないけど、山の中の湖なら涼しそうだからいいかも」
俺は目的地など、本当は何処でも良かった。今日一日、村松に付き合って明日の朝一で帰る事しか考えていなかったからだ。
やや渋滞していたところもあったが、13時頃には穀雨湖の南側に着いた。俺達は道路の端にバイクを停めて地図を確認した。このまま道を進むと二股に分かれて、右の林道に進むと穀雨湖の東側を回って北に抜けていく、逆に左の林道に進むと穀雨湖の西側を回って北に抜けていくことになる。東側の林道も西側の林道も穀雨湖から少し離れたところに道路が通っており、まるで湖を避けているようにも感じられる。そして東西の林道は湖の北側で合流して更に北へと続いている。この北側の合流地点が道路と湖が最接近しているポイントになっている。とりあえず俺達は東側の林道を通って、北側の合流地点まで行ってみることにした。
東側の林道を進む途中、木々の隙間から穀雨湖の水面がチラッと見えた。その水面はとても綺麗で太陽の光を受けてキラキラと光っており、大自然の中に取り残された湖という印象を受けた。
北側の合流地点の手前くらいまで来ると湖側の道路沿いに車が十台程度停められるスペースがあった。舗装はされていないが砂利が敷き詰められていて一台の車が停まっていた。道路を挟んで向かい側には鳥居が立っており、その奥は急な石段へと続いている。ここからでは見えないが、その石段を上り切った先に神社の本殿があるのだろう。砂利が敷き詰められたスペースは神社の参拝客のための駐車場と思われる。俺達はその駐車場らしきスペースの端の方にバイクを停めた。
南側には穀雨湖が広がっており、ほぼ湖が一望できた。湖との境には柵が立ててあったが、一箇所だけ柵が途切れており、そこには湖に降りていく階段があるように見えた。この柵の途切れに村松も気が付いたようで、「あそこに湖に降りる階段があるみたいだから行ってみようぜ」と言い出した。実際に柵の切れ目まで行ってみると高さ約2.5メートルくらいの階段があった。そして、階段を降りきったところから長さ約十メートルくらいの桟橋が湖に向けて突き出しており、階段付近には一艘のボートが係留してある。しかし、日照り続きのため、桟橋の先端近くまで湖の水が干上がってしまい、ボートは干上がって露出した湖底に横たわっている。
「ここから下に降りれば、今なら何処でも好きな場所でルアー釣りができそうだな」
湖を眺めていた村松が言った。俺も同じようなことを考えていた。
「そうだな、そもそも釣りをしている人がいないから、貸し切り状態だしな」
「もしかすると、大物が釣れるかもしれないし」
俺達は一旦、バイクのところに戻り、荷物を持って階段を降り、干上がった湖底で釣りの準備を始めた。俺はルアーにはスピナーを使うことにした。
釣りを始めて十分くらいで俺のルアーにアタリがあった。俺は思わず「キタァー!」と叫んでいた。それを聞きつけた村松が駆け寄ってくる。慎重に釣り上げてみると三十センチ程のニゴイだった。俺はルアーを外して、釣ったニゴイを手で湖に戻すと元気よく泳いでいった。ルアーフィッシングはヒット&リリースが基本、釣った魚は逃がすのが当たり前である。俺がスピナーで釣ったのを見て村松もルアーをスプーンからスピナーに変更したよううだった。
村松がルアーを変更してから五分後、村松にも待望のアタリがあった。村松が騒いでいるので駆け寄ってみると、俺が釣ったのよりも大きい四十センチくらいのニゴイを釣り上げていた。
「デカいなあ」
「ああ、デカいぶん、口もデカくなったからルアーを飲み込んでいやがる」
確かに村松が釣ったニゴイは小さなスピナーを丸飲みしていて、うまく針が外せそうにない。仕方なく村松はカッターでニゴイの口を切り裂いて、口を広げてルアーを取り外した。村松は直ぐにニゴイを湖に戻したが、ニゴイは弱々しく泳ぐことさえ困難な状態でゆっくりと湖に消えていった。俺は『たぶん助からないだろうな』と思って見送った。
