とある繋がりで紹介された男性から教えていただいた話である。 最初に述べておくが、この出来事についての詳細は分からない。 タネ明かしだとか、意味が分かるとだとか、そんなものはない。実話なのか創作なのかも不明だ。 はっきりと言えば、何も分からない。 その男性は私が怪談を執筆していることを知り、 「物書き、ということですね」 そう言いながらノートを取り出して、手渡してきた。 「私も昔、同じようなことをしていました。これ、使っても良いですよ」 そう言ってくれたのだが、とても改変することはできないし、すべきではないと私は感じたので、言い回しなどを変えた程度でほぼ手を加えてはいない。
──えぇ、私が唯一、唯一経験した奇妙な体験です。 私が七か八になる頃の話です。正直、細かなところは覚えていません。ここいらの夏独特な蒸し暑さと、ガラスのような日差しが薄れ、やがて訪れるであろう年末を感じ始めた時期だったと記憶しています。 私の母が死んだのです。元々病弱で寝込んでいることが多かった人なのですが、季節の変わり目に嫌らしい風邪をひいてしまって、ぽくりと逝ってしまいました。 家には弟と妹がおりまして、私が長男でありました。幼い弟や妹が優しく頼りになる母を失った悲しみに暮れる中、私はその悲しみを表に出すことなく押し殺さねばなりませんでした。 二つ、三つしか年が離れていないとはいえ、弟と妹にとって私が頼れる兄であることは確かだったのですから。
厳格で寡黙な父は、そんな私の気持ちを察していたように思えます。母が死んだというのにいつもと変わらず淡々とやるべきことをこなしていた父は、私らに何か言葉をかけるでも、仕事を言いつけるでもなく、そっとしてくれていました。 今思えば、別に父が私のそういった感情や想いを汲み取っていたかなど確証はありません。 ただ手続きや諸々に忙しくしており、私らに構う暇がなかっただけなのかもしれません。 けれど、父が私らに構わないという行為をすることで (私は信頼されているのだ) と、幼き日の私はそう感じておりました。 責任感が強かったといえばそうですし、正直なところ、母の死というものと真正面から向き合いたくなかったのかもしれません。 幼い弟と妹を任せられた──そう思う事でどこか現実から逃げ出そうとしていたような、今思い返せばそんな気もします。 駆け回っている父は、とても険しい表情をしておりました。時折、弟や妹の世話をしている私の方へ視線を向けるのですが、その視線はどこか寂しさや同情を感じさせるものでありました。 私の勘、所謂第六感などというものが良く発達していれば、すでにそういった違和感に気がついていたのかもしれません。 改めて思い返すと葬儀の準備にしては仰々しすぎるような気もしましたし、なんといいますか、準備しているものの種類が違うような、妙な雰囲気であったのです。 母は布団に横たわり、家の畳間に寝かされておりました。若干の微笑みを浮かべているような母を見て、苦しさや辛さから解放されて楽になったのかな、などと感じると共に、私たちを置いていったことに寂しさや悲しみはないのだろうか──と幼心にずぶりと刺さるような気持ちを覚えておりました。 おそるおそる畳間に近づき様子をうかがうと、サンと呼ばれる長い葉を結んだお守りが部屋の四隅には置かれておりました。 畳間へ出入りできる唯一の襖を挟むように、私の身長をゆうに超すような長い蝋燭が門番のように立てられておりまして、まるで、まるで母を守ろうとしているような、そういった印象を受けたことを強く覚えています。 あぁ、本当に勘の鈍い子どもでありました。ですが、当時の幼い私は身近な人の死など経験しておりません。ましてや、葬儀がどういったものなのかなど、知る由もないのです。 弟や妹は大人が余裕なく動く様子をみて、その迫力に飲み込まれておりました。それでも泣き声をあげるでもなく、必死に互いの裾を掴みあい堪える姿をみて、私も励まされたのです。 私らが住んでいた家は、玄関、居間、台所、畳間。