「光バイト」

投稿者:にる

 

 就活に失敗し、留年までした俺は結局そのまま大学を中退して無事ニートの仲間入りを果たした。二年ばかり昼夜逆転生活で現実逃避をしていたが、両親がついに「頼むから働いてくれ」と泣きそうな顔で言った。
流石に罰が悪くなって、遠い親戚の知り合いから紹介されたとかいうバイトに行くことにした。
仕事の内容は清掃業。二年も殆ど引きこもっていた俺がいきなり肉体労働をしなければいけないのかと内心嫌で嫌で堪らなかった。

 午前十時に指定された通り駅口のロータリーで待っていると目の前に軽トラックが停まった。
運転席から作業着姿でやや小太りの男性が降りて来て「もしかして紺野ヒカリ……ヒカルさん?」と話しかけられる。

「あ、はい、紺野光(ヒカル)です」

「あーよかったー!人違いじゃなくて。乗って乗って!」

リアクションと声の大きなこの男性は、どうやら清掃会社から迎えに来た人らしい。俺は促されるまま助手席に乗った。
硬く狭い、まさに必要最低限といった様子の軽トラのシートに居心地の悪さを感じながらシートベルトを締める。

「上の人から明日新しい子迎えに行ってあげてって言われてたんだけどさぁ、名前と住所くらいしか教えて貰ってなくてどうしようかと思ってたんだよねー。早めに来て大正解だったわ。すぐ会えてよかったよ!」

「あ、あはは……」

「僕山下って言いますー、よろしく。紺野ちゃん車酔いとか平気な方?ここから現場がちょっと遠いんだよねぇ」

「えっ、あ、大丈夫っす……」

まさかこのまま現場に行くのか?まだ何も知らされていないのに?
 俺は急激な不安に駆られた。いくら知り合いのツテと言えど履歴書すら確認せず現場に直行するのは……。
これはやばい仕事なんじゃないのかと危機感を覚えたのだが、今更帰りますとは言い出せず車は走り出した。

 山下さんが「紺野ちゃん彼女とかいないの?」とか「こう見えて紺野ちゃんと同じ年の頃はホストやってたんだよー」とか話すのを愛想笑いで乗り越えながら、やや乱暴な運転で三十分ほど走った頃、車は某有名超高級住宅街にたどり着いた。
ここには何代も続く富裕層や政治家、所謂上級国民なんて呼ばれる人々が住んでいることは俺でも知っている。
誰が見てもわかるような重厚感溢れる大豪邸が隣接し合う地区である。
 山下さんはその中の一軒の大きなガレージのあるコンクリート住宅の前に車を停めてスマホで何やら電話をかけ始めた。

「もしもしー、クリーンサービスの山下ですーお世話になってますー」

こんな閑静な街並みに軽トラで、しかもラフなTシャツとジャージ姿でここにいる自分があまりに場違いだと思った。
山下さんが電話を終えるとガレージのシャッターが自動で開いて中の広い空間が徐々にあらわれる。
そのまま慣れた様子でガレージの中に駐車し「到着!疲れたでしょ、降りて降りて」と山下さんはにっこり笑った。

 山下さんの指示に従って軽トラの荷台から作業道具を出した。清掃業と聞いていたから俺はてっきりこの家の中をモップなどを使い掃除するのかと思っていたが、荷台に積まれていた道具はどれも見慣れないものばかり。
ホース、ブルーシート、大量のタオル、大きなザル、エンジン式らしいデカい高圧洗浄機とワイヤーノズル……。
 山下さんはやたら大きなマイナスドライバーを使い、ガレージの床にある四角い蓋を開けた。

