『パチン…カチン、パチン、カチン。』
金属の跳ねる音と、列車の心地良い揺れに誘われ、気付けば私は瞼を閉じていた。
窓の外はしんしんと雪が降り、車窓は結露で濡れていた。
暫くして
「拝見〜、拝見。切符を拝見〜。」
車掌の声に、私はその重たい瞼を開いた。
「今日はお寒いですね。切符を拝見致します。」
目の前には検札鋏を持ち、にこやかに私に話しかける車掌がいた。
私は車掌に切符を差し出し
「えぇ本当に。雪が積もらないといいのですが…。」
そう答えた。
「ご旅行ですか?」
車掌は私の荷物に目をやり聞いた。
「いえ、母に会うんです。本当に久しぶりで…。」
「そうでしたか。この雪ですから、目的地までは今暫く時間がかかります。御ゆるりとお過ごし下さいませ。それでは。」
車掌はそう言うと検札鋏をカチンと鳴らし、奥の車両へと消えていった。
列車は長いトンネルに入り、私は再び瞼を閉じた。
私は夢を見た。
それはかつて、私が子供の頃に犯した決して忘れてはならない『罪の夢』。
「母ちゃん!俺ちょっと出かけてくるね。」
俺は襖の向こうで床に臥せる母親に声をかけ家を後にした。
目的地は決まっている。
家の裏道を山間に歩いた所に古い神社がある。その神社は土地勘の無い者が見たら廃神社と間違える程にボロボロで、陽当たりも悪く少し薄気味悪い。
俺は神社の境内にある社の前で立ち止まった。
「おっ!今日もあったあった。」
一体何が祀られているのかも知らない俺は、社の前に誰かが供えたであろう饅頭を二つ手に取り、苔むした石の上に腰を下ろした。
一つはポケットへ、もう一つを口へと運んだ。
「うめぇ〜。」
口いっぱにあんこの甘さが広がる。
ザワザワと境内の木々が揺れる。
「さて、やるか。」
饅頭を食べ終わると、反対のポケットから錆びた針金を取り出し賽銭箱の南京錠をこじ開けた。
『ガチャン』
南京錠が開き、賽銭箱の引き出しを開けた。
「なんだこれっぽっちか…。」
中には数枚の五円玉と十円玉、大半を落ち葉が占めていた。
南京錠を元に戻し、盗んだ小銭を握りしめ家に帰った。
その日の深夜、外は肌寒いというのに何とも言えない寝苦しさから目を覚ました。横では母親がスヤスヤと寝息を立てていた。
土間にある甕の水を飲んだ。カラカラに乾いた体に冷たい水が染み渡る。
ふと、月明かりに照らされた窓の外に誰かが立っていた。窓枠に設置された格子の影かと思ったがどうやら人の形をしている。泥棒だとかなわないと、俺は勇気を振り絞り少しだけ窓を開けた。
すると、格子の隙間から白い手がにゅっと中に入って来た。白い手は手のひらを上に向け、まるで何かを催促するかのようにこう言った。
「返せ…返せ。我が貢ぎ物を返せ。返さぬ者は祟られようぞ。盗んだ物を今すぐ返せ…。」
俺は驚いて尻餅をついた。何の事かは分かっていた。しかし今すぐには返せない。
「分かった!待ってくれ。絶対に返すから。約束する。でも、今は無理だ…頼む待ってくれ。」
俺の必死な様子に白い手は
「ならば明日まで待とう。必ず返しに来い。次は無い。」
そう言って白い手はスッと窓の外に引っ込んだ。
俺は窓を閉めるのも忘れて、慌てて部屋に戻り頭から布団を被った。
翌朝、急いで昨日盗んだ小銭と、饅頭の代わりに握ったおにぎりを二つ持って家を飛び出した。外はまだ白々としていた。
神社に辿りつき、息を切らせながら社の前に膝をついて手を合わせた。
「昨日は申し訳ありませんでした。つい、出来心で…。饅頭は食べてしまってもうありません。代わりに握り飯を持って来ました。どうかお許し下さい。」
俺は深々頭を下げ、賽銭箱に昨日の小銭を戻し、おにぎりを社の前に供えた。
これで良かったのだろうか?一抹の不安を抱えながら社に背を向けた。
