チリーン、チリーン。
鈴の音2回。
黒々しい闇の合間から、人の形をしたモノが山から降りてくる。
チリーン、チリーン。
鈴の音4回。
全ての灯りが消えて、扉が開く。
チリーン、チリーン。
鈴の音6回。
山から降りて来たモノが開け放たれた扉の前に立ち、全ては実行される。
―――
「かな子は初めてやったね。るり子は去年遊びに来てくれたから知ってるけど。この村はね、毎年3月上旬の土曜日に、“黒蛇祭”をやるんよ。」
祖母は急須に入った緑茶を湯呑みに注ぎながら、そんな話をし始めた。
私と妹のるり子は、暖かいこたつの中に足を入れてくつろいでいた。
「くろへびさい?初めて聞いた。もしかして、黒蛇一派が関係ある祭り?」
私は祖母に聞きながら、緑茶の入った湯呑みに手を伸ばした。
祖母は静かに頷いた。
江戸末期の日本、開国を迫られる中、天皇を尊び外国勢力から守る為に結成されたのが、天狗党。
この天狗党が起こした『天狗党の乱』は、幕末最大の悲劇とも言われており、歴史に残っている。
その天狗党を裏から支えて戦い、けして表に出ることなく無念の死を遂げた武士達がいた。それが黒蛇一派である。
天狗党は最期、斬首という無惨な死を遂げたが、黒蛇一派は天狗党以上に、見るに耐えない死に様であったと語り継がれている。
歴史に残らなかった黒蛇一派の中に私達の先祖、月見嘉平(つきみかへい)がいた。
黒蛇一派は斬首だけではなく、心臓は必要以上に刃で刺され、形は変形していたそうだ。内臓はそこら辺に飛び散っていたという。
黒蛇一派というのは、剣の腕が立つ者達が集められた集団ではあったが、それだけではなかった。
実際は、霊力がある者達の集まりだったからだという話だ。
剣の腕だけではなく、霊力という見えない力を行使して戦っていることに恐怖を覚えた幕府側が、黒蛇一派を抹消しろと通達したのだという。
その結果、見るに耐えない無惨な殺され方をされたというのが、祖母から聞かされた話だった。
山中を抜けている時に、先回りをして待ち伏せしていた武士達に黒蛇一派はやられた。
完全に闇討ちだったらしい。
そんな黒蛇一派に関連する祭りがこの村にあるという話を、私は18年間1度も聞いたことがなかった。
祖母の家に家族で帰省をしていたのは、お盆と年末だった為、祖母はわざわざ話さなかったのかもしれない。
去年は、るり子が突然祖母の家に遊びに行きたいと言い出し、特に反対する理由もなかった両親は、快く送り出した。
祖母の家に着いてからのるり子は、この村の雰囲気やのどかさがとても良いと電話で話していて、ゆっくり過ごしているようだった。
だが一度も、るり子は黒蛇祭の話をしなかった。
祭りに参加したのなら、話をするはずだ。
何故なのだろう。
そう思いながらチラリとるり子に目をやると、この話に興味がないらしく、籐かごバスケットに並べられているバラエティに富んだお菓子に目を泳がせていた。
「この村の集落は皆、黒蛇一派の末裔だからね。とても大事なお祭りなんよ。」
祖母は穏やかな笑みをこぼしながら、緑茶をゆっくりと飲んだ。
こういう時に見せる祖母の笑顔は、どこか不気味で苦手だ。
穏やかな笑みと穏やかな言葉遣いの裏に、それ以上は聞くなと制止させられているような圧を感じる。
だからいつも私は、それ以上聞かないことにしている。
祖母の家というのは、山に囲まれた小さな村の集落にある。
我々の先祖である月見嘉平がこの村に家族を連れて来たのが1865年、元治2年だったと嘉平の妻とみが日記に残している。
天狗党の風向きが悪くなり、黒蛇一派も追われる状況になった頃、この村に家族を連れてきたと推測される。
とみの日記というのは、誰でも読める訳ではない。
とみ自身がこの日記を読める人間の条件として、月見一族の頭首であることと記している。
現在、月見一族を束ねている頭首は祖母である。
その為、日記の内容は祖母から聞かされてきた。