「これ排水桝(はいすいます)って言ってね、家の中の排水管はここに繋がってるんだよ。ここから更に下水管に流れていくの」

よいしょと重そうに腰を上げて山下さんは言った。
排水桝から下水独特の臭いが漂い鼻先を掠める。
山下さんが慣れた手つきでガレージの蛇口にホースを繋げて、更に軽トラの荷台の高圧洗浄機に繋ぐ。次いでブルーシートと雑巾を家の玄関ドアの前まで運ぶのを手伝う。
 ドアが開くと中から小型犬を抱えた品の良い老婦人が出て来た。
最早玄関だけで俺の部屋くらいあるんじゃないかと思うほど広い。
いかにも金持ちといった光景にまるで現実味がなく、ドラマか映画でも見ている気分だ。

「クリーンサービスです、よろしくお願いしますー」

「どうも、いつもご苦労様ね」

俺も山下さんと同じように頭を下げた。
きゃんきゃんとやたら吠える犬の声がうるさくて老婦人の声は掻き消されてしまいそうだった。
ここから先は山下さんだけがやるようで、俺はガレージの軽トラでただ待たされることとなった。
途中山下さんが高圧洗浄機にエンジンをかけて動かしたり、忙しくガレージと玄関とを行ったり来たりするのを見ていることしか出来なかった。

「お待たせ、紺野ちゃん仕事だよ!」

二十分経った頃、額に汗を滲ませた山下さんがにっこり笑って話しかけて来た。

「今あっちからワイヤー洗浄機を入れて排水管のつまりを取るからさ、紺野ちゃんはこっちにちゃんと水が流れてるか見ててほしいんだよ」

そして荷台にあった上下分かれた新品のレインコートを服の上から着るよう言った。飛沫が跳ねるかららしい。
緊張しながらゴム手袋もはめてガレージの排水桝を覗き込んだ。
コンクリート製で少し深い四角い穴にはちょろちょろと水が流れて来ている。

「もし汚れの塊が流れて来たら拾ってザルに掬ってねー、よろしく!」

山下さんはそれだけ言ってさっさと庭の方に行ってしまった。
排水管ということはここを流れて来るのは生活排水。汚水だ。
 作業が始まったのかすぐに茶色く濁った水が排水桝の側面の穴から流れて来る。シンクのように下にあいた穴に吸い込まれていく汚水を俺は吐き気を堪えながら見ていた。
注がれる水の量は徐々に増えていき、色も乳白色混じりに変わる。据えた油のような生ごみのような臭いと共に何かが流れて来た。
白っぽい小さなカケラのようなものが幾つか濁流に飲み込まれていく。
 これを拾ったらいいのか……?
ゴム手袋を着用しているとはいえ、この不透明な汚水の中に手を突っ込むのは抵抗があった。
次第に流れてくるカケラは大きくなって、手のひら大の塊がゴロゴロ出て来る。
このままではこっちの穴が詰まりそうだ。

 覚悟を決めて床にしゃがんで手を突っ込みカケラを掴んだ。脆い蝋のようなそれをすぐ横にあるザルに次々と入れる。
大小様々、表面がボコボコとしていて白っぽくて厚みのある塊は酷い臭いだ。
まじまじ見ていれば吐いてしまいそうだったから薄目で息を止め作業を続ける。
 だんだん水の色は澄んでいき、流れる勢いが落ち着いて来るのと同時に白い塊もなくなった。
終わったのか……?
ジャージャー流れる水を見ながらほっと胸を撫で下ろす。

ィ……ィ……

物音がした。

ゥゥ……ィ……

何かが小さく呻くような、そんな音に耳をすました時だった。

「ニクイニクイニクイニクイニクイニクイ!!!!!」

突然はっきりとした大きな声に変わり俺は驚いて飛び跳ねた。
勢いでザルにぶつかり、ザルの中の塊が転がり出た。

「ニクイニクイニクイニクイニクイアアアアアア!!!!!」

コンクリートの床の上に落ちた一際大きな白いボコボコとした塊にははっきりと人の顔が浮き上がり、苦悶の表情で叫び声を上げている。
ヒィ!と情け無い声が漏れて俺は腰を抜かした。