その後も釣りを続けたが、村松が釣って以降はアタリすらなかった。西日が差す夕方になってきた頃、背後から怒鳴り声が聞こえてきた。
「こらー、ここは釣り禁止じゃ、看板に書いてあるやろ!」
驚いて振り返ると、白い着物に紫色の袴をはいた神主さんが階段の上から俺達に向かって叫んでいる。そして神主さんは階段を降りてこちらにやって来て俺達に言った。
「穀雨湖では釣りは禁止なんや。釣った魚はどうした?」
「すいません、釣りが禁止とは気が付きませんでした。釣った魚は逃がしました」
60代と思われる、少し髪が薄くなった神主さんに、俺達は釣り禁止とは知らずに釣りをしていた事を謝罪した。
「魚を逃がしたんやったら、問題ないやろ。陽も暮れてきたし、早く帰りなさい」
神主さんは、それだけ言い残して戻って行った。俺達は言われたとおり、釣りを止めて道具を片付けた。俺がバイクのところに戻ろうとすると村松が言った。
「今日はここでテントを張って寝よう、今からキャンプ場に行っても場所が空いてない可能性があるし……」
今からキャンプ場に移動するのも面倒くさいし、村松の言う様にキャンプ場に行っても場所が空いてない可能性がある。それなら今日はここでテントを張って寝るのもアリである。村松の提案に従って、俺たちは階段付近の、干上がった湖底にテントを張った。
買っておいたコンビニ弁当を食べ終えると、それぞれのテントで寝袋に入って寝た。俺は疲れていたせいもあって、直ぐに眠りに落ちた。しかし、そこで俺は何とも嫌な悪夢を見ることになる。
夢の中で俺は一人で森の中の道を歩いている。森というよりも密林と言った方が合っている。道の両側には高い樹木が聳え立ち、上空からの日差しは木の枝で遮られて、うす暗くなっている。あたかも森自身が日の光を拒んでいるかのようで……。そんな密林のトンネルのような道を歩いていると道の先の方に白いロープのようなものが密林のトンネルの上から垂れ下がっているのが見えた。ロープの下端は輪になっている。足を止めてそのロープを見詰めていると急にロープがこっちに向かって近づいてきた。本能的にヤバいと感じた俺は、ロープに背を向けて走って逃げだす。走りながら振り返ってロープとの距離を確認すると、もうすぐそこまでロープは近づいていた。追い付かれるのは時間の問題である。そのまま俺を追い越して去って行くとは思えない。きっと輪の部分が俺の首に巻き付いてくるに違いない。そう考えて走っていた時、目の前にロープの輪の部分が上から降りてきたのが見えた。一瞬にしてロープは俺の首に巻き付いてきたが、こうなる事を予想していたので、辛うじて俺はロープと首の間に両手の指を挟み込むことができた。
俺が首から外そうとして手に力を入れるとロープはまるで生き物のように動き、指ごと俺の首をギュッと絞め上げてくる。指先にザラザラした感触があり気持ち悪かったが、俺はこのロープに爪を立てて力任せに握りしめてみた。するとロープは徐々に上へ上へと昇り始め、俺の体ごと引き上げて、足が地面から離れてしまった。ほぼ首吊り状態で、アッという間に5メートルくらいの高さまで吊り上げられてしまった。完全に首が絞まらないように、両手の指で防いでいるが、徐々に指に力が入らなくなって意識が朦朧としてくる。するとロープの先端が俺の顔の前に伸びてきて、こっちを向いた。蛇だ。やはり、俺の首に巻き付いているのは、ロープではなく、白い蛇だった。その白い蛇が俺を睨みつけ、口を大きくあけて、こちらに向かってきた。『噛みつかれる』と思った瞬間、蛇がスッと消えた。それと同時に俺の体は地面に向かって急降下を始める。今度は地面に叩きつけられる、と思った時に急に目の前が眩しい光で明るくなり、俺は目を覚ます事ができた。
「おい、大丈夫か? 何か凄くうなされていたみたいだけど」
見るとジャージ姿の村松がテントのジッパーを開けて懐中電灯を俺に向けていた。
「大丈夫だ。変な夢を見てうなされていただけだ」
「大丈夫ならいいけど……、その首は本当に大丈夫なのか? まるで吉川線みたいだぞ」
