「黄色いバックヤード」

投稿者:平中なごん

 

 近年、アニメや漫画、ラノベ界隈では異世界転生・異世界転移モノがもてはやされているが、もし異世界へ行きたいと思うのならば、日頃、ドアを開ける度に気をつけているがいい……異世界への入口なんてものは、あちらにもこちらにも、すぐそこにあるドアの向こう側に潜んでいるものなのだから。

 これは、まだ俺が電気工事士をしていた頃の話だ。小さな下請け会社のしがない労働者である。

 その日もいつものように朝から顧客のもとを回って配電工事をしていたのであるが、午後一、昼食をとってから訪れたのは繁華街の裏路地にある雑居ビルだった。

 古く小汚い鉄筋コンクリ造り四階建ての縦に細長いそのビルには、小さなスナックやらバーやらが各階に二店舗づつ入っている。まあ、盛場にはよくある、特に珍しくもないありふれたビルだ。

 狭い入口を潜り、昼なお暗くひんやりとしたコンクリ吹きっぱなしの廊下を進んでゆくと、オーナーから借りた鍵で奥の錆びた鉄の扉を開く。その裏に隠れたバックヤードに、ビル全体の配電盤やら電気コードやらが集まっているからである。

「……え?」

 だが、朽ちかけた扉を開いて中へ一歩足を踏み入れると、そこには予想外の景色が広がっていた。

 表側同様、バックヤードはよりいっそう薄暗くて小汚い、シミのできたコンクリ壁に囲まれた空間だと思っていたのだが、壁は一面、落ち着いた色合いの黄色い壁紙が貼られており、床にもまた同色のカーペットが敷き詰められている。

 小汚いどころか、むしろ小綺麗な印象だ。

 また、細長い廊下のような場所を想像していたが、思いの外にそこは広く、ゆうに学校の教室ほども大きさのある部屋が、仕切り壁で隔てられ、いくつも連なっているように見える。

 表側から見ると細長い建物だったが、存外、奥に広がっていたのかもしれない。

 驚きはしたものの、狭く小汚い場所でするよりも、当然、気分良く仕事ができるというものである。これはよい現場の担当になれたものだ。

 しかし、肝心の配電盤や電気コードがまったく見当たらない……というか、その黄色で統一された空間には何も物が置かれていないのだ。

 机や椅子、ロッカーのようなものもなければ、ダンボール箱が積んであるなんてこともない。殺風景にもほどがある空間が、ただそこには広がっているだけである。

 ここって本当にバックヤードなのか? 普通、バックヤードといったら、在庫やら備品やらが所狭しと積まれているイメージなんだが……それか、配電工事を頼んできたことだし、近々リノベーションでもするために荷物を片付けたのか……。

 いずれにしても、配電盤が見つからなければ仕事にならない。仕切り壁の向こう側にあるのかもしれないし、ちょうど通用口みたいに仕切り壁の間に開いた隙間を潜り、俺はその部屋から次に連なる空間へと足を進めた。

 ところが、そこもやはり何もない、ただただ殺風景な黄色い部屋だ。

 おかしいな。もしかして、まだここも営業スペースなのか? だとしたらバックヤードはもっと奥にあるのか……。

 俺はさらに仕切りの壁を越えてその向こうの空間へと向かう。

 だが、やはりまた何もない部屋だ……その次も、そのまた次も、何度も仕切り壁を越えて次の部屋を覗いてみるが、どこまで行っても同じ景色が続いている。

 向かって前方の一方向だけではなく、左右にも同様に部屋が繋がっているので、それならば横へ行ってみようと方向転換もしてみるが、やっぱりそこも殺風景な黄色い空間である。

 どうなってるんだ……このビル、なんかおかしくないか?