小さい頃からよく聞かされたのは、この集落にいる他の世帯、相田、田嶋、河原、高田、井ノ口は嘉平達と共にこの村にやって来た仲間であり、黒蛇一派の一員として戦った先祖を持つ同志達だから、現在もこの繋がりを大事にしているという話だった。
祖母がこの話をする度に、”裏切りのない絆”というものを説きたいのではないかと、物心がついた頃から思うようになっていた。
「かな子は、今年から大学生やね。合格おめでとう。」
私はありがとうと、笑顔で返した。
今回祖母の家に家族で帰省したのは、私の大学合格の報告をする為だった。
祖母の家に帰省する時は、毎年お盆か年末だったが、今年は私が大学受験に合格したということもあり、その報告も兼ねて、家族4人で帰省をしていた。
私の隣でどのお菓子にしようかと見定めていたるり子は、せんべいを手に取り、バリバリと良い音をたてながら食べ始めた。
いつもはとてもお喋りなるり子が、祖母の家に来てから一言も言葉を発していない。
「あっ!そうそう、井ノ口さんが持ってきてくれたカステラがあるんよ。2人とも食べる?」
るり子は無反応だったが、私は食べると即答した。
祖母がカステラを取りに台所の方へ行ったと同時に、るり子は小声で私に言ってきた。
「お姉ちゃん。黒蛇祭は気をつけて。」
「えっ?どういう意味?」
「なんていうか…。ちょっと怪しいんだよね。」
るり子に詳しく聞こうとした所で、祖母はお皿にカステラを乗せて戻って来た。
「るり子の分も持って来たよ。食べるよね?」
祖母は私とるり子の前にカステラが乗った白いお皿を置いた。
ありがとうと、るり子はボソッと答えていた。
「おばあちゃんは食べないの?」
「おばあちゃんはたまに頂いて食べてるからね。とても美味しいから、可愛い孫達に食べてもらった方がおばあちゃんも嬉しいんよ。」
私の問いに答えながら、にっこりと微笑んでくれた。
先程の不気味な笑みとは違う。
心からそう思っている時の笑顔だ。
私も祖母に、笑顔を返した。
突然、玄関のドアをバンバンと叩いて、月見さん!月見のおばあさん!と大声で呼んでいる野太い男の声が響いた。
祖母は誰が来たのかが分かっているようで、はいはいと返事をしながら玄関の方へと行った。
ガラスの引き戸をガラガラと開ける音がした後、あら井ノ口さんと、ご機嫌な口調で話しかけている祖母の声がした。
「お姉ちゃん。」
るり子はまた私に話しかけてきた。
「黒蛇祭ってね、いわゆる魂を鎮める儀式ってやつなんだけど。」
「さっきの話の続き?」
るり子はうんと頷いた。
「去年、私が黒蛇祭に合わせておばあちゃん家に行ったのは、年末に帰った時に、おばあちゃんが電話で誰かと黒蛇祭の儀式のことを話してたからなんだ。何か普通じゃない気がしたの。それで、儀式を見てみたいと思って去年儀式に参加したん出たんだけど…。途中、記憶がないんだよね。眠っちゃってたの。気付いたらおばあちゃんに起こされてた。儀式も終わってたし。一体何をしてたか詳細は分からないんだけど、でもあの儀式…何だか怪しい気がするの。」
「怪しい?」
るり子は少し唇を噛む仕草を見せた後、私を見て答えた。
「黒蛇祭って、表向きは鎮魂の為なんだけど、本当の狙いは別にある気がする。それをずっと昔からこの村ではやっているように感じるんだよね。お父さんは小さい時から参加してたはずだって思って、それとなく聞いてみたんだけどね、儀式は常に参加ではなかったからよく覚えてないって言われちゃったんだ。儀式の最中に、記憶がないぐらいに突然眠ってしまうっておかしいよね?」
るり子はそう言うと、祖母が持って来てくれたカステラを口に放り込んだ。
「そっか…。私は儀式がどんなものなのか知らないから、何とも言えないけど…。とにかく黒蛇祭の儀式がおかしいってことだね?」
「ま、そんなところ。とにかく、本当に儀式の時だけは気をつけて欲しい。」
るり子がとても真剣に話をしてくれたから、黒蛇祭の儀式には注意を払おうと心に決めた。
私も井ノ口さんが持って来てくれたというカステラを食べてみた。