「ニクイヨオニクイヨオニクイニクイニクイアアアアアアニクイニクイニクイ!!!!」

気付いたらザルの中の塊全てに彫刻のように顔が浮き出ていた。それぞれがニクイニクイと大合唱をしている。心臓がけたたましく鼓動し、俺は震える手足で懸命に後ずさる。

「あー、紺野ちゃん見えちゃうタイプか」

急に聞こえた声に顔を上げると、いつの間にか戻って来ていた山下さんが無表情で俺を見下ろしていた。
わけがわからず震えている俺に「それちゃんと拾っといて」とだけ吐き捨てて山下さんは立ち去った。
この状況から助けてくれるのではとほんの少し期待したのに、この喚き散らす奇妙な塊を拾えと言われ俺は絶望した。

「ニクイニクイニクイアアアニクイヨオニクイイイイイイ」

塊に浮き出た顔は苦しそうにずっとニクイと言い続けている。
なんなんだこれは、生き物なのか、いやこんなの見たことがない。
一人取り残されたガレージ。半泣きになって、塊に恐る恐る手を伸ばす。
その間も塊の口らしき部分はただニクイと繰り返し動く。俺は素早く端の方を指で摘みザルに投げ入れた。
 ザルの中に叩きつけられた塊は呆気なく粉々になって、急にあたりは静寂を取り戻した。
夢であってほしいと願いながら呆然と座り込んでいると山下さんが小走りで戻って来た。

「片付けるから、ほら」

相変わらずにこりともしない。早く早くと急かされてなんとかよろよろと立ち上がり、レインコートを脱いだ。
 山下さんは「この中に入れな」と顎をしゃくり、荷台にある衣装ケースにザルを入れろと言った。
もう何の音もしないが、塊の入ったザルの方は怖くてちゃんと見ることすら出来ない。無理ですと言いたいのに山下さんが俺を睨み舌打ちをしたため、慌ててザルを抱えてプラスチック製の衣装ケースの中に入れた。

「どうもねぇ、ご苦労様でした」

 後片付けをして玄関の前で待っていると、きゃんきゃん吠える犬を抱えた老婦人と山下さんが出て来た。

「有難う御座いましたー。またよろしくお願いします」

山下さんは老婦人を振り返ってにっこりと貼り付けた笑みを浮かべる。
先程の冷たい目を思い出し、不気味で仕方なかった。

「これ、新人さんの就職のお祝いに……」

老婦人が大きな宝石のついた指輪だらけの手で封筒を差し出した。
困惑して目を泳がせていると、山下さんが手を伸ばして受け取った。

「有難う御座いますー。ほら紺野ちゃんもお礼言って!」

「あ、あ、有難う、御座います……」

慌てて礼を言うと老婦人は微笑んだ。
 軽トラに戻って助手席に乗り込むと山下さんは無言のまま車を走らせガレージを出た。
曲がり角を過ぎて家が見えなくなった頃にやっと口を開いた。

「いやー、お疲れ様!マジで犬うるさかったねー!かわいいけどあんなに吠えるのは無理だわ」

行きと同じような大きな声と笑顔。俺を見下ろしていたあの時とは別人みたいだ。
愛想笑いも出来ず無言でいるのに、山下さんはずっと話し続けている。

「紺野ちゃんさ、金持ち喧嘩せずって知ってる?あれ本当なんだよ。ぜーんぜん喧嘩しないの!いくら貧乏人が怒って喧嘩売っても可哀想にって逆に哀れまれちゃって、相手にもされないんだ」

俺は黙って聞いていた。

「でもねぇ、いくら喧嘩を買わなくても恨みは勝手に向けられ続けるでしょ?それを金持ちは”水に流す”わけ。風呂入ってトイレに行って手洗いうがいをして、排水管にバイバーイって……ここまで言えばわかるよね?」