 同じ景色の中をぐるぐる歩き廻りながら、そんな疑問に捉われ始める俺であったが、その時ふと、自分が今、どこにいるのかわからなくなっていることにも気がつく……平たく言えば迷ったのだ。

 配電盤を探すあまり、どれだけ仕切り壁を越えて進んだのかを数えていなかった。まったく同じ殺風景な部屋ばかりのため、記憶をたどろうにも目安となるようなものも何もない。

 まあでも、東京ドーム何十個分とかいう巨大なビルってわけでもないし、しばらく歩いてればそのうち入ってきたドアの前へ戻れるだろう……そう、気楽に考えていたのであるが。

 どんなに歩いても、ぜんぜんドアのある最初の部屋へ戻れない……完全に迷ってしまったみたいだ。

 でも、なんでだ? いくら奥に広くなってるからって、こんな迷うほどの面積がある建物には到底思えない。

 それなのに、行けども行けども行き止まりにはならず、どこまでも黄色い部屋が連なって続いているのである。

 それに、今さらながらに気になりだしたのだが、このバックヤードの空間はやけに静かだ。今は俺だけしかいないのか? 人の声はもちろん、物音一つ聞こえない。

 ただ、しん…と静まり返ったその広い空間には、どこまでも連なって続く天井の四角い蛍光灯が、ジジジジ…と不気味なハム音を響かせているだけだ。 

 もしもこのまま、入ってきたドアが見つからなかったら……俺は死ぬまで、この何もない空間の中を彷徨い歩くことになるのか?

 というか逆にいえば、いつまでも出口が見つからずに彷徨い続け、最後は力尽きて餓死する運命ってことか?

 そう考えると、なんだかだんだんと焦ってきてしまう。

 それにそうした心境の変化が影響するものか? 他にもいろいろと気になってきてしまうのだが、カビと消臭剤の臭いがない混ぜになったような、足下のカーペットの湿った臭いも鼻をついてなんだか気持ちが悪い。

 こんなとこ、早く抜け出したいと歩調を早めるが、気ばかりが逸るだけでやはり状況は改善しない……どれだけ仕切りの壁を越えようとも、行けども行けども、どこまでも何もない黄色い部屋が続いているだけだ。

 ……もしかして、これって異世界ってやつなんじゃないのか? もしかして俺は、いつの間にか異世界へ迷い込んでしまったのか? 

 いつまでも抜け出せないこの迷宮に、ようやくにして俺はその可能性に思い至る。

 そんな馬鹿げたこと、現実にあるわけがないとは思うのだが、この理解不能な状況はそうとしか考えられない。何か他に納得がいく説明というものが見当たらないのだ。

 それに、よくよく考れば黄色い壁に黄色いカーペットの床って……。

「バックルーム……」

 そんな言葉が俺の脳裏にふと浮かんだ。

 バックルーム……少し前にアメリカで流行ったというネットミーム(※ネット発の都市伝説)だ。

 直訳すれば〝奥の部屋〟というほどの意味なんだが、ふとした瞬間にそんな裏世界のような異空間に迷い込んでしまい、それがまさにこんな黄色い壁と黄色いカーペットが延々と続く、他には何もないガランとした空間なのである。 

 確か、そもそもの発端はアメリカの2ちゃんねる的な掲示板に投稿された一枚の写真だったか。「普通、誰かいるはずの場所に誰もいない…」というその不気味さが人々の心を掴み、模倣した写真も次々にUPされて大流行したらしい。

 俺もネットで見かけたくらいで詳しくは知らないが、それをモチーフにしたショートムービーも作られ、ファン達によってホラーゲームもリリースされたんだとか。

 その〝バックルーム〟という異空間は、スマホで撮影する際に群衆や邪魔な障害物を消すノークリッピングモードが現実世界にも起こることで出現する云々…と、なんの変哲もないドアから入った俺とは少々発生条件が異なっているが、今、目の前に広がっているこの黄色い景色からは、どうにもその〝バックルーム〟を連想せずにはおれないのだ。

 もっとも本家の〝バックルーム〟は完全な作り話であり、実在するはずなどない空想の産物なのだが、その実在するはずのない空間と思しき場所の中を、俺は今、現にこうして彷徨い歩いているのである。

 なぜ、雑居ビルのバックヤードがそんな異世界になってしまっているのか? なぜ、霊感とか何もない俺がそんなとこに迷い込んでしまったのか? いろいろと疑問に思うことは山積みであるが……そんなことよりも何よりも、とにかくここから早く脱出しなくては!