だが、私は食べてすぐに吐き出してしまった。
“やはりな”
私の中から、低くずっしりとした覚えのある男の声がした。
祖母の家に来ると、時々聞こえる声だ。
「お…お姉ちゃん、大丈夫?」
驚きながらも心配そうに、るり子は私の背中をさすってくれた。
「これ…不味くない?何か少し血の味がするんだけど。」
私がそう言うと、るり子はかなり驚いた顔を見せた。
「えっ?普通にカステラだし、美味しいよ。お姉ちゃん、もしかして疲れてるんじゃない?」
そうかもしれないと答えたが、実は祖母の家に来ると異変を感じることが多々あった。
普段は、食事をしてもお菓子を食べても美味しく食べれるのに、祖母の家に来て食べた時に限り、血の味がすることが何度もあった。
以前から変な現象が起きていたので、またそれが起きたんだと思った。
私は祖母が戻ってくる前に急いで台所に行き、吐いたカステラを捨てた。
祖母が井ノ口さんとの立ち話を終えて笑顔で戻って来ると、父と母も居間に集まった。
「今夜の黒蛇祭、楽しみやね。」
祖母の言葉に、父も母も懐かしいと言いながら笑っていた。
「お父さんはこの村の出身だから行ったことあると思うけど、お母さんも黒蛇祭に行ったことあるの?」
「あるわよ。初めてこの村に来て結婚しますっていうご報告をさせてもらった時が、丁度黒蛇祭をやってる時だったのよ。だからその時行かせてもらったの。それ以来だから、本当に懐かしいわ。」
母はその時のことを思い出しているようで、嬉しそうに話してくれた。
「黒蛇祭ってどんなお祭りなの?」
私は敢えて聞いてみた。
黒蛇祭はね…と母が言いかけると、祖母は母の言葉を遮るように話してきた。
「黒蛇祭は、ご先祖様達の魂を鎮める為のお祭りなんよ。亡くなられた者達の魂を鎮めて、生きている者達は生かされていることに感謝して、大いに楽しみなさいというお祭りなの。だから今夜はみんなで楽しみましょうね。」
祖母は穏やかな笑みを浮かべていたが、私には不気味な笑顔に見えた。
祖母の笑顔を見ていたら、黒蛇祭は怪しいと先程言っていたるり子の言葉が脳裏に浮かんだ。
午後6時から黒蛇祭は始まるということで、私達家族は10分前に祖母の家を出て、この村に唯一ある黒蛇神社へと足を運んだ。
黒蛇神社は帰省する度に来ている為、私にとっても馴染みの神社だ。村の神社にしてはとても立派で、掃除も行き届いている綺麗な神社だ。
神社の入り口に立つ赤い鳥居ををくぐると、本殿まで続く石畳の長い道が続いている。
その石畳の道に沿って、両隣にはお祭りらしく屋台が並んでいた。
「焼きそば食べたいな。」
るり子は無邪気にはしゃぎながら母にせがんでいる。
「お姉ちゃんも食べたくない?」
と、私にも同意するように促して来た。
「お祭りの焼きそばって美味しいよね。私も食べたいかも。」
「買って。買って。」
妙にせがむるり子に、母は分かったわよと笑顔で答えながら、私達に買ってくれた。
私とるり子が、境内を見回しながらお祭りを楽しんでいると、何か黒いモノが動いたように見えた。
ん?何だろう。見間違い?
境内の灯りは、お祭り用の提灯だけ。
ぼんやりとしたオレンジ色の灯りだけが周囲を照らしている。
きっと見間違えたんだろうと思いながら、本殿に目を向けた時、黒い物体を私ははっきりと見てしまった。
「何あれ…。」
思わず私は呟いた。
「お姉ちゃん、どうしたの?」
るり子は小声で私に聞いてきた。前を歩く祖母に目を向けたが、私達の会話に気付いていないようだ。
「本殿に黒いモノが動いてない?」
小声でるり子に聞くと、るり子はすぐさま本殿に目をやった。
くまなく見ているが何も見えないようで、私を見ると首を横に振った。
私はもう一度、本殿に目を向けた。
やはり黒いモノがいる。
しかもかなり大きくて、ぐにゃぐにゃと動いている。
じっと見ていたら、黒いモノの形がくっきりと見えてきた。
あれは、蛇だ。
あの動きは、間違いない。蛇だ。
もしかして…大蛇?
