「かきはらい」

投稿者:あきら

 

 ソレに初めて遭ってしまったのは、今から2年前の、寒い寒い冬の夜だ。
 布団の中で3歳になる息子と添い寝をしていて、私は息子の小さな足を両手で包んで温めていた。裸足で過ごしているので、息子の足はとても冷たい。それを両手で温めてやりながら寝かしつけるのが、冬の夜の日課だった。

 電気アンカや湯たんぽを使ってもよかったけれど、私は『自分の手で温めてあげる』と言うことが好きだった。理由は、自分の幼少期と関係している。
 ――子供の頃、母子家庭で母は夜も働いてくれていたので、眠るときは私と姉のふたりだけだった。怖がりだったので、5つ年上の姉と同じ布団で眠っていた。姉は優しい。冬になると冷え性の私は良く寝付けなかったのだが、姉は私の冷えた手を両手で包んだり、足を姉の足で挟んだりして、温めてくれるのだ。手足がポカポカしてくると眠たくなってきて、幼い私は安心しながら眠りについた。その思い出が、鮮烈に脳裏に残っている。
 大人になった今、今度は私が、息子――コウが眠りにつくまで冷えた手足を温めてやる。私にとってそれは『してもらった側の記憶にずっと残る、最上級の愛情表現』だと思っているからだ。

 そしてその夜も、しばらくすると息子の寝息が聞こえてきた。ほっとしてコウの寝顔を静かに見つめていると――

 ひやり。

 布団の中で、私の手の甲に、冷たい冷たい何かが触れた。思わず叫びそうになるが、眠っているコウの顔が目の前にあるので、すんでの所で悲鳴を飲みこんだ。

 柔らかで、恐ろしく冷たい何かは布団の奥から突然現れて私の手の甲に触れている。硬直しながら全神経が、左手の甲に集中していた。冷たく小さな粒が、いち、に、さん、し、ご……
 ……これは、指?
 少しずつ私の手に触れている面が大きくなってきて、ソレが、小さな手のひらだと気付いた。夫がまだ帰ってきていないこの家の、この布団の中には、私と息子しかいない。私の知らない、いるはずのない誰かの手が、いま私の手に触れている。
 背中には鳥肌と脂汗が浮かんでいた。有名なホラー映画の中で、布団の中に現れたオバケを思い出す。間違いなく人間ではない。怖い…それに、下手に動いてコウに危害を加えられたらどうしよう…そんな思いで、とにかく下手に動かず数分が過ぎたが、その手のひらは全く消えてくれない。
 あまりにも事態が好転しないので、恐怖に支配されていた頭は、次第に「どうすればいいのだろう」という困惑に変わってくる。

 小さな手。柔らかで短い指。その触り心地は、3歳の愛息子の手とよく似ている。きっと幼い子供の手なのだ。変だと自分でも思うが、私はこの小さな手の持ち主を息子に重ねはじめていた。こんなに幼い子の手がこんなに冷えているなんて……なんかかわいそうだ、と。

 手汗でびっちょりの、左手をわずかに浮かす。小さな手はそこにあるままだったので、恐る恐る、両手でそれを包んでみる。氷のようだった。腕から冷気が這い上がって、肩と背筋が一気に冷たくなるほどに。小さな手は、わたしの手の中でじっとしていた。思わずこうしてしまったが、自分がやっていることが正しいことなのか分からず不安になってくる。
 ぐるぐると考えていると、息子がもっと小さかった頃、言い聞かせていた言葉をふと思い出した。それが思わず口をついてこぼれた。

「……手と足、あっためたら、よく眠れるからね。いい夢を見られるからね。眠れるまで、こうしていてあげるからね」

 小さな手はぴくりともしないけど、脱力して私の手に委ねているように感じた。怖い気持ちももちろんあったが、わたしはずっとその手を握っていた。

 ――朝だ。
 気付いたら眠ってしまっていたようだった。昨夜のあの出来事が夢だったのか現実だったのか、よくわからなくなる。しかし手のひらにあの小さな手の感触が残っていて、また背筋が少し冷たくなった。結局何をされるわけでもなく、幽霊と手を繋ぎながら眠るという訳のわからない夜を過ごしてしまったが…あの小さな手の持ち主は、いったい誰だったのだろう。
 幸い、コウは昨夜も安眠できたようでにこにこと起きてきた。寝起きでぽかぽかの手を握りしめると、ほっとする。そしてふと思う。あの冷たい冷たい小さな手を、私は昨夜、温めることができたんだろうか。

