ひとつ、私の知ってる話を、お話しさせて頂きます。
タイトルは、「糸切り屋」です。
私との約束です。このタイトルだけは、
絶対、覚えて帰って下さいね。
それからもうひとつ、約束して欲しいことがあります。
「これからお話しすることは、誰にも言わない」
ってことです。
今日、この話を聞いた、そのあと。
家族にも、友達にも、絶対言わないって、誓えますか?
私はいいんです。もう知ってる内容ですのでね。
これを聞いてる皆さんなら、もちろん
覚悟の上で聞いてらっしゃるんですよね?
怖い話にも、いろいろあります。
私がお話しするのは、聞いちゃったら、
巻き込まれる類の話。「自己責任系」ってやつですねえ。
巻き込まれたくなければ、皆さん、
これから私がお話しすることは、
どうか、胸の中にしまっておいて下さいね。
それが身のためですから…。
私の知り合いに、田中ってやつがいましてね。
年は30代、細身で長身、顔立ちもいい。
仕事も順調でね、綺麗な奥さんもいた。
可愛いお子さんも一人いて、
奥さんのお腹には二人目がね。
ちょうど安定期に入った頃でした。
その田中がねえ。死んじゃったんですよ。
自殺でした。電車に飛び込んだんです。
何でだと思います?
仕事も順調で奥さんも子供もいて。
周りも羨む、美男美女カップルでねえ。
理由は、それです。
美男で、奥さんが妊娠中。子育て中。
浮気ですよ。
会社の部下と。
綺麗な奥さんいるのに、です。
魔が刺しちゃったんでしょうねえ、
そういう関係になっちゃった。
ああ、田中の名誉のために言っときますよ。
あいつは、もちろん奥さんの方が大事でした。
でもね、子供の世話とか、二人目の妊娠とかでね、
まあ、欲求不満だったんですよ。
で、手を出しちゃった。職場の若い子に。
まあ仮に、A子としておきましょうか。
そうなるとね、A子も本気になっちゃって。
田中かっこいいですから。頼りになりますし。
奥さんと別れてよ、私と一緒になってよ、
と迫るわけです。まあ、よくある話ですよねえ。
でも、田中は田中で、奥さんも大事、子供も大事、
何より世間体が大事ですから。
火遊びが過ぎたな、なんて後悔しながら、
なんとか別れようとしました。
でもね、やり方がまずかった。
仕事帰り、二人してホテルに寄って、
しっかりそういう事をした後に、
「ごめん、もうこれっきりにしよう」
と言うわけです。
A子からしたら、「はあ?」ってなりますよね。
今の今までやることやっといて、
終わったと思ったら賢者モードで
そんなこと言い出すんですから。
もちろん、A子は別れてあげる、
なんて言うわけもなく、逆にしつっこく、
田中にメッセージするようになるんですね。
もう田中、生きた心地がしないですよ。
スマホを肌身離さず持ってね、
A子からの通知をオフにしてね。
ブロックするわけにもいかない。
電話が来ちゃうから。
結局、最悪のとこまでA子の機嫌を
損ねないように気を遣いながら、
田中は奥さんにもバレないように、
職場でも家でも、表向き普通に振る舞いました。
悪い男ですよねえ。自業自得なんですけどね。
そんな生活してるうち、当たり前なんですけど、
田中もだんだん疲れてきましてね。
酒に逃げることが多くなっていきました。
夜中まで飲んで、千鳥足で家路についてね。
で、ある日。
いつものように深酒してね、
タクシーを捕まえようと、大通りに向かっていた道中。
暗ーい路地の一角に、灯りがついてるのを見かけたんです。
田中の目がね、吸い寄せられるように、
その灯りの方を見ると、
ちっちゃーい看板が灯りに照らされてる。
そこにはね、
「糸切り屋 各種ご縁 因縁」
って書いてあったんです。
ご縁?因縁?