その大きな黒い蛇がぐるぐると本殿を回る度に、一匹、二匹、三匹…と増えていき、最終的に六匹の黒くて大きな蛇が本殿を取り囲んでいた。
「ねぇ、るり子。本当に見えない?黒くて大きな蛇なんだよ。六匹もいる。凄く怖い。」
るり子に小声で耳打ちすると、るり子は目を凝らして必死に見回していたが、やはり首を横に振った。
見えているのは私だけ?
ぐるぐると回り続けていた大きな黒い蛇の目が一匹ずつ光り始めた。
金色の目。銀色の目。赤い目。青い目。白い目。黄色い目。
色をもたらした黒い蛇達の中で、金色に光る目を持った蛇が私の方にぐっと顔を向けてきた。
嘘…。私を見ている?
これは見たら駄目だ。
目を合わせちゃ駄目。
私の中の本能がそう叫んでいるのを感じた。
私はすぐに目を逸らした。
だが私の目は何かに操られているように、黒い蛇を見ようと勝手に動き出した。私は一生懸命目を逸らそうとしたが、あまりに強い力に耐えきれず、金色の目を持つ黒い蛇と目を合わせてしまった。
すると、その蛇はウォォォォォと低い唸り声をあげて、そのまま私の中へと突っ込んできた。
嵐のような荒れた風が吹き、私の心臓を突き破っていく感覚があった。
死ぬ!
大きな蛇が突き抜けた後、荒れた風は静まり、心臓に手を当てて確認してみたが平気だった。
あまりのことに力が抜けてしまい、私はその場で尻餅をついてしまった。
隣にいたるり子はすぐに、大丈夫?と言いながら手を貸してくれた。父と母も心配そうに、私を起こす手伝いをしてくれた。
だが、祖母だけは違った。
私を見る目が、全てお見通しですよと言わんばかりのどこか突き刺すような眼差しを向けてきて、私は見透かされているように感じた。
一体今のは何だったの?
私は立ち上がり、もう一度自分の体を確認したが、何も変わっておらず無事だった。
カステラも血の味がして吐いてしまったこともあるし、本当に疲れているのかもしれない。
「月見さん。今晩は。」
聞き慣れない男性の声が耳に入ってきた。
振り返って見て見ると、相田家頭首の守だった。
その隣には、守の妻のかよ子。そして、守とかよ子の息子の健志。
後ろには、田嶋家頭首の頼孝、頼孝の妻のゆり。
河原家頭首のみやび、みやびの息子の龍と娘のかおる。
高田家頭首の俊夫、俊夫の妻のゆみ子。
井ノ口家頭首の直人、直人の妻のまなみ。
この村に住む“黒蛇一派”の末裔達が全員集まっていた。
そしてそれぞれの頭首の目の色が、先程見た蛇の目の色と同じように光っていた。
相田家頭首は銀色。田嶋家頭首は青色。河原家頭首は白色。高田家頭首は黄色。井ノ口家頭首は赤色。
頭首の目を見ると違和感を感じたが、私は冷静を装った。
「皆、集まったね。では本殿に上がりましょう。」
祖母がそう言うと、皆、はいと返事を返し、当たり前のように本殿へと上がって行った。
私達家族も一緒に付いて行き、本殿の中へと入った。
本殿の中の一番奥には神棚のような厨子があり、その前には丸い鏡と古い刀が置かれている。
この神社の神主は、鏡の前で紫色の立派な座布団に座って待っていた。
「皆様、お集まりになられましたね。どうぞお座り下さい。」
神主の声に、胡床と呼ばれる神社特有の椅子に皆が座った。
「それでは、黒蛇一派の魂を鎮める儀を行います。」
鎮魂の儀式は粛々と行われた。
儀式の最中、私は大きな黒蛇と同じ目の色になっている頭首達を注意深く見ていたが、特に変わった様子もなく、儀式に参加していた。
儀式が滞りなく終わった所で、神主は私の方に目を向けてきた。
「今年は、初めてこの儀式に参加されてらっしゃる方もおられるようですね。よく来られました。」
そう言われて、私は軽く会釈をした。
「では初めての方もおられますので、黒蛇一派という名前の由来をお話しましょう。皆様のご先祖様達が集められた時に、この集団の名前を決めようという流れになりました。すると6人は皆、前日に黒蛇を見たと言い出したんです。それが突然目の前に現れたという者もいれば、夢で見たという者もいた。状況は違えど皆、同じ黒蛇を見たということから、黒蛇一派という名前にしたと言われております。ですが1人だけ、黒蛇が血を流していたと言った者がおったようです。それが誰なのかまでは書物に残っておらんのですが、どうやら血を流した黒蛇を見た者というのは、黒蛇一派が殺されることを分かっていたようですな。霊力がある集団でしたが、その霊力で分かったということではなかったようです。どうやらそれは…。」
そこまで話すと神主は何かの気配を感じたようで、目を左右に動かしながら、天井の方に目を走らせた。
「皆様。どうやら”時”が来たようです。いよいよ復活を遂げられますぞ。」
「神主様。本当でございますか?」
相田家の頭首が声を上げた。神主は深く頷いた。
隣に座っているるり子を見ると、項垂れて眠っていた。
父と母も同じように項垂れて、眠っている。
周りを見回すと、項垂れて眠っている人達が何人もいた。
すると、どこからともなくチリーンチリーンと鈴の音が聞こえてきた。
遠くの方から、得体の知れない生き物の低い唸り声が聞こえてくる。
あれは何?