玄関から長い廊下が一直線に伸びており、左側に寝室兼畳間、右側には居間があり、居間のその奥に台所、そして廊下の突き当りに浴室があるという、縦長の造りでありました。 黒っぽく艶やかさをも感じさせる木造のその家は、当時では珍しいものだったと後から噂で聞いたことがあります。 当時の私はその家が、とてもとても広く感じていたのですが、実際にはそうでもなかったような気もします。 そうこうしているうちに、居間の隅で縮こまる私ら兄妹の元へ、父が来て言いました。 「兄(にぃ)、畳間いくぞ」 そう言って父は私の手を優しく握り、母のいる畳間へ連れて行きました。 そこでは父の兄と祖父、朧気ながら見たことのあるような気がする遠い親戚の叔父らが待っており、 小さな箒、当時の私からしても小さな箒を渡してきました。そうですね、ちょうど七から八になる子どもの、腕の長さ、細さほどの箒です。 小さいということ以外は掃除に使う、どこにでも売っているような普通の箒でありました。 「隅から隅まで、丁寧に掃きなさい」 いつも優しい祖父がすこし棘を感じさせるような鋭い口調で、そして命令するような、有無を言わさない口調で指示をしてきました。 当然、こんな大勢の大人に囲まれた状況でそういった言葉を拒否するわけがありません。できるはずがありません。 私は小さく頷き、「はい」と声を絞り出し、部屋の奥、隅の方からその小さな箒で部屋を掃きはじめました。 その間、親戚の大人達は私をじいぃっと見つめてくるのです。その目はなんといいますか、監視や見守るような視線ではなく、恐れるような、少し畏怖を感じさせるような視線でありました。 私は「隅から隅までを掃きなさい」と指示されたのですが、部屋の真ん中には、私の愛する、とてもとても大好きであった母が横たわっているのでした。 部屋を掃きながら母の元へ差し掛かかり、母を避けて畳を掃こうとしたのですが、 「そのまま、上からしっかりと掃きなさい」 と祖父の強い声が耳へ入ってきました。 当然驚きました。反射的に父の方へ顔を向けたのですが、父は何も言わず、ただ黙っているだけでありました。 もう、そうであれば仕方がないものですから。 私は布団に横たわる母を、上から掃きました。しっかりと、丁寧に。 大勢の大人から洩れる息の音と、箒から発される拍子の良い音だけが響く室内は、異様だったと思います。でも、当の私は緊張やら不安に包みこまれており必死で、今の状況が異様などと感じる暇はありませんでした。 思えば弟や妹はそのとき何をしてどうしていたのでしょうか。それは分かりませんが、後から話をしたとき、私がどうなっていたのかを知っていなかったので、叔母らと家の外で過ごしていたのかもしれません。 部屋の隅から隅までを掃き切った私は、静かに安らかな表情を浮かべて横たわる母を冒流したような、穢してしまったかのような気持ちを抱えておりました。 そのせいなのか、それともこの緊張感に耐えられなかったのかは分かりませんが、私は声を押し殺し、泣いていたのです。周りにバレないように、グッ、グッと明咽を漏らしておりましたが、恐らく大人は気付いていたことでしょう。 しかし幼い子が泣いているにも関わらず、大人らは全く動くことなどありませんでした。
祖父がみなへ目くばせし、言いました。 「始めよう」 その声を皮切りに、全員がいきなり足踏みを始めたのです。その間、声など発することはありません。どどどど、どどどど、と太鼓のような音が、部屋中を駆け巡り大暴れしておりました。 想像もしてみてください。七つにしかならない子の周りで、大人の男らが力一杯、いっせいに足踏みを始めるのです。死んだ自らの母に対して普通ではない行為をさせた後、理由も告げず、目的も不明なままに。 緊張と責任感で抑えていた恐怖が漏れ出して、耳を塞ぎその場でうずくまろうとしたのですが、 「立っていろ!」 と祖父の怒号が飛び、私は直立のまま、それが終わるまで過ごしたのでした。 途方もなく長い時間に感じましたが、実際のところは五分程度であったようでした。 「よし。