田中は普段は冷静なやつで、頭も良かったですから、
そんな胡散臭い看板なんかね、いつもなら
気にも留めないはずでした。
でもね。
浮気がバレるかも、っていうストレスが
限界近くまで溜まってたところに、
酔いも手伝ったんでしょうね。
渡りに船、って思いもあったかもしれません。
田中はフラフラと、
その看板に向かって歩いて行きました。
行った先、看板が出ていたのは古びた長屋。
引き戸のガラス越しに、中年の男女が、
玄関先で酒盛りをしてるのが見えました。
恰幅のいいおばさんの方が、
田中に気づいてチョイチョイと手招きします。
田中もよせばいいのに、吸い寄せられるように
引き戸をガラガラと開けて、
「おじゃまします」と入って行きました。
「浮気かい。悪い男だねえ、あんた」
おばさんが田中を、座ったまま
ジローッと睨み上げながら、笑っています。
田中は田中で、心の中を見透かされたように
感じたんでしょうね。黙って頷くだけでした。
おばさんは田中に座るように促して、
目線を合わせると、田中の目の奥の奥まで、
覗き込むようにじっとりと見つめました。
そして、
「3日だね。3日あれば、切れる」
と、自信たっぷりに言いました。
「あの」
その言葉を聞いた田中が、切り出しました。
本当に、縁が切れるんですか?
どうやって縁を切るんですか?
まさか、犯罪めいたこととかやるんですか?
酔って少し気が大きくなってたんでしょう、
田中はおばさんに矢継ぎ早に質問を投げかけました。
おばさんは、にんまりと笑って、答えます。
「人の縁ってのはね、細ーい一本の糸、
みたいなもんだ。時には絡むし、こんがらがる。
解きほぐすのは面倒だからね、ちょん切ってやるのさ」
でも、どうやってー
「うちの旦那はね、生き霊を飛ばせるんだ。
それで、切りたい相手のとこまで飛んでって、
呪うのさ。あいつと縁切れ、二度と会うな、ってね」
田中の問いかけを遮るように、
おばさんが横に座る親父を
親指でクイクイ指し示しながら、得意げに続けます。
親父は、おばさんの体格の良さとは正反対で、
ガリガリに痩せ細っていました。
その上、顔のあちこちに大きなできものがあって、
もはや原型を留めていないほどに変形しています。
「おえに、まかへほけえ」
恐らく、俺に任せとけ、と言ったのでしょう。
親父は膨れ上がった唇をモゴモゴ動かし、
ゲラゲラと笑いました。
そんな絵空事みたいな話、信じる訳ないと思いきや、
田中はおばさんに、すがるような視線を向けて懇願します。
お願いします、あの子と縁を切りたいんです、
助けて下さい、と。まあ、酔ってたせいでしょうがね。
「3日後、その子はあんたの前から姿を消す。
そしたら、その日のうちに代金を払いに来な。
30万。くれぐれも、遅れるんじゃあないよ」
おばさんにバンバン背中を叩かれて、
田中はその「糸切り屋」を後にしました。
夜道を歩くにつれ、酔いが覚めてきた田中の中では、
半信半疑、いや、疑の方がだいぶ上回っていましたかねえ。
それでも田中は、人に話せて、吐き出せて、
少しは気が晴れたんでしょうか。
少しだけ軽い足取りで、その日は帰宅しました。
さて、その翌日。
すっかり素面に戻った田中は、考えたくない現実から
逃げるわけにもいかず、憂鬱そうに出社します。
すると、いつもなら真っ先に駆け寄ってきて、
周りに親密さをアピールしようとするはずのA子が、
げっそりとした様子で、遠巻きに田中を睨んできます。
A子が会社でそんな態度をとるなんて、
今までなかったんで、田中は内心、焦りました。
何か機嫌を損ねたか、会社にまでバレるのはマズいぞ、
ってね。
で、田中は昼休みまでヒリヒリしながら過ごして、
A子を誘ってランチに出かけました。もちろん、
態度が急変した理由を、それとなーく聞く為です。
「夕べからずーっと、頭の中で声がする」
パスタをフォークで巻きながら、
A子が吐き捨てるように言いました。
「あんたと別れろ、縁切れ、って。
おっさんのキモい声で」
田中はそれを聞いて、思わず声を出しそうになりました。そりゃそうです。昨晩の糸切り屋のおばさんの
言ってた通りの展開だったから。
田中は恐る恐る聞きます。
それって、どんなおっさん?って。
「顔はわかんない。喋りはなんか滑舌悪くて、
モゴモゴ言っ」
不機嫌そうに喋っていたA子の唇が、
ピタリと止まります。
そして次の瞬間、A子は激しく嘔吐しました。
パスタ皿が、あっという間に
吐瀉物で埋め尽くされていきます。
田中は慌ててA子に駆け寄ると、
背中をさすってやりましたが、
ひとしきり吐き終えたA子は、
ひどく具合が悪そうで、顔色はもう、
真っ青を通り越して、真っ白になっていました。
田中はもうそれ以上、話を聞くどころじゃありません。
店員にお詫びしてそそくさと店を後にし、
A子にもう帰宅するよう指示し、会社に戻ると
上司に「昼食中、体調を崩したのでA子は早退」と報告。
一連のバタバタがようやく落ち着いた午後、
田中はデスクで一人、悶々とします。
糸切り屋の力は、本物なのか?