 その日の夜は、少し緊張しながらコウを寝かしつけていた。別の部屋で夫がまだ起きているので怖くはなかったが、今日もアレは来るのだろうか……
 手を握っていると30分ほどでコウが寝息を立て始める。しばらくドキドキしながらそうしていたが、あの手はやって来ない。良かった。肩の力を抜いてコウの手を放してから、静かに寝返りを打つと――

 ちょん。ひやり。

 コウに背中を向ける姿勢になった瞬間、あの氷のように冷たい手が布団の奥から現れて、私の手に触れた。「ひっ」と声が出てしまう。私はベッドの端で寝ている為、手の伸びてきている方向にはもう隠れられるような布団はないのだ。なのに、奥の空間のどこにも、手の持ち主の姿は見えない。手だけが現れて、今私に触れているのだろうか。そんな想像をして、背筋が凍る。昨夜と同じで、冷たい手はピクリともせず私の手の甲にそっと指を置いている。
(昨夜ああして手を握ったのはやはり悪かったのだろうか、だからこうしてまた出てきてしまったんだろうか?)
 オバケが動かないものだから、私の思考ばかりがぐるぐるしている。主人を呼ぶために叫んでしまえば、コウが起きて怖がらせてしまう。それにきっと、この手はこのまま放っておいても、消えないだろうという気がした。

 おずおずと、ふたたび冷たい手を両手で握りこむ。ふにふにと柔らかで、そして恐ろしく冷たい。なぜ、どうしてこの小さな手の持ち主はオバケになってしまったんだろう。こんなにも小さな手の子供が。そう思うと淋しい気持ちになって来て、ただ包んでいた両手をこするみたいに動かしながら、またあの言葉を口にしていた。

「手と足、あっためたら、よく眠れるからね。いい夢を見られるからね」

 暖かくなりますようにと祈りながら1時間近くその手をさすっていたけれど、私が寝落ちてしまうまで、その手は冷たいまま私の手の中にあった。

 あの夜から、その手は時々現れるようになった。不思議と夫が同じタイミングで寝ている時には現れない。私とコウの2人だけで寝ている夜に、息子が寝付いてから、私がコウの手を離すとアレは現れた。必ずコウの寝かしつけが終わるのを待って、そっと遠慮がちに。そんな謙虚で小さなオバケのことを、私はもうすっかり怖くなくなってしまった。誰にもこのオバケのことを話さなかったし、現れた日には、私がいつまで暖めたって冷たいままの手を握ったりさすったりしながら、「よく眠れますように」と囁いた。

 そんな不思議な日常がすっかり定着してしまった。季節は移り変わってすっかり夏だったが、現れるオバケの手は相変わらず凍っているように冷たかったので、私は現れるたびに手を握っていた。そうして半年ほど経った。

 ある日のことだ。
 コウを保育園へ送っていくため家の外へ出ると、コウは振り返って2階の寝室の窓を見上げてから、「ばいばーい!」と言って手を振った。しかし、夫はつい先日長期の出張へ行ってしまったので家には誰もいない。

「?誰にばいばいしたの?」
「おててー!」

 ――お手々?
 とっさに、私はあの夜に現れる冷たい手を思い出した。私は布団の中で触れるだけなのでアレを見たことは無かったが、もしかしてコウには見えているんだろうか。ハッとして寝室の窓を見るが、どこにも手らしきものはない。息子は嬉しそうにしばらく手を振ったあと、歩き始めた。
 私だけ感じ取っているオバケなのだと思っていたから、自己満足で手と交流していたけれど……もしコウにまで見えてしまっているとしたら、それは大丈夫なのだろうか。私は少しだけ不安に思った。

 その夜少し身構えながら寝ていると、やはり手は現れた。でも、いつもと触れ方が違う……?いつもは掌をひらいている小さな手は、その日はおそらく指をさすような仕草で、私の手に触れていた。戸惑って手を握れずにいると、ソレの人差し指はなんと動き出した。

 (真っすぐ線を引いて、一度離れて、もう一本線を引いて――あ。これ、『×』だ)

