「記録を開始します」

投稿者:にる

 

S県のM市のバイパス沿いにパチンコ屋があっただろ。陸橋の手前のとこの。
潰れて廃墟と化してからもう十五年も経つのに、今更心霊スポットだなんだ言われ始めて、この前も配信者が来ていたらしい。
俺も動画を見てみたけど最初の説明の部分から笑っちまったよ。
「上司のパワハラを苦に社員の男が自分で腹を刺して死んだらしい。有名なサイトにも掲載されてる」んだとさ。
いつの間にそんな話になっていたんだろうな。
俺が警察や上司から聞かされた説明とも、俺がこの目で見たこととも全然違う。

──俺は高校を卒業してすぐそこのパチンコ屋に就職したんだ。今から十八年前だ。
同期は何人か入ったけど入社三年目で残ってたのは俺と、TとKさんの男三人。Tは俺と同じように高卒で就職して、このパチンコ屋の2階にある社員寮に入って暮らしてた。
Kさんは大卒で就職したから俺らより四つ年上だったけど、よくつるんで遊ぶ仲だった。
この同期のTという男はとにかく仕事は不真面目で、絵に描いたようなお調子者。
店員の中で「Tはすぐサボるからスロットのシマに立たせるな。パチンコのシマで延々箱下ろしさせとけ」という暗黙のルールが出来るくらいにはクズだったが、インカムで冗談を言ってみたり客ともノリ良く喋ってたり、率先して年寄りの目押しを手伝ってやったり、結局そんなに悪いやつじゃあないんだよなと思わせるやつだった。

そんなTがある日の閉店作業中、脚の付け根のあたりをおさえて突然立ち止まった。
腹でも痛いのか、それか玉でもぶつけたのかと思ったが「最近脚の付け根がいてぇんだよ」と呟いて顔を強張らせている。
この時の俺は、Tがどうせいつものようにサボるために大げさに言ってるんだろうと思っていた。
「先週の入れ替えの台運びで痛めたんじゃねぇの?」なんて適当に返事をしながら作業を続けたのだが、Tはその日から度々足の付け根を押さえては立ち止まるようになった。
病院行った方がいいんじゃないかと事務員さんにも言われ出した頃、今度はTが遅刻ギリギリの時間に真っ青な顔で出社して来たんだ。
出社と言っても外階段を使って2階の寮からから降りて店内に入って来るだけなんだが、それだけでもTはしんどそうにしてた。

「食あたりかもしんねぇわ」

そう言ってぐったりしてるTに詳しく話を聞くと、昨晩から吐き気が止まらず一晩中トイレと友達になっていたらしい。

「おい、ノロじゃねぇだろうな」

「わかんねー、腹は痛くないんだよ」

顔色も悪いし朝礼中もえずく素振りを見せるTに班長や主任も「今日ホール出れんのか?」とか「上で寝とけ」と心配するほどだった。
それでもTはこんな時に限って「いや、自分やれるっス」とかなんとか言って、無理してホールに出てはふらふらしながらトイレと往復していた。
まあ次の日にはケロッとした顔で出て来るんだろうと誰もが思っていたのだが、Tの体調は目に見えて悪化していった。
聞けば殆どろくに飯も食ってないし、毎日トイレの中で気絶するように寝てる状態。水を飲んでも吐いちまうとかでみるみるやつれていき、箱下ろしも危なっかしくて任せられない。しまいには客の出玉をジェット機に入れる交換作業中に派手に玉をぶちまかして、客がブチギレる始末。
そんで主任に言われて休みの日にKさんがTを内科にわざわざ連れて行ったらしい。
診断結果はストレス性の胃炎。
それ聞いた主任は「あいつにストレスも何もねーだろ」と言ってたけど、俺もその通りだと思った。
なんかの間違いか、それともTが大袈裟なだけか……とにかくTはしばらくシフトを休むことになった。