自分の目で首の辺りを確認することはできなかったが、首がヒリヒリするのは事実で、指先を見ると爪に少し血がついていた。村松によると首には、縦に引搔いた爪跡は残っているが、横に絞められた跡は無いとのことだった。俺は首の辺りを触って、さっきまで見ていた悪夢がいかに恐ろしかったかを実感し、同時にそれは悪夢であって現実ではなかった事が確認できてホッとした。
俺は気分転換のために懐中電灯を持ってテントの外へ出た。外の空気は少しひんやりしていた。俺も寝る時にはジャージに着替えており、悪夢のせいで少し汗ばんでいたので、ひんやりした空気に包まれて少し肌寒くなったが、その肌寒さが逆に気持ち良かった。そんな状況で村松と二人で夜空を眺めた。満月に近い月が綺麗で雲ひとつない星空は、さっきまでの悪夢を忘れさせてくれそうなくらいに美しい。そんな時、急に声をかけられた。
「そこは蛇がでるから危険です。そんな所にいてはいけませんよ」
声は背後の階段の上から聞こえてきた。驚いて、二人で振り返ると階段の上に提灯を持った白っぽい着物をきた女性が立っている。
「大丈夫です。寝る時はテントの中で寝るので平気です」と村松が答える。
「そんな所で寝てはいけません。そんな所で寝るなら、私の家に泊まっていきなさい」
「エッ、泊めてもらえるんですか? じゃあ、お言葉に甘えて、そちらに行きますので少し待っていてもらえますか?」
勝手に話を進める村松を制して俺は言った。
「全く知らない人の家に泊まるのはマズくないか?」
「田舎の人は親切なんだよ。それに、ケイタは直ぐに寝れたみたいだけど、オレはここでは全く寝られなかったんだよ。リュックだけ持ってあの人の家に行こうぜ」
村松はそう言って自分のテントに入って行くと、リュックを背負って出てきて、階段を上がろうとする。仕方なく、俺もリュックだけ持って村松の後に続く。
階段を上りきると、髪が長くて色白で、俺達より少し年上くらいの綺麗な女性が「こちらです」と言って先を歩き始めた。俺は当然の疑問について聞いてみた。
「こんな夜遅くに、どうしてこんなところを歩いていたのですか?」
「そこの神社で週末に穀雨湖で行われる雨乞いの儀の打ち合わせがあって、その帰りですの」
「雨乞いの儀が行われるということは、穀雨湖には神様がいらっしゃるのですか?」
「ええ、ミミ様がいらっしゃります」
つまり俺達は神様がいらっしゃる湖で釣りをしていたという事になり、あの神主さんが怒っていたのも腑に落ちたと同時に、とんでもない事をしてしまったという後悔の念がこみ上げてきた。雨乞いの儀の打ち合わせをしていた他の人は、何故見かけなかったのかという疑問や、今時提灯を使っている違和感はあったが、俺はミミ様という神様からの罰(ばち)があたるのでは、という恐れで気が気でなくなった。
白っぽい着物の女性は穀雨湖の西側を回る道へと歩いて行く。この先に家なんかあるのだろうかという林道を俺達は懐中電灯で照らしながら、女性の後をついて行く。するとその女性が振り返って、「こちらです」と言って湖側に入る細い獣道のような藪の中へ入って行った。
俺はびっくりして立ち止まったが、村松は全く気にしている様子もなく後に続いて行く。慌てて俺も藪に入って村松に追いついて言った。
「変じゃないか? この先に家なんか本当にあるのか?」
村松は全く俺の声が聞こえていないのか、ボーっとした表情を浮かべて藪の中を歩いて行く。前を行く女性の方を見ると、まるで藪をすり抜けて行くように進んで行く。その証拠に周りの藪が全く揺れていない。遅まきながら、マジヤバいと思った俺は村松を止めようとして手を引っ張ったが、振りほどかれてしまった。村松の前に回り込んで押し戻そうとすると、逆に物凄い力で押し返される。俺一人の力では村松を止められそうにない。更に前を行く女性がブツブツと何かをつぶやいているのが聞こえてきた。
「ついてこい、ついてこい、ついてこい、ついてこい、……」
コイツについて行ってはダメだ。ついて行ったら、二度と戻れなくなる。なんとかして村松を止める方法はないかと考えていた時、後ろの方から怒鳴り声が聞こえてきた。