 そう思い至った瞬間、全く警戒してこなかったこの手に対して一気に恐怖が湧いた。しかも、『×』を書き終わった後にソレはそっと私の手から指を離して、私の上を通って腕を伸ばしていく。3歳児くらいの小さな手が、1m以上も細い腕をすぅーっと伸ばして――コウの方へ。ぞっと悪寒が走って、私はその腕を押し切るみたいにして上半身を起こし、布団を勢いよく捲った。
 そこには、なにもいない。だが手の甲に『×』の感触が残っている。朝までコウを抱きしめながら震えた。気を許してしまっていたがあのオバケは、息子を狙っていたのかもしれない。

 翌朝、おもちゃで遊んでいるコウは「おててさん、どうじょ」と言いながら、何も居ない空間へおもちゃを渡そうとしていた。その時コウの腕に、爪で引掻かれたような痛々しい傷があることに気づく。私は、大変なことになってしまったと思った。

 週末、私は自分の母親の家へと向かった。
 母は若いころ苦労したので体を悪くしていて、やんちゃ盛りの息子を連れてはなかなか会いに来れなかった。急に母へ会いに来ようと思ったのには理由がある。母は昔から霊感があったので、今回のことで相談に乗ってもらおうと思ったのだ。
 週末になるまで毎夜、コウの髪の毛が一気に引き千切られ枕の上に散乱していたり、引掻き傷が増えたり、状況はかなり悪化していた。

「お母さん、急に来てごめんね」
「大丈夫よ。コウ君久しぶりね」

 私の母とは滅多に会わないので、息子は恥ずかしがって私の後ろに隠れている。ほらおいで、と母に促されて息子がもじもじと顔を出すと――母は息子の顔を見て表情を変えた。やっぱり息子に何か良くないものが憑りついているんだ、とすぐに分かった。

「あの…何か、居る?」
「…このことを聞きに来たのね」
「ソレの存在を感じるんだけど私には視えないの、でもコウには”手”が視えてるみたいで…夜になるとコウに酷いことをするの!ねえ母さん、何が居るか教えて!」

 コウの腕の傷を撫でながら、母はしばらく黙ってしまった。

「…私はテレビに出てくるみたいな霊能力者じゃないから、何か厭なものが居れば少し感じるだけで詳しくは分からないの、ごめんね。でも、吐き気がするほど獣臭くて生臭い匂いがする。明らかに厭な目的を持っていると分かる匂いなの。コウ君、こんな気持ち悪いモノを一体どこで拾ってきちゃったのかしら…」

 そう言うと、母は口元を押さえて蹲ってしまった。コウに憑りついている何かの匂いや気配で、病弱な母は気分が悪くなってしまったようだ。私たちは謝って、急いで母の家から離れた。私がどうにかしなければ…縋る思いで、帰り道の神社に立ち寄ってみることにした。
 神社の駐車場でコウを車から降ろして鳥居の方へ向かおうとすると、コウが立ち止まる。そして急に泣き出した。

「コウどうしたの!?」
「おこられる!いやだいかない!」

 突然のことに慌てて抱え上げて鳥居をくぐろうとすると、火が付いたように泣いてしまう。「おこってる!こわい、いかない!」と泣き叫ぶコウ。あまりにも嫌がるので、周囲の視線から逃げるように帰るしかなかった。

 夜、泣き疲れてすぐ眠ってしまったコウを抱きしめながら、この後どうすればいいのか必死に考える。神社へ行こうとするとコウは怖がったが、泣き叫んで暴れても、神社へ連れて行くべきなのだろうか…私がオバケを警戒せず受け入れたのが悪かったに違いない…そんな不安と後悔で押しつぶされそうになっていると――

 ひやり。

 背筋が凍った。その感触を、いつもと同じ手の甲ではなくて、二の腕の内側辺りで感じたのだ。見ずともわかった。
 冷たい小さな手が、コウの手首を、握っている。

「だめ!!!」

 叫んで飛び起きる。その瞬間、やはり手はどこかへ消えてしまうが、新たな引掻き傷が増えていた。私の叫び声に驚いて起きたコウが泣き出して、私も一緒になって泣きながら抱きしめた。コウをオバケが連れて行こうとしているのだ。どうしたらいいのだろう。誰に助けを求めたらよいのだろう。絶望のような心地だった。