俺とKさんは交代で仕事終わりに2階の寮に様子を見に行くことにした。
「なぜかグミなら食えるっぽい」とTがメールして来たから、Tを心配した掃除のおばちゃんや事務員さんも沢山グミを買ってくれて、俺はまとめてあいつの部屋に待って行った。
真っ暗なTの部屋は散らかり放題で足の踏み場もなくて、タバコの匂いとゴミの匂いで酷い有様だった。

「おいT、グミ持って来てやったぞ」

そこら中に落ちてる服やゴミをかき分けるように奥の布団で寝てるTのそばに寄っていくと、布団の中から「うーん……」と苦しそうに呻く声が聞こえた。
よっぽど体調が悪いんだろうに、Tは頑なに実家や地元に戻るのだけは拒んでいた。

「ここ置いとくぞ」

布団がモゾモゾ動いたのを確認して俺は元来た通りに部屋を出た。
靴を履く時、足の裏に若干の違和感を覚えたが、さっさとこの汚くて陰気臭い部屋を出たかった。
足早に部屋を出て共有廊下を通って、外階段を降り駐車場の自分の車に向かう途中ずっと、足の裏にチクチクと痛みがあって、俺は車に乗り込んですぐ靴を脱ぎ確認した。
靴下を見て俺はギョッとした。
靴下一面にぼろぼろの小さな鳥の羽がいくつも、びっしり貼り付いていた。
なんだこれ、いつの間にこんなに……。暗くて見えなかったが、あの散乱した室内は鳥の羽だらけだったようだ。
羽毛のジャケットか布団でも破れてたんだろうか?正直気持ちが悪くて俺はさっさと靴下を脱ぎ、丸めて途中のコンビニに捨てて帰った。

翌日、遅番で出勤すると事務所で主任と店長が監視カメラのモニターを齧り付くようにして見ていた。
側にいた事務員さんが小声で「最近ずっとホールのゴミ箱に家庭ゴミの持ち込みがあるって清掃の人が言ってたのよ。だからカメラチェックしてるみたい」と教えてくれた。
この時、店の中のゴミ箱に連日生ゴミが捨てられていたようで、店側は犯人を見つけ次第出禁にするつもりだったらしい。
生ゴミの内容は卵の殻、野菜クズ……それから恐らく鶏のものと思われる骨が混ざっていたと。
結局犯人は見つからないまま、いつの間にかゴミの持ち込みも止んだようだが。

そのまま遅番の休憩中、俺が呑気に一服をしていると早番で帰ったはずのKさんが休憩室に駆け込んで来た。

「なぁ、Tくんやばいかもしれん」

そう言って立ち尽くすKさんの眼鏡の奥の目が泳ぎまくっていた。

「なんかあったんスか?」

「いや、さっき僕Tくんとこに様子見に寄って来たんだよ……電気ついてなかったけどTくん起きててさ。なんか食べてたから体調良くなって来てんのかなと思ってそのまま少し話してたんだよな」

俺はよくあの部屋で話す気になれたなと思った。鳥の羽だらけの靴下を思い出して不快だった。
Kさんは興奮気味に早口で続けた。

「体調どうだとか動けるかとか話してる間Tくんずっとなんか食べてんだよ。そういやグミ差し入れたって話を思い出して、何食べてんの?グミ?って聞いたらさ、Tくん無言で食いちぎって差し出して来たんだよ……小指くらいのサイズの……オエッ、だめだ、吐きそうだ」

Kさんは口元を押さえて黙ってしまった。
まさかTに続いてKさんも?
「大丈夫ッすか?」と声をかけるとKさんは深呼吸をしてから意を決したようにまた話し始めた。

「こ、小指くらいでさ、粒々したのが並んでて半分になった……なんかの幼虫だったんだよ……」

「は?幼虫?」

Kさんの顔はより一層険しくなった。

「暗かったしさ、僕も見間違いだと思いたいんだよ、でも幼虫だと思ったらTくんが咀嚼するブチブチ言ってる音が怖くてたまらなくてさ、適当に話切り上げてダッシュで出て来たんだ……」