「こらー、そこで何をしとるんじゃ!」
あの神主さんの声だった。不思議な事に、神主さんの声が聞こえた瞬間、村松の足が止まった。更に、前を歩いていた女性の姿が見えなくなった。それどころか、さっきまで藪が続いているように見えていたが、二、三歩先は崖になっていた。このまま進んでいたら俺達は、崖から転落して干上がった湖の湖底に叩きつけられていただろう。そう思うと全身に鳥肌が立った。
「アレ、あのお姉さんは……?」正気に戻った村松が呑気な事を言い出した。
「何処かに消えちまったよ! それより、もう少しで俺達は崖から転落するところだったんだぞ。兎に角、さっさと戻ろう」
俺達は神主さんのところまで戻って、信じてもらえるかどうかは判らなかったが、若い女性に、泊めてあげるからついて来なさいと言われてついて行ったら、いつの間にか崖っぷちにいたという経緯を説明した。説明の間、神主さんは真剣な表情で俺達の話を聞いてくれた。
神主さんは夕方、俺達に注意した後、二日後に迫った雨乞いの儀の打ち合わせにふもとの村まで車で打ち合わせに行っていたそうだ。打ち合わせが終わって帰ってきてみると、まだ俺達のバイクが置いてあったので、心配になって辺りを探してみたところ、懐中電灯の光を見つけて駆け付けてくれたとの事だった。俺達の説明を聞き終えた神主さんは、お祓いをした方が良いから、これから俺達に神社まで来るようにと言った。俺達は神主さんに従い、一緒に神社に向かった。
鳥居を潜って石の階段を上っていると、この石段の隣が穀雨湖に流れ込む滝になっている事に気が付いた。ただし、滝と言っても今は、全く水が流れていない。石段を上りきると神社の境内が見渡せた。境内の所々に電灯があり、歩くのには困らない。また境内の中には石段の隣の滝へと流れ込む川が通っているが、ここも水は流れていない。境内の中央に本殿があって、その右隣に社務所兼住居のような建物があり、本殿とこの社務所兼住居は渡り廊下でつながれている。
神主さんは社務所兼住居の玄関の戸の鍵を開けて入り、俺達を中へと招いた。室内は静まり帰っており、どうもこの神社には、この神主さん一人しかいないようだった。つまり、この神主さんは、この神社の宮司様ということになる。
俺達は直ぐに本殿に通され、礼堂に座布団を敷いて座らされた。宮司様は祭壇の前で早速、祝詞を唱え始める。兎に角、俺は穀雨湖で釣りやキャンプをした事を申し訳ございませんでした、許してくださいと心の中で謝った。湖にいらっしゃるミミ様が怒って、女に姿を変えて現れたに違いないと俺は考えていたからだ。その時、本殿の外からあの女の声が聞こえてきた。
「宮司様、こちらに私の客人が来ていませんか? ここを開けて客人を返してもらえませんか?」
俺はこの声を聞いた瞬間、背筋に冷水を流されたような気がして、全身がぞわぞわっと粟立った。隣に座っている村松を見ると青ざめた表情で何かを唱えている。よく聞いてみると「南無阿弥陀仏」と唱えているようだった。神社で「南無阿弥陀仏」はいかがなものかと思ったが、その気持ちは俺にもよく解った。
宮司様は何事もなかったかのように祝詞を唱えているが、外からは引き続き、あの女の声が聞こえてくる。「宮司様、ここを開けて客人を返してください」
その声を無視して宮司様が祝詞を唱えていると、‘ドン’と本殿の戸を叩く音が聞こえてきた。その音に俺は驚いて、心臓が止まるかと思った。更に、‘ドン、ドン、ドン、ドン’と戸を叩く音が続き、その音が次第に大きくなっていく。そして、本殿の戸だけでなく、四方の壁からもドンと叩く音が聞こえてきた。外にいるのは、あの女だけではないみたいだ。俺は戸が壊れてしまうのでは、と心配になって振り返って戸の状態を確認しようとした時、「振り返えるでない」と宮司様が後ろも見ずに注意してきた。俺は振り返えるのを止めて、ひたすら心の中で『湖にお帰りください』と祈った。暫くすると戸や壁を叩く音が止み、急に静かになった。少ししてから、宮司様も祝詞を唱えるのを止めた。そして「気配が去ったな」と言うと、俺達の前に来て座って「ようやく諦めて戻っていったようだから、ひとまず安心していいだろう」と言った。
