「イヴの贈り物」

投稿者:吉田涼香

 

「イヴの贈り物は受け取るな。この世界に飲み込まれるな。」
この言葉が、私が聞いた笹山《ささやま》記者の最後の言葉だった。

笹山記者と出会ったのは、10年前の友人の結婚式。
彼は新郎の友人として招待されていた一人だった。
記者という肩書きに私が興味を持ったこと。作家という仕事で生計を立てていることに、笹山記者が興味を持ってくれたこと。それがきっかけで、私達は仲良くなった。

当時32歳だと言っていたので、笹山記者は現在、42歳ということになる。

笹山記者と会う場所は、品川駅から数分の所にある喫茶店”C”と決まっていた。その喫茶店のマスターは、笹山記者の知り合いであった為、”奥の部屋”と呼ばれる一室を笹山記者の為だけに使わせてくれていた。
なので私が笹山記者と会う時は、必ず“奥の部屋”で会う事がルールとなっていた。

この奥の部屋に入ると、いつも不思議な感覚に陥った。頭がぐらっとして、脳が一回転したような感覚に陥ってしまう。何故なのかは分からないが、この部屋に残された”記憶”が、私の感覚を狂わせているようにも感じた。

奥の部屋は、アンティークで統一された美しい部屋だった。喫茶店のマスターの趣味なのだろう。
部屋の真ん中に置かれたお洒落なダイニングテーブルと、ダイニングチェア。
ゴシック調の品の良いキャビネットの中には、高そうな白い食器やカップも置かれていて、ワイングラスなども並べられている。
1番下の段には金色の置き時計までもが、行儀良く置かれていた。
但し、金色の置き時計は、8時30分で止まっている。

マスターに時計が止まっていることを伝えたが、それでいいんだよと穏やかな笑みを浮かべ、自慢のちょび髭を撫でていた。

この奥の部屋で笹山記者が私に聞かせてくれる話は、3年程前から追いかけている凶悪な殺人事件の話だ。
犯人は未だ捕まっておらず、足取りも掴めていない未解決事件となっている。

この事件は、『姿なき連続殺人』とネットやニュースで持ちきりになっていた。
犯人の姿が監視カメラに一切映っておらず、現在も全く分からないままだ。

人の心を微塵も感じない殺し方でありながら、人の心を感じるという奇妙な殺人だと、笹山記者は教えてくれた。
すぐに理解が出来なかった私は、笹山記者にもう少し詳しく知りたいと伝えると、テーブルの上に乱雑に置かれている資料に目を向けながら、静かに話してくれた。

「この殺人者はみんなに恨まれていたり、評判が良くない奴ばかりを狙っているんだ。」

「世直しみたいな殺人ってこと?」
笹山記者は深く頷いた。
「だから、どこかダークヒーローのように捉えている人が多いんだよ。ただ…殺し方はかなり残忍だけどね。」
そう言うと、笹山記者は私の目をじっと見つめた。何かを伝えたいのに、何かを抑え込んだような瞳。

「どうしたの?」
気になって私が聞くと、笹山記者は深く息を吐いた。

「実は…最近、ちょっとおかしな事が起きるようになったんだ。」
笹山記者は、目を逸らしながら答えた。
「おかしな事?どうしたの?。」
「うん…。時々記憶がなくなるというか。何をしていたのか全く覚えていない時があるんだよ。」
「えっ?大丈夫?疲れているんじゃない?」
「うーん…。ただそういう時、どうやら俺は眠っているみたいで、目が覚めるんだけどさ。その夢の中で起きた事や、考えてることは何故か覚えているんだよ。それが、正直気持ち悪いんだ。」
その夢のことを思い出しているようで、顔を歪ませながら頭を何度も横に振っていた。
「その夢ってのが、いつも誰かと一緒にいて話をしてるんだけど、その相手の顔は見えないんだ。ただ、自分にとってとても親しい人みたいなんだよ。」
「親しい人?」
「うん。夢の中ではそう認識してるんだ。」
笹山記者はそう言いながら、夢の中の出来事を思い出しているようだった。