「そうだ! 地図アプリなら…」

 そこでふと、スマホの地図アプリの存在を思い出し、俺は急いでアプリを起動させてみる。

「クソっ! ダメか……」

 だが、電波が届かないのか? それともやはり異世界だからなのか? いつまで経っても画面はくるくるとロードしているだけで、まったく役には立たない。

 救助が来るなんてことはまず望めないし、けっきょく今、俺にできることは、当てずっぽうでも歩いてドアを探すことだけか……。

 ますます焦りを募らせながら、俺はさらに黄色い空間の中を当て所なく歩き続ける……もうどれだけ歩いたのか? どのくらいの時間、こうしているのかもわからなくなってしまうくらいに。

 高速道路の運転と同じように、変わり映えのしない景色をずっと眺めているため、なんだか頭もぼーっとしてきてしまったようだ……まるで、終わらぬ悪夢でも見ているかのような感覚である。

「…………?」

 だが、そうして意識が朦朧とし始めたその時、どこからか足音が聞こえてきた。

 最初は自分の足音が反響しているのかとも思ったのだが、こちらが立ち止まってみても、そのコツ、コツ…と黄色いカーペットの敷かれたコンクリの床を踏み鳴らす音は止むことがない……しかも、だんだんとこちらへ近づいてきてはいないか!?

 近づいてくる自分以外の足音……そこでまた、ネットで見た〝バックルーム〟のショートムービーが脳裏に蘇る。

 その動画でも自分とは違う足音が追いかけてくるのだが、足音に追いつかれると、その正体は人外の不気味な怪物なのである。

 もしもあの足音に追いつかれでもしたら……逃げなくては……でも、どちらへ逃げればいい? 仕切り壁で視界が遮られ、その向こうの状況が掴めないばかりか、どこまでも連なる黄色い壁に足音は反響し、どちらの方向から来ているものか自信を持って判断することもなできない。

 それでもじっとしていては捕まるだけだ。俺は覚悟を決め、勘を頼りに安全だと思う方向へと早足で向かう……ところが、一つ目の仕切り壁を越え、もう一つ壁を越えて次の部屋へ入った刹那。

「うわっ…!」

 俺は思わず大声をあげ、よろけながら足を急停止させた。

 だが、怪物がいたのではない……人間と鉢合わせしたのである。しかも、三人組。

 年齢は見た目20代、30代、40代とまちまちだが、三人とも俺と同じような灰色のツナギを着て、頭には黄色いヘルメットをかぶっている。

 受ける印象からしても、俺と同じ電気工か、それに近い職業の人間のように思われるが、人外の怪物どころか、こんな場所にいるのは明らかに場違いな存在だ……て、俺も他人のことは言えないが。

 いや、もしかして、この人達も俺みたいに迷い込んでしまった人間なのか? やっぱり仕事であのドアを開けてしまったばかりに……。

「びっくりしたあ……急に出てくるやつがあるか! 危ないだろう!」

 俺が呆然と立ち尽くしていると、突然の遭遇に向こうも驚いているらしく、一番年長の男が目を見開いて声を荒げる。

「……え? あ、す、すみません」

「それにおまえ、ヘルメットはどうした? そこまで危険がないとはいえ、ちゃんと規則は守らないと上のやつらにドヤされるぞ?」

 いきなり大声で怒鳴りつけられ、思わず俺が反射的に謝ってしまうと、ツナギの男達の年長者はさらに続けてそう叱責する。

 その言葉からして、迷い込んだ人間というわけではないらしい。まったく怪物には見えないが、やはりこの空間に棲息する者達なのだろう……だが、同じような服装をしていたおかげで、どうやら俺のことを仲間だと勘違いしてくれているようだ。