「いやいや、何言ってんすか、流石にないっすよ。ほら、虫の形したグミでも貰って食ってたんじゃないっすか?店長も主任もそういう悪趣味なやつ好きじゃないっすか」

「そうかな、そうだよな……」

顔色の冴えないKさんを励ましつつ、俺の中で拭いきれない嫌な予感が駆け巡っていた。
羽だらけのTの部屋の不気味さを思い出したせいもあるが、店の外のプランターに数匹ついていた茶色くておどろおどろしい模様の、よく太った蛾の幼虫を勝手に想像してしまったのだ。
うねうねと身を縮めたり伸ばしたり、小刻みに痙攣するように葉を這う様子をありありと思い浮かべ、俺までちょっと吐きそうになっていた。
それにTへの差し入れにそんな虫の形をしたグミが入っていなかったことくらい俺だってわかっていたんだ。
Kさんの見間違いだということにして俺は考えるのをやめたかった。

それから三日くらいしてTは仕事に復帰した。胃炎もかなり落ち着いたのか、顔色がよくなっていた。

「マジで辛かった、毎日二日酔い状態!インフルよりきつかったんだって!ガチで!」

そう言って笑うTはすっかりいつも通りで、みんな心配より呆れた返事をしていた。
やっぱりあれはKさんの見間違いで、鳥の羽だらけだったのもだらしねぇ汚部屋だっただけだ。俺はそう考えて忘れることにした。
「ちょっとまだだるいっすね……」なんて見え透いた仮病を使っては作業をサボろうとするTにたまにイラッとしつつも、また以前と同じような職場になっていくんだと思っていた。
だがTにまたも異変が起きた。
ほとんど毎日顔を合わせている俺たちでも気づくくらい、Tは体型が変わっていった。
腹がまるでジジイのビール腹のように膨れ、制服のベストのボタンが弾けそうになっていた。
Tはベルトもギリギリまで広げ、ズボンのサイズも新調したらしい。

「ねぇちょっと!あの子大丈夫なの?」

出玉の交換中、常連客のおばちゃんがそう言ってTを指差した。
Tは腹を重そうにしながらドル箱を運んでいた。

「あの子、あんなにお腹だけ大きくなるなんておかしいわよ。アタシの親戚の癌になった人もあんなんだったのよ!あなたたち病院にも行けないくらい働かせられてんの?大丈夫なの?」

遊戯台の音でうるさい店内に負けじと大きな声で身振り手振りをつけ話すおばちゃんに俺は苦笑することしか出来なかった。
確かにTの腹は異常だ。ただ太っただけとは違うように見えた。腹と腰回りだけ別人のように膨れていたのだ。
みんな「いい加減太りすぎじゃね?」とか「酒太りか?」とかTをいじっていたが、Tは「マジで何もしてないんすよー!酒も全然飲んでねぇんすよ!」と言うばかり。
ちょうどメタボだなんだと世間で言われ始めた頃だったこともあって「Tはメタボ」という認識で俺も、周りも麻痺していた。

おばちゃんを見送ってから店の真ん中の通路に立って呼び出しランプが点くのを待っている間、目の前を歩いていた女性の客が何かを落として去っていった。
俺は床にひらりと落ちた紙を拾い上げ、客を呼び止めようとしたがもうさっきの客は見当たらなかった。
店の外の方にも出て見たがそれらしき人影はなく、仕方なくインカムで報告をした。

「さっきお客さんが落とし物していったんで、一旦カウンターに預けときます」

「了解」と各々の声が返って来るのを聞きながら女性客の落とし物の折りたたまれたその紙を何の気なしに開いてみた。
ツルツルとした手触りの紙……恐らくコピー用紙には黒い何かと白く丸いもやのようなものが描かれており、隅には数字が並んでいた。何かの写真か?と思いつつカウンターの女性店員に手渡してまたホールに戻った。