「どんな話をしてる夢なの?」
「それが、好きな女性の話しとか。何となくだけど、その親しい人も、俺と同じ女性が好きみたいでさ。多分、俺のことが気に入らないんだと思うよ。」
「えっ?好きな女性いたの?誰?誰?どんな人?」
興味津々に私は笹山記者に聞いたが、その後の記憶はない。
気付いた時には、私はテーブルに顔を埋めて眠っていたようで、重い頭を起こして辺りを見回したが、既に笹山記者の姿はなかった。

奥の部屋に来たのは昼過ぎだったが、窓から入ってくる日差しが深いオレンジ色に変わっていて、既に夕方になっている事を告げていた。

それにしても何故、笹山記者は起こしてくれなかったんだろう。
少し不満に思いながら、私は部屋を出た。

奥の部屋を出る前に、何気にゴシック調の品の良いキャビネットに目を向けると、ある違和感に気付いた。金色の置き時計が無くなっている。
マスターが置くのをやめたんだろうか。
奥の部屋を出て、裏口のドアから出ようとした時、
「マリアちゃん。」
と呼ぶ男性の声がして、振り向いた。
呼んでいたのはこの喫茶店のマスターだ。
「マリアちゃん。もう帰る?よかったら、ケーキでも食べない?」
私は首を傾げながら、マスターに聞いた。
「あ…あの。さっきから私の名前間違ってますよ。」
マスターは少し驚いた顔をして、私を見ている。

「いや…マリアちゃん…だよね?どうしたの?まだ寝ぼけちゃってるのかな?」
心配そうに私に聞いてくるマスターに、私は漠然とした恐れを感じた。
「すみません。帰ります。」
と言って足早に裏口のドアを開けた後、ハッと目を覚ました。
私はテーブルに顔を埋めていた。

あれ?さっきのは夢?

顔を上げると、目の前には笹山記者が難しい顔をして資料を見ていた。
「良かった。夢だった。」
笹山記者の姿を見てホッとした私は、思わずそう口にすると、
「変な夢でも見たのか?」
と資料に目を落としたまま、笹山記者は聞いてきた。
「うん。変な夢だった。ここのマスターが、私の名前を別の名前で呼ぶの。ちょっと怖くなっちゃった。」
私がそう話すと、笹山記者は資料を見ていた目を私に向けて、別の名前って?と聞き返して来た。

「マリア。私の事をマリアちゃんって、マスターが呼んでた。」
笹山記者は一瞬訝しげな表情を見せた後、ふーんと興味なさそうな返事をしながら、資料に目を戻した。
「お前の名前って何だっけ?」
無表情で軽く聞いてきた笹山記者に、
「私はアリサだよ。ア・リ・サ。」
と少し呆れた口調で返した。笹山記者は資料に目を落としたまま笑みを浮かべていた。

それにしても、妙にリアルな夢だった。
これが明晰夢というものなのだろうか。
そうだ。私が眠ってしまう前、笹山記者の夢の話を聞いていたんだ。
夢の中では、親しい人と好きな女性についての話をしていたと言っていた。あの話をもう一度聞かなくては。

そう思って口を開こうとした瞬間、
「よし。帰ろう。そろそろ会社に戻らないといけない。」
左手首に嵌めている腕時計に目をやりながら、慌ただしく資料を片付け始めた。

笹山記者が見た夢の話を聞くのは、次の機会にしよう。
私と笹山記者は裏口のドアから出て、その場で解散した。

それから三日後、笹山記者が電話をかけてきた。
時間は午前五時を回ったところ。私は笹山記者の電話で叩き起こされた。

電話の内容は、郵便ポストに手紙を入れておいたから、読んでおいて欲しいという事だった。
こちらが返事をする前に、すぐに電話は切れた。
何ともいえない違和感を感じながら、私はすぐに郵便ポストを確認した。
郵便ポストには笹山記者の言った通り、白い封筒がひっそりと薄暗いポストの中に置かれていた。
すぐに取り出し封筒を開けると、パソコンで打たれた文字が、二行だけ書かれていた。