そう思ったのも束の間、また鈴の音がチリーンチリーンと鳴った。
本殿の中は入り口付近、頭首達が座っている近辺、そして神主の隣に蝋燭が灯されていたが、全ての灯りは一気に消えて、閉まっていた入り口の大扉がバンと音を立てて開いた。
大扉の方に目をやると、またチリーンチリーンと鈴の音が鳴った。
すると入り口の前に、黒く大きな物体がゆらゆらと揺れ始め、ウォォォォォと地鳴りのように轟く大きな声を上げた。
その物体は少しずつ人型に変わっていった。
黒い人型の物体の目の辺りが金色に変わり、一気に本殿の中へと入り込むと、私の前に立った。
『160年の恨みを晴らす。裏切り者は絶対に許さぬ。絶対に。』
黒い人型の物体は、そう言うと靄のように消えてしまった。
すると祖母が私の前に膝まずき、深く頭を下げた。
「嘉平様。この日を長らくお待ちしておりました。とみ様の日記にも書かれておりました。黒蛇一派が待ち伏せされて無惨な殺された方をされたのは、黒蛇一派の中に裏切り者がいたからだと。死後、嘉平様がとみ様にそう仰られていたこと。嘉平様の魂は必ず甦るということ。その為の準備をけして怠らないようにと日記に書かれておりましたので、月見の頭首となった者は、誰にも知られる事のなき様、粛々と準備をして参りました。やっと今夜、嘉平様の苦しみは解放されるのですね。160年の恨み、どうぞお晴らし下さいませ。」
祖母の言葉に頷いた。頷いたのは私ではない。祖母が今、膝まずいて言った話が正しいのならば、私の体を乗っ取ったのは月見嘉平ということだ。
体が乗っ取られるというのは、こんなにも気持ちの悪いものなのか。
この体は今、私の意思など通じない。
“あの刀は…”
私の中で低くずっしりとした嘉平の声が聞こえた。
と同時に、私の体は厨子の前に置かれた鏡の横まで瞬時に移動していた。
鏡の横には、あの古い刀が置かれている。その刀を手に取った瞬間、懐かしさを感じた。
勿論、懐かしさを感じたのは私の中にいる嘉平だ。
刀をじっと見ていたら、ある映像が私の脳裏に流れた。
どうやらそこは、山中のようだ。
生い茂っている木々の隙間からは、太陽の色味を感じることはなかった。つまり、既に夕闇を迎えているのだと分かる。
薄暗い山の中を、仲間と一緒に足早に駆けている。
継裃姿の仲間達が、5人。
すぐに”黒蛇一派”だと認識した。
突然、数人の武士達が目の前に現れ、刀を振りかざし、一気にこちらへと流れて来た。
斬っても斬っても、まるで死霊のように現れる。
いくら剣の腕が立つといっても、足場の悪い山中だ。
人数にも勝てず、何度も体に刀が突き刺さり、その場に倒れた。
死にゆく間際に、
「何故、拙者まで…。約束が違う…。」
誰かの無念な思いが、声色に滲んでいた。その声が耳に入った後、脳裏に流れていた映像は真っ暗になった。
これが嘉平に起きた最期の出来事だったことを理解し、裏切り者がいた事も理解した。
“裏切り者が生まれ変わった後でも分かるように、印を作っておいた。それが、血の味だ。我らが流した血をけして忘れぬ為、裏切り者から貰ったものには、全て血の味がするように決めておいた。そして反応した。貴様だ!”