「服装の乱れは風紀の乱れ。たとえ俺達末端の作業員といえども、世界を管理する者として、常に高い意識を持たねばならん……わかったな? じゃ、ちゃんとヘルメットかぶってから仕事しろよ?」

 そして、もう一度念押しをしたかと思うと、俺の今来た方向へとさっさと立ち去って行ってしまう。

「ハァ……」

 そんな三人の後姿を見送った後、俺はバレないよう、密かに安堵の溜息を吐く。なんとも幸運なことに、迷い込んだ部外者とは気づかれずにすんだようだ。

 にしても、いったい〝仕事〟ってなんだ? 彼らはここでなんの仕事をしているというのだろうか?

 確か〝世界を管理する者〟とか言っていたな……なんだろう? 何かをどうにかするものもまったく見当たらないが、ほんとに電気工や内装工事業者のように、彼ら謎の存在がこの裏側にある空間から現実世界を保守点検してるとでもいうのだろうか?

 そう考えると、何もない空間ではあるものの、ここがバックヤードであるというのは間違いではないのかもしれない……。

 だとすると、この〝バックルーム〟は全世界規模で広がっているということか?

 そういえば〝バックルーム〟に関する都市伝説によると、そこは階層に分かれており、レベル0がこの黄色い部屋で、レベル1はコンクリ吹きっぱなしの部屋、レベル2は高温の狭いコンクリ造りの廊下…というように他の場所もあるという話だ。

 もしかして、そっちのレベルが高い場所の方へ行けば、世界を保守点検するような機械とかコードのようなものが存在しているのだろうか?

 ああ、さっきの年長者が「ヘルメットかぶってから仕事しろ」と言っていたが、そんな用具置場もあって然りだしな……。

 ようやく得られた重要な情報に、その場で足を止めたまま、そんなことをつらつらと考えていたその時。

「おい!」

 不意に俺は背後から声をかけられた。

「……っ!?」

 またも驚いて振り返ると、そこには先程の男達の内の一人が立っている。30代に見える中堅の男だ。

 ヤバイ……俺が部外者だとバレたのか?

「あんた、ここの人間じゃないだろ?」

 その嫌な予想は残念ながら的中してしまう。男は俺の顔を凝視し、なんとも険しい表情でそう尋ねてくる。

 なぜバレたのだろう? やっぱり挙動が不審だったか? そもそもヘルメットしてなかったことからして疑いを持たれたか?

「い、いや、あの、その……」

「心配するな。俺は他のやつらみたいに通報する気はない。ま、部外者を見逃すのは重大な規則違反なんだけどな」

 図星なその質問に思わずドギマギしてしまっていると、わずかながらにも安心できるような言葉を男は続けた。

「その様子からして意図せず迷い込んじまった口だな? いくら情報漏洩防止のためとはいえ、偶然、迷い込んだだけで処分されるというのはあまりにも不憫でならないからな」

 だが、よくよく聞いてみると、けっこう怖いことも言っている……〝処分〟っていったいなんだ!?

「大方、入ってきたドアの場所がわからなくなって、ずっと探し回ってたってところか。よし。道案内してやるからさっさと帰れ。こっちとしても、部外者にうろうろしてもらっていては大迷惑だ」

「……え? ほんとですか? お願いします!」

 しかし、話している内容を総合すると、どうやらいい人ではあるらしい。親切なことにも迷えるこの俺を、さっきのドアの所にまで連れて行ってくれるというのだ。俺は一も二もなく頷くと、彼について歩き出した。

 右へ曲がったり左へ曲がったり……前を行く男は迷うことなく黙々と早足に進んでゆく。

 この変わり映えのしない景色の中で、いったい何を目印に判断しているのかと疑問に思うが、もしかしたら特別なGPSのようなものを持っているのかもしれない……さっきスマホの地図アプリは役に立たなかったので、この異空間専用のやつか何かだ。