『メールでの連絡は、全て最後に星のマークを入れておく。それ以外は、絶対に無視して欲しい。』

星のマーク?一体何なのだろう。何故わざわざこんな手紙を送ってきたのか?
得体の知れない怖さを感じ、すぐに笹山記者に電話をかけると、ツーコール聞いたところで、笹山記者は電話に出てくれた。

「手紙見たんだけど、これどういう事?」
笹山記者に問いかけると、耳元から小さな溜め息が聞こえた。
出来れば答えを避けたい気持ちが、その溜め息には表れていた。
「どう伝えたら良いのか…。ただ君は大丈夫だよ。」
「大丈夫?何が?」
「何もかもだよ。」
「えっ?どういうこと?」
暫く沈黙が流れた後、静かに電話は切れた。

何だか、笹山記者がおかしい。
私が何かを質問すると話したくないのか、話せないのか、正確な答えは分からないが、電話を切ってしまう。
普段は質問をすれば、ちゃんと答える人なんだけど。

笹山記者に何かあったんだろうか。例えば、危機を感じる何かに直面しているとか。

得体の知れないモヤモヤが渦巻いた私は、笹山記者に『今日奥の部屋で、会えるかな?』とメッセージを送ってみた。
だがその日の内に返信が来る事はなかった。

私は、笹山記者が追いかけている『姿なき連続殺人』をネットで調べてみた。
内容は、殆どがニュースなどで取り上げているものとほぼ同じで、監視カメラには映らない殺人者が殺した一家の事が書かれていた。
現在、この殺人者は三件の殺人容疑に掛かっている。殺人はいずれも、一家全員を殺害するというのがこの容疑者のやり方のようだ。
警察は足取りを追っているが、三件の家族とこの容疑者の繋がりも掴めていない。

一方的に電話を切った笹山記者から、再び連絡が来たのはそれから一ヶ月後のことだ。
担当者から雑誌に載せるコラムの依頼をもらい、どのような内容を書いていこうかと練っている時だった。

『今から電話するから出てくれ☆』

星のマークがある。
これは無視してはいけない連絡だ。
すぐにスマホの着信音が鳴り、私は出た。

「今まで何してたの?電話も変な切り方をしてたし。行動が謎過ぎて、心配してたんだからね。」
笹山記者はとても申し訳なさそうに、すまないと呟いていた。
「今日はちゃんと話せるの?」
「うん。話せるよ。伝えなきゃいけないこともあるんだ。奥の部屋で話したいんだけど来れるか?」
「もちろん。」

私と笹山記者は、午後6時に落ち合った。
約束の時間の5分前に喫茶店に入ると、マスターは私を見て、笹山記者が既に来て待っている事を教えてくれた。
私は少々急ぎ足で奥の部屋へと向かった。
部屋に入ると、ゴシック調の品の良いキャビネットには、金色の置き時計がいつものような置かれている。
笹山記者は手元に置いてある資料に目を向けながら、パソコンに打ち込んでいた。

「久しぶり。」
と声をかけると笹山記者は私を見て、
「連絡出来なくてごめんな。」
と申し訳なさそうに謝って来た。
いつもの笹山記者であることに安心して、元気ならいいけどと言いながら、いつものように私は向かい側に置かれた椅子に座った。
テーブルに置かれた資料に目を落とすと、笹山記者はパソコンを私の方に向けた。

そこには、『これから大事な話をパソコンに書いていくけど、声は出さないでくれ。』と書かれていた。

私はうんと、深く頷いた。
笹山記者は、慣れた手つきでパソコンに打ち込んでいる。
「あっ。ちょっとデータをまとめたいから、資料でも読んでて。」
そう言って笹山記者が手元に置いていた資料を、私の目の前に置いた。