気付くと私の体は、井ノ口家頭首の直人の前に立っていた。
右手に持っていた刀にも異変が起き始めた。刀を縁取るように、金色の炎がゆらゆらと揺れ出したのだ。
“久しぶりだな。貴三郎。”
嘉平がそう呼びかけると、直人の心臓の辺りに黒い靄のようなものが広がりだした。目の色は先程よりも増して赤々と光り、まるで目から血を流しているようにも見えた。
“何故…分かったのだ?”
直人の心臓の辺りで広がっていた黒い靄が、直人の心臓を抜け出し、とぐろを巻き、大きな大蛇となりこちらに向かってこようとした。
その瞬間、嘉平は金色の炎に縁取られた刀で、力一杯に斬りつけた。
刀は大蛇と化した黒い靄を真っ二つに割った。
ウォォォォォと、鼓膜が破れそうな程の大きな唸り声を上げた後、靄は跡形もなく消え去った。
だが黒い靄が消えた後、丸みを帯びた赤い物体が浮いているのが見えた。
“おった!貴三郎の魂!これでお前の魂も終いじゃ!”
嘉平の声と同時に、私の体は宙に浮いた貴三郎の魂の前に来ていた。
すぐさま貴三郎の赤い魂に、刀を一突き。
赤い魂は、目を開けていられないぐらいの強い光を発した。
私の記憶はここまでで、その後気付いた時には祖母の家だった。
目を覚ました私を、祖母、父と母、るり子が心配そうに見ていた。
「かな子。大丈夫かい?」
祖母の声に私は小さく頷くと、皆が安堵の溜め息をこぼしていた。
「ごめんね。大変な思いをさせてしまったね。でももう大丈夫。全て終わったんだよ。」
祖母の優しい温もりを感じたのは、初めてだった。
「嘉平さんも、無念を晴らすことが出来たんだよね?」
私の言葉に、祖母は笑顔で頷いていた。
「そうよ。おばあちゃんね、全部知ってたんよ。160年後に月見嘉平が恨みを晴らす為に、嘉平の魂が一時的に他の者の体に宿るということをね。嘉平の魂は裏切り者の見分けがつくからね。妙に体調を崩したり、物を吐いたりという行動で伝えてくると、日記には書かれていたんよ。だからかな子が時々吐いたりしてること、実は知ってた。色々と苦しい思いをさせてしまったね。でももう大丈夫よ。嘉平の魂が宿るのは恨みを晴らす時だけ。もう全て終わったんよ。」
祖母の言葉に、私は心から安堵した。
その後、私達家族はいつもの生活へと戻っていった。
私は大学の入学式も無事に終えて、楽しいキャンパスライフを送っている。
学科は違うけれども、高校の時に同じクラスで仲良くしていたみゆきとも、時々学食で会うことがあった。
「かな子。今度の休みに遊びに行こうって言ってたじゃん。ごめん!法事があることをすっかり忘れてたの。本当にごめん!」
両手を合わせて謝って来た。
「でね、私が好きなシュークリームを売ってるお店があるんだけど、そこのシュークリームが本当に美味しいの。これ良かったら食べて。お詫びの印。」
みゆきは私の前に、長方形の真っ白な箱を出してきた。
「開けてみてもいい?」
私が聞くとみゆきは、どうぞどうぞと満面の笑みで返してくれた。
箱を開けると、美味しそうなシュークリームが4つ入っている。
「本当に美味しそうだね。1つ頂きます。」
私は綺麗に並べられているシュークリームを1つ手に取り、口の中へと入れてみた。
すると私の口の中いっぱいに血の味が広がり、驚いた私は思わずみゆきに目をやった。
みゆきの目は、血を流しているのではないかと思う程赤くなり、心臓の辺りには見覚えのある黒い靄が広がり始めた。
“裏切り者は、けして許さぬ。
そいつの魂を、終いにするまでじゃ。”
嘉平の声が、私にははっきりと聞こえた。