 翌朝、母から連絡がきた。
『昨日は体調を崩してしまってごめんなさい。コウくんは大丈夫?助けになってくれそうな知り合いの連絡先を送ります。昔から母さんよりも色んなモノが視えていた人で、今は小さな神社の管理をされているらしいの。あなたたちの助けになりますように』
 藁にも縋る思いだった。急いで母から教えてもらった電話番号へかけてみると、高齢の女性が出る。私の混乱していて要領を得ない話をうんうんと聞いてくれたその方は、望月さんと名乗られた。

「大変だったね。また怖がらせてしまって悪いけれど、あなたの声に被せるみたいに、怒ってるような唸り声が聞こえてくるの。神社に来たくない何かがそこにいるみたい。道中気を付けて、すぐにおいで」

 ゾッとした。きっとコウは、昨日その声が聞こえていたから神社に入ろうとしなかったのだ。
 いつもよりも起きてくるのが遅いコウを確認しに行くと、青い顔をして元気がない。急がなければ。電話で伺った隣県の住所へ、すぐに向かった。

 隣県の都市部から少し先の閑静な住宅街のなかに、その神社はあった。小さな駐車場へ車を停めて、コウを抱きかかえて降りる。住宅街のまん中を大きな樹木で囲んで切り取るようにして、こじんまりとした鳥居とお社があった。
 昨日のことがあるので慎重に鳥居に近づくが、やはり鳥居をくぐる前にコウが泣き出す。「いたい、ぎゅってするのやめて、おこらないで!」そう言いながら泣き叫ぶコウは、昨日よりもひどい状態に見える。あの冷たい手がコウの腕を握って締め上げているに違いない。どうしていいか分からずに立ち尽くしていると、騒ぎが聞こえたのか女性が一人走って奥から出てきた。60代ほどのその方は、きっと望月さんだ。私たちに駆け寄ると、望月さんはコウの背を撫でながら私の手を引いてくれる。

「あの、鳥居をくぐろうとすると息子が痛がって怖がるんです!」
「そうね、『嫌だ』って怒って腕や肩を掴まれてるから、怖かったよね。おばちゃんと一緒なら意地悪させないから、大丈夫よ。一緒にいこうね」

 望月さんは険しい顔だけど優しい声で、息子の目を見てそう言った。そして望月さんに手を引かれるまま鳥居をくぐると、コウは痛がらなかった。参道を進んでお社への階段を上り、促されてその中へ入る。コウは私の腕の中でぐったりとしていた。
 望月さんはじっとコウを見ながら、眉毛が下がり困っている顔だ。そんな望月さんをみて、不安で押しつぶされそうだった。

「おいでと言っておいて、こんなことを言うのを許して。私は視える力をもっているだけで、除霊とかお祓いするような力はないの…この神社は、旧い付き合いの神主さんが長期間入院されることになったから管理や神様への御勤めを私が引き受けているだけで、特別な儀式なんかは出来ないのよ」
「そんな…」
「急に頂いた電話だったから、すぐに紹介できる神職の方が居なかったの…だからとりあえずここに来てもらったわ。それでも、ここには御加護があるから。毎日心からお勤めさせていただいてるから、神様はここをちゃんと護ってくださってる。私に祓う力はないけど、この中にいれば酷い悪さは出来ないと思うの」

 そういえば、ぐったりとしているがコウの顔色も少し良くなっているような気がする。何の知識もなく困り果てていたので、ここで祓えないとしても私たちにとっては本当にありがたかった。

「望月さんには、視えているんですか?」
「…コウくんの後ろに張り付いて、しがみ付いてるの。最近山へ行ったのかしら。山には時々こういうものがいると聞いたことがあるけど…」
「山……先週、保育園の遠足で、山の中のキャンプ場に行きました」
「そう。その時、コウ君気に入られてしまったのかもしれないね。獣なんだけど…同じように、人の魂を喰ったことがあるのかもしれない。だからか、人みたいな顔をしてる」
「どうしたらいいんでしょう、コウも魂を食べられてしまうんですか!?」
「大したことない獣のバケモノだから、急に人を憑り殺すなんてことは出来ないと思うの。でもコウ君はまだ小さいし心配だわ……私では剥がせないから、神主さんへすぐ状況をお伝えするわね。頼れる方を教えてもらいましょう」

 望月さんがそう言った瞬間――
 バネが入った人形のように私の腕の中からコウが跳ね起きた。反応する間もなく、間髪入れずにお社から飛び出して、階段を駆け下りていってしまう。3歳児と思えない動きで。