資料には付箋が貼ってあり、”読んでるフリだけでいい。”と書かれていた。
私は静かに頷いて、資料に目を通してみた。

暫くして、笹山記者がパソコンを私の方に向けた。

『俺が追っている姿なき犯罪者は、近くにいるような気がする。最近、色々とおかしな事が続いていて、変なメッセージも届いた。もしかしたら、俺の動向を監視しているのかもしれない。』

そこまで読むと、私は笹山記者に目を向けた。
笹山記者はパソコンを自分の方に向けて、またメッセージを打ち始めた。
カタカタとキーボードを押す無機質な音だけが、部屋中に響いている。
突然、頭の中が歪むような感覚が起きた。
言葉にするとおかしな表現になってしまうが、今私に起きている事を的確に表す言葉は、”頭の中が歪む”
という表現が一番しっくりくる。

その後、私はまた寝てしまったらしい。気付いた時には顔をテーブルに埋めていた、
またやってしまった、と思いながら重い頭をゆっくり上げた。

目の前には笹山記者がいて、ノートブックパソコンを気難しく睨みながら、打ち込んでいた。
「まだ書き終わってなかったの?」
私が聞くと、何が?と気難しい目つきのまま素っ気なく返して来た。

「何がって。メッセージを書いてたじゃない。」
私は小声で、笹山記者に問いかけたが、
「メッセージ?何の話だ?」
と不思議そうに首を傾げて、私の言葉の意味がよく分かっていないようだった。
私は笹山記者の言葉に違和感を感じながら、ぼんやりと部屋の中を見回した。
すると、ゴシック調のキャビネットに置いてあった金色の置き時計がない。

嘘…またなくなっている。
これってもしかして…。
私はすぐに奥の部屋を出た。奥の部屋を出ると、真っ直ぐ伸びたコンクリートの廊下がある。その廊下を突き進むと、突き当たりにドアがあり、そのドアを開ければマスターがいるお店の中に入ることが出来る。
私は確かめる為、廊下をゆっくりと突き進み、ドアを開けた。

店内はいつもと変わりがなかった。
マスターはカウンター席に座っている客と、談笑していた。
私が入って来たことに気付いたマスターは、
「マリアちゃん。どうしたの?コーヒー無くなった?」
といつもの優しい声で聞いてきた。

マリアちゃんと呼ばれた。何故?どうして私をマリアちゃんと呼ぶんだろう。

「マスター。私の名前、この前も間違えていましたよ。」
私は敢えて戯けた振りをしながら、笑いながらマスターに言った。
「あれ?マリアちゃん、また記憶がおかしくなってるのかな?この前マリアちゃんが来た時は、名前が違うなんて言わなかったのに。最近、ちょっと変だね。大丈夫?」
マスターは少し心配そうな表情を浮かべていたが、私を見る目には笑みが溢れているように感じた。

カウンター席の客も気になったのか、ゆっくりと振り向いて私を見た。
その顔を見て、驚きのあまり声を出す事が出来なかった。

カウンターに座っていた客は、笹山記者だったからだ。
笹山記者の頭と顔右半分は真っ赤に染まっており、右目は完全に潰れていた。

「大丈夫ですか?」
笹山記者は血を流しながら穏やかな表情を向けて、ゆっくりと近付いて来た。

どういうこと!?笹山記者は、“奥の部屋”にいるはず。
「あ…あの、部屋に戻ります。すみません。」 
そう言って急いで戻ろうとした瞬間、笹山記者は私の右腕を強く掴み、耳元で囁いて来た。