俺達は助かった嬉しさで、何度も宮司様にお礼を言った。そして確認のために宮司様に尋ねた。
「外にいたのは、ミミ様なのですか?」
「ミミ様を知っているのか? ミミ様を知っていて釣りをしていたのか?」
「違います。さっきの女性に、つれて行かれる途中で、穀雨湖にはミミ様という神様がいらっしゃると聞いたので、ミミ様が怒って女に姿を変えて現れたのかと思ったんです。」
「そうか……、でもその女はミミ様とは違う。ミミ様は漢字では水巳様と書き、蛇の姿をしておられる」
そこから水巳様と穀雨湖についての説明が始まったが、要約すると以下のようになる。
昔からこの辺りでは、水巳様は穀雨を降らせると信じられている。通常、穀雨とは恵みの雨が穀物に水分と栄養を与える時期(4月下旬から5月初旬にかけて)を指すが、穀物の成長を助ける雨自体を指すこともある。神社の前の湖は、この穀雨を降らせる水巳様がいらっしゃる湖という事で穀雨湖と呼ばれている。
毎年、4月20日頃にこの地方では、水巳様に恵の雨を降らしてもらえるように祈願する、穀雨祭が行われている。それでも、雨が降らず農作物に影響がでるようになると、昔は雨乞いの儀を行っていたとの事だ。雨乞いの儀では、水巳様への貢ぎ物として山の幸や海の幸を詰めた樽を穀雨湖の中央に沈めるらしい。樽には浮き上がってこないように、錘となる大量の石も詰められている。
「昔は、干ばつが長く続くようだと、雨乞いの儀の貢ぎ物に人身御供(ひとみごくう)を沈めたそうだ。勿論、樽のように浮き上がってこないように手足を縛ったうえで、錘が付けられたそうじゃ。そんな事をしていたから、昔は御供湖(ゴクウコ)と呼ばれていた。人身御供が度重なると、湖の周辺で人身御供となった人の幽霊が村人を湖に引き込もうとしている、という噂が広がった。それで地元の者は穀雨祭の日以外は、湖には近寄らんようになってしまった。お前達が見たのも、きっと人身御供となった人の幽霊だろう」
「神社の本殿の外まで来る幽霊ということは、そうとう念が強いのでしょうね」
「それは、そうとは言えん。この神社の主祭神は水神である罔象女神(みつはのめのかみ)だが、御神体は穀雨湖に流れ込む水なんじゃ。今はその水が枯れてしまって神社の力が弱くなっているから、本殿の外までこられたのだろう。それでも、本殿の中までは入ってこられないだろうから、今晩は、用心のためにここに泊まりなさい。たくさん来ていたみたいだから、用心するに越したことはない」
俺達はその夜、本殿の中で座布団を並べてその上で寝た。
次の日、俺達は宮司様にお礼を言って神社を後にした。宮司様は「あさってには、何十年ぶりかで雨乞いの儀が行われるから、もし良かったら見学に来るといい」と言われたが、俺は一刻も早く東京に帰って休む事しか考えていなかった。
俺達は穀雨湖に戻って、テントを片付けてバイクで出発する準備をする。片付け終わって湖を眺めながら、俺はもう一度、心の中で水巳様に謝った上で、どうかこの地に雨を降らせてくださいと祈った。村松を見ると、次の目的地を決めているようで、地図を開いて熱心に見ている。俺は、真っ直ぐ東京に帰ると告げると、村松は、今日は更に北の方へ行って、明日には戻って来て雨乞いの儀を見学するつもり、と言った。こんな目にあっても、まだ旅を続ける村松のタフさに俺は感心した。
俺達は穀雨湖で別れて、それぞれの目的地へと向かった。それが生きている村松の姿を見る最後になるとは、この時は予想もできなかった。
俺が東京に帰った次の日の夜から、穀雨湖の方で急に集中豪雨が降った。天気予報では全国的に晴れだったのに……。数日後、穀雨湖で男性の死体が発見された。死体は村松だった。増水した穀雨湖に誤って転落したとみられるそうだ。転落時に何故か、村松の口は大きく切り裂かれていたとの事だった。