このまま待ってれば、縁が切れる?
いや、偶然かもしれない。
でも、A子の聞いたという声の特徴は、あの親父そのもの。
田中の頭の中で、様々な感情がグルグル渦巻いて、
全く仕事も手につきません。
やがて、退社時刻となり、田中はモヤモヤしたまま、
酒を飲む気にもなれず、そのまま家に帰ります。
その翌日、A子は会社に来ませんでした。
無断欠勤です。上司が何度も、A子に電話をしましたが、
呼び出し音が鳴り続けるだけ。
「田中さん、体調を崩した時の彼女の様子は、
どんな感じだったか、詳しく教えてもらえますか?」
上司から問われた田中は、
「朝から具合が悪そうだったが、食事中、
突然嘔吐して、顔色が真っ白だった」
という、見た事実のみを、上司に伝えます。
A子が謎の声に悩まされていた、とは言わず。
ましてや、自分と別れろって声だった、
なんてことは、もちろん言えるわけがありません。
結局、「連絡もできないほどに体調が悪いのだろう」
というところに落ち着かざるを得ず、
上司も田中も、とりあえずは仕事に戻りました。
でも田中は落ち着きません。
もしA子の身に何かがあったのなら、
その原因は何なのか。たまたま体調が悪くなったのか、
それとも糸切り屋の仕業なのか。
田中は、こっそりA子にメッセージを送りました。
電話は出られなくても、メッセージなら
読めるかもしれない。せめて既読でもついてくれれば、
生存確認にもなるし、やり取りが少しでもできたら、
昨日言っていた声についても、
もっと詳しく聞けるかもしれない。そんな思いでね。
“体調、大丈夫?”
様子見程度の短ーい一言を、田中が送ります。
すると、すぐに既読がつきました。
ひとまず、生きてるし意識もある、ってことがわかり、
田中は少しだけ、落ち着きを取り戻します。
“無理しなくていいから、元気になったら電話
“こわい”
田中が次のメッセージを打ってる最中、A子から
一言の返信が届きました。そして、
“こわい”
“ずっと言ってる”
“とめて”
“あたまおかしくなる”
“やだやだやだやだやだやだやだやだやだやだ”
間髪入れずにA子からメッセージが入ります。
田中は何も返せません。改めて聞くまでもなく、
A子は例の声に悩まされているのは明白です。
となると、やはり糸切り屋の親父の生き霊が、
A子に取り憑いて、呪いをかけている。
でも、そんなことが現実にあるのか?
田中がそんなことを思いながら、なんて返信したら
いいかを考えていると、A子からまた、メッセージが
届きます。
“きた”
きた?
来た?
田中の背筋が凍り付きます。何が来たのか。
誰が、どこに、何をしに。
田中が恐る恐る、震える指で返信を打ちます。
“来た?何が?”
既読がつきません。田中が画面を凝視します。
5分、10分、30分。仕事しながらですから、
ずーっとスマホを見てるわけにもいきません。
合間合間に、A子とのトーク履歴を確認しますが、
既読がつく様子はありません。
結局、退社時刻まで、田中はそれこそ、1分に一度
ぐらいのペースでスマホをチラチラ見てましたが、
結局A子の既読がつくことはありませんでした。
帰り道、田中は昨日にも増して、いろいろ考えます。
糸切り屋、縁切り、呪い、頭に響く声。
自分が引き起こしたことなのか、無関係なのか。
自責やら後悔やら恐怖やら、もう田中は負の感情に
押し潰されそうになってました。
一番良いのは、A子の家に行って無事を確認すること。
でもね、田中にはそれはできませんでした。
ホテルで会うだけの仲でしたから、A子の家なんて
田中は知らなかったんです。
もう、全部に後悔ですよ。浮気したことも、
A子にそんな扱いをしていたことも、
糸切り屋に泣きついたことも。
でも、もう後の祭りです。
結局その日も、田中は重い足取りで、家に帰りました。
で、その翌日。糸切り屋の言っていた「3日目」です。
田中が出社すると、上司のデスク付近で、
お偉方が集まって、難しい顔をしています。
周囲でヒソヒソと囁き合っている同僚に、田中が
声をかけます。何があったの、と。
「A子から、電話があって、会社辞めるって」
田中は、突然の急展開に驚いて、スマホを見ます。
いつの間にか、田中が最後に送ったメッセージに
既読がついていました。
上司いわく、朝イチでA子から電話があり、
今日付けで退職したい、いや、する、という
一方的なことをまくし立てられ、そのまま電話を
切られたと。
その後何度も上司から折り返すも、着信拒否なのか
「お繋ぎできません」という自動音声が流れるのみだと。
田中は昨日と同様、隠れてA子にメッセージを送ります。
“会社辞めるって?どうして?何があった?”