すると
「おっ!坊主ちゃんと返しに来たな。」
そこには40代くらいの色白の男がニヤニヤしながら立っていた。
あぁ…やられた。俺はこの男に一杯食わされたのだ。
男の服には赤黒いシミが所々に付き、とても薄汚れていて何故だか俺と同じ匂いがした。盗人の匂いとでも言うのだろうか。兎に角胡散臭い男だ。
「昨日のアレおっちゃんがやったの?」
「まぁな。悪ガキにお灸を据えようと思ってな。それにあの饅頭は俺のだ。ところで坊主、何であんな事した?」
「何でって、貧乏だからに決まってんだろ。」
「そうか。でも盗みは良くねぇぞ。」
「仕方ねぇだろ。母ちゃん病気だし、顔も覚えてねぇ父ちゃんは戦争で死んだ。俺が稼ぐしか無いんだよ。」
「……。」
男は黙っていた。考え込んだ男は俺にこう言い放った。
「ならもっと上手くやれ。」
まさかの男の発言に俺は目をまん丸に見開いた。
「大人がそんな事言って良いのかよ。」
「ついて来い。」
俺は男の後を黙ってついて行った。暫く歩くと
「着いたぞ。」
男の目線の先には大きなお屋敷があった。そこはこの辺りでは有名な地主のお屋敷だった。俺達みたいな者は近づく事すら許されない。
「ここはいいぞ。金がたんまりある。少しくらい拝借したってバレやしねぇよ。」
男は悪い顔で俺を唆した。
「いや…。流石にそんな大それた事俺には出来ない。帰ろうぜ。」
男は俺の制止も聞かず、ズカズカと裏口に回った。
「ここはいつも窓が開いてるんだ。」
そう言って男は屋敷へと侵入した。仕方なく俺も後に続く。男は他の部屋に目もくれず、ある一室へと入って行った。それはまるでこの屋敷の地図が頭に入っているかのようだった。これまでに何度も盗みに入ったに違いない。
部屋は少し埃っぽく、今は使われていないのか、あらゆる家具に布が掛けられていた。
「これを持って行こう。」
男が机の上の皮財布を指差した。財布はお札でパンパンに膨れ上がっている。俺は財布から数枚のお札を抜き取った。
「おいっ。それっぽっちかよ。もっと大胆にいけよ。」
「じゃ、あとこれだけ…。」
再び財布からお札を抜き取った時
「おい!誰かいるのか?」
廊下から家主の野太い声がした。
俺達は慌てて窓から逃げた。
「ハァハァ…ハァ…。危なかったね。」
俺は男を見た。男は屋敷の方を向きながら難しい顔をしていた。
「おっちゃん?どうしたの?」
「いや、何でもねーよ。」
その後も俺達は度々あの屋敷に盗みに入った。
現金に宝石、腕時計に洋服。金になりそうな物は片っ端から盗んだ。時には台所の米までくすねた。俺は盗みに入る度に、台所の戸棚に隠すように置いてある饅頭も一緒に盗んだ。
おっちゃんは「そんな物盗んでどうするんだ?」って笑って聞いたが、饅頭は母ちゃんの大好物だって事は黙っていた。
屋敷に盗みに入る時、俺にはもう一つ楽しみがあった。それは一枚の絵を見る事。その絵の前に立つと、何故だか少し悲しい気持ちになった。その絵は、雪が降る山間を力強く進む列車の絵だった。
「なんだ坊主、この絵を盗みたいのか?大した金にはならないぞ?」
立ち止まる俺におっちゃんが聞いた。
「いや、列車なんて俺乗った事無いからさ。これってどこまでも遠くへ行けるんだろ?」
「あぁ。好きな所へ行ける。」
「おっちゃん乗った事あるの?」
「子供の頃に何度か親父と乗った事がある。」
「いいなぁ。いつか俺も母ちゃんと一緒に乗ってみたいなぁ。」
希望に満ちた目で列車を見つめる俺に
「乗れるさ!今は無理でも、いつか坊主が大人になった時にきっと乗れる。」
おっちゃんは腕組みしながら笑って答えた。