今荷台に積んである塊のことが頭をよぎった。ニクイニクイ……”憎い憎い”と叫ぶあの苦悶に満ちた数々の顔。鳥肌が立って身震いをした。

「でも紺野ちゃん見えちゃうタイプかぁ、困ったねー。僕なんて何にも見えないからさぁ。ただの排水管に詰まった油汚れの塊としか思えないんだよねぇ。ま、でも慣れちゃえば平気っぽいよ。これから頑張ろうね!」

もう懲り懲りだった。慣れる気もしない。
こんなバイトを紹介して来た遠い親戚の知り合いとかいう奴の神経を疑う。
明日には辞めようと思った。
 来た時と同じく駅口のロータリーまで送られ、軽トラを停めた山下さんは胸元から封筒を二つ取り出した。
片方は老婦人が差し出して来たものだ。
もう片方はかなりの厚みのある見知らぬ封筒。
山下さんは厚みのある封筒の中から素早く万札を数枚抜き取って、老婦人の渡した封筒に移し替えた。

「はいお給料、お疲れ様」

今一体いくら入れたんだ?
驚きながら「あ、はい」と受け取った。

「明日も今日と同じ時間によろしく。あとその就職祝いって口止め料のことだから」

笑顔なのに山下さんの目の奥は笑っていない。釘を刺すような口ぶりに俺はなんとか頷き、逃げるように車を降りた。
走り去る軽トラを背に駅のトイレに駆け込み、個室の中で封筒を確認する。全部合わせて八万も入っていた。
もう一度数え直しながら眩暈を覚えた。
 口止め料と合わせて八万円。働いていた時間は三時間にも満たない。普通じゃない。
封筒を鞄にねじ込んで個室を飛び出した俺は念入りに手を洗った。憎い憎いと叫ぶあの顔が手にいつまでもこびりついているような気がして、二回も三回も洗った。

──結局俺は翌日も十時に駅口のロータリー前に居た。
帰ってから八万の入った封筒を眺めるうちに欲が出て来たのだ。
先に待っていた軽トラから山下さんが目を丸くして降りて来た。

「紺野ちゃん来てくれたんだ!意外と根性あるねぇ!」

乗って乗ってと促されて助手席に乗り込んだ。

「ぶっちゃけ来ないかと思ったよー、よかったよかった!でも来なくても迎えに行ってたけどねぇ……親御さん、紺野ちゃんを学校に行かせるためにかなり無理したんだってね」

親の話を持ち出され、逃げるなよと言われた気がして背筋が凍った。
まあ大丈夫だ、俺はあの塊を拾うだけ。それだけで大金が手に入るんだからと自分に言い聞かせながら愛想笑いを浮かべた。

 昨日と同じく山下さんの話声をBGMに、車は超高級住宅街に進み、高い塀に囲まれた豪邸の前で停まった。
あとは昨日をなぞるように道具を荷台からおろして、山下さんが家の中で作業する間軽トラで待機。それからレインコートに着替えて下流の排水桝で流れて来た塊を掬う。
 庭の隅の背の高い木の下でザルを片手に排水桝を眺めていると「やあ、どうかね?」と声をかけられた。
顔を上げれば家の主人と思しき老人が立っていた。半袖のワイシャツとグレーのスラックス、腕には高そうな時計が巻かれている。

「えっ、えっと、汚れを取ってます」

しどろもどろで答えると老人はどれどれと排水桝を覗き込んだ。
茶色い汚水に乳白色が混じり少しずつ脂の塊が流れて来るのだが、一向に大きなカケラは見当たらない。
 ザルを持て余していると、突然水の勢いが弱まり排水管はゴボゴボ言い始めた。
まさか詰まったのか?
一瞬焦ったがすぐに凄い量の水が黒い大きな塊と共に流れて来る。
俺はその黒い塊を拾い上げてから言葉を失った。
真っ黒いそれは、ただの脂の塊ではなかった。
髪がびっしり絡まっていてその隙間から人の目がぱちぱちと瞬きを繰り返していた。