すぐに既読がつき、
“うるさい”
その一言が送られてきたかと思うと、
堰を切ったように、
“だまれ”
“かかわるな”
“ゆるして”
“こないで”
“おわりにする”
そんなメッセージが、トーク画面を埋めていきます。
A子は正社員。今日の今日辞めるなんて、どれだけ
非常識なことか、知らないはずもありません。
A子をここまで追い詰めているのは、やはり。
“A子、今夜ちょっと話そう。言わなくちゃいけない
ことがあるから”
田中は、ここに至ってようやく、糸切り屋の親父の
呪いがA子を苦しめていると確信して、全てを
打ち明けようと決心しました。ようやくですよ。
でも、遅かった。
田中がメッセージを送った次の瞬間、
トーク画面のA子のアイコンがブランクになり、
A子の名前が表示されていた箇所が、
「メンバーがいません」という表示に切り替わりました。
A子が、アカウントを削除したんです。
これで、田中とA子を繋ぐものは、無くなりました。
もう会社にも来ない、家も知らない、メッセージの
やりとりもできない。
糸切り屋のおばさんの言った通り、3日で田中とA子の
縁が切れたってことになります。
田中はデスクで、人知れず放心状態になってました。
こうも呆気なく、A子の方から関係を断ち切るなんて、
3日前までは考えられませんでしたからねえ。
そして、皆さん。次に田中の脳裏をよぎった感情は、
何だったと思います?恐怖?それとも怒り?
喜びです。
田中もストレスで、おかしくなってたんでしょう。
糸切り屋の存在を明かしてA子に寄り添おうとした、
さっきまでの感情はどこへやら、ですよ。
縁が切れたこと、ストレスの元凶が無くなったことに、
田中は内心、小躍りしてました。
これで、もう悩むことはない。家族を大事にしよう。
とことん、屑な男でしょう?でもね、田中は心から
そう思ってました。
仕事が終わって、田中はもう、足取りも軽く家路に
就きます。途中、ケーキなんか買ったりしてね。
で、家に帰るや、奥さんに抱きついて、言うわけです。
仕事にかまけて、君のことを大事にしてなかった、
ごめんね、これからはもっと君を、家族を大事にするよ。
どの口が言うんだか、田中はそんな台詞を吐いてね。
奥さんも、最近帰りが遅かった旦那が
そんなこと言い出すもんだから、ときめいちゃった。
子供も交えて、買ってきたケーキを食べて。
田中は幸せを噛み締めます。で、幸せに包まれたまま、
就寝します。
そう。
糸切り屋のことなんて、忘れてね。
代金の支払いなんて、忘れてね。
夜中。日付が変わった瞬間。
熟睡している田中の夢の中、あの糸切り屋の親父の、
歯軋りする音が響きました。
「かねぇ、はらえぇぇ」
「やくそく、やぶったなぁぁ」
親父の、できものだらけの顔が、夢の中の
田中の視界いっぱいに広がります。
親父の生暖かく、生臭い息が顔にかかるくらいまで
詰め寄られた田中は、たまらずガバッと跳ね起きます。
でも、起きてもなお、田中の頭の中には、親父の
「代金払え」「嘘つき」って恨み節が、延々と聞こえてきます。
田中は、支払いとその期限を忘れていたことに青ざめ、
家族が寝静まった中、2人目の出産費用として
貯めておいたお金をこっそり持ち出すと、家を出ました。
どこまでも最低な男ですねえ。
で、田中は、3日前、酒を飲んだ居酒屋から、大通りへと
向かうあの細くて暗ーい路地に、急ぎ向かいます。
ちょっと遅れたけど、謝って受け取ってもらえれば、
って気持ちでね。
でもね。
無かったんですよ。
糸切り屋の看板も、あの長屋も。
そもそも、暗ーい路地すらも、無かったんです。
3日前、確かに居酒屋から角をちょっと曲がって、
入り込んだはずの路地は、夢だったのかと思うほど、
忽然と消えてました。
田中は両膝を地につけて、へたり込みました。
そうしてる間も、親父の声が頭に響きます。
「もう、おそいぃ」
「のろい、かえすぅぅ」
「おまえのせいだぁぁ」
親父の声が、田中のすぐ耳元で喚いているかのように、
脳内に凄いボリュームで突き刺さったかと思うと、
「よぉし」
何ごとか心に決めたような呟きを最後に、親父の声は
パッタリと止みました。
深夜、車通りもまばらな寂れた歓楽街。
田中の耳には、上機嫌で歩く酔っ払い達の笑い声しか
もう聞こえません。
消えた?