「イヴの贈り物は受け取るな。この世界に飲み込まれるな。」

その声を聞いた後、激しい眩暈が起きて意識を失った。

どれだけの時間が流れたのだろう。
遠くで私の名前を呼ぶ声が聞こえる。
女性の声だ。
「……笹山さん…笹山アリサさん。分かりますか?」

「…アリサ!大丈夫?」
涙声で私を呼ぶ女性もいる。

瞼の奥に白い光を感じた。
ゆっくりと目を開けると、真っ白な天井が目に入り、無機質な光で部屋を灯している白い蛍光灯も見えた。
そして、友人のマイ。看護師の女性の顔も目に飛び込んで来た。
友人のマイは、笹山記者と出会うキッカケを作ってくれた人。10年前に結婚式を挙げた新婦だ。
看護師の女性は、先生を呼んで来ますと言って足早に部屋を出て行った。

「アリサ!私が分かる?」
マイは心配そうに私の手を握って聞いてきた。
私はゆっくり頷いた。
良かったと安堵した声を出して、涙で溢れた瞳を手で拭っていた。

「私…倒れたの?」
そうだよと、マイは答えてくれた。
そうだ。あの後、笹山記者はどうなったんだろうか。
一番気になっている事をナギサに尋ねた。

「笹山記者は大丈夫なの?」

私の言葉にマイは目を見開き、かなり驚いた顔をしたまま何も言わなかった。

「ね…何?何で黙ってるの?」
私がそう聞くと、マイは私の手をぎゅっと握り、
「笹山記者は、4年前に亡くなったでしょ。また忘れちゃった?」
えっ…亡くなった?また?どういうこと?笹山記者が亡くなったという記憶が私には…ない。

「それ…本当に?」
「本当だよ。それに…アリサは笹山記者と結婚してたんだよ。」
えっ⁉︎どういうこと?記憶を追いかけて昔の事を思い出そうと試みたが、笹山記者が亡くなったこと、笹山記者と結婚していたことをどんなに考えても思い出せなかった。

「毎年、クリスマスイヴの前日からクリスマスイヴにかけて、アリサの記憶は失くなってしまうね…。でも…それは仕方がないのかもしれない。イヴはアリサの誕生日でしょ。誕生日をお祝いしようって、笹山記者がいつも使っている喫茶店で準備をしていたら…殺されてしまって。血まみれで倒れている笹山記者を見付けたのが、アリサだったから…。」
とても悲しそうな顔で、マイは事の経緯を話してくれた。
「犯人は捕まったの?」
犯人はね…と言いかけて、マイは深く深呼吸をした。

「マスターだよ。笹山記者が追いかけていた姿なき殺人者は、マスターだったみたいよ。でもそのマスター、まだ捕まってないんだ。逃げたまま行方不明。」

愕然とした。笹山記者が親しくしていて、奥の部屋まで提供してくれていたマスターだったとは…。

姿なき殺人者はずっと近くにいて、笹山記者がどれぐらい情報を得ていたのか監視していたのかもしれない。
そう言えば、笹山記者も監視されているかもと話していたな。

「そう言えば、マスターって私のことをマリアちゃんって呼んだりする人だったのかな?」
私は疑問に思っていたことをマイに聞いてみた。

「その呼び方…。それ、笹山記者が呼んでいたニックネームだよ。アリサのことをマリアって呼んでたの。アリサはイヴが誕生日だから、マリア様って。でもあの喫茶店のマスターなら、マリアって呼んでること知っていただろうから、マスターもマリアって呼んでいたかもしれないけど…。そこのところは、私にはよく分からないけど。」

慌ただしく走る幾つもの足音が聞こえ、その足音は私のいる部屋へと流れ込んで来た。

「笹山さん。分かりますか?」
白衣を来た中年の男性医師が、無表情で私を覗き込み声を掛けてきた。
先程の看護師はマイに、申し訳ありませんが、面会はここまでですと小声で話している。

「アリサ。また来るね。」
心配そうに私を見つめるマイに、私は大きく頷いた。

その後、男性医師から幾つか質問され、全て答えると無表情だった医師の顔が穏やかな表情に変わり、大丈夫ですねと力強く言われた。
一週間様子を見る為に入院をして、特に問題がなければ退院するという流れになると話を受けた。