「あ、あのう……あなた達はここでいったい何を……」

 無言で男の背中を追いかける中、手持ち無沙汰になった俺はそのことについて尋ねてみる。

「いいか? 世の中には知らない方がいいってこともある。忠告しておくが、ここへ来たことは外でぜったいに話すな。もし誰かに話したらその後の人生は保証しない。いいな?」

 だが、俺のその質問に対してかぶせ気味に、男は強い口調でそう念を押す。

 たぶん脅しではなく、マジな忠告なのだろう……その後の人生は保証しない……消されるのか? それともなにか、もっと酷いことになるのか……。

「よし。着いたぞ。もう迷い込むなよ?」

 男の言葉にビビり、俺が蒼い顔をしてなおも後を歩いていると、不意にそう告げて男は立ち止まる。

 俺も男の背中にぶつかる直前で足を止め、彼の見る方向へと視線を向けてみると、そこには見憶えのある鉄の扉が壁に張り付いていた。

「ほら、誰かに見られる前に早く行け」

「あ、は、はい! ありがとうございました!」

 男に急かされ、その錆びた鉄の扉を恐る恐る開けてみると、その向こう側には懐かしい光景が広がっている……小汚い、古びた雑居ビルの薄暗い廊下だ。

「やった! 戻れた!」

 俺はその喜びに黄色い部屋から薄汚れたコンクリの廊下へと飛び出す……と、次の瞬間、背後でガチャン…と金属音が響き、重たい鉄の扉があえなくも閉じた。

 一瞬、振り返ってドアを見つめた後、俺は周囲を見渡しながら、五感を研ぎ澄ませて辺りを確認する。

 ひんやりとした鉄筋コンクリートの建物内を満たす空気……それに油とアルコールの混ざったような雑居ビル特有の不快な臭い……間違いなく、もといた俺の暮らす世界である。

 どうやら俺は、本当にあの黄色い異世界から戻ってくることができたようだ。

 俺は再び、あの不可思議な空間へと通じていた扉をまじまじと眺めてみる……どう見ても、なんの変哲もない、ただの錆びた鉄の扉だ。

 ビルのオーナーからはバックヤードへ入るためのドアと聞いていたが、この扉って、常に〝バックルーム〟へ通じているんだろうか?

 もとの世界へ戻れた安堵感からか、それまでの焦りや恐怖心はなりを潜め、代わりにそんな好奇心がふつふつと俺の中に湧いてくる。

 ちょっとだけ……ちょっと覗いてみるだけのことだ。まあ、足を踏み入れなければ大丈夫だろう……。

 好奇心に突き動かされ、俺は再び、その扉をゆっくりと開いてみる。

「……あれ?」

 しかし、わずかに空いた隙間から中を覗き込むと、そこに見えるのは薄汚れたコンクリ吹きっぱなしの空間だけである……黄色い壁も黄色いカーペットも、四角い天井の照明もまるで見当たらない。

 そこにあっても違和感のない、この老朽化した雑居ビルには相応しいその景色……常識的に考えて、こっちが本当のバックヤードなのだろう。別にこの扉が世界の裏側へと行くための特別な入口というわけではなさそうだ。

 だとすると、俺があの〝バックルーム〟へ迷い込んだのは本当にただの偶然だったのだろうか? いったい何が原因であの異世界への扉が開いてしまったのだ?

 まあ、いくら考えたところで答えが出るというような類のものでもないだろう……あの黄色い空間が本当になんだったのか? あそこであの作業服を着た男達はいったい何をしていたのか? 思えばわからないことだらけで、わかっていることの方がむしろ少ない。

「……あ! そうだ! 仕事……」

 なんだか狐にでも抓まれたような心持ちでドアの向こう側を覗いていた俺だが、その猥雑としたバックヤードの光景にふと、電気工の仕事のことを思い出した。

 あの異空間を彷徨ってたおかげで随分と時間を食ってしまった。次の現場もあるし、早く仕事をすませて帰らないと上司に怒られる。

「……え?」

 そこでスマホを取り出して時刻を確認してみたのだが、画面に表示されていた数字に俺はまたしても目を見開いてしまう。

 なぜならば、時刻は翌日の朝6:00になっていたからだ。

 いくら長い時間、あの空間を彷徨っていたのだとしても、体感的にはニ、三時間だったはずだ。いくらなんでも昼過ぎから夜が明けるまで時間が経っているとは思えない。

 スマホの時計がおかしくなってるだけなんじゃないのか?