田中は恐る恐る立ち上がり、周囲をキョロキョロ
見回したり、聞き耳を立ててみたりしましたが、
ずっと頭に渦巻いていた糸切り屋の親父の声は、
まるで嘘みたいに消えていました。
金を払う先も見つからない、声も聞こえない。
田中は首を傾げつつ、家に戻ります。
奥さんも子供も、スヤスヤと寝ていました。
田中もその様子に一安心し、再び床に就きました。
このまま、何もなければ、ただA子と縁が切れただけ。
そんなことを考えながらね。
でもね、そんなに都合よく行くほど、世の中甘くない。
その翌日です。
すっかりストレスから解放された田中が、
ガランとなったA子のデスクなど、気にも留めずに
仕事をしていると、外出中の上司から電話が入ります。
「今すぐ、ここに来い」
普段、温厚で敬語も欠かさない上司の、余りの剣幕に
動揺しながら、田中は上司に言われた住所に向かいます。
着いた先は、小綺麗なアパートでした。
アパートの駐車場には、救急車とパトカーが
停まっています。
「これは、どういうことなんだ」
警官と共に、田中に駆け寄ってきた上司が、
震える手で、上司が田中の顔スレスレに、
紙束を突きつけます。
A子の、遺書でした。
その日の早朝、A子の家に出向いた上司が、
大家立ち会いのもと、ドアを開けると、A子が
ドアノブに縄を引っ掛け、首を吊って事切れていました。
その傍らに、遺書を残して。
遺書には、田中との関係、最近別れを切り出されて
いたこと、自分にはそのつもりはなかったこと、
そして、謎の幻聴に悩まされるようになったことが、
実に事細かく書かれていました。
「お話しはだいたい伺いました。
現場検証の続きもありますので…」
警官は、青ざめる田中の手から、読み終えた遺書を
取り上げると、A子の遺体がまだあるであろう、
アパートの一室へと戻っていきました。
残された田中に、上司が言い放ちます。
会社の判断が出るまで、出勤停止だ、と。
そりゃそうですよね。部下が不倫の果てに悩んで自殺、
しかも遺書にはそのことがバッチリ書いてある。
道義的、倫理的責任がどれほど重いか、上司は勿論、
田中もわかってました。
バレた。
まるで死刑宣告でも受けたかのように、
田中はフラフラと、足取りも重く家に帰ります。
すると、普段は、妊娠中にも関わらず玄関先まで
出迎えてくれるはずの奥さんが、リビングで俯いています。
「これ、説明してくれる?」
奥さんが、絞り出すように言いながら、
田中に封書を投げつけます。中身は、まあもう
言わなくてもわかりますね。
A子からの手紙でした。奥さん宛てのね。
あんたの旦那のせいで、私はこれから死ぬんだ、って。
首を吊る直前に投函したんでしょう。
遺書と同じように、ご丁寧に田中との馴れ初めやら
思い出やら、ぜーんぶ書いてありました。
「出てって。もう二度と、顔も見せないで」
怒り、悲しみ、悔しさ、そんな感情がごちゃまぜに
なった泣き顔で、奥さんが田中を睨みつけ、
田中は逃げるように、着の身着のまま、家を出ました。
田中のスマホには、上司、田中の親、奥さんの親、
同僚、友人などから、ひっきりなしに着信やメッセージが
入ってきます。
「懲罰委員会の開催が決定した」
「なんてことをしたんだ」
「娘と孫はどうしていったらいいの」
「お前、最低の屑だな」
ああ、もう終わりだ。
田中と他人をつなぐ縁が、ブチンブチンと、
音を立てるように切れていきます。
糸切り屋のおばさんが言っていたようにです。
で、スマホの通知も鳴らなくなった頃、
田中の頭の中、またあの声が響きます。
「ぜーんぶ、きってやったぁぁ」
「もう、きれねえぇ」
「かね、はらえぇ」
怒鳴り声、唸り声、笑い声。様々な声色の混じった