「うわ!」

まるで頭を半分削ぎ落としたかのような形状のずっしりと重いそれをザルに投げ捨てるとべちゃっと嫌な音が響く。

「ほう、今月は少ないねぇ」

一部始終を見ていた老人は笑いながらそう言い放ち「ご苦労さん」と去って行った。
ザルからはみ出た髪が視界の端でしばらくうねうねと蠢いていたが、やがて動かなくなった。
 脳裏に瞬きを繰り返す目が焼き付き、何度もフラッシュバックする。
ダメだ、やっぱり辞めよう。過呼吸を起こしそうな荒い呼吸を鎮めながら俺は誓った。

 作業を終えて道具を片付け、主人に挨拶をして軽トラに乗り込む。
山下さんはやっぱり陽気に話している。

「今日はあんまり汚れてなかったなー、楽で助かったわー。紺野ちゃんどう?このバイト。楽だしいい仕事でしょ」

「あ、あ……はい……」

「だよねー、ホストとか普通のバイトよりずっといいよ。俺もバイトなのに余裕で生活出来てるからね。まあちょっと変わった仕事だけど」

変わっているのはちょっとどころじゃない。
ヘラヘラしている山下さんにも底知れぬ恐ろしさを感じる。

「闇バイトなんかしないでみんなこの仕事をすればいいのにねぇ。あっちはほら、安い金で人を殺したり強盗したりするけどさ。この仕事は逆に良いことしかしてないじゃん?まさに光バイトって感じ?あ、光くんの光バイトって親父ギャグみたいだね」

ね?紺野光くん。
ずっと”紺野ちゃん”と呼んでいたのに、わざわざフルネームで呼ばれて震え上がった。
逃げるな、辞めるなと念押ししているように聞こえてならなかった。
きっと山下さんは俺が辞めようとしていることに気付いている。

 帰り際に給料の入った封筒を受け取ってから、俺はその日家に帰らずネカフェに逃げた。
「来なくても家まで迎えに行ってたけどね」という言葉が何度もリフレインする。
明日の仕事をバックれても山下さんは家に来る。そう思うと怖くてたまらず、しばらく家に帰らないつもりだった。

 震えながら個室で夜を明かすうちに眠っていた俺は、排水桝を覗き込んでいる夢を見た。
流れて来るのはあの犬を抱えた老婦人や、身なりの良い老人の笑った顔が浮き出た脂の塊。
山下さんの顔が流れて来て、濁流に飲まれては浮き上がりながら「置いて行くな、置いて行くな!置いて行くな!!」と何度も繰り返し叫ぶ。
 うなされ飛び起きた時には全身水でも被ったかのように汗でびっしょり濡れていた。
この二日間の慣れない生活で疲れていたのか、時刻は午後五時を過ぎている。
山下さんの「家まで迎えに行く」という言葉を思い出して一気に体が冷えた。
そろそろ母さんがパートから帰って来ているはずだ。
たまらず母親に電話をかけた。

『もしもし?』

電話から聞こえる母親の声に安堵感で泣きそうになる。

「母さん今家にいる!?」

『いるけど……光は?今どこにいるの?』

「ネカフェ、バイトの帰りにそのまま泊まって……いや、それより家に誰か来た!?」

『ちょっと待って、バイト始めたの?いつから?』

「は?一昨日から行ってるだろ!あの紹介されたやつに!」

『何言ってるの、あのバイトは二十日からでしょ?』

意味がわからない。俺は記憶を辿った。
二十日……今日は十日だ。バイトに行った日は八日。
ニート生活で鈍った俺は、どうやらヨウカとハツカを勘違いしていたとわかり血の気が引いた。