一人になった病室でベッドから身を起こし、窓辺から外の景色をぼんやりと眺めた。
病院の向かいには大きな公園があり、その公園には時計台が建てられている。

時計…金色の置き時計…8時30分…。

突然私の頭の中で、動画が再生されたかのように、鮮明な映像が流れ始めた。

12月24日、私の誕生日。喫茶店”C”のドアを開けると、カランコロンと美しいドアベルが鳴った。
一歩足を踏み入れると、床に仰向けで倒れている笹山記者の姿があった。
笹山記者の右側には、血が海のように溢れ出していた。
右半分が潰れてしまっている。見るも無惨な姿だった。

そして、その横に金色の置き時計が転がっている。

赤い血が、金色の置き時計を飲み込んでいるように見え、この場所で何が起きたのかを物語っていた。

「マリアちゃん。」

えっ…。背後から私を呼ぶあの声。
頭の中に流れていた映像は途切れた。

私は我に帰り、ゆっくりと後ろを振り向いた。

黒い帽子を深く被っていて目は見えないが、あの自慢のちょび髭が見えた。

「笹山くんから頼まれていた誕生日プレゼントだよ。そして、僕からの誕生日プレゼントでもあるんだ。邪魔者は排除しておいたからね。これは僕の使命だから。ちなみにね、このプレゼントを準備したのは笹山くんで、このプレゼントを使ったのは僕なんだよ。」

そう言ったマスターの口元はニヤリと嫌な笑みをこぼしていた。

8時30分を差したまま止まっている錆びた金色の置き時計を、マスターはとても大事そうに両手で抱えている。

「なぁ…マリアちゃん。僕ね、人の夢を操る事が出来るんだよ。操るっていうのはね、実際は起きてない事をまるでそんな事があったかのように、リアルな夢を見せてあげたりとかね。君に会う為に、夢というツールを使ってコンタクトをとってみたりとかね。そんな事が出来ちゃうんだ、僕。ところでさ、マリアちゃん。本当に笹山くんっていたと思う?姿なき殺人者っていたのかな?殺された人達って、本当に悪だったのかな?そもそもマリアちゃん、君の記憶は本物なのかな?それとね…。」
マスターは帽子の鍔をぐっと上げて、濁った目を私に向けた。

「僕達は何度も何度も出会っているんだよ。遠い昔からね。何度も何度も出会ったけど、その度に邪魔されて障害が起こっていたんだ。僕はずっと君だけを見て来たから、もう邪魔されたくなくてね。邪魔者は排除してやることに決めたんだ。試行錯誤したけど、諦めなくて良かったよ。もうすぐ迎えに行くよ。これで僕達の愛はやっと完成するんだ。何て美しいんだろう。長年の夢が叶うんだ。これは僕からの誕生日プレゼントだよ。」

そこで、ハッと目を覚ました。
また夢?
嫌な夢だった。
頭がぐらっとして、脳が一回転したような感覚が起きた。
この感覚は、あの”奥の部屋”で感じたものだ。

夢の中でマスターが話していた内容を思い出すと、吐き気がする。
心を落ち着かせて水を飲もうと、ゆっくりと身体を起こしたその時、私は息を呑んだ。

ベッドの足元には、あの錆びた金色の置き時計がひっそりと置かれていたからだ。

まさか…夢…じゃない⁉︎
それとも、まだ悪夢を見ているの?
私の鼓動はドクッドクッと早くなっていくのを感じた。

この置き時計には記憶がある。
最後に刻まれた8時30分という黒い記憶。
それは、止められた時間という永遠の世界。

この永遠の世界の住人として、私は閉じ込められてしまったのではないか。

私は深く深く息を吐き、錆びた金の置き時計をじっと見つめていた。

 

得点

評価者

怖さ鋭さ新しさユーモアさ意外さ合計
毛利嵩志151515151878
大赤見ノヴ151616151678
吉田猛々161817171785
合計4649484751241