親父の囁きが、絶望と恐怖の淵に立たされた田中の
全身に、べっとりと纏わりつきます。
「うわああああああ」
田中は、走り出しました。逃げるなんてこと、
できないのは承知の上です。それでも、気の狂いそうな
苦しみから解放されたい。その一心で、田中は
転げ回るように、街を走りました。
そして、遮断機の降りた踏切を見つけるや、
吸い寄せられるように線路に入り、そのまま、
ドーン。
田中の命が尽きるその瞬間まで、糸切り屋の親父の声は、
「嘘つき」「金払え」と、田中に言い続けてましたとさ。
めでたし、めでたし。
さて、この話はこれで、お終いです。
と、言いたいところですが、皆さん。
「糸切り屋」って、覚えましたね?
たぶん、初めて聞く言葉だと思います。
ググっても、出てきやしませんから。
実は、ここからが本題なんです。
黙ってて、すいませんね。
この話の中で、皆さん、疑問に思いませんでしたか?
なんで、電車に飛び込んだ田中に、
そんなに色々聞けたんだ、って。
なんで、まるで見てきたかのように、
田中の心境やら糸切り屋の様子、
田中の家族やA子のことまでわかるんだ、って。
まあ、薄々勘付いた方もいらっしゃると思うんですが。
田中ってのは、私のことです。
あ、いやいや。幽霊とかじゃないですよ。
私は電車に飛び込んでませんから。
れっきとした人間です。
正確に言えば、飛び込もうとしたんです。
この苦しみから逃れたいと思ってね。
だって、家族も、仕事も、友人も失って。
その上ずうっと、声が聞こえるし。
瞬きする一瞬の間にも、瞼の裏に
あの親父の顔が出てくるんですよ。
耐えられませんって。
でもね、遮断機をくぐって、
もうちょっとで死ねる、ってときに、
周りにいた見知らぬ人達が、止めてくれたんですよ。
それで私は遮断機の内側から引き摺り出されました。
悔しかったですよ。大声で、死なせてくれ、
って叫びました。
ところが不思議なもんで、助け出された直後、
ピタリと、糸切り屋の声が止んだんです。
そこで、私、気づいちゃった。
踏切から私を助けたことで、その人達と
私の間に、縁が結ばれたんじゃないか、って。
そして、糸切り屋は、その人達のところに行って、
私との縁を切ろうとしてるんじゃないかって。
その間は、私は苦しみから解放されるんじゃないか、
って。
つまり、私が助かる為には、色んな人と
縁を結び続ける必要があるわけです。
私と縁を結んだ人数が多ければ多いほど、
糸切り屋が私に戻ってくるのには、
時間がかかるはずなんですよ。
だから最初に言いましたよね。
「糸切り屋」ってタイトルだけでも、
覚えて帰って下さい、ってね。
もう忘れないでしょ?
さて、この話を聞いたあと、あの親父の声が聞こえても、
それは私のせいじゃない。
皆さんが、好き好んで、こんな話を聞いたからです。
腐れ縁ってやつですね。
でも、その腐れ縁は、望んでも、望まなくても、
糸切り屋が断ち切ってくれるでしょう。
その代償に、どんな災難が降りかかるかは、
わかりませんけどね。
ただ、もし、その災難がどんなに
耐え難いものだったとしても、
絶対に人には言わないで下さいね。
これも最初に約束しましたよ。
もし、人に話したら、あなたとその人にも縁ができて、
その人のところに糸切り屋が行っちゃいますから。
これでわかりましたね?
あなた方は、もう後戻りはできません。
これから来る糸切り屋と、それが引き起こす災難に、
どうか負けずに、立ち向かって下さい。
それで、私はしばらくの間、救われるってもんです。
人助けだと思って、お願いしますよ。
これで、この話は本当にお終いです。
ご清聴、ありがとうございました。