「待ちなさい!!!」

 望月さんがそう叫ぶと、コウは腰を少し曲げた姿勢でくるっと首だけこちらを振り向いた。目をまん丸に見開いて、恐怖に引きつった顔でこちらを見るコウ。コウへ手を伸ばした瞬間、私にも分かるほどの獣臭が漂う。

 そして。コウの小さな体へ、真っ黒の毛に覆われた大きな何かがしがみ付いているのが、視えた。
 その姿形は動物園で見かけた大きな猿の仲間を連想させる。けど、真っ黒でゴワゴワの毛の塊から飛び出てコウの肩を握りしめているのは、真っ赤でしわしわの人間の手だ。さらに顔の部分も真っ赤で――人の顔をしている。口を真横に開いて歯を剥き出しにしながら、気味の悪いことにまぶたは穏やかに閉じられている。ちぐはぐで奇妙なその顔は、魂をこの獣に喰われてしまった人間のものなのだろうか。

「いやだ!コウを連れて行かないで!!」
「お母さん駄目よ!追いかけたら逃げていく気だわ、あの素早さだもの、逃げられてしまう!」

 コウの元へ駆け出そうとすると、望月さんに制止される。私たちが何もできないと分かると、獣は口を歪めながらにやにやと笑って肩をゆすった。コウは操られてしまっているのか、声を出すことも動くことも出来ないようだったが、ぼろぼろと涙をこぼして怯えている。

 神様、ここにいらっしゃるなら、どうか助けてください…!
 祈る事しか出来なくて、ぐちゃぐちゃに泣きながら手を合わせた。私の横で、望月さんも手を合わせている。

「あ、え?」

 こう着状態の中突然、望月さんが驚いたように声を漏らす。はっとして顔を上げた。

 怯えるコウの上で、にやにやと面白がるようにこちらを見ている獣。黒く硬そうで不潔な体毛。その、上に。
 ちょこんと、透き通るように白くて小さな、幼子の手が乗っていた。遠目にも柔らかそうにみえる、あの小さな手は。

 私たちの驚いている様子を見て、獣は訝し気に眉根を寄せる。そして、自身の肩の部分に突然添えられた小さな手に気が付いて、釣り上げていた口をポカンと開けた。ソレに気づいたコウが、小さな声で呟く。

「おててしゃん」

 一瞬だった。
 ぐに、という厭な音をたてながら、小さな手は信じられない力で、獣の真っ赤な顔の中心へ飛びついたのだ。白いヘビみたいにどこにも関節の無い細い腕が虚空から伸びて、その先に、あまりの力で握り込まれて顔が歪にひしゃげている獣が、宙ぶらりんになりながらのたうって暴れている。コウの体から剥がして持ち上げたのだ。私は転がり落ちるみたいに参道へ走って、自由の身になったコウを抱きしめた。目の前の恐ろしい光景がコウには視えないように体で隠しながら、慌てて振り返る。

「びゃあああっ、ぎっ、いいいいっ、がああああ!!!!」

 ひしゃげた顔から絶叫が響く。死の予感に抗うように、白い腕を搔きむしりながら暴れる黒い獣。腕はピクリともせず獣をぶら下げていたが、まるで私が獣からコウを隠すのを待っていたみたいに――ぎゅるん、と一瞬で何重にも獣の体に巻き付いた。

 息を止めてその光景を見ていた。あの手は、コウが『おててさん』と呼んだあの手は、きっと、私が夜に手を繋いでいたオバケだ。コウを苦しめていたのは、あの手と全く違うバケモノだったのだ。いったいどうしてあの手は、バケモノを?

 縛り上げた腕はそのままに、小さな手はそっと獣の顔から離れた。
 そして、その掌を、私に向けた。
 ああ。そんな。あれは、あの手は、

「おねえぢゃんっ!!!」

 掌の人差し指の付け根辺りに、見覚えのあるホクロがあった。それは忘れられるはずもない、幼かったころの私をいつも暖めてくれた、大好きな、私の姉の手だった。
 少ししてから、私の声に応えるみたいに、小さな手はあどけない動きでゆらゆらと手を振る。「だいじょうぶ、またね」と、そう言うように。