とりあえずここまでだ」 祖父は少しほっとしたような表情を浮かべた後、すぐに険しい顔に戻り、私に向かって言いました。 「良いか。何があってもお母さんに触れてはいけないし、襖を開けてはいけないよ」 何のことを言っているのか、当時の私には全く分かりませんでした。 それでも、この言いつけは絶対に守らなければいけない──という、確証はないながらも強迫観念に駆られるような思いが私の中では渦巻いておりました。 やはり私としても後からこの儀式がなんであったのか気になり、調べたことがあります。 それで分かったのですが、祖父や父らが行っていたこの行為というものは、『ムヌウーイ』という昔から伝わる儀式に、とても良く似ていました。 しかし、『ムヌウーイ』には似ているけれど、どこか違うのです。 足を踏み鳴らすというのも『ムヌウーイ』には無いことですし、サンを使っての拝み言葉もありませんでした。 やはり、似ているけれども別物だったのだと思っております。
──続きを話しましょう。 その後ですが、祖父と父、そして私を残して全員が畳間を出ていきました。残った祖父と父は黙ったまま部屋の壁に真っ黒な布をかけて、全てを覆っていったのです。 黒い布地をぼんやりと照らす蝋燭の橙色が、私の不安を更に膨れ上がらせていくのを感じました。 部屋の壁、天井を黒い布で覆った後、父が私の元へきて言いました。 「お前は長男だから。大変だけど頑張れ、おとうは信じているから」 父は私の頬に手を置きながら、微笑んでおりました。 久しく見ていなかった、とても優しく、何かを堪えるかのような慈愛を感じる父の微笑みでした。 「今から二人共この部屋を出る。お前ひとりになるんだ。外へ出るなとは言わない。ダメでは無いし、言ったところで意味はない。ただ、出来るだけこの部屋にいなさい。ここは暗いし蝋燭の火しかない。火が消えたらこのマッチを使って蝋燭にまた火を灯せばいい」 父はそんなことを言うのですが、「何故そうしなければいけないのか」という理由を絶対に話してくれませんでした。 「一晩、今晩だけだ。お前にはこの夜が、とても長く、辛く感じると思う。でも頑張って欲しい。トイレはそこのバケツに入れろ。食事は食べちゃダメだ。辛いかもしれんが我慢してくれ」 隅に目をやると、いつの間にか私が一抱えするのもやっとそうな大きなバケツが二つ置かれており、そのうちの一つには、水がたんまりと入っておりました。 父はそのバケツを私の側まで運び 「喉が渇いたら飲んでいい。水は問題ない」 そう言って柄杓を渡してきました。 思えばそのときの自分が可哀相でなりません。まだ七つの子にこんなことを言って、ここでひとり過ごせだなんて、不安でしかないでしょう。不安なんて単語では言い表せないほどであります。 それでも声を上げて泣き騒がなかったのは、父が私を励ましてくれ、信じているという言葉の嬉しさ、感激からでありました。 そして、襖が閉まると共に、私はこの畳間へひとり置き去りとなったのです。いえ、正確にはひとりではなく愛する母も一緒でありました。 真っ黒な厚い布に覆われた部屋はとても暗く、二本の蝋燭に灯る穏やかな光だけが救いとなっておりました。不思議だと思ったことは、隙間を全て塞がれて窓なども開けていないというのに、部屋の中がひんやりと冷えていたことです。
しばらくは緊張感に包まれ、部屋の隅でじぃっとしていたのですが、徐々に目が慣れてくると緊張もほだされてきます。 そうすると、頭の中に浮かんでくるのです。何故私はひとりここへ残されたのか、父の言っていた決まりにはなんの意味があるのか、何故あんな行為をさせられたのか。 考えを巡らせるのですが、勿論答えなどでるはずがありません。幼い私には何も分からないままでした。 ゆれる蝋燭の火を見ながら自分の今置かれた状況を徐々に実感し始めました。同時に、混乱と恐怖が一気に全身を覆いつくしてきました。 あぁ、それでも、それでも私は、それを凌駕する責任感をもって、冷静さを必死に保っておりました。このとき感情の赴くままに叫び、暴れたとしたならば、どうなっていたのかは今となっては分かりません。 しかし私はそのまま、じぃっと静かに、部屋の隅で息を殺していたのでした。