そんな冬のある日、俺はしくじった。完全に調子に乗っていた。おっちゃん抜きで盗みに入ったのだ。おっちゃんは最近、寒さのせいなのか付き合いが悪く、あの神社にいない日が続いていた。そんなおっちゃんに痺れを切らした俺が単独で盗みに入ったのだ。
いつものように金品を盗んだ後、台所の饅頭をポケットに入れている所を家主に見つかった。俺は数人の使用人に引き摺られ、ボコボコにされた。屋敷の庭に降り積もった雪に鮮血が飛ぶ。
家主は、殴られる俺を蔑んだ目で眺めながら、白い息を吐きこう言った。
「お前、饅頭が好きなのか?この饅頭はな、倅の大好物で職人に無理言って作らせた特別な物だ。さぞ旨かっただろう…。盗んだ品は返して貰う。これで手打ちにしてやるから、もう二度と此処へは来るな!」
家主はそう言うと、懐から新たに饅頭を取り出し、俺に投げつけその場を去った。俺は雪の上に転がった饅頭を拾い、ボロボロの体を引きずりながら家へと帰った。
俺の姿を見た母ちゃんは泣いていた。
「母ちゃん。ごめん俺…。」
ポケットからグシャグシャになった饅頭を取り出し、母ちゃんに見せた。
「バカな子だね…。」
母ちゃんは涙を拭い、微笑みながらそのグシャグシャの饅頭を口にした。
すると
『ドバッ!』
母ちゃんが黒い血を吐き倒れた。
「母…ちゃん?母ちゃん?!母ちゃん!」
倒れた母ちゃんを必死で揺すったが、目を覚ます事は無かった。
俺は靴を履くのも忘れ家を飛び出した。両手には母ちゃんの黒い血がべっとりと張り付き、足の裏に冷たい雪が突き刺さる。屋敷に着く頃にはもう寒さすら感じなかった。
「このクソジジィ!ぶっ殺してやる!」
俺は家主に飛びかかった。家主は驚いたように
「お前何故生きてる?あの饅頭を食わなかったのか?」
「あぁ、食ったよ!饅頭食った母ちゃんが死んだ!この人殺し!」
俺の言葉に家主は開き直るように
「人殺しだと?笑わせるな。泥棒鼠一匹殺して何が悪い?誰も困りはしないだろう。それに殺したのはお前だろう?あれは盗みを働いたお前への罰だ!お前がその罰を母親に擦りつけただけだろう。そもそもお前が私の大切な物を盗んだのが始まりじゃないか。」
「大切な物?金か?金ならお前いっぱい持ってるだろ?少しくらい貧乏人に恵んでくれたっていいじゃないか。」
「……。」
家主は呆れたように懐から一枚の写真を取り出して俺に投げつけた。
「俺の死んだ倅だ。」
そこに写るのは見覚えのあるあの男。俺の知ってるおっちゃんだった。
「お前が盗んだ物は全部倅の遺品だ。あいつの思い出が詰まった俺にとっては大切な物だ。倅は売れない画家でな、よく風景画を描いていた。列車の絵を完成させた頃病気で死んだよ。俺は病気が良くなるように、毎日好物の饅頭片手にあいつがよく写生に行ってた神社に通った。あいつが死んでからも、饅頭供えにあの神社に通ってる。また倅に会えそうな気がしてな…。」
俺は家主の話を聞きながら
(俺は悪くない!悪いのは母ちゃんを殺したこの男だ。俺は母ちゃんに楽させようと、裕福な金持ちからちょっと金貰っただけ。俺は悪くない…。)
頭の中はそんな言い訳でいっぱいだった。
家主は最後にこう叫んだ。
「いいか?クソガキ!倅は優しい奴だった。生前お前に出会ってたとしたら、あいつは間違えなくお前を助けていただろう。でもな、俺は決してお前を許さない。自分の犯した罪を忘れるな。お前にとっちゃただの盗みでもな、俺にとっては大罪なんだ。お前はいつかこの罪に向き合い、罰を受ける日が必ず訪れる。その時までせいぜい重たい荷物背負ってクソみたいな人生送れ。楽しみにしてるからな!」
俺は黙って屋敷を後にした。
その後の俺の人生は、あの家主が言った通りだった。まるで呪いのように染み付いた盗人の性分、守る者なんてない人生。落ちる所まで落ちた。闇に生き、人を騙してまた盗む。その繰り返し。本当にクソみたいな人生だった…。