「ちょっと待ってこれエコー写真じゃない?」

すぐにインカムから声が聞こえて来た。
後ろを振り返ると先程の紙と俺の顔を交互に見つめるカウンター店員。そしてわかりやすく顔を引き攣らせて俺を呆然と見つめるTがいた。

「エコー写真ってなんすか」

インカムを使ってカウンターに聞いた。

「お腹の赤ちゃんをエコー検査で写したやつだと思う……お客さんこれを落としていったの?落としたのどんな人?」

「確かショートヘアで、結構小柄な若い女の子……」

ここまで言った時点で視界の先のTがみるみる挙動不審になっていくのがわかった。大きな腹を揺らして、どこを見ているかわからない目をして下顎がガクガク震えている。
本能的にこれはまずいと思った。俺らを笑わせようと変なリアクションを取っているのではない。
俺が動き出すより先に異変に気付いた主任とマネージャーが事務所から出て来てTを連れて裏に引っ込んでいくのを俺は見ている事しか出来なかった。
やっぱりさ、パチンコ屋なんてやべー客も沢山来るからこういう時の主任やマネージャーの咄嗟の動きは凄いなと思ったよ。

裏に連れていかれたTはしばらく子供みたいに大泣きして手がつけられない状態で、うるせーからと早退させられたらしいが何故か2階の寮には帰らず休憩室でしばらく震えていた。
主任に「お前ら頼んだ」と言われたため、早番を終えた俺とKさんでTの話を聞くことになったんだ。
俺たちが声をかけるや否や顔を上げたTがわっと泣き出した。

「俺もうダメかもしんねぇんだ、死んじまうよぉ」

「おい落ち着けって、何があったんだよ」

「腹がさぁ毎日毎日ぼっこぼこ動いてんだよぉ、気持ち悪りぃんだよぉ、あいつも言ってんたんだよ、もう動いてるのがわかるって、エコー見せて来てさぁ!!」

人目も憚らず泣き叫ぶTはどう見ても異常だった。俺とKさんはドン引きしながら宥めた。

「Tくん、今日落とし物してったお客さんに心当たりでもあんの?」

「あいつ、あいつ!絶対そうだ!ふざけんな……全部あいつのせいじゃねーか!!」

泣いていたと思ったら今度はTは据わった目をしてキレ始め、明らかに情緒がイカれていた。
俺とKさんはどうすると目配せしながら一旦Tを寮の部屋に送っていくことにした。
外の空気を浴びたTは少し落ち着きを取り戻したのかポツポツと話し始めた。

「俺、最近変な夢見るんだ……裸で寝てる俺の体に大量の虫が這ってくるんだ……それをあいつが見下ろして笑ってんだ……」

「さっきから言ってるあいつって結局誰なんだよ」

「中坊の頃付き合ってた女だよ……卒業間際に妊娠させちまってさ。親が金払っておろさせたんだ、卒業以来会ってねぇけどよ」

やっぱりTは典型的なクズだった。昔Tから「高校の時に女でやらかして転校した」という話を聞いたこともあった。恐らくこの手のことは一度や二度ではなかったんだろう。
Tは頑なに地元や実家に帰らないのではなく、帰れなかったのだ。

「でもさ、本当にその子が今更店まで来たりするか?もう何年も経ってるんだろ?」

Kさんがそう言うとTが食い気味に「いいや、絶対あいつだ、ショートで小柄の女なんてあいつだ」と言って譲らない。
Tのメンタルが完全におかしくなってることに俺は内心ビビっていたが、それ以上にTが隣で階段を上りながら息を切らしデカい腹をまるで持ち上げるように脚を動かす様子にもビビっていた。
制服の真っ白なワイシャツ越しにはち切れそうな腹。最早足元もよく見えてねぇんじゃねぇか。
その瞬間だった。
腹が勢いよくボコッと横に揺れたのだ。
いや、違う。ただ揺れたんじゃない。何かが中で動いたことによる振動だ。