身を硬直させるほどの恐怖も、全身の神経をむき出しにしたような緊張感も、延々と続くものではありません。じぃっと身を潜めていた私も時が経つにつれ、段々と普段の調子を取り戻してきました。 部屋は真四角に近い形であり、十六畳ほどの大きさで、壁と天井全て黒く厚い布で覆われ、念入りに取り付けられたその布には隙間などありません。 部屋の真ん中付近には畳にしかれた布団の上に横たわる母がおりました。唯一の出入り口である襖にも布がつけられ、その両端に私の身長よりも高い、長く太い蝋燭が立てられております。 私は入り口から見て左端、部屋の隅っこに置かれた飲み水の入ったバケツを目の前に置き腰を下ろしておりました。 隅っこへ陣取った私は、そのまま眠ろうと考えました。一晩過ごせばよいと言われていますし、眠ればすぐに時間が過ぎるだろうという、浅はかな考えからでした。 畳に身体を預け、瞼を下ろすと、朧げながら灯っていた蝋燭の火さえも見えなくなり、 シンとした空気の音だけが広がっておりました。
──ゴリ
ヒュッと息が止まり、心臓が日々出しそうなほど驚きました。 音が聞こえたんです。何か、硬いものを噛むような、そんな音。 身体を起こし、全神経を部屋中に張り巡らすように集中しておりました。
──ゴリ
空耳などではありません。確かに、確かに聞こえていたのです。襖を一枚隔てた向こうから。 それに気がついた瞬間から、私の脳内に巣食う様々な化け物が姿を現してきました。 顔の崩れた大男、白い服を身にまとった足の無いざんばら髪の女性、人間サイズの昆虫── 私が思いつく限りの怖いものが、ぱぁっと溢れ零れだしてきて、安全というものを奪い取っていくのです。私は必死に息を殺し、気配を消すことに集中しておりました。
──トン、トン
その音は、襖を優しく叩く音に変わっていきました。
──トン、トン
──トン、トン
──トン、トン
「誰かいるの?」 耳に入ってきたのは、図太い大男の声でもなく、か細く甲高い女性の声でもなく、明るい子どもの声でありました。 こんな状態で、不安や恐怖しか感じられない状態で、耳に入ってきた明るく楽し気なその声を聞いてしまったら──ましてや七つにしかならない子どもです。 それで、つい、ああ、仕方ないでしょう。開けてしまったのですよ。襖を。 ヒョコっと顔を出してきたのは、私よりも年下のように見える、くりっとした目をした刈り上げ頭の女の子でした。 「ひとりなの?」 女の子の顔はこちらを向いているのですが、私を見ているのか見ていないのか、良く分からない表情で、言ってきたのです。 何かおかしいということに、私はなんとなく気がついていたのかもしれません。親戚にもこんな女の子はいないし、近所でも見かけたことはありませ ん。それに、開いた襖の向こうはとても暗かったのです。暗いというより、黒い。漆黒という言葉がとても良く似合っているという様相でありました。 私は返答をせず、しばらくジッとその女の子をただ見続けていました。 「へぇ」 女の子はそう声をもらし、襖から頭を出したまま、手の平に置いたチョコを見せてきました。 「ねぇ、これ食べようよぉ。たくさんあるから」 女の子はどうも私の姿が見えないようでありまし た。確かなことは分かりませんが、そんな気がしたのです。 「ねぇ、おいでよ。お菓子たくさんあるよぉ」 黒目をせわしなく動かし、女の子は明るく私を誘うのですが、絶対にもらってはいけないと──そう感じておりました。 できるだけ音を立てないように部屋の隅まで後ずさり、身を潜めていると、彼女はスーッと襖をさらに開け、ぬるりと部屋の中へ上半身を入れ込んできました。 あぁ、そう、ここで私は大きな間違いを犯していたのですね。部屋の雰囲気や、彼女の様子をみて、何となく勝手にそう思い込んでいたのです。彼女はここへ入ってこない──と。 