「で、でも俺、確かにバイトに行ってたんだよ、駅口まで行って、それで山下って人が迎えに来て……そうだ、クリーンサービス!クリーンサービスって会社で!」

電話口から母親の『はあ?』という声が響く。

『紹介されたのは河合クリーニングって名前だったと思うけど……ねぇ、あなたどこにバイトしに行ってるの?』

言葉も出なかった。
じゃああれはなんだったんだ。夢でも見ていたというのか。
そんなはずはない。貰った給料の封筒はちゃんとある。
それなら日付を勘違いして駅に立っていただけの俺の名前を山下という男はどうして知っていたんだ?
本当は二十日の十時に駅口に行く予定だったはずの俺が、勘違いして八日の十時に行くと最初からわかっていたみたいじゃないか。
急に目の前が真っ白になり、俺はクッションに倒れ込んだ。

『ちょっと、ねぇ光?大丈夫なの?』

「あ、ああ、うん……」

その後、心配した母親が車でネカフェまで迎えに来てくれた。
帰宅してから両親に大金の入った封筒を見せて説明したところ「まさか闇バイトに手を出したのか」と疑われて大変だった。
警察に相談するか迷ったが、何をどう相談するのかと考えて結局そのまま有耶無耶になった。

──二週間後、俺は河合クリーニングでバイトをしていた。
主な仕事はオフィスビルの清掃。
初日は待ち合わせ場所を変えて貰い、山下に鉢合わせないようビクビク怯えていたがあれから山下とは一度も会っていない。
もはや顔すら忘れかけていた時、事務所の中のテレビに山下の顔が映っていて俺は息を呑んだ。

『十日、M市に住む女性、紺野光(こんのひかり)さんの自宅に押し入り殴る蹴るの暴行を加え殺害したとして、K市に住む四十代の自称清掃業の男を逮捕しました』

聞こえた名前に耳を疑った。こんのひかり……ニュース番組のテロップには俺の名前と同じ漢字が並んでいる。
同じ漢字だが下の名前の読み方も性別も違う。
 切り替わった映像では二日間行動を共にした男、山下が手錠をして警察に囲まれて歩く姿が流れる。
容疑者の名前は”近藤智久”となっているのだが、絶対にあの顔は山下だ。
どういうことだ、山下とは偽名だったのか?

『男は紺野さんとは直接面識がなく、SNSを通じて知り合った指示役がいると見られ……』

 忘れかけていた記憶が鮮明に蘇る。
「紺野ヒカリ……ヒカルさん?」
「上の人から明日新しい子迎えに行ってあげてって言われてたんだけどさぁ、名前と住所くらいしか教えて貰ってなくて……」
「来なくても家まで迎えに行ってたけどね」
 いや、まさかそんな……。
俺の勘違いと同姓同名の人違いが重なって、俺はあんなバイトに連れて行かれたのか?
そんな偶然あるのか?
そもそも何故紺野ヒカリは待ち合わせ場所に来なかったんだ?バックれたのか?

 ニュースを見ながら「怖いねぇ」「闇バイトってやつなんじゃないの」なんて話す事務員の声がやたら遠く感じる。
背中をつたう脂汗が止まらない。

 今にして思えば山下も末端の使い捨てに過ぎず、都合よく利用されていたのだろう。
そしてその更に使い捨てとして雇われた俺……いや、紺野ヒカリに用意されていた仕事内容は金持ちが水に流した恨みの塊を拾うこと。
そうだ、山下はずっとあの塊に触れようとしなかった。
拾って集めたザルを荷台に載せるのも俺がやった……もしかしてあの塊に触れるのは相当まずいのでは……。

 何か底知れぬ闇に気付き始めてしまった俺は居てもたってもいられず事務所を飛び出しトイレに走り、何度も何度も手を洗った。
頼むから流れて消えてくれと願いながら、フラッシュバックする憎い憎いと叫ぶ声や瞬きする目を掻き消すため、拾ってしまった恨みつらみを排水管に流すため、次に消されるのは俺なのではという不安を払拭するため、何度も、何度も何度も、何度も何度も何度も……。

 

得点

評価者

怖さ鋭さ新しさユーモアさ意外さ合計
毛利嵩志121215151569
大赤見ノヴ151515151676
吉田猛々181818171889
合計4545484749234