「うわっ」

思わず声を上げた俺をTが手すりを掴みながら苦しそうな顔で睨みつけた。

「言っただろ……腹がボコボコ動くんだよ……!居るんだ、俺の腹に何かが居るんだよぉ!」

俺とTの後ろで階段を上っていたKさんには見えていなかったのか「なんだよ、Tくん大丈夫か?」と慌てている。
真横でしっかり見てしまった俺はTの顔とその膨れた腹を交互に見ることしか出来ない。
苦しそうなTに肩を貸してやりながらなんとか2階まで上がって来た俺たちはTの部屋の前の共有廊下を見て絶句した。
薄暗い廊下の床には白や茶色、黒……大小様々な鳥の羽根が大量に落ちていたのだ。
Tはそれを見るなり「うわーーーッ!」と叫んで膝をつきブルブル震え出す。

「なんだよこれ……鳥でも迷い込んだのかよ」

Kさんがそう言って恐る恐るTの部屋の扉の方に近寄っていった。

「あ、あ、やばい、いてぇ、痛ぇッ!」

うずくまっていたTが突然声を上げ床にそのまま転がり、でけぇ腹を押さえて顔を涙や鼻水でぐしゃぐしゃにしながらうめきのたうち回っている。
Kさんがダッシュで戻って来た勢いで床に落ちていた羽根がブワッと一斉に動いたのがやけに不気味だった。

「おい!Tくん!ちょっとこれまずいな、僕事務所行って誰か呼んでくるわ!!」

Kさんはそのまま走って行ってしまった。
残された俺はどうしたらいいかわからず足元に転がって唸り声をあげ、しまいにはゲェゲェと吐き出したTを見下ろしていることしか出来なかった。
この時の俺は情け無いことに震えて動けずにいたのだ。

「助げでくれぇッ、いでぇよぉぉぉ、ウォオエェッ」

見たこともないくらいぐしゃぐしゃのTの顔。吐瀉物なのか鼻水なのか涙なのかよくわからない液体が蛍光灯に照らされヌメヌメと光っていた。
Tはゲロどころか小便も漏らし獣のような唸り声をあげ苦しみ続ける。
早く誰か来てくれ!と願いながら、多分このままTは死ぬんじゃないかという不安で頭がいっぱいだった。
Tの痛い痛いと叫ぶ声と、もがく度に床に当たるガツンという靴底の音を聞きながら呆然としている時だった。

「あ……ああ……」

Tの顔が真顔になった。

バチンッ

鈍く大きな破裂音が聞こえた。
ミチミチ……と何かがゆっくり引っ張られるような音が続く。
鉄の臭いに糞の臭い、生臭さが一気に充満し足元のTのワイシャツは真っ赤に染まった。
俺の記憶はここからまるでコマ送りやスライドのように飛び飛びになっている。
真っ赤なワイシャツのボタンが弾け飛んで、中からドッと勢いよく溢れ出した臓物、それから蠢いて這い出て来た粘液塗れで血管の透けた、薄い皮膚の……鳥の雛。
人の頭くらいの大きさの雛が、まばらな毛の生えた顔にぼこっと飛び出た目でこっちを見上げ嘴を大きく開けた。
まだ羽も生えていない雛がTの破れた腹の中でブルブルと痙攣し震えている。
ピンク色の表皮はプツプツと毛羽だっていた。ちょうど焼く前の七面鳥の肉、あんな風な羽もない粘液にまみれた鳥肌がそこにあった。俺を見る真っ黒の目。舌が見えるほど大きくあいた嘴。

「やァっと産まれたァ、おかえりィ」

いつのまにか目の前には見知らぬ髪の長い女が立っていた。女はにやりと笑っているがその口の中には歯が一本もない。大きく嘴を開けた雛と同じだ、歯がない。
ボサボサの髪を揺らして女がしゃがみ込んだ。血の混じった泡を吹いて白目を剥いてるTの腹にズブズブ両手を突っ込んで雛を拾い上げた。
そしてそのまま何か言いながら立ち去っていく後ろ姿。