「ひっ」 声を出さないようにしていたにも関わらず、小さな悲鳴を上げてしまいました。 その女の子の身体、上半身が、とても、とても長く柔らかそうに伸びていたのです。 部屋の外、真っ暗で何も見えない空間から、ぬるぅと上半身だけを伸ばしてきているのでした。 女の子は衣類を何も身に纏っていないと、そのときに気がつきました。 腹のあたりから伸び、白く、艶めかしく光るその身体を、蝋燭の火が橙色に照らしておりました。 それを目にした私は、急に思ったのです。触ってみたい。 女の子は、首をカクカクと左右に振りながら、どうも私を探しているようでした。それに、部屋の中へ身体を入れ込んできたのはよいものの、畳に触れることも出来ない様子であり、部屋の真ん中で横たわる母の手前あたりでずっと揺れているのです。 そのまま部屋の隅で身体を縮こませておれば、恐らく危険は及ばないような気がしてお りました。 しかし、強い欲求が私に訴えてくるのです。あの身体はどんな感触をしているのか、匂いがするのか、触れて、この手で感じたい──。 脳では分かっているのです。このまま隅にいろ、絶対に近寄ってはいけない。 ですが私の身体は言うことを聞かず、それを求めるように、ゆっくりと動き出すのです。 自制心など意味をもたず、足は痺れ力が入らない私は、ゆっくりと這いながらその女の子へ近づいていきました。 動き出した身体は脳を包み込み、私の意識は「触りたい」ということで一杯になっておりました。 じりじりとにじみより、部屋の真ん中あたりへさしかかるというときに、またも急に頭を過ったのです。
──洗う必要がある。
何故かその女の子を水で洗ってあげなければいけない気がして、私はあの水が入ったバケツの方へ向きを変えました。 「あれぇ、どこぁ、たくさんあるよお」 女の子は変わらず、無邪気で楽しそうに声を上げておりました。 バケツの元へたどり着き、中を覗いた瞬間、ものすごく喉が渇いていることに気がつきました。なので、とりあえず水を飲んだのです。 その水はとても美味しいものでありました。あれほど美味しいと思うことは今後ないと思うほどに、美味でありました。 夢中になって水を飲んでいた気がついたときには、その女の子の姿はありませんでした。 さきほど女の子が入りこんできた場所は、開けっ放しの襖と、先の暗闇だけが広がっているだけでした。 そして母が、部屋で横たわっていたはずの母がいなくなっておりました。 あぁ、本当に、本当に馬鹿だったのでしょうね。 本当に、本当になぜか分からないのですが、 「この先で母と会える」そう感じていたのです。 この暗闇の向こうから、なにやら声が聞こえるのです。本当に聞こえていたのかは分かりません。でも、確かにひそひそと声が聞こえていたのです。 ゆっくりと、そして慎重に、私は襖から足を出しました。足先から伝わる感触は、いつもの家で感じるものとなんら変わりはないように思えました。 やはり少し葛藤した部分もありました。このまま出ても大丈夫なのだろうかと。 ですが、父も祖父も、部屋から出るなとは言っておりませんでした。ここで一晩過ごせとは言われましたが、部屋から絶対に出るなとは言われなかったのです。 勝手な解釈でありましたし、子どもなりの納得の仕方だったのかもしれません。 当然、襖の向こうはいつもと変わりない家、自身の住んでいた家なのですが、真っ暗で何も見えませんでした。 すり足で、手を前に出しながら、ゆっくりと声のする方向へ進んでいきます。 自身の突き出した腕もみえないほどに暗い中を進んでいると、自分の存在さえもあやふやに思えました。 しかし遠くからは、ずっと声が聞こえています。優しく、美しく、とても大好きだったお母さん。本当はもっと甘えたかった、弟や妹など気にせず、思いっきり遊びたかった。 いつの間にか、時間をかき分ける私の目からは涙が溢れており、鳴咽を漏らすほどに泣いておりました。 声がどんどんと大きくなっていき、近づいている感覚が強くなっていくにつれ、身体が重くなっていくような気がしました。それでも、それでも母に会いたい一心で歩みを進めていたのですが、急に足に凄い衝撃を感じたのです。 「いたっ」 声を漏らし、痛みを感じる場所に目をやると、真っ暗な中にぼうっと青白い顔が浮いておりました。目を閉じ、薄く微笑みながら浮いている顔。 それは紛れもない。母の顔でありました──。