「はっ!」
私は目を覚ました。
どのくらい眠って居たのだろうか。私は辺りを見渡した。
何やら車内が騒がしい。
「降ろしてくれ!俺を誰だと思ってるんだ!もうずっとこの列車に乗っている。俺は倅に会わなきゃいけないんだ。まだ目的地に着かないのか!金ならある。いい加減降ろしてくれ。」
そう車掌に詰め寄る何処か見覚えのある男は、酷くやつれていた。男の荷物からは幾つもの饅頭が転がっている。
車掌は男に
「お気持ちはよく分かります。しかし、貴方はまだこの列車から降りる事は叶わないのです。」
男は車掌に宥められ渋々元いた席へと戻って行った。
車掌は
「お騒がせしました。先程無事『走馬トンネル』を通過致しました。目的地がもうすぐのお客様は、お忘れ物のなきよう、お手荷物をいま一度ご確認ください。本日は誠に御乗車ありがとうございます。」
私は状況が飲み込めず、思わず通路を挟んだ反対の席に座る初老の男性に尋ねた。
「あの…。一体何が起こっているのですか?」
男性は驚いたように私を見てこう答えた。
「おや?その様子では貴方はお気付きではないようだ。」
「はて?何の事です?」
男は続ける。
「その荷物の中を覗いてご覧なさい。」
男はそう言うと私の鞄を指差した。私は恐る恐る鞄の口を開いた。中には数えきれない程の札束と宝石、腕時計、そして一つの饅頭が入っていた。
「あぁそうだ!私は金を盗んで、そして…母に届けようと…あれ?」
「どうやら混乱しているようですね。どうぞ落ち着いて聞いて下さい。この列車は罪人(つみびと)の魂を乗せ、過去の過ちを見つめ直し、罰を受けさせる為の列車なのです。手に持つ荷物は、さしづめ『罪荷(つみに)』とでも言うのでしょうか。先程の彼は死して尚、現世で犯した罪を未だ反省していないのです。いや…もしかすると自分の犯した罪にすら気付いてないのかも知れません。だからこの列車から降りる事は叶わない。そして大切な人に再び出会う事が出来ないのです。それこそが我々に課された罰なのです。罪に向き合い、心から反省した者だけがこの列車を降り、最愛の者と再会する事が出来るのです。」
私は男に聞いた。
「では…私は死んだのですか?」
「えぇ。先程夢を見たのではありませんか?それは貴方が向き合わなければならない過去の罪。私もかつて罪を犯しました。この列車を降りるまでもう随分と時が経ってしまいました。ですが、ようやく列車を降りる時が来たようです。」
『キキーッ。』
男が話終わると列車が駅に停まった。
「では、私はこれで。貴方も無事罪と向き合い、大切な方と再会出来ると良いのですが…。」
男はそう言うと、帽子を目深にかぶり荷物を纏めて列車を降りて行った。
私は車窓から先程の男が若い女性と抱き合う姿を見た。
列車は再び黒煙を寒空に登らせ、次の目的地へと走り出した。
「私の犯した罪…。」
私の罪は、数々の窃盗。母を死なせてしまった事。現世で罪を償わぬまま天寿を全うした事。
きっとおっちゃんは俺の事を不憫に思って優しさから俺に手を差し伸べてくれたのだろう。でもいつからだろう、その優しさに甘んじて何の躊躇いもなく俺は盗みを続けて来た。あぁ本当に愚かだ。
もしも、もしもあの夜、差し出された白い手に盗んだ物を返していたら…何かが変わっていたのかもしれない。
「あぁ…向き合わなければならない罪が山のようにある。母ちゃんごめんな。」
外の雪は激しさを増し、我々の行手を阻む。
どうやらあの車掌の言った通り、私の目的地まではまだ暫く時間がかかりそうだ。
私は再び瞼を閉じた。
『パチン。カチン、パチン。カチン』
静かな車内に検札鋏の音が鳴り響く。
いつの日にか私にも、この重たい『罪荷』を降ろす時は訪れるのだろうか…。