──気付いた時には俺はぶっ倒れていた。
現場はまさに惨劇だったようだ。Tは腹が裂けたまま死んでいたし、何故かTの腹から臓物と一緒に大量の鶏の骨が飛び出ていたらしい。
勿論店はその日から営業停止。
倒れた俺は入院した。あの光景を思い出しては吐きまくって過呼吸起こしてぶっ倒れてたから警察の事情聴取もままならない状態だった。
俺の症状が落ち着いてから警察やKさん、それと店長やマネージャーと話した結果、あの日不審な人物の目撃情報は一切なく、監視カメラにも映っていなかったそうだ。
じゃあ俺が見たあの髪が長くて歯のない女は誰だったんだ。
俺を最初に検査した医師は「恐らくショックを受けた影響で記憶がすり替わっている可能性がある」と言っていたが、俺はこの目で確かに女と大きな雛鳥を見たんだ。
Tの死因は結局突然死という扱いになった。
パチンコ屋は閉店した。

俺の体験したことはここまでだ。
ほら、言っただろ。上司のパワハラを苦に社員の男が自分で腹を刺して死んだなんて笑っちまうようなデマカセなんだよ。
あいつは……Tは自分で腹を刺したんじゃねぇ。
何かが腹を掻っ捌いて産まれ出たから死んだんだよ。
それじゃあ何が腹の中に居たのかって?
そりゃサッカーボールくらいのでけぇ雛鳥だ。だが知らない女が持って行っちまったから誰もわかんねぇんだ。
医者の言った通り俺の記憶が間違っているのかもしれないし、それが事実なのかもわかんねぇんだ。
ただ俺の治療の途中で、他の人の治療体験を読む機会があってさ。
「性被害を受けた人は体に虫が這う夢を頻繁に見ることがある」というのを知ったんだ。
それから妊娠の初期反応に足の付け根の痛みがあることも。
Tはきっと、俺の想像を超えたクズだったんだろう。何をどうしたのかわからないが、Tはそれまで女たちにやって来たことを返されたんだろうと思った。

でも、俺はあの日聞いたTの腹が裂ける音がずっと頭から離れねぇんだよ。
確かにどうしようもないクズで、だらしねぇ奴だったけどさ、俺の中ではどっか憎めない奴でもあったんだよ。
だからどうかTの、タカギの本当の死因をちゃんと知って欲しいんだ。
面白がって心スポに行くのは止めねぇけど、タカギが生きてた証としてさ、俺の記憶のためにもさ、どうか「パワハラで腹を刺して死んだ男」なんてデマはやめてくれよ。
あいつはさ、きっと女の呪いかなんかで男なのに孕まされて腹が裂けて雛を産んで死んだんだよ。
正直たかだかそれだけのことでって思うこともあるんだ。なんでそれだけのことでタカギはあんな死に方しなきゃなんねぇんだって。
でもそう思った日はよ、俺の夢にも出てくんだよ、歯のない女がさ、俺の元カノの顔してさ、俺を見下ろして、虫を一匹ずつ俺に落とすんだよ……。
なぁ、先生、頼むよ、これみんなに伝えてくれよ、頼むよ、なぁ。タカギのことをさ、あの店のことをさ、伝えねぇといけねぇんだよ。
なぁってば、おい、先生、聞けよ、聞けって、おい、なんか言えよ!おい!!見るな、見るなよ、鳥が、鳥が……

「患者の解離が激しいため記録を一時中断」

「再開。拘束後鎮静剤の投与。診察の記録を終了します」

 

得点

評価者

怖さ鋭さ新しさユーモアさ意外さ合計
毛利嵩志181818151887
大赤見ノヴ161717171582
吉田猛々171717171886
合計5152524951255