はっと気がついたときには、あの畳間に敷かれた布団に身体を九の字に曲げて、横たわっておりました。すぐに身体を起こそうとしたのですが、全く動くことができませんでした。母が、後ろから私を抱きかかえているのです。 あぁ、今も忘れられません。視線の先では、襖から身体を伸ばし、畳をはいずり回るあの女の子の顔がありました。 いや、その顔は「女の子」と呼ぶには相応しくないほどに、醜悪で歪で、汚臭までも漂ってくるような、怒りの感情に満ち溢れたものでありました。 恥ずかしながら、私はその姿を見て恐怖の限界を超えてしまいました。ズボンからじわぁっと何かが漏れ、沁みていくのを感じました。 失禁してしまったのです。 尿臭が漂い始めたと同時に、その女の子はビタリと動きを止め、紐で引き寄せられるかのように、襖の向こうへ去っていきました。 ピシャッと勢いよく襖が閉められると同時に、か細く灯っていた蝋燭の火が消え、辺りは真っ暗になりました。 ですが、不思議なことに私は安心して、眠くなってしまったのです。 あぁ、寂しい、嫌だと思いながらも、胸中を温かいものが満たし、私はそのまま眠りについたのでした──。
目が覚めたときに視界に入ってきたのは、不安そうな顔の父でありました。 祖父と父は濡れた畳を確認し、何か言葉を交わすと首を振り、私をすぐ風呂に入れ、赤飯を振舞ってくれました。
正直、そのときのことはあまり覚えておりません。後から弟や妹が言うには、私はずっと幸せそうな顔でぼーっとしていたとのことでした。 これで終わりです。子どもだからなのか、それともこのことをあまり思い出したくなかったのかは分かりません。 つい最近まで、この出来事のことを私はずっと忘れていたのです。思い出したきっかけは、妻の葬式でありました。 妻の亡骸をみたとき、突如としてこの記憶が鮮明に思い出されたです。
実家にあった父の書斎を探ってみたところ、あるノートを見つけました。 それは古く保管状態も悪かったので中身は不明であり、表紙には 『成人儀』 とだけ書いておりました。 あぁ、それに挟まっていたのです。メモが。父の字で書かれていたのです。 『母の死後行うこと。女子の邪魔をするのは母である。母と子を触れさせてはならない』 それを読んで、私の頭はくちゃくちゃと音を立てそうなほどに混乱しておりました。 『儀式のために絶対守ること。母の写真は残さない。長男へ継ぐこと』 母が邪魔をする、彼女を受け入れる、それは何のことなのか、母というのは父にとっての母なのか、私の祖母ということなのか、そういえば私は祖母の姿を見たことはありません。物心ついたときにはもういなかったのです。写真でさえ、遺影でさえ見たことがありませんでした。 あぁ、そういえば私の母も、写真がなければ遺影などもありません。それはなぜなのか。 あの夜と関係があるのか、本来は受け入れるべきであったのか、母は私を守ってくれていたわけでは──。
分かりません。何も分かりません。あの日、父は私に何も言うことはなかったし、祖父から何かを聞くこともありませんでした。 何も分からないのですが、私の最愛とする息子が近頃怯えているのです。 ドアの隙間、路地の先、電気の消えた部屋──暗い場所、暗闇の先に対して、ものすごく怯えているのです。 あぁ、認めたくありませんし、ありえないことであります。でも、息子はいうのです。女の子がいると。 あぁ、なんだかとても、とても嫌な予感がするのです。 しかしあの家はとうの昔に引っ越しており、今はもう残っていません。祖父もいなければ、父もいないのです。 遠い親戚の叔父が、この話について詳しく聞きたいと言ってくれました。叔父なら何か知っているのかもしれません。 近々、そちらへ向かいます。