 俄かには信じられず、俺は急いで雑居ビルから外に出てみる……すると、繁華街の路地裏は朝独特の静けさと涼しい空気に満ちており、ビルの向こう側には眩しく朝日が輝いている。

 それにまたスマホを見返してみれば、会社からの留守電やメッセージが何十件と入っていた。

 これがよく聞く現実世界と異世界の時間の流れの差というやつなのか? 本当にあの空間にいる内に半日以上の時間が経過していたようである。

 いや、そんなことよりも、やり残した仕事をなんとかしなくては。俺は慌ててとって返すと、少し躊躇った後に恐る恐るまたあの扉を開ける……。

 やはり、その向こう側にあるのは普通に薄汚れたバックヤードだ。

 俺はその小汚くも落ち着く空間へ足を踏み入れると、昨日やれなかった配電工事の仕事を早朝から大慌てで始めた。

 それからそのビルの仕事を終え、8時を回ってから会社へ戻ると、案の定、俺は上司にこっぴどく怒られまくった。

 あの男の忠告もすっかり忘れ、一応、昨日起きた出来事を正直に話したのだが、当然、そんなもの下手すぎる言い訳だと信じてくれるわけがない。ただの無断欠勤バックレ野郎である。

 だが、どんなに怒鳴り散らされたり、嫌味を言われたりしても、あの体験が衝撃的すぎてどこ吹く風である。まったく頭に入ってこない。

 どこまでも暖簾に腕押しの俺に対して、最後には怒り疲れたのか、上司も諦めて俺はめでたく放免となった。

 別にそうして叱責されたからでもなかったが、それから数日後、俺は電気工の仕事を辞めた。

 仕事で見知らぬドアを開くたびに、やはりあの体験のことを思い出して、どうしても身構えずにはいられないからだ。

 だが、電気工を辞めてからも、外出時にしろ自分の家の中にしろ、向こう側が見えないドアを開ける際には意識せずにおれないのが現実だ。今もってその症状は変わらない。

 あの雑居ビルのドアが入口になったのも偶然の賜物であるようだし、そのトリガーがわからない以上、いつ、どこで、どの扉が〝バックルーム〟に繋がってしまうのかはわからない……というより、いつ何時、どんなドアでも入口になってしまう可能性があるのだ。

 他方、あの日、弁明するために思わず上司には〝バックルーム〟のことを話してしまったが、幸いにも〝消される〟ようなことは今のところないみたいだ。

 まったく信じてはもらえず、人口に介して広まることもなかったためにお目溢しされたのだろうか?

 それとも、あの男の言葉はただのコケ脅しだったのか……。

 俺はやつらによる〝処分〟を恐れる反面、あの異世界の存在を誰かに伝えたいという欲求にも駆られている……だから、多少の危険を冒してでもこの体験談をここに書き込むことにした。

 ちなみにこれは入会不要のネットカフェで書いている。もちろん、書き終えたら仮に作ったアカウントも消し、すぐにここも出るつもりだ。

 世界を裏から管理している者達に対して、それくらいの用心は最低限必要だろう。むしろまだ安心するには足りないくらいだ。

 願わくば、この世界の秘密が少しでも多くの人々に伝わらんことを……そして、もしあなたが異世界に迷い込みたくないのならば、ドアを開ける際にはくれぐれもご注意を。

 

得点

評価者

怖さ鋭さ新しさユーモアさ意外さ合計
毛利嵩志121210151261
大赤見ノヴ151516151576
吉田猛々171818171888
合計4445444745225