 何も言えない私の前で、小さな手は獲物に喰らいつくヘビみたいに、獣の頭頂部へ爪を立てた。そして恐ろしいほどの力で、自身の腕が巻き付く体へ向かって、その頭を押し込む。獣が潰れる瞬間、「ぎぃ、びっ」という一瞬の断末魔と同時に、腕の隙間から黒い霧が飛び散った。
 獣の痕跡は何も残らなかった。

 呆然としていると、昼の陽光に透けて小さな手が薄れていることに、気が付いてしまう。

「おねえちゃんっおねえちゃん…!」

 駆け寄って、ほとんど透明になっている手を掴む。酷く冷たい。でも小さな手は私の手からするりと抜けて、そして私の手の甲にそっと触れる。涙が止まらない。でも、手が――姉が、何を言ってほしいのか、私にはわかった。
 両手で姉の手を握る。幼い頃、寒い冬の夜、毎晩姉が私に言い聞かせてくれたこと。

「手……あっためたら、よく眠れるからね……いい夢を見られますように……いい夢を……」

 それで合っているのだと言うように、小さく冷たい姉の手は、私の手の中でじっとしていた。おずおずとコウが横へ来て、私の手の上から、ぽんぽんと、あやすみたいに触れると。ほんの一瞬、手の内側が陽だまりのように暖かくなって――

 姉の手は、空気に溶けて消えてしまった。

 まるで夢みたいだった。あっという間の出来事はすべて、白昼夢だったのだろうか。
 座り込んで動けない私を支えながら、望月さんは再びお社へ招き入れてくれた。コウを膝の上で抱きかかえながら、柏手を打ったり頭を下げる望月さんをぼんやりと見つめていた。

「こんなことが起きるなんて……あなたのお姉さんが、悪いモノからコウ君を助けてくれたのね」
「……姉は……16歳の時に事故で亡くなったんです。幼い頃、私の手を握りながら寝かしつけてくれるような、本当に優しくて大好きな姉で……」
「そう……それからずっとあなたの近くで見守っていたんだと思うわ」

 また涙が溢れてきた私の背を撫でながら、望月さんは続けた。

「コウ君が悪いモノに気に入られてしまって、お姉さんも出来る範囲でずっと護ってくれてたのね。普通の守護霊ではあんなバケモノを退治なんてできないから、きっとここの神様が少し力を貸してくださったのかもしれないね…」
「お姉ちゃんは助けようとしてくれていたのに、私、お姉ちゃんのことを悪いオバケだと思っていたなんて……あれ、お姉ちゃんは16歳で亡くなったのに、どうしてもっと幼い姿の”手”だけで出てきたんでしょうか…?」
「あら、あなたにはそう視えていたのね」

 よく分からない私へ、望月さんはにっこり笑って話してくれた。

「私には、綺麗なお嬢さんの姿に視えていましたよ。亡くなった年齢の姿だと思う。でも、あなたには”幼い手”に視えていたのね。きっと、霊感があまり無いあなたにも感じ取れたのが、一番お姉さんとの繋がりが深かった”手”だったんじゃないかしら」
「じゃあ、どうしてあんなにも小さな……?」
「私にも詳しくは分からないけど……もしかしたら、傍で見守っていたあなたがあんまり優しくて素敵なお母さんになったから――甘えたくなってしまって、そういう姿になったのかも。あなたのお母様のことも知っているけど、若いころ苦労されたでしょう。お姉さんも、甘えたい時期にお母様へ甘えられないまま、あなたをお世話していたんじゃないかと思うの」

 夜ごとに布団の中で握りしめた、冷たくて小さな手を思い出す。
 大好きな大好きな、お姉ちゃんの手。

「……姉は、また私に会いに来てくれるでしょうか」
「お姉さんも満身創痍だと思うから、しばらく傷を癒したら……必ず来てくれますよ。あなたはずっと良いお母さんでいるだろうから、きっとまた、小さな子供の姿で」

 姉に救われてから、2年。
 子育てや生活の中では様々なことが起きるが、あの経験は、どんなときにも私を支えてくれるお守りとなっている。しかしあれからまだ、姉は現れていない。それでも毎晩毎晩、布団の中であの小さな手を待っている自分がいる。そして眠る前には必ず祈るのだ。

 コウが、お姉ちゃんが、よく眠れますように。いい夢を見ていますように。

 

得点

評価者

怖さ鋭さ新しさユーモアさ意外さ合計
毛利嵩志121815121572
大赤見ノヴ191917171890
吉田猛々181